小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ、そしてTwitterつぶやきまとめ

お蓮の養家

2012-05-23 11:00:37 | 小説
清河八郎の妻のお蓮さんについて大川周明はこう述べている。

「蓮は羽前東田川郡熊井出村の医師の女、養家の悪漢の為に鶴岡の娼家に売られたものである。八郎自ら記して曰く『吾れ野妾を遊里に挙ぐ、郷里頗る之を議する者あり。余が意は其色に耽似に非ず、其の賢貞を挙げるなり、亦何ぞ其の由って出づる所を究めんや。遂に蓮を以て名づく。蓋し意あるなり』と。」(『清河八郎』)

 この箇所は、のちの清河八郎研究家が大いに注目したところであって、引用し、あるいは孫引きし、今日では養家の悪漢説も定説化している。
 ところがこの養家のことは、現在鶴岡市内の大山の転目木(ぐるめき)と場所はわかっているものの、なんという家か明らかにされていなかった。
 小山松勝一郎の『お蓮』(新人物往来社『幕末の女』所収)には、このような記述がある。
「…養父という人は、明治になってから〈ぶりきや〉(注・原文は傍点が付されているが、カッコに入れた)となったが、何のわけがあったのか、塩酸を飲んで自殺し、その家は絶えてしまったという」
 小山松氏といえば、定評ある清河八郎研究家である。なるほど、家が絶えてしまったのなら、養家については調べようがないな、と私も諦めていた。
 ところが、お蓮さん一族の後裔の菅原善一さんがこのほど養家の後裔の方を探しだして面接し、その方の連絡先を教えて下さった。
 私もとりあえず電話取材させていただいたが、家は絶えていなかったと確信した。
 小山松氏が、どういうソースをもとに前記の文章を記したかわからないが、「ブリキ屋」をしたことはなく、ずっと農家であったということで、倒産した酒造業者の連帯保証人になったため、裕福だった家がにわかに困窮したという話であった。大山は酒処であった。
 それでわかるのだ。お蓮さんは養家の窮状を救うために苦海に身を沈めたのだと。それでこそ八郎の「其の賢貞を挙げる」という文章が生きてくるではないか。遊女の賢貞という言葉に違和感があったが、養家のためにあえてそうした、そういう女であるから八郎が惚れたと理解すれば納得がいくのである。
 ちなみに大川周明の引用する文章は『自叙録』にあると一部の研究者は書くけれど、『自叙録』にはない。このことについては、当ブログの「清河八郎・素描」1及び2(昨年11月17日、18日)でも言及し、その時点では私も出典を把握していなかった。実は『潜中紀事』の中にある文章であった。清河八郎の菩提寺歓喜寺の住職柳川泰善さんからご教示いただいた。全編漢文なものだから『潜中紀事』の通読を、後まわしにしていたことを、いま後悔している。
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百花の魁

2012-05-11 13:41:13 | 小説
久しぶりに更新するけれど、文章でなく写真が目的である。2月28日付の記事「お蓮の生年の謎」で、お蓮の生家にあった梅の樹の写真をアップした。なにしろ2月に撮った写真だから、樹はなかば雪に埋もれていた。この5月の9日にまたこの梅の樹のあるお宅を訪問する機会を得たら、梅の樹は全貌をあらわしていた。あらためて撮影した写真を載せておきたい。
 百花の魁と称されるのは梅である。百花にさきがけて花開き、百花にさきがけて散る。まさにお蓮の運命のようなものだ。
 ところで、梅の樹の持主はごく最近お蓮の養家にゆかりの人物を探し当てていた。家は絶えた、という説もあったが、ご子孫が生存されていたのである。私もその人物(ご婦人)と電話ではあるが、お話させていただいた。かねて、あやしいと感じていた通説をくつがえすお話を聞くことができた。大きな収穫だった。

(写真をクリックすれば拡大されます)
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見山楼の門人たち

2012-03-27 17:07:03 | 小説
 江戸の「見山楼」の門下生とされるが、奥村という姓だけで下の名の不明な人物のことが気になって、つまりフルネームを知りたくて「安積艮斎門人帳」を国会図書館で閲覧してきた。
 幕末の儒学者として一世を風靡した安積艮斎(あさかごんさい)が、神田駿河台に私塾を開いたのは文化11年(1814)、24歳のときである。彼は万延元年(1860)に70歳で没しているから、47年の長きに渡って門人たちを教導したことになるけれど、その門人の数たるや2280余名。錚々たる顔ぶれの門人がそろっており、あらためて艮斎の偉大さを思い知らされた。
 神田駿河台の旗本小栗家の屋敷の小屋を借りて私塾をスタートさせたのだが、その小栗家の子息小栗上野介も天保6年に入塾していた。もっとも、この頃には塾は小栗屋敷の小屋から脱して、同じ神田駿河台でも富士見坂に屋敷を構えていた。地名のとおり富士山がよく見えたので、艮斎の屋敷は「見山楼」と呼ばれたのであった。
 見山楼になぜ多くの俊秀たちが集まったのか、艮斎の思想の懐の深さといってしまえばそれまでだが、朱子学と陽明学という反発しあう学問を一致させ、さらに蘭学や洋学へも積極的な関心を寄せた艮斎の姿勢が時代のニーズをとらえたのであろう。
 わが郷里の土佐の間崎哲馬(塾頭になった)や、岩崎弥太郎、彼の従兄弟の岩崎馬之助(弥太郎よりは入塾は早い)、谷干城、近藤長次郎らが門人となっていたのはわかっていたが、参政吉田東洋の名は私としては意外だった。なんと「御国本ニ罷在」とあるから、見山楼に通ったわけではなく、通信教育なのである。
 吉田といえば吉田松陰も嘉永4年に入門、その長州つながりでいえば高杉晋作、長井雅樂がいる。天誅組の松本奎堂がいる、というぐあいに著名人を数え上げるだけでもきりがない。彼ら幕末維新を駆け抜けていった人物たちの教養の根底にある儒学というものを見直したい気分になってきた。
 ところで門人帳閲覧の目的はもうひとつあった。清河八郎の入塾年次の確認である。
 嘉永5年3月に塾生請人として「庄内屋清右衛門」の名があった。清河八郎と関わりの深い人物である。誰の請け人かというと「斎藤(欠字か、いずれにせよ読み取れない)」となっている。清河八郎はもと斎藤元司であるから、これだろう。通説の嘉永5年入塾と合致していた。
 ちなみに奥村は奥村清酒という三春藩の藩士であった。
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お蓮の生年の謎

2012-02-28 16:13:07 | 小説
 清河八郎は、文久元年に妻の蓮が逮捕されたことを知ると、彼女のことを漢詩に詠んだ。詩は20行あるけれど、最初の4行にこう書かれている。

 我有巾櫛妾  我に巾櫛の妾(妻)あり
 毎慰我不平  毎(つね)に我が不平を慰む
 十八我所獲  十八 我の獲るところ
 七年供使令  七年 使令に供す

 つまり八郎のもとに蓮がきたのは彼女が18歳のときで、7年自分に仕えてくれたと言っているわけだ。すると文久元年の時点でお蓮さんは24歳だったということになる。
 事実、『藤岡屋日記』の文久元年6月の記述では、「改、揚屋え遣ス」ところの「八郎妻れん」は 「二十四」と記録されている。年齢は取調べをうけたお蓮さんの自己申告であろう。そして、このとき入牢した八郎の弟熊三郎の年齢も「二十四」となっている。むろん数え年である。(以下すべて数え年で年齢を話題にしている)
 さて、文久元年(1861)24歳だとすると、逆算すれば生年は天保9年(1838)ということになる。実際、熊三郎は天保9年の生まれである。
 ところが、お蓮さんの生年は、いま天保11年説が有力である。もっとも清河八郎の研究をされてきた小山松勝一郎や成沢米三両氏は、天保10年にお蓮さんが生まれたという説であった。
 お蓮さんの生年にこだわるのには理由がある。里子に出た年齢や遊里に売られたという重要な年齢の特定に影響が生じるからである。そこで有力な天保11年生まれ説の根拠はなんであったか検討してみよう。
 いまは山形県鶴岡市となっているが、赤川と山に挟まれた東田川郡朝日村熊出の小さな集落にお蓮さんは生まれている。父は菅原善右衛門という医師だった。天保11年の「熊出村禅宗人別御改指上帳」を発見し、お蓮さんの家族関係を明らかにしたのは吐月清流という号を持つ斎藤清氏だった。斎藤氏は昭和52年の2月から10月にかけて朝日村の「村報あさひ」に『幕末の風雲児清河八郎の妻 お蓮の生涯』を連載しており、それを清河八郎記念館で冊子にまとめて発行している。
 斎藤氏の引用する人別帳によれば、天保11年の菅原家は8人家族で、「当子年」49歳の善右エ門、同人母79歳のさん、同人女房43歳のせん、同人子21歳の留治、そして同人娘の15歳とめの、13歳もよ、10歳たつ、2歳はつと記されており、この「はつ」がお蓮さんのことである。はつのところだけは貼紙されていて、「右はつ去子年二月中出生」と付記されていたらしい。貼紙は天保12年のものであり、去る子(ね)年つまり天保11年2月生まれと明記されているから、一級史料という扱いである。
 しかし家族みんな天保11年時点の年齢を記しているのだから、はつも2歳ではなく1歳とすべきではなかったのか。2歳のほうが正しくて、むしろ貼紙の但し書きに錯誤がありはしないかという疑問は残るのである。
 お蓮さんのすぐ上の姉の「たつ」は戸籍謄本によれば「みつ」であり、天保元年8月14日生まれとなっている。だから天保11年には10歳ではなく11歳のはずである。その「みつ」の上の姉「もよ」は実際は「しげよ」といい、たぶん「茂代」と表記したのではと推測される。
 いずれにせよ人別帳が必ずしも事実を伝えているとは限らない、という立場を私はとりたい。
 さらに生家が貧しくて里子に出されたという通説も鵜呑みにできない。半農半医で、明治10年の菅原善右衛門名義の地券(土地権利書)を見ても、「部落としては富裕な家」だと小山松勝一郎氏は述べている。(新人物往来社『幕末の女』)
 里子に出されたこと、そして遊里に売られたこと、お蓮さんの身の上になにが起きたのか。それを明らかにする史料はいまのところ見当たらない。見当たらないけれど、ひとつのヒントがある。お蓮さんの読み書きの能力である。現存する彼女の手紙は、10歳で里子に出され劣悪な環境に沈み貧困に喘いで、知性を涵養するいとまのなかった女性のそれではない。
 なにしろ、清河八郎の惚れた女だぜ、と私は自分に言い聞かせている。
 お蓮さんの生家には梅の木があった。梅の木は別の場所に移植されているが、いまもある。
その梅の古木の持主はお蓮さんの血につながる菅原というおうちで、平成の現在、むかしのままに「いしゃ」という屋号で呼ばれている。鶴岡市の教育委員会朝日分室で佐藤利浩氏にそう聞かされた時、私は思わず声をあげそうになった。お蓮さんの祖父も父も医者だったが、現代の菅原家は医者ではない。それにもかかわらず歴史的な呼ばれ方をしているのである。
 雪に埋もれたその「いしゃ」の家の梅の木を携帯で撮ってきた。ちなみに、お蓮さんの姉の「みつ」の戸籍謄本は、この梅の木のある家の主人に見せていただいたのであった。


(事情があって、お蓮さんをテーマにした新聞連載小説を夏ごろから書くことになった。庄内地区には取材でこれからも足を運ばねばならない。縁が深くなりそうである)
 
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龍馬暗殺と広義?の新選組

2012-02-16 14:25:52 | 小説
 前から気になっていて、どこかで紹介しておきたいと思っていた談話がある。宮内庁殉難録の編纂掛り取調役だった外崎覚の談話である。次のような箇所があるのだ。ともあれお目を通していただきたい。

「此両人を斬た者は疑問の一つで、何者が殺したかといふことは、様々の疑問の間に様々の人を捕へまして明治ニ年政府に於て取調べました。結果はどうも不明瞭に終って居りますけれども、其時分に嫌疑者として調べられました者ははどういふ者かと言へば、幕府の手となり足となって働いて居る新選組の近藤勇。それから大石鍬次郎。三浦安、今井信郎、佐々木只三郎、高橋安次郎、桂隼之助、渡辺吉太郎、相馬主殿等である。是等の人々がやったのであらう。是等の人々は皆近藤勇の組で過激なる者共でありますから、…」

「此両人」とあるのは、むろん坂本龍馬と中岡慎太郎のことである。近江屋事件の暗殺犯についての話題だ。
 大正3年9月の史談会における発言であるが、あれっと思われた方が多いだろう。今井、佐々木、桂、渡辺など見廻組の人間を、新選組の隊士として扱っているからである。
 外崎覚は殉難録に龍馬暗殺犯について書かねばならず、色々と調べた人間であって、ど素人ではない。最後は大鳥圭介に会って、今井信郎の関与にたどりついたその外崎が、見廻組も新選組も一緒くたである。
 さて、そこで何が言いたいかというと、後世の私たちは新選組と見廻組を峻別して論じることが当たり前になっているけれど、あの当時、今井や佐々木らが実行犯とわかっても、なんとなく新選組の仕業と理解した人たちがいたのではないかということだ。
 いわば広義の新選組という概念のなかに見廻組がのみ込まれていたといっても良い。見廻組と新選組を峻別して論ずるときに、こういう視点をおさえておかないと、なんかあほらしくなってきませんかと、そのことが言いたかったのである。
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「龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた」を読む

2012-02-11 07:57:08 | 読書
 当ブログにコメントを寄せていただいたノブさんこと中島信文氏の著書『龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた 幕末京都の五十日』(彩流社)が、昨日やっと手元に届いた。発注を家人に任せたら、コープネット(生協)を通じたものだから、ずいぶん日数がかかったのである。
 さて、かねて龍馬暗殺には土佐藩(士)が関与しているし、なにより近江屋自体が暗殺犯を手引きしていると主張している私にすれば、中島氏の論考の大筋には異論はない。寺村左膳の日記にこだわったのは面白いと思う。
 龍馬が暗殺された日の寺村日記は一種の「謎」であって、事件当日に記されたものであり、あの日記の通り芝居の帰り道に事件の克明な報告を受けたというなら、一体誰が報告したのかという疑念につつまれるのである。後日に知り得た情報を付加して、当日受けた報告のようにして、数日後にまとめた日記であるとするならば、龍馬の事件を特筆するのが人情だろうと思うが、さにあらず、初めて芝居見物をして面白かったというのがトップ記事である。時系列な記述を墨守したといえばそれまでだが、龍馬らの死に対する視線が冷ややかすぎるのであった。
 ただし芝居見物を終え、近喜という店に夕食に向かう途中で、家来から事件の報告を受けたという記述は重要である。軍鶏鍋を食べようとしていた龍馬らと同じく寺村らも夕食前なのだ。いったい寺村らはどんな芝居を観、その芝居は何時頃に終っていたのか、私はずっと気になっていた。龍馬らの暗殺時刻が推定できるからである。そのことについては「龍馬暗殺の日の南座の演目」に書いた。どうやら通説よりずっと早い時間に近江屋事件は起きているのである。寺村日記に呼応した時刻は刺客のひとり渡辺篤の告白にあらわれる。「宵の口」あるいは「夕方」に踏み込んだと渡辺はいう。渡辺の証言を重視する必要がある、とはもうなんべんも書いた。
 ところで中島氏の本には幾つかの違和感を感じた。看過できない箇所について、以下に記しておく。
1)「面白いことに、谷干城は、講演では今井信郎の談話が出た明治三十三年以降、近江屋の主人に当時の当時の状況を聴きに会いに行ったと述べているくらいで、事件当時は、彼は殺害状況など、良くは知らなかったのだ」(95ページ)
 この箇所だけでなく、どうも中島氏は谷の証言を不確かなものとする印象操作をしたいらしいが、なぜ「殺害状況を良く知らなかった」となるのだろう。切り傷の様子から殺害の様子を分析している谷の証言はみごとだし、そして部屋には食事の用意もなにもなかったという谷の記述が私などどれほど貴重に思えたか。近江屋に会って谷が確認したかったのは事件当日の小僧の有無であって、これは谷の律儀さのあらわれである。事件のことがわからないから、近江屋主人に聞きに行ったのではない。
2)「田中光顕は明治末の宮内大臣当時の皇后夢枕事件で土佐藩の坂本龍馬偶像化の張本人であり、…」(193ページ)
 皇后夢枕事件が土佐藩のデッチ上げという話自体が、デッチ上げなのである。このことはブログで縷縷書いてきた。私の書いたものをお読みの上で、なおこういう表現をされるのであれば、田中光顕張本人説の根拠を提示していだだこう。
3)「…この池田屋事件では、手代木勝任が実は全体の指揮を取り近藤勇と共に働き、この時、手代木勝任も北添佶摩、望月亀弥太ら土佐藩、長州藩の尊王攘夷派の志士を斬っているなど、共に大きな手柄を立てている」(216ページ)
 最近『池田屋事件の考察』(講談社現代新書)という労作を発表した中村武生氏が読んだら目をむくのではないだろうか。手代木が指揮?
 望月は門倉屋敷の脇で自刃し、北添は一橋家の役人に槍で刺されたという説はあるが、手代木に斬られたなどという説は寡聞にして知らない。
 一事が万事ということがある。筆をすべらせては他の論考に影を落としてしまう。
 私ごとだが、手術で11リットル出血し、輸血を受けた。アグレッシブな人の血が入ったらしく、怒りっぽくなっている。ご海容のほどを。
龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた 幕末京都の五十日
中島 信文
彩流社
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清河八郎の最期 完

2012-01-01 21:05:11 | 小説
 さて、松浦玲氏の『新選組』に次のような箇所がある。
「幕府は三月に東帰させた浪士組から本気で関東攘夷を遣ろうとしていた清河一党を排除し、骨抜きにしておいて新徴組に再編したのである。四月十三日に清河八郎を暗殺し、次いで残る一味を拘束した。監督する幕臣も、清河に近かった山岡鉄舟らは罷免されて差控えとなっている。そうしておいて浪士組のうち人物よろしき者を選び『新徴組』と唱え変えさせて庄内藩に委任したのである。人物よろしきとは勝手に攘夷計画を立てないという意味だろう」
 ご覧のとおり、この文脈で「清川八郎を暗殺し」の主語は「幕府」である。もうなんのためらいもなく幕府である。
 かって大川周明はこう書いていた。「八郎が幕府のために暗殺されたことは、前後の事情から明白疑ひを容れないが…」(『清河八郎』)
 大川周明の時代には、まだこのように微妙なためらいの滲む断定だったことを記憶しておこう。
 ではなぜ幕府は八郎を殺したのか。
 松浦玲氏風に語れば、幕府は天皇に対する攘夷の約束を曖昧にしたいのに、八郎にどうしても攘夷しなければならないところへ追い込まれようとしたからである。
 世の中には、浪士組といういわば幕府の組織下にあった八郎が幕府を裏切ったから、報復のため殺されたと思い込んでいる人が多い。裏切りというような単純な次元によるものではなかったのである。将軍はすなわち征夷大将軍である。攘夷をしてこそ将軍ではないか。将軍といえども朝臣ではないか。そういう思いが八郎にはあったはずである。八郎は一般にイメージされているように変節漢でも策士でもない。むしろ他人から騙されやすいのが八郎であったというのが、ある程度八郎に関する資料を読んできた私の印象である。
 あの日の夕暮、一ノ橋近くの路上に倒れた清河八郎の首を、現場に駆けつけた石坂周造が切り取って隠した。やがて山岡鉄太郎が伝通院の側寺所静院の住職と相談して、秘密裏に同寺に葬った。その後山岡は私費で八郎の墓を建て、傍らにお蓮の墓も建てた。
 山岡はここで短かったが濃密な夫婦だった八郎とお蓮を、再び一緒にさせたのであった。 
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清河八郎の最期 その8

2011-12-29 17:59:41 | 小説
在京老中の板倉勝清の命令で「清河八郎を暗殺せよ」という指示が芹沢鴨の組の者たちに達せられた、と永倉新八が後日になって明かしている。八郎がまだ京都にいるときの指示である。
 芹沢らは八郎を尾行し、土佐藩邸近くの四条あたりで殺害する手はずであった。ところが八郎には山岡鉄太郎が同行しており、しかも山岡が幕府の御朱印を携帯していたため決行をためらったとしている。
 京都に八郎がもっと長く滞在していたら、あきらかに彼は京都で暗殺されていただろう。しかし八郎は、つまり浪士組は3月18日京都を出立、28日には江戸に到着した。その京都出立の朝、浪士出役が追加任命されて披露されている。
 講武所師範の速見又四郎、佐々木只三郎、高久保二郎、依田哲二郎、永井寅之助、広瀬六兵衛らである。なんのことはない、このメンバーが江戸における八郎暗殺団となるのである。あるいはこの時点で暗殺の密命をおびていたかもしれない。
 文久3年4月13日の朝、八郎は頭痛と気分の悪さを訴えていた。高橋泥舟に、きょうは出かけるなと言われたものの、約束だからと出かけていった。
 訪ねたのは麻布一ノ橋の上之山藩邸の金子与三郎である。八郎は金子という人物をずいぶん信用していたが、金子そのもがどうやら暗殺に関与していたと疑う者が多い。金子の呼び出しが罠だった可能性はかなり高い。
「八郎遭難の現状は、当時の目撃者の談話によって明瞭に揣摩することが出来る」と書く大川周明の著書によると、刺客は複数で、二手に分かれて待伏せしていた。
 上之山藩邸の正門からすぐ前の一ノ橋を渡ったところに葦簀張りの店があり、老婆が大福を売っていた。時間は午後4時頃だとされている。この店に数人の武士が腰かけていて、藩邸方向に目を光らせていた。さらに、その店の道路をはさんだ反対側の柳沢侯の角屋敷沿いに二人の武士がいた。
 やがて、この二人の武士の合図で、店にいた武士たちが上之山藩邸の裏門のほうにまわった。八郎を挟み撃ちにするためである。
 ほどなく笠をかぶった八郎があらわれ、一ノ橋を渡る。
 黒羽二重の紋付、甲斐絹の裏付き羽織と鼠に縦縞の袴を着用し、右手に鉄扇を持っていた。
 その八郎に二人の武士が近づき、声をかけ丁寧に挨拶した。
 前方に佐々木と速見の二人を認めた八郎は、挨拶を返すべく笠をとろうとした。その刹那だった。うしろから来た刺客の一撃が八郎を襲った。ほとんど同時に首のあたりを狙って佐々木の白刃がひらめいた。
 
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清河八郎の最期 その7

2011-12-27 16:16:53 | 小説
 浪士組に東下せよという関白からの命令の出た翌日、つまり3月4日、将軍家茂が京都に到着、二条城に入った。
 老中の水野忠精と板倉勝静らが随行している。将軍の上洛は家光以来で、なんと236年ぶりのことであった。
 その翌日の3月5日、清河八郎は3通目の建白書を提出した。
 こんどは具体的な提案を幾つか書き連ねているが、力点はひとつである。将軍勅を奉ずる上は速やかに帰府して天下に号令し、征夷の大業を遂ぐる事、そのことであった。京都守護は会津侯に委任すればよいと八郎は書いている。
 八郎の心づもりでは、将軍は滞京10日で江戸に帰るし、そのスケジュールと軌を一にして浪士組も東帰する、というものだった。
 しかし、もう八郎の思惑通りに事は運ばない。
 3月13日早朝東下と決まったが、浪士組の中から京都に残留したいという者たちがあらわれ、浪士組は分裂したのであった。よく知られているように京都残留組には、のちに新選組となる14人がいる。
 残留組の言い分は、将軍が攘夷の勅命を奉じて江戸に帰るという運びになっていない、将軍が京都にいる限りは京都に留まって将軍を守護したいというものだった。
 この言い分は、浪士組に賜った勅諚と達文(朝旨)を無視するものであった。自分たちは幕府に雇われているのだから幕府の指示がなければ動かない、というわけである。
 ここで面妖なのが浪士組の正式なリーダーである鵜殿鳩翁の態度である。
 残留か東帰か、彼が幕府の一員として態度を鮮明にすればよいものを、それができない。というよりも残留したいものがあれば申し出よ、などと組織の分裂をむしろ助長し、残留者の取締を殿内義雄と家里次郎に命じていた。のちに新選組となる面々を松平容保に仲介したのも、この鵜殿である。
 その鵜殿、例の勅諚を山岡鉄太郎から預かっていたが、東下が決まって八郎が山岡と一緒に返却を迫ったら返さなかった。江戸に帰ったら返すといって態度を曖昧にしたのである。
 江戸に帰っても返さなかった。閣老の手に渡してあるから手元にないと八郎の使者藤本昇に言うのである。藤本が、では直接閣老から受け取るようにするというと、おおいに狼狽して藤本をなだめたようである。八郎が暗殺されるのは、この数日後であるから、勅諚問題が暗殺の原因のひとつになっていると推定するのは大川周明である。
 八郎の暗殺は、たしかに幕府から指示が出されていた。
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清河八郎の最期 その6

2011-12-25 23:11:24 | 小説
最初の建白書を奉呈するにあたっては、清河八郎は6人の浪士を選んでいた。河野音次郎、西恭助、草野剛三、和田理一郎、森土鉞四郎、宇都宮左衛門で、草野(のちの中村維隆)らの回顧談によれば、八郎は彼ら6人に、もし受理されなければ生きて帰るな、と言ったらしい。
 すんなりと受理されるとは考えていなかったからである。
 案の定、まず幕府に提出するのが正規の順序であろうと、いったんは受理を拒否されている。しかし決死の覚悟の6人に気圧されて、学習院に詰めていた国事参政が渋々受け取ってしまうのであった。
 この結果、2月29日、劇的な事態が起きた。
勅宣と関白からの達文が届くのである。
 ここでも大川周明の筆をかりる。
「…重大なる攘夷の勅諚を、直接浪士に賜はると云ふことは、破格非常のことであるから、之を聞いた幕府の吃驚は察するに余りある。のみならず関白の達文は、天下の政事に関して草莽の意見を建白する路を開いたものである。されば八郎は、此の勅諚さへ拝領すれば、最早幕府の覊束を受けず、独立独行して攘夷が出来ると云ふので、其の喜び言はん方なく、即夜新徳寺に於て盛大なる祝宴を開いた」
 これはもう、八郎に有頂天になるなというほうが無理な情況になったというしかない。
 2月末、八郎は二度目の建白書を書く。
 趣旨は関東で攘夷の先鋒を務めさせて欲しいというものだった。浪士組の東下を願い出たわけである。
 月が変わって3月3日、その八郎の思惑通りの命令が関白より下る。
 ただし今度は浪人奉行鵜殿鳩翁と同取締役山岡鉄太郎連名宛の命であった。
 いわゆる生麦事件がこじれていた。横浜へイギリス軍艦が渡来しており、いつ戦端を開くかわからない。であるから速やかに浪士を東下させ、「粉骨砕身可励忠誠候也」という命令だった。
 さて、ここまでは八郎の思うとおりに事が運んでいる。しかし、そのことが八郎の命運を縮めることになるのだが、もとより八郎はそんなことは知るよしがない。 
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清河八郎の最期 その5

2011-12-23 12:00:43 | 小説
この頃、八郎が郷里の父に宛てた手紙がある。以下のような内容である。

 公儀において自分は特別扱いで、浪士頭取役を仰せつけらたものの断りました。私の名声が盛んになるにつれ、そねみ妬む者も多く、わざと辞退したのです。それでも浪士たちからは自然と頭取的にみなされ特別な存在になっています。

 八郎の得意や思うべし。たしかに八郎は浪士組を実質的にとりしきっており、黒幕的存在となっていた。浪士の隊列には加わらず、ひとり悠々と監督者然として中山道を闊歩していたらしい。
 浪士組が京都に着いたのは2月23日である。宿舎は壬生村だった。
 先に紹介した『新選組』に松浦玲氏が書いている。
「その晩、清河は浪士一同を新徳寺に召集し、京都朝廷宛の建白書を示して署名を求める。自分たちは尽忠報国の志により集められ、将軍が尊皇攘夷の任務を遂行するために上京した。幕府の世話で上京したけれども禄位は受けておらず、天皇の命令を妨げるものがあれば幕府の役人といえども容赦はしない。この真心が貫徹できるよう取り計っていただきたいというものであった」
 大川周明も、この場面をこう描写している。
「…此時 満座を睨みまわしたる八郎の権幕は非常なもので、一言でも異議を唱へる者あらば、即座に掴み殺さん勢であったから、一同悉く賛成して了ふ…」
 あたかも全浪士を前にして、激烈なアジテーターぶりを発揮している清河八郎像がイメージされるが、八郎がこのとき新徳寺に召集をかけたのは幹部級の浪士だけであって「浪士一同」ではない。俣野時中の証言(『史談会速記録』)によれば「重立者」をだしぬけに呼び出したとなっているのだ。
 なにしろ総勢230名を超える団体である。幾つかの豪農宅や寺に分宿している。新徳寺は取締役旅宿だったけれども、ここに浪士全員が参集できるスペースがあったかどうかさえ定かではない。松浦氏の著書だからといって、すんなりと浪士一同をアジっている八郎の姿を定着させてはいけない。
 ところで建白書の原文には尽忠報国の文言が三回出てくる。浪士たちがことさら賛成できないという内容ではないが、ただ「禄位等は更に相承不申」という箇所にひっかる者たちはいただろう。それが目当ての幕府の傭兵気分の浪士たちからすれば、よけいな文言であるからだ。
 いずれにせよ、春嶽に上表を提出して自分の立場を逆転させたという生々しい成功体験のある八郎は、またしてもおのれの文才に賭けて、朝廷への建白書を書いたのであり、あと二度書くことになる。
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清河八郎の最期 その4

2011-12-18 16:31:34 | 小説
 幕府から浪士募集命令が正式に出たのは文久2年12月19日だった。2千500両の予算を計上して、50人募集するつもりだった。一人当り50両の手当ということになる。ところが実際は230余名を採用してしまった。拙速と杜撰さの目立つ結果となったのである。
 尽忠報国の志士ばかりが集結したとはとても言い難い。たとえば甲州の博徒で岡引経験もあるらしい山本仙之助とその子分たちも採用されていた。のちに新選組を結成する近藤勇、土方歳三、芹沢鴨らが参加していたことはよく知られているが、大川周明は彼らを「運よくば旗本にでもならうと云ふ野心で応募したのであるから、固より八郎等とは志を異にして居る」(『清河八郎』)と評している。ともあれ近藤勇らは年が明けて文久3年となった正月に募集を知り、応募したもののようである。
 文久3年2月5日、小石川伝通院に応募浪士一同が参集するが、浪士取扱の松平主税助改め上総介は前日に辞任していた。
 浪士募集の不手際で、引責辞任といったところである。後任に鵜殿鳩翁が選ばれた。隠居して鳩翁という号を名のっていた元駿府町奉行である。
 トップの人事といい、玉石混淆の応募浪士の構成といい、スタート時から、波乱含みの浪士組なのであった。
 伝通院に集合した3日後、早くも京に向けて江戸を発つた。将軍家茂の上洛にさきがけて京都警戒のためとされているが、いかにも慌ただしい。だから大川周明の次のような見方も出てくる。
「幕府の此の処置は如何なる動機であったか明瞭でない。思ふに幕府は、浪士を集めて見たものゝ、五十人と思って居たのが其の五倍の大勢となり、之を江戸に於いては厄介であるから京都に送り、京都に送りさへすれば吾々の肩が一時安まると云ふやうな因循姑息の考で、一日も早く江戸から追立てたものであらう」(前掲書)
 鵜殿鳩翁が浪士組に申し渡した道中規則があるが、まるで修学旅行の小学生に対するような注意事項と道中の禁酒が定められている。およそ尽忠報国の志士たちへのそれではない。集まった連中への鵜殿の危惧がよくわかる。事実、禁酒事項があるにもかかわらず焼酎を入れたらしい一斗入り瓢箪を背負って歩く者が一人ならずいたと、鈴木半平が『東西紀聞』に記録している。
 しかし清河八郎に浪士組の質を憂慮した様子はない。そんなことに頓着する暇がなかったといってよいかもしれない。
 なにしろ彼は、ほとんど有頂天になっていた。
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清河八郎の最期 その3

2011-12-14 21:18:17 | 小説
春嶽は浪士取扱の任に松平主税助を採用した。家康の6男忠輝の後裔である彼は、やはり浪士利用を建白していたから、適任とみなされたのであろう。幕府内には浪士募集に反対するものも多かったのである。
 その松平主税助が町奉行に差出した文書に、こうある。
「出羽荘内 清河八郎。右者有名の英士にて、文武兼備、尽忠報国の志厚く候間御触出し御趣意も有之、私方へ引取置、他日の御用に相立申度、此段奉伺候」
 さて、ここに「尽忠報国」というキーワードがひそんでいる。
 松浦玲氏は著書『新選組』(岩波新書)の冒頭部分(6ページ)で、こう述べていた。
「『尽忠報国』は後に新選組の中心スローガンとなり、近藤勇や土方歳三の愛用タームだった。それが実は幕府の達文(たっしぶん)に書込まれ、その志を持つことが旧悪免除の取引条件になっていた。なにかカラクリがある」
 カラクリもなにも「尽忠報国」はもともと清河八郎のスローガンであった。前に引用した『急務三策』の「皆な公あって私なし、忠誠以て国家に報ずるのみ」も熟語にすれば尽忠報国である。「報国の臣」とか「報国の盟」というのも八郎のいわば口癖のようなものだった。
 尽忠報国といえば、中国南宋の武将岳飛(がくひ)は、その言葉を背に刺青していた、という。もとよりその故事を幕末当時の教養人は共有していたはずだが、この時期にその成語を流行らせる契機は八郎にあったのではないかと私は思う。
 ちなみに岳飛ももとは豪農の出身で、人気が出ると危険視されて謀殺された。八郎もこの点は岳飛に似ているのだ。
 ところで松浦玲氏も書いているが、清河八郎が「報国」というとき、その「国」は日本国である。出羽の国でもなく、幕府でもない。
 しかし新選組は、あるいは近藤勇や土方歳三は、「国」を幕府に縮小して、幕府の爪牙となって功名を急いだ。松浦氏が概ねそのように述べている(前掲書106ページ)。
 まったく同感である。浪士組のストレートな延長線上に新選組があるのではない。
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清河八郎の最期 その2

2011-12-10 21:16:29 | 小説
 清河八郎の赦免が確定するのは、文久3年正月のことである。くどいようだが、その3ヶ月後には彼はこの世を去る。彼が公然と清河八郎であったのは、正月から4月までのたった4ヶ月なのだ。
 実際、前年の暮に彼が幕府の「浪士取扱」の客分として招聘される話がまとまったとき、殺人犯としての「清河八郎」では都合が悪いという意見も閣老の中にはあった。彼の変名「大谷雄蔵」を名乗らせようという姑息な案も出されていたのだった。
 正月18日、清河八郎は庄内藩留守居黒川一郎の立会で町奉行所に先の無礼人斬殺を届け出ている。幕府の指示によるものだから、出来レースのようなものだが、奉行浅野備前守は即座に赦免とし、庄内藩には「…この上は召捕候には及ばす候…」と布告した。
 かくて文久2年という暗闇の世界から一気に陽光の世界に躍り出たのが文久3年だった。おそらく、奈落から抜け出した舞台の眩しさが彼の命運を縮めたのである。
 急激に明るい場所に出すぎたのだ。自己陶酔にも似た高揚感に八郎はとらわれたはずである。そして幕府くみしやすしと内心甘く見たはずである。そのことが彼の油断になったのではないか。だが、まだ彼の暗殺を語るときではない。
 さて、八郎はなぜ幕府の「浪士取扱」客分になりえたか。彼の文章力が大きく作用していると思われる。
 文久2年11月に八郎は春嶽あてに二度目の上書を献じていた。
 攘夷の断行と大赦令の発布と人材の糾合を説いた、いわゆる『急務三策』である。格調の高い、堂々とした文章であった。八郎はいわばプレゼンテーションの名人であった。人材の糾合というのが、つまり浪士の募集であり「浪士取扱」につながるのである。
『急務三策』中の一節。
「それ草莽の身を殺し族を棄て、四方に周旋するもの、皆な公ありて私なし、忠誠以て国家に報ずるのみ。(略)それ非常の変に処する者は必ず非常の士を用ふ。故によく非常の大功を成す。(略)願くは執事疾く度外の令を施し以て天下非常の士を収めんことを」
 春嶽は八郎の文章に心を動かされたはずである。その春嶽のもとに関白からも浪士募集の命が下されたと報告が入る。関白に浪士募集案を持ち込んだのは、経緯は省くが石田徳太郎と石坂周造である。八郎が春嶽に上書したことを知ったふたりが、八郎の援護射撃をしたのであった。
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清河八郎の最期 その1

2011-12-08 22:31:09 | 小説
 お蓮の死んだのは文久2年閏8月7日であった。まさにその頃、八郎はお蓮や獄中の同志を救うために、彼らの釈放嘆願書を書いていた。政事総裁職に就任した松平慶永(春嶽)宛の上書である。
 安政の大獄で幽閉されていた尊攘派に同情的で、大赦に向けて動いていた春嶽のふところに飛び込もうというわけである。むろん「殺人犯」という自分の罪も帳消しにしたいのであった。逃避行を続けながらの尊攘運動には、どうしても限界があったからだ。
「…今や大赦独り在上に行はれて在下に達せざるは、亦豈無偏無党の道ならんや。故に方今の時天下の人心を安んぜんと欲せば、疾く大赦を行ふに若くはなし…」
 上書の中にそう書いた。
 その上書は、山岡鉄舟と土佐の間崎滄浪を経由して春嶽のもとに届いた。
 結果としては、嘆願は功を奏した。9月下旬には弟熊三郎、池田・石坂両同志は出獄(もっとも仮出獄)したという手紙を10月4日付で山岡鉄舟が八郎に送っている。
 あともう少しだったのにと思わずにいられないが、八郎はしかし愛妻お蓮を救出することはできなかったのであった。けれども、この夫婦は8カ月後には、あの世で再会することになる。
 清川八郎が江戸は麻布一ノ橋近くの路上で暗殺されるのは、文久3年4月13日であった。お蓮の死から数えて8ヶ月余、その短い期間に八郎は、清河八郎という尊攘思想の光彩を放った。
 文久2年から文久3年にかけて時代そのものが閃光を放って変転していた。
 文久2年1月には老中安藤信正が坂下門外で襲われ、2月には和宮降嫁、4月には島津久光の挙兵上京と寺田屋事件。8月には生麦事件が起き、将軍家茂は攘夷を奉答。閏8月には松平容保が京都守護職についている。
 幕吏から追われていた清河八郎は、青天白日の身となるばかりではなく、こんどは幕府から「有名の英士」で「文武兼備、尽忠報国の志厚く」とお墨付きをもらうのであった。 
 
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