歌舞伎蔵(かぶきぐら)

歌舞伎を題材にした小説、歴史的時代背景を主に、観劇記録、読書ノート、随想などを適宜、掲載する。

般若楼65

2017-05-15 08:35:16 | 女歌舞伎襤褸鑑2

 又一郎どのにお会いできたのは、それから十日も経った十月中頃であった。又一歌舞伎は相変わらずの大賑わいで、一年中、あちこちの小屋から興行依頼が絶えなかった。又一郎どのが柳町の惣中のねたみを買うのもわからぬではなかった。このままでは柳町は三筋ともに又一のものになると、あらぬ言い立てをするものさえあった。それに張り合うように佐渡島も評判のよい傾城をあちこちの傾城屋から借りて対抗していた。次第に傾城歌舞伎は傾城の顔見世の役割ばかりでなく、芝居興行そのものに値打ちも生まれ始めていたのだ。したがって少人数の歌舞伎は見物を失い、ひいては傾城屋の経営をも圧迫するようになる。それならばいっそのこと歌舞伎から手を引き、傾城屋に専念した方がよいとのことで、小さな歌舞伎は撤退する傾向を示していた。しかし、小屋主としては逆に、今もっとも見物をあつめられる見世物となると、やはり歌舞伎だといって、なんとか歌舞伎の看板を揚げたがっていたのだ。そういうわけで大歌舞伎中の大歌舞伎である又一郎どのは、小屋主との打ち合わせに連日おわれておられたのだ。
 前日、塩屋の使いから、又一郎どのとお会いできるとの連絡を受けたおれは、柳町の扇屋に出かけていった。塩屋の三倍もの間口のある大楼の勝手口を入ると、店のものの案内で奥の離れの茶室に通された。三筋町の外れにある塩屋には、おれは柳町筋を通らずに行き来するのが常であった。五条通りから西洞院通りを下る傾城屋の並んでいない道筋を好んだ。けれどもこの数年は、西洞院にも傾城町がひらけ、西洞院通りにも面して傾城屋が店を並べ始めていたため、やはり傾城屋の前を通らねば塩屋には達せられなかった。それでもまだ遊客は柳町の通りに比べれば、はるかに数も少なく、とくに昼間は傾城町とは思えぬのんびりとした風情がただよっていた。それに反して扇屋の前では昼間からすでに遊客が店先を取り囲み、格子ごしに傾城と話したり煙管の火をつけたりつけられたり、あるいは傾城の差し出した煙管をくわえて得意気に煙を吐くものもいた。そうした昼間の遊客には武家も多く、おれは顔を隠すようにして勝手口から中に入ったのだ。

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