歌舞伎蔵(かぶきぐら)

歌舞伎を題材にした小説、歴史的時代背景を主に、観劇記録、読書ノート、随想などを適宜、掲載する。

般若楼10

2017-03-21 09:07:38 | 女歌舞伎襤褸鑑2

 さらに四条の小屋の櫓は傾城屋に免許されなかったため、何時でも自由に興行するわけにもいかなくなった。免許をうけた興行師は小屋主と談判して、四条での傾城歌舞伎の値をつりあげ出していた。所司代の免許をうけた興行師は七人いたということだ。四条の小屋の数は大小あわせると十にもおよんだだろう。その中でも今や、七つの櫓をいただく小屋だけが梵天を誇らしげに空に突き出し、他を圧倒する勢いで見物を集めていた。
 かように傾城の能歌舞伎を取り巻くけわしい状況がつづく中で、ひとつの出来事が持ち上がった。今をときめく吉野大夫にからんだものだ。
 初夏にはあたたかな晴れ渡った日がつづいていた。四条の小屋は大小を問わず大いににぎわっていたが、中でも吉野の出る傾城能は数日前から予約を入れねば入られぬという断わりまでしていたほどだ。それでも力をかさにきた侍が毎日のように押し入り、見物の土間はいやでも肩や足が触れあわねば座れぬ有り様であったそうな。小屋主も又一どのもともに侍の乱暴狼籍をおそれていたが、ついにその恐れは現実のものとなってしまった。
 不思議な縁故で喧嘩をしたのは、ともに織田家の家中のものどもだった。もっとも一方は信長公の弟織田有楽、一方は信長公の次男織田常真の家中の侍である。夏の陣の直前まで大坂城にいた有楽はいつの間にか城を抜けだし、家康の元に走っていた。もとより家康の廻しものではないかとうわさの高かった男である。常真は一時、太閤さまの御勘気を蒙り御伽衆になってまでへつらい許されたことがある。ともに信長公の御身内ながら、覇気もなく誇りも創意工夫もない凡庸な男の家中のことだ。いずれ些細なことで口論になったのであろう。
 それにしても両家の喧嘩は、その日の四条一帯の興行を打ち止めにせねばならぬほどの大騒動になってしまった。両家のものども以外に死者が出なかったのが、せめてものさいわいというものだろう。険悪な雰囲気を察した見物衆が、いちはやく小屋を逃げ出したのがよかったのだ。さもなくば五人や十人は巻き込まれて死んでいたにちがいない。両家の侍は戦さでは使ったこともない刀を抜き、切り合いをして殺しあった。舞台の上でも暴れ回り、幾人かの傾城は手傷を負われたそうだ。吉野はさいわい舞台奥の楽屋におられ、そこまでは侍どもも乱入できぬよう、弦召が必死になって入り口をふさいでいたそうだ。

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 般若楼9 | トップ | 般若楼11 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。