散文的で抒情的な、わたくしの意見

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教育勅語、軍人勅諭と山縣有朋

2017年03月07日 | ドラマ
最近、教育勅語のことが何かと話題になっているので、少し考えてみました。私は学者でもないし、今までの人生で特に考える必要に迫られたこともないので、考えたことはありませんでした。

明治23年ですね。山縣有朋内閣の時です。どっちかというと、「山縣有朋の時」ってことに私は関心がありますが、まずは教育勅語について。

歴的文脈から切り離してしまうと、どってことない道徳の羅列です。

最後の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」は問題ですけどね。

包丁と同じでしょう。普段はただの台所道具に過ぎない。でも「使いよう」によっては人も殺せます。

「使いよう」がつまりは「歴史的文脈」で、戦前の強力な「家制度」「軍事制度」ひいては、いわゆる「国体の護持」を支えるもとになった。

だから戦後国会で「排除」されたわけです。この歴史的文脈を忘れてしまえば、12項以外はどってことない道徳ですから、「現代でも有効だ」なんて意見が出てくるわけです。

物事を歴史からみることの大切さを感じます。

同じく山縣有朋が推し進めた勅諭に「軍人勅諭」があります。

これはいきなり「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」とあって、統帥権の根源となりましたから、一見だけでも大問題を内包しています。

明治天皇は、山縣有朋はなぜわざわざ「天皇はお前たち軍人の大元帥だ」なんて言う必要があったのでしょう。

明治六年政変が原因だと思います。いわゆる西郷下野ですが、問題は「西郷と一緒に多くの軍人が天皇を見捨てて薩摩に帰ってしまった」ことです。

西南戦争の中心人物である桐野(人斬り半次郎)も、この時、薩摩に帰ります。人斬りと言われますが、たぶん人は斬ってません。斬っても一人です。薩摩だから暗殺者である必要がないのです。

とにかく、天皇は見捨てられたわけです。

この苦い経験があったため、山縣有朋は必要以上に天皇の権威を高めることに苦心します。

山縣有朋は「日本軍閥の祖」だそうです。「日本陸軍の祖」ではなく「軍閥の祖」、まあそれが山縣有朋です。

奇兵隊出身ながら、なんと大正11年まで生きます。むろん公爵。元帥。従一位。葬儀は国葬。奇兵隊では一番の出世頭ですが、当時から全く人気がなく、今も全く人気がないというなんとも「残念な」人物です。
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