歌舞伎蔵(かぶきぐら)

歌舞伎を題材にした小説、歴史的時代背景を主に、観劇記録、読書ノート、随想などを適宜、掲載する。

西遊15

2017-06-10 13:02:34 | 女歌舞伎襤褸鑑3

 下関から小倉にわたり、廻船の水手とも別れをつげた。小倉から長崎街道をとり木屋瀬、山家、久留米で泊り、筑紫と肥後の国境の関所に着いたのは夕暮れ前であった。
 この関所の警護はたいそうきびしかった。数年前に起こったお家騒動のため、加藤家は絶えず幕府の干渉にさらされていたようだ。豊臣への忠節が疑われていた清正公が亡くなった後、幼い藩主のもとで徳川との姻戚関係により、ようやく大藩を維持できていた。それもお家騒動を契機として幕府のつけ込むところとなり、肥後には幕府の隠密が絶えず入り込んでいるとの噂もあった。そのあおりか、国境の関所の調べはきびしく、おれは長介のクルスが見つかるのではないかと緊張していた。
 清正公は名だたる切支丹嫌いであり、関ヶ原のあと肥後半国から肥後一国へと加増された折にも、切支丹の多い天草の代わりに豊後の国の一部を願い受けたほどだ。次の藩主もまた、徳川への忠節をしめすつもりか、家康が死んだ年に切支丹禁止のお触れがあらためて出されると、切支丹を生きたまま試し切りにしたという噂があった。
 おれは又一郎どのにいただいた長崎の恵比須屋宛の書状を見せた。役人はそれでも隠密ではないかと疑い、何ゆえ肥後に入るのかを答えねばならなかった。仕方なく長介の死を親に伝えに行くことと長介の子を親元まであずかった男が行方不明であることを話した。役人はそれでようやく隠密ではないことを納得したようだった。そして、親切心からか、それともおれの話しの裏づけを取るためか、昨年の八月前後の関所の記録を調べてくれた。するとそこに宇土郡江部村百姓甚兵衛娘絹、子当歳という入関記録が残っていた。おれは初めて長介の本名を知った。けれどもこの子とともに肥後の国に国入りしたのは、又一郎どのの手代とは異なるもののようであった。

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