遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『廉恥 警視庁強行犯係・樋口顕』  今野 敏  幻冬舎

2015-02-07 10:52:59 | レビュー
 この作品の中心人物は樋口顕(ひぐちあきら)という警視庁・捜査一課強行犯係(第三係)の刑事、係長である。まずこの樋口のキャラクター設定がこの作品をおもしろく色づけている。樋口自身が警察官として自己評価している自己像と第一捜査課の上司・同僚をはじめ、警察署の刑事たちそれぞれがが捉えている樋口像との間にかなりのギャップ、コントラストがあることである。
 刑事のだれもがあこがれる捜査一課を表す「S1S」のバッジを誇らしくは感じるものの、それをつけるのは警視庁本部内にとどめておきたい、ひけらかすような真似はしたくない。刑事部の他課、警察署の人々とのバッジを介した軋轢を回避するに越したことはないと考えるタチである。争い事が嫌いで妥協もする。人の話はよく聞く。人をだますよりだまされるほうが気が楽だと思ってしまうタイプなのだ。年齢を考えると何時までも現場にいられないと思う一方で、責任が重くなることに躊躇する心が動く。警察官としての行動倫理の枠を遵守し実践する。それは一面自己保身でもあるととらえている。若い頃には。自分が警官に向いていないのではないかと何度も思ったことがある。だがそこそこの満足が得られてきたので刑事を続けているのだ。また独占欲が強い性格かもしれないとも思っている。刑事と記者は運命共同体であり、事件に対する立場が違うだけだから、邪険にすることはなく、捜査を妨げない範囲での情報のやりとりをしももよいと考えている。そこそこの評価を得ている形で定年を迎えられればよいと考えている。
 だが周囲の目は違う。田端課長は樋口が係長から管理官にしたいと思い、樋口に試験を受けさせたいと思っている。管理官の天童は事件現場で、樋口にある問いかけをして、その理由を樋口が家族思いだからと口にする。また、樋口は忘れているが、捜査の過程で樋口に助けられ、樋口を慕う警察官も居る。樋口の捜査能力と思考に一目置き、一緒に事件に取り組むことを喜ぶ刑事も居る。

 事件は、世田谷区の三宿(みしゅく)交差点近く、一本裏通りにあるオートロックではないマンションで発生する。被害者は南田麻里、年齢23歳。単身用の間取り。玄関ドアを開けると、キッチンがあり、それを通り抜けた奥にリビングルーム。左手に小さな寝室がある。リビングルームの中央の小さなテーブルが斜めになっていて、その上にある雑誌などが乱れている状態。そのリビングで被害者は殺されていた。金は取られていず、着衣に乱れがないので性的目的でも無さそうなのだ。首に痣ができ、絞殺か扼殺とまず判断された。
 遺体の発見者は南田の飲み仲間だったという石田真奈実、28歳。三軒茶屋の美容院に勤めている女性。当日石田は被害者と午後9時頃電話で話し、南田の部屋で一緒に酒を飲む約束だったという。遺体発見は午後11時頃。

 初動捜査でわかったことは、風営法関係、水商売のつとめだという。渋谷のキャバクラで働いていた。同じマンションでの聞き込みでは、物音や言い争う声は無かった。玄関のコンクリート部分で足跡は途絶え、部屋の中に足跡はない。土足での部屋侵入はなかったのだ。顔見知りの犯行なのか・・・・。怨恨なのか・・・・。
 さらに、世田谷警察署には、南田麻里からストーカー被害届が出されていたことがわかる。ストーカーの名前は、樫田臨(かしだのぞむ)、33歳会社員。ストーカー相談の折に記されていた樫田臨の住所を当たったところ、引っ越したようなのだ。転出届も住所変更届けも出ていない。被害者の南田は告訴はしていなかった。
 捜査本部は、ストーカーとして届けられた樫田の捜査から始まって行く。

 ストーカー規制法ができてからストーカーを取り締まるのが警察の仕事となった。ストーカー被害を受けていると被害者届を出した人物が殺された。ストーカーが犯人の可能性がある。捜査本部の立てられた世田谷署には緊迫感が走る。
 被害届が出されれば警察はストーカーを取り締まるが、直接被害者を警護することなどできない。警察はストーカー行為に警告を発しても、その行為が続くなら公安委員会が禁止命令を出すことまでなのだ。身の危険を感じるなら、被害者は民間の警備保障会社などに依頼して自衛するしかない。
 ストーカーを処罰できるのは、ストーカーが公安員会の禁止命令に違反した場合か、被害者の告訴が条件になるのだ。
 そのことを充分に理解がないまま、ストーカーが殺人を犯した場合は、マスコミによる警察の攻撃し、人々も警察の攻撃を始める。警察内部に問題がなかったか・・・・責任問題の波紋が広がっていく。

 この作品は、ストーカー問題と警察の対応をテーマとしながら、事件が意外な展開を見せ始めるというところに読ませどころがある。
 面白いのは、捜査本部に警察庁から若い女性のキャリアが派遣されてくることである。警察庁刑事局刑事企画課刑事指導官という肩書を持つ小泉蘭子である。ストーカーの被害者が、殺人の被害者になったというこの事件の発端。警察庁はストーカー被害との関連という事態を重視したのだ。捜査が適切に行われているか判断し、捜査にアドバイスをする役割なのだと、田端課長が天童管理官や樋口らを前にして言う。それに対し、小泉はこう言う。「時代が変わり、経験則だけでは測れない事柄も増えてきます。私はストーカーの現状や被害女性の心理、心情について詳しく研究しております。さらに、ストーカーの社会的な意味合いについてもお話しできると思います。」と。
 田端課長の発言を受けた天童管理官が、小泉刑事指導官の考えを捜査本部の捜査員たちに説明するリンケージの役割をさらりと、樋口に振ってしまうのだ。そういう説明は樋口が特異だから心配ないと言って。つまり、樋口は捜査権を持たず、殺人事件の捜査という現場経験が全くない刑事指導官のお守り役とならざるを得なくなる。
 予備軍として天童管理官のサポート役で捜査に参画する樋口が、小泉の要望で同行し事件現場を見聞することから、小泉とのペアでの行動が始まっていく。樋口は、己の性格からか、現場も知らない役人が捜査の監視に来て、茶々を入れるのではないか、煙たいものは遠ざけよう・・・・というスタンスはとらない。小泉のしぐさ・行動を観察し、その意見・考えに耳を傾けつつ、自分の考えとも対比しながら、捜査の進展に重要なヒントを得、また小泉の考えを引き出していくのである。それが捜査展開に大きく寄与していく。このプロセスが読ませどころである。小泉の女の勘と研究者としての心理分析能力が徐々に発揮されていく。小泉は樋口を介して積極的に捜査現場に出て行く活動派でもあった。
 南田が世田谷署以外の警察署にもストーカー被害届を出していたことが判明し始める。遺体発見者の石田の話を小泉が樋口に同行して事情聴取することなどから、小泉の専門家としての意見が重要なトリガーとなっていく。それを捜査員が受け入れやすくするのが樋口なのだ。

 もう一つ、この作品には同時並行で事件が絡んでいく。その情報は警視庁本部の生活安全部に異動となった氏家讓警部補からの電話での一報から始まる。知らせたいことが2つあるという。その一つを当面樋口は軽視する。ところが・・・なる点がストーリー展開のミソ。もう一つは、樋口にとって家族が絡んでくる直接問題だった。
 氏家は少年事件課に所属し、少年事件第三係の捜査員なのだ。氏家が樋口に告げたのは、樋口の娘・照美の持っているパソコンから脅迫メールが送信された疑いがあるのだという。照美のパソコンのIPアドレスが特定されたのだ。犯人が照美のIPアドレスを知り、照美のパソコンを遠隔利用してなりすましてメールを発信した可能性が高いようなのだ。だがそれを証明するには、照美のパソコンが捜査の対象として調査される必要があるのだ。警察官の家庭に、捜査員が捜査に入るという事態の発生である。
 「おい、聞いているのか」
 「聞いている。捜査情報をよそにばらすとまずいだろう。」
 「あんた以外にはばらさないよ」
 「俺がしゃべるかもしれない」
 「実害がなければいい」
 「俺は誰にもしゃべらない」
 「そうだな。当分はそうしてくれないと困る」
 「強制捜査は、まだないんだな?」
 「今のところ、そういう話はない」

 娘が事件に巻き込まれている。場合によれば、娘が事件の当事者かもしれない。樋口は最近の娘のことをほとんど知らないのだ。大学3年になり、部屋に閉じこもりがちであり、妻の話ではパソコンをよく使っているという。
 ささやかな家庭の娘を持つ父親という立場と警察官としての倫理行動を遵守するという立場のジレンマ。娘のプライバシーというものが全面に関わってくる側面もそこにはある。
 樋口の心は揺れ動く。殺人事件の捜査の進行プロセスで、警察署内に寝泊まりを続け、捜査にかかわりながら、時として思いは娘が巻き込まれた事件に向かう。氏家とのコミュニケーションが唯一の情報源になるが、それすら問題視されかねない事象でもある。
 この副次的な事件が、殺人事件と織りなされながら同時進行していく。
 樋口の警察官魂がこの二つの事件の中で、揺れ動き、己の信じる道を歩み続けさせる。樋口の心理・考えの動き、周りの人々が見る樋口像と樋口への関わり方、それがストーリーの中で描き込まれている。

 被害者南田の殺人事件に潜む事実展開の意外性。そこにはストーカー行為事象の逆利用があったのだ。また、樋口照美のパソコンを使った脅迫メール事件は、実にほほえましい結末のオチとなる。事件を梃子にしたこんな機会活用は家庭円満につながり楽しいオチである。エンタテインメント性を充分に盛り込んだストーリーとなっていて、おもしろい。
 己の実力を過小評価しがちな実力派刑事像が描き込まれていて、興味深い。


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本作品から関心の波紋を広げてネット検索した一覧をまとめて起きたい。

警察庁刑事局  :ウィキペディア
組織・制度の概要案内 - 詳細情報 国家公安委員会・警察庁 :「eーGov」
刑事総務課指導担当管理官運用要綱の制定について 昭和53年4月1日

警察庁組織令 (昭和二十九年六月三十日政令第百八十号) :「e-Gov」
ストーカー行為等の規制等に関する法律 (平成十二年五月二十四日法律第八十一号)
ストーカー行為等の規制等に関する法律  :ウィキペディア
ストーカー規制法  :「警視庁」
「つきまとい等」の具体的な事例  「宮城県警察」
ストーカー規制法とストーカー行為  :「池袋 総合探偵社 プログレス」

「ストーカー行為等の規制等の在り方に関する報告書」 平成26年8月5日
    ストーカー行為等の規制等の在り方に関する有識者検討会   pdfファイル

ストーキングの動機はどこにある?ストーカー心理の4パターン :「ガジェット通信」
マンガで分かる心療内科・精神科in新宿   :「ゆうメンタルクリニック」
   第40回「人はなぜストーカーに走るの?」前編
   第40回「人はなぜストーカーに走るの?」後編
ストーカー対策の基本・加害者の心理:被害者、加害者にならないために
     碓井真史氏       :「YAHOO!ニュース」


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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
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『闇の争覇 歌舞伎町特別診療所』  徳間文庫

=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 ===   更新4版


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