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集団的自衛権を巡る憲法論と憲法基礎論(下)

2010年09月06日 09時20分15秒 | 日々感じたこととか


<承前>

(1)「固有の権利」としての集団的自衛権
自衛権について国連憲章51条は「個別的又は集団的自衛の固有の権利」と定めています。日本では、この点、所謂「個別的自衛権」を「固有の権利」と呼ぶことには異論はないが、所謂「集団的自衛権」は、それこそそれは国連憲章51条によって初めて成立した権利類型であって(古来、人々の間で法的な確信をともない成立していた)「固有の権利」ではないとする論者も少なくありません。

けれども、先に挙げた佐瀬昌盛『集団的自衛権』が正しく指摘しているように、「固有の」という属性は、歴史学的なものでも普遍的なものでもなく、フッサール流に言えば「生きられてある」現前の事実を踏まえた、何より法学的概念であり権利概念なのです。畢竟、集団的自衛権が「固有の権利=自然権」であるということは、ある国が主権国家であれば、それが主権国家であるということだけを理由に認められている権利という意味なのであって、而して、この属性の定義からは集団的自衛権は紛う方なき固有の権利なのです。

◎「固有の権利=自然権」の意味

・集団的自衛権は歴史的概念でもアプリオリな法学的概念でもない
・集団的自衛権は「生活世界」の事実を踏まえた法学的概念である


よって、おそらく、「固有の権利としての自衛権」を現行憲法が認めていることを否定したい願望からでしょうか、左翼の論者の中には、(基本的人権、すなわち、天賦人権論のアナロジーから類推してか)「自然権を享受できる主体は自然人たる生身の人間だけであり、国家に自然権を認めるロジックは可笑しい」とのたまう向きもある。しかし、その論理こそ可笑しい。蓋し、彼や彼女は、「国家の自然権=国家の概念と国家の事物の本性から導かれる権利」という、この場面で使用されている「固有の権利:inherent right」の意味を理解していないと言う外ないからです。


(2)戦争観念と自衛権概念
「国際法の父」と呼ばれるグロティウス(1583年~1645年)が、近代主権国家が主要なプレーヤーとなって形成する国際法秩序を構想していた時代、遅くとも国民皆兵制が普及するナポレオン戦争(1803年~1815年)以前の時代は、確かに、自衛権と言えば「個別的自衛権」の概念しかなかった。否、当時は、原則、「あらゆる戦争が合法的存在」とされていた時代、すなわち、所謂「無差別戦争観」が支配していた時代であり、そもそも、国際法上、自衛権なる概念を精緻に整える必要はなかったし、また、講和条約と停戦協定の区別が曖昧になる必然性もなかった。要は、20世紀初頭以降、国際法において「自衛権概念」が彫琢を施されたのは、自衛戦争以外の戦争が違法とされるに従い、その「例外=自衛権の行使」のパターンを明確にする必要に迫られてのことなのです(★)。

しかし、パリ不戦条約と国連憲章に顕著な所謂「戦争違法観=自衛戦争以外の戦争は違法とする思想」が普及するに従い、他方、国民皆兵制が一般的となり、クリミア戦争(1853年~1856年)、ボーア戦争(1899年~1902年)、日露戦争(1904年~1905年)、そして、第一次世界大戦(1914年~1918年)と、戦争が、個々の列強が同盟国を募り、かつ、世界中の各々の植民地を総動員する総力戦になっていった19世紀末以降、漸次、自衛権概念は「集団的自衛権」を包摂するものとなった。畢竟、先に紹介したパリ不戦条約締結の際の英国の留保(1928年)と国連憲章51条(1945年)の基底には集団的自衛権を巡るこれらの国際法的な慣行が横たわっているのです。

現在の地点から逆照射すれば、蓋し、第一次世界大戦に至る独墺伊の三国同盟(1882年)、英仏露の三国協商(1907年)は、間違いなく集団的自衛権の萌芽であったろうし、他方、1917年のロシア革命に対抗した西欧諸国の連携も集団的自衛権の発露であったと言ってよいと思います。尚、集団的自衛権の意味に関しては下記拙稿をご参照いただきたいと思います。

・<神風>としての北朝鮮ミサイル発射☆「集団的自衛権行使違憲論」の崩壊の予兆
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/bd59edbb0bf2086519dec73c73339bc6

・破綻する峻別論☆集団的自衛権と個別的自衛権
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-24.html

・護憲派による自殺点☆愛敬浩二『改憲問題』(1)~(4)
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-25.html





★註:戦争観の変遷と講和条約の変容

第二次世界大戦前、(「戦時国際法が適用される状態」と定義される)「戦争」は「軍隊と軍隊の戦闘状態」として観念されていました。而して、その時代においては、(ある一部の戦闘地域に関してではなく)当該の戦争を全面的に停止する「停戦協定:休戦協定」は、(多くの場合、それは「戦時国際法が適用される状態」たる「戦争」からの脱却を意味したのだけれども)物理的な戦闘行為を停止するものにすぎず、「戦争」に起因する(戦争犯罪や賠償責任を巡る)権利義務関係の確定、および、領土や住民の帰属という主権の効力範囲の確定は「講和条約」によって一括的に処理されることが一般的でした。

戦時国際法上、「講和条約」が国と国が締結する条約であるのに対して、「停戦協定」は国と国だけでなく軍隊と軍隊が締結することができることからも「講和条約」と「停戦協定」の上記の違いは明らかでしょう。要は、第二次世界大戦以前は、(当該の国家が併合され消滅するのでもない限り)ある国家が長期間他国に領土的にも統治の権限においても占領される事態、すなわち、連合国による日本やドイツの戦後支配の如き事態は、所謂「ハーグ陸戦条約」(陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約)を含む当時の戦時国際法の想定外の事態だったのです。

けれども、第二次世界大戦後、1945年に発効した国連憲章自体が、所謂「戦争違法観」を実質的に採用したこともあり、1947年施行の我が国の現行憲法9条2項後段「国の交戦権は、これを認めない」に反映されているように(自衛戦争・集団安全保障の発動に伴う戦争等を除き)戦争が禁止され、また、上記のような「国単位で長期間全面的に他国に占領される」という新しい事態の出現により、第二次世界大戦以前の「停戦協定→講和条約」という謂わば<二階建の戦争終結スキーム>は衰退し、「戦争状態」を終結させる「停戦協定」によって戦争を巡る法律関係が暫定的にせよ一括的にせよ処理される傾向が顕著になっています。

要は、(a)戦争違法観においては筋論から言えば(自衛戦争以外の)戦争は存在してはならないはずだから、そのような戦争に起因する法的関係を一括的に処理する「講和条約」も本来存在するはずはない。他方、(b)(サンフランシスコ平和条約締結における日本と連合国、就中、日本とアメリカとの力関係を想起すれば誰しも思い半ばに過ぎると思いますが)敗戦国が国家の統治権も含め丸ごと占領されるような事態では、講和条約締結当事者としての敗戦国政府と戦勝国政府の対等な関係の存在は疑わしい、比喩的に言えば両者の「当事者適格」は怪しい。而して、これらにより講和条約の省略が進んだものとされています。

繰り返しますが、注意すべきは、「停戦協定」は単に物理的に戦闘行為を停止するだけでなく、ある種、法的にも戦争状態を終結させ得るということ。つまり、「停戦協定」は「戦時国際法が適用される状態」としての「戦争」を法的に終結させる。このことは、「停戦協定」が締結されれば、例えば、原則、戦時国際法に基づく「中立国の中立義務」が解消する事実からも自明。而して、上記を要約すれば、「講和条約」は「戦争に起因する権利義務と主権の範囲の変動を一括的に解決する条約」であり、全面的な「停戦協定」は「戦争」を法的に終結する条約と考えるべきなのです。蓋し、朝鮮戦争の「停戦協定」はこう理解すべきでしょう。   






◆集団的自衛権を巡る憲法基礎論

論者の中には、「現行憲法の9条を素直に読めば、自衛隊は違憲であり、集団的自衛権も憲法が認めているとは読めない」という向きも稀ではありません。よって、「憲法の概念や憲法の事物の本性なる我田引水的の根拠を持ち出して、自衛隊も集団的自衛権も合憲とするのは詭弁である」、と。

しかし、<憲法の概念>や<憲法の本性>は主観ではなく、間主観性が憑依したものなのです。蓋し、憲法も<法>である以上、それは間主観的な妥当性と実効性を帯びていなければなりません。更に言えば、憲法が「国の最高法規」である以上、憲法は国家の存立を保障するものでなければなりません。すなわち、国家の存立を保障しようとしない憲法典は、最早、<憲法>を構成する規範内容ではなく、そのような憲法典は妥当性と実効性を欠き<法>でもない。畢竟、国家が存立できない状況では憲法典も存立不可能なのであり、ならば、(些かトートロジーになりますが)そのような間主観的な妥当性と実効性を欠く憲法典には誰も従う同機を見出せないということ。而して、「国家の存立を保障する最高法規」という<憲法の概念>と<憲法の本性>もまた<憲法>を構成する規範の内容なのです。

畢竟、<憲法>とは国の最高法規であり、その内容は、憲法典のみならず、憲法慣習等々の「実質的な意味の憲法」に分有されている。蓋し、国の安全保障を巡る<憲法>の規範内容もまた、憲法9条のみならず、憲法慣習であり<憲法の概念>であり<憲法の本性>に分有されているということ。この経緯をルール分析のアングルから整理すれば、

憲法とは法典としての(Ⅰ)「憲法典」に限定されるのではなく、(Ⅱa)憲法の概念、(Ⅱb)憲法の本性、そして、(Ⅲ)憲法慣習によって構成されている。而して、(Ⅰ)~(Ⅲ)とも、間主観的な「論理的-歴史的」な認識であり最終的には国民の法意識(「何が法であるか」に関する国民の法的確信)が確定するもの。而して、それらは単に個人やリベラル派などの集団がその願望を吐露したものではない。そうでなければ、ある個人の願望にすぎないものが他者に対して法的効力を帯びることなどあるはずもないから。    

 
ということになるでしょう。ならば、極論すれば、たとえ現行憲法の9条に

9条1項 
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、自衛戦争および自衛のための武力の行使を含む一切の戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、永久にこれを放棄する。

9条2項  
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。自衛戦争を含む国の交戦権は、これを認めない。

    
と書かれていたとしても、<憲法の概念>と<憲法の本性>から見て、憲法秩序の前提としての国家の存立を保障すべく、日本は集団的自衛権を含む自衛権を国際法上のみならず憲法上も保有しており、また、それを行使することも可能と解するべきなのです。畢竟、その場合、上の架空の9条の文言は、平和を希求する日本国民の熱い心情を吐露した<文学的言辞>であり、他方、憲法論的には、長谷部恭男氏がしばしば述べられる「原理=スローガン」に過ぎず、国家権力の行動を制約するような「準則=具体的なルール」ではないと捉えるべきである(cf.長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書・2004年)8章)。と、そう私は考えています。

尚、憲法の概念、そして、「間主観性」ということの意味については下記拙稿を是非ご参照ください。





・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11145667266.html

・風景が<伝統>に分節される構図-靖国神社は日本の<伝統>か?(およびその続編)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/87aa6b70f00b7bded5b801f2facda5e3

・<伝統>の同一性と可変性☆再見沖縄? (上記記事の続編)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/42e496c4a2cedfb92c560cdca38bfe54






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