ARTな日々

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ものをつくるとき

2008-01-09 00:35:55 | Weblog
ものをつくるとき、動かされるもの、霊感というものに
導かれるものだが、それがないとやる気がおきないものなのだが、
近頃それが感じれなくなっている。少しボケてきているのだろう。
だとすると、原動力を失っているので、つくれない。

このような状態は、ものをつくるということにフォーカスすれば
ものをつくれない状態の私と単純に把握できるのだろうが、
そうではなくて、その感じれない私とは何かをしっかり哲学しなければ
いけないことなのだ。
なぜなら、物事の現象のみで事態を把握したときに、把握できていない
なにかが進行していき、手遅れとなる何かがあるはずなのだ。

把握できていない何かとは、簡単にいえばものをしっかり見ることができない
わたしがあるということだ。

まず見るということに対して、感じるということに対して
もっと興味を持ち、命を持つことからなのかもしれない。

あたりまえだが

2008-01-05 03:04:44 | Weblog
以前の自分の文章を、少しでも読むと、
確かに自分だなと思う。
そこで繰り広げられているものは、
ものすごく自分と向き合っている。というより
自分にしか向き合えない不幸というか、孤独が強烈に
あったわけだ。一人でいる人間などたくさんいるだろうが、
わたしはどうもおしゃべりな人間なようで、
発信したいのに発信できる相手がいない訳だから、
ずっと、延々と自分に向かって対話をしていたようだ。
そこに一種の性格が出来上がり、私が出来上がった。

あれを、もう一度やれといわれれば、できるだろう。
そんなに難しくはない。その状態になればとても感性は
よくなるようだ。
でもやる必要はない。なぜかといえば、もうやったからだ。
生きるうえで感性はとても必要だ。鋭敏な感性というものは
とても魅力的なものだ。あの頃と比べると感性は鈍っている
ことがわかる。
なのだが、どうにも思うには、人間というものは旅人であり、
季節を渡るモノであるならば、色々な地点があり、季節がある。
感性というを非常に鋭敏に発達させなければならない季節もあるだろうが、
そうではない季節がある。

今の私の季節と道程は、なにかといえば、
わたしは、わたしだけのことでないわたしを作りたいのだ。
自分のことだけではない自分。
対話者は結局は自分ではあるのだろうが、より身近な人であることを望んでいる。
元々、生まれたことは自分つくりだ。表現が違えど、自分つくりに変わりはない。

アートのためのアート、功名のためのアートなんてやる必要はない。
人生に油を差すためにアートをするだとかという動機で私はアートはできない。
アートは天への貢物でなければエロスを感じないのだ。
ということは天との対話を気持ちよくできる虚心坦懐を持てばいいのだろうが、
そのような感性が今は少し薄れている。とするとやはり自分というエゴに
汚れているのだろう。だとしたらどこで自分のエゴが身をまとっているのだろうか?
まず、着ている服を脱いだとして、どんな服を着てしまったのだろうかという視点が
意味を持ちそうだ。

散歩にでかける

2008-01-04 19:37:28 | Weblog
いきていくということを
散歩にでかける気持ちで
そのときのそのプロセスで身を委ね
歩を進めていくのだが
かといって、のほほんと平坦な道というものは
所詮つまらないものとして、
様々な障害物をしかけるだろうが、
どうにも
身を委ねるという信仰は
しっかりと身に携えることが
いきていくということにおいて
常に忘れては、いきていくことを
見失うこととなるだろうが、
見失ったとしても、それは意識が
見えなくなったこととして、
依然として、そこに自然に委ねられる身というものがある

男ってのは、やっぱり冒険がしたい
平穏無事というものよりも、
大きな何かに闘っていきたいものだ