鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に、科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたいと思います。

鍼灸の理論と実践の乖離について〜世界の観念的な二重化の問題〜

2017-06-13 14:59:22 | 鍼灸理論・東洋医学
鍼灸の理論と実践との乖離について考えると、認識論の実力の必要性、それゆえ自身のその実力の不足痛感される。

金元四大家について学ぶと、理論としては、寒涼派、攻下派、補土派、養陰派と、あるいは瀉法を重視した劉張医学と補法を重視した李朱医学との二大潮流として捉えることができる、つまり、理論的には全く違った立場であると言える、しかしながら、実践=施術としては、金元四大家の誰もが刺絡瀉血を重視し……と時代の鍼灸である。でしかないことを知り、理屈、理論は違っても「やってる事は同じ!」と思え「これでは理論と実践の乖離では無いのか?悪く言えば、中医学の理論というものは机上の空論か、良くても、実践の後付けの解釈に過ぎないのでは無いのか?」とも思えた。

これは、別の捉えかたをすれば金元四大家の理論は、現実の治療の世界とは(相対的)独立に観念としての治療の世界を創り出しての、その観念としての治療の世界での筋が通れば、それで良しとしているのでは無いのか?ということである。

そう考えると、その理論と実践の乖離、観念と実体との乖離の問題は、金元四大家に限ったことでは無く、我が日本の鍼灸の世界にも日常茶飯事の出来事であると思えた。

例えば、補瀉の問題。鍼を打って抜くときに、打った部位を押さえれば(気が逃げないので)補法、押さえなければ(気が逃げるので)瀉法、ということを大真面目で行っている。

ここを、観念論的な迷信であると切って捨てるのでは無しに、あるいは無批判に観念論的な立場に立つのでも無しに、現実の世界と観念の世界の二重化の問題として、そのギャップを埋めることが、唯物論的な立場からそれを成すことが必要なのだと思える。

これは、武道の世界では、「技の無心、有心」「自然体の観念と実体」等の問題として、すでに半世紀以上も前に南郷先生によって説かれて(解かれて)いるのではあるが……。
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