世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

アウグスブルグはロマンティック街道の中継地として通り過ぎるだけではもったいない街です(ドイツ)

2017-07-23 08:00:00 | 世界の町並み
 首都の郊外にある建物の野外博物館のスカンセンとリガ野外博物館と続きました。このうちリガはラトビアの首都として、歴史地区が世界遺産に登録されていますが、その中にユーゲントシュティール建築群があります。ユーゲントシュティールは、フランス語のアール・ヌーボーに対応するドイツ語で、19世紀末から20世紀にかけて展開された美術の意匠です。ドイツ語圏を中心に広まりましたが、ドイツの租借地であった中国の青島や、日本でも神戸の風見鶏の館がユーゲントシュティールの影響を受けていると言われています。今回は、このユーゲントシュティールの建物が残るドイツ南部のアウグスブルグを紹介します。訪問したのは30年近くも前で、初めてのヨーロッパでした。写真は当然アナログで、スキャナで取り込んだものです。記憶もかなり曖昧で、間違ったところはお許しください。

 アウグスブルグは、ドイツ南部の30万都市で、ドイツの中で25番目に大きな都市です。紀元前15年にアウグストゥスによって城が築かれたドイツでもっとも古い都市の一つです。15世紀から16世紀にはフッガー家などにより金融都市として栄え、市内にはフッガー屋敷も残されています。このフッガー屋敷は、16世紀にフッガー家が建てた世界最古の社会福祉施設で、集合住宅の家賃は数百円で、現在も住民が居るそうです。


 
 市内では、日本人の姿を、あまり見かけませんが、ロマンティック街道の中継地として、ツアーバスで通り抜ける日本人は多いのかもしれません。南に行くとノイシュバン・シュタイン、北に行くとローテンブルグなど、ロマンティック街道を走る路線バスも当地から出ていました。また、中央駅から鉄道で100kmほど南に行くと、1936年に冬季五輪が開かれたガルミッシュ・パルティン・キルヘンがあります。駅前から登山電車を使って、オーストリア国境の山でドイツ最高峰のツークシュピッツェにも上ることができます。

 
 
 さて、アウグスブルグのユーゲントシュティールですが、駅から東に延びるハルダー通りに20世紀初頭建設されたシナゴーグの建物に見られます。ただ、筆者は当時にこの知識が無くって訪問していませんので、残念ながら写真もありません。ユダヤ教のシナゴーグは1か所ですが、キリスト教はカトリック、プロテスタントのおのおの中心的役割を果たす教会があります。カトリックでは司教座教会のドームがありますが、通常ドームから思い浮かべる丸屋根は見当たらず三角形の尖塔が天を突くゴシック建築でした。一方、アウグスブルグ大聖堂は、9世紀ごろから建てられ始めたロマネスク教会で、のちにゴシックで改修され、両様式が併存する教会です。併存といえば、聖ウルリヒ・聖あふら・バシリカ教会は、カトリックとプロテスタントが同居する教会です。これは、この地で宗教和議がなされた場所であることの象徴のようです。

 
 一方、ルネサンス様式により17世紀初頭に建てられ戦後に再建されたのが市庁舎です。市庁舎が建てられたころのアウグスブルグは、ヨーロッパでも指折りの繁栄をほこり、この建物はキタヨーロッパでも最高の建物の一つとされています。
 他のドイツの都市と同様に、市内には路面電車が走り、緑が多く、喧噪さを感じない都市の一つです。ドイツでは巨大な都市は少なく小ぶりな都市が分散しているので、どこかのんびりとした空気が漂うのかもしれません。その割に、鉄道駅には、コインロッカーがあり、駅からの路線バスも整備されていて、個人旅行にはありがたい国です。観光大国と言われる、ドイツのお隣では、真逆で、旅行者には冷たい印象を受けます。


 ルターは、当時のカトリック教会が乱発した免罪符の欺瞞性を攻撃しました。免罪符は、仏教における「地獄の沙汰も金次第!」と似ているようです。最近は、世界的な組織もネットやTVを通して、免罪符を配布しているようにも思います。「あなたの寄付で、何人もの子供の命が救えます」。メディアを通せば、ルターの頃に比べて、はるかに早く、沢山のお金が動くようにも思えます。
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なんの変哲もない疋田の町並みですが、清らかな流れに沿った家並にほっとします

2017-07-16 08:00:00 | 日本の町並み
 住居として使う居倉が並ぶ町並みの一つが福岡県南東部の吉井町でした。また、吉井町は、倉敷の美観地区と似た流れがあり、これが風景にアクセントを与えています。流れの沿った町並みは数多くあり、それぞれ独特の風景を作っていますが、これらの町並みの中から、今回は福井県南部の疋田を紹介します。

 疋田は、米原から伸びる北陸本線が近江塩津を出て県境のトンネルを出た所の新疋田が最寄りの駅になります。かつて、北陸線が開通したころは、木ノ本と敦賀の間は、現在の線のずっと東の柳瀬を経由していました。勾配のきつい難所であったために、1957年に近江塩津を経由する現在の路線に付け替えられ、新疋田駅が誕生しました。旧線の時には、現在の新疋田駅の北700mほどの笙川の近くに疋田駅があったそうです。旧線は、しばらくの間柳瀬線という名前のローカル線となり疋田駅も存続しましたが、両駅は代替駅扱いはされなかったようです。しかし、新疋田駅の周辺にはなにも無く、町並みはかつての疋田駅があったあたりが中心のようです。

 

 
 疋田は草津から北に北陸を縦貫する国道8号線の一部となっている塩津街道から琵琶湖の西岸を大津に延びる西近江路が分岐する交通の要所で、江戸時代には宿場町として栄えました。また、敦賀港から舟川を経由し、疋田から陸路で琵琶湖岸まで運び京都に至る物流の拠点でもありました。新疋田駅から北に10分ほど歩いたところに、舟川の舟溜跡があり、舟川の流れに沿った町並みが連なっています。この舟川に川船が航行していた頃は川幅が九尺(約2.8m)ほどあったそうですが、現在は1mに満たない川になっていますが、清冽な水が流れています。ただ現在の流れは、かなり早く、この流れに逆らって海から標高90mほどの疋田まで船を引き上げるのは、かなり大変だったのではないかとも思います。しかし、当時としては、馬や人力による陸路の方がもっと大変だったのかもしれません。

 
 
 疋田の町並みは、豪商の家の跡だとか土蔵造りが連なる家並とかはありません(土蔵造りは皆無ではありませんが)し、比較的新しい造りの民家がほとんどです。ただ、神経を逆なでするような、景観を無視した家は無いようで、静かな時間が流れている感じがします。町並みの中にはお寺や神社が数か所、そして背後の山には織田信長が攻め滅ぼしたという疋田城あとがあります。また、家並の入り口近くには「南無阿弥陀佛」と彫られた巨岩があったり、右 西京、左 東京と彫られた道しるべらしき石碑があったりで、いわれは分かりませんでしたが、調べてみると面白いかもしれません。

 北陸線の敦賀ー新疋田間は上り線と下り線とが全く違うルートを走っています。上り線は衣掛山の下を鳩原ループ線で抜けています。これは、きつい上り勾配を避けるためで、北陸線の他に、上越線の湯檜曽ループ線や肥薩線の大畑ループ線などが有名です。鳩原ループも湯檜曽ループも大部分はトンネルですが、直線ではないトンネルを掘るのは大変なように思います。かつて、まっすぐなトンネルを掘るときにレーザ光の直進性を利用すると聞きましたが、円形のトンネルでは使えません。現在は、三次元レーザスキャナという技術があって、掘り進めているトンネルの位置関係が正確にわかるそうです。また、通常はダイナマイトを仕掛ける穴はドリルで開けますが、この穴を大出力のレーザを用いて開ける実験もなされているようです。人工衛星を打ち落とすかもしれないレーザですから。
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ヴィリニュスの旧市街には時代も様式も異なる教会が美しい景色を作っています(リトアニア)

2017-07-09 08:00:00 | 世界遺産
 世界七不思議の中で唯一現存するのがギザの三大ピラミッドでした。日本三景や三大珍味など日本や世界を冠した三が付く組み合わせが数多く存在します。今回は、国を三つ束ねたバルト三国の中からリトアニアの首都のビリュヌスを紹介します。このビリュヌスも2回目の紹介ですが、写真を増やして視点を変えてみたいと思います。

 リトアニアは、バルト三国の中で最南端に位置して、九州と中国地方を合わせたくらいの広さの国です。かつてリトアニア大公国と呼ばれていた14世紀頃には現在の10倍以上の領土を持っていました。首都のヴィリニュスは、南東部に位置しますが、大公国の頃の領土の中では北西部に位置していました。世界遺産は、鉄道駅の北側に広がる2km四方ほど欧州内でも最大級の旧市街で、トロリーバスもありますが、歩いて回れる程度です。


 

 
 この旧市街の中には、教会がうじゃうじゃと言っていいほどあります。うじゃうじゃ、では語感が悪いですが、美しい教会が、街角を曲がるたびに現れ、どの教会も見ごたえがあります。フランシスコ教会、聖ヨハネ教会、大聖堂、聖霊教会、生神女就寝大聖堂、聖三位一体教会、聖カジミエル教会、聖アンナ教会、ベルナルティン教会、ペテロ・パウロ教会と旧市街と歩き回って訪れた教会です。初日2時間2日目3時間と正味5時間程度ですが、記録していない教会もあるかもしれません。旧市庁舎や夜明けの門、ゲディミナス城なども寄っているので、ちょっと歩けば、町の各ブロックにはもれなく教会が付いて来ます、といった状況でしょうか。

 
 大聖堂は、旧市街の北のはずれ、ネリス川に近い位置にあり、13世紀に建てられた聖堂はギリシャ神殿風です。ちょうど夕べのミサの時間でパイプオルガンの音色も聞くことができました。

 
 
 ペトロ・パウロ教会は、大師堂からネリス川沿いに北東に1kmちょっと行った川沿いに建つ教会です。旧市街から離れていて、寄り道が遠くなりますが、この教会の内部装飾は苦労して訪れる値打ちがあります。内部が一面の真っ白の漆喰彫刻で飾られています。この城に合わせてパイプオルガンも真っ白です。

 
 聖アンナ教会とベルナンディン教会は隣同士に建っていて色合いも似ています。大聖堂の東南300mほど、旧市街の東端のようなところです。聖アンナ教会は小ぶりですが、ナポレオンがフランスに持って帰りたいと言ったという逸話が残されている美しい教会です。15世紀に建てられたゴシック様式ですが、ゴシックの威圧感は無く繊細さを感じる建物です。

 
 
 夜明けの門は、かつての城門の一つで、9つあった城門の中で唯一残されているものです。門の上部には小さなチャペルがあり、ちょうど礼拝の最中でした。一方、ゲディミナス城は、ヴィリニュス城の一部で、15世紀に丘の上に作られた要塞跡です。現在はゲデミナス塔が、台地の西の端、市街地を見下ろす所に建っています。ここからは、真下に大聖堂があり、数多くの協会の尖塔が建ち並ぶ市街地が一望です。

 ナポレオンが持って帰りたいといった聖アンナ教会ですが、エジプトのアブシンベル宮殿の移設に比べれば、移動する意思の量は少ないかもしれません。ただ、移動距離は1,000kmを越えるので海上輸送でしょうか。分解前に、管理番号を付けて、再組み立てを行う手法はアブシンベルと同じものが使えたかもしれません。このように、事前に再現に備えて準備ができる場合はいいのですが、地震などで崩れた文化財の修復は大変です。第二次大戦で破壊されたワルシャワ旧市街は、残っていた図面や記憶を基に建物の傷まで再現されたそうです。一方、熊本地震で崩れた石垣の修復では、コンピュータを使った補助システムが、修復に役立っています。崩れた石を写真に撮り、残されていた石垣の写真と照らし合わせて、どの位置に使われていた石であるかを知らせてくれるそうです。
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居倉の並ぶ吉井の居倉の館にある巨大な神棚は宙に浮いているようでした

2017-07-02 08:00:00 | 日本の町並み
 かつての交通の要所に、白漆喰の居倉造りの町並みが続いているのが佐賀県の塩田津でした。居倉造りは、収蔵庫として建てられる土蔵を、延焼を防ぐために住居として使ったもので、居倉が並ぶ町並みは重厚感があります。いくつかある、居倉の町並みの中から、今回は福岡県の吉井町を紹介します。

 
 
 吉井町は、福岡県の南東部、現在は、うきは市の一部となっています。最寄り駅は久大線の築後吉井駅で久留米から東へ26kmあまりで、居倉造りの町並みは駅の北東600~700mほどのところを東西に広がっています。吉井は日田街道(築後街道)の宿場町として、また付近の農産物の集散地として栄えました。現在残る居倉の連なる町並みは、江戸から明治にかけて大火を受けて自己防衛のために豪商が建てた名残のようです。現在日田街道は国道210号線となり、居倉の多くは、旧街道であった国道沿いに残されています。この国道は、さほど幅員は広くありませんが久留米と大分を結ぶ国道ゆえ大型車も通ります、川越ほどではありませんが、古い町並みに車は不似合いです。


 居倉の数は減りますが、国道から200mほど北に行くと倉敷の美観地区を思わせる南新川があり、この流れに沿って趣のある家並が広がります。これららの古民家群の中で、鏡田屋敷と居倉の館は公開されていて内部が見られます。また、t観光案内所になっている土蔵は食事もできましたが現在は閉店されたようです。

 
 
 鏡田屋敷は、正面は江戸後期に建てられ、明治になって建て増しをされて官舎として使われた建物です。急な階段があったり、綺麗な庭があったり、その生に井戸もありました、それにガイドのおばさま方のしゃべり口にも乗せられます。

 
 
 居倉の館は、明治に建てられ大正期に建て増しをされた銀行家の建物です。こちらも広い庭園や、その中に井戸があります。こちらの階段は急な箱階段でした。神棚のある部屋は2階まで吹き抜けで、1階の鴨居の位置に大きな神棚が祭られて居ました。神棚の下には、町の方が作ったという色とりどりの獅子頭が並んでいました。

 土蔵は、川沿いのから北へ少し入ったところ、かつての酒蔵を転用して観光案内所として使われているようで、お土産屋さんなどもあり、かつては食事もできました。上部を白漆喰で、下部をなまこ壁とし、まさしく絵にかいたような土蔵です。

 土蔵造りの主役は漆喰です。石灰を主原料とした壁材は、防火目的だけでなく、色々なメリットが見直されているようです。固まる時には炭酸ガスを吸収し、固まった後も電子顕微鏡レベルの無数の穴があって、壁が呼吸をするそうです。このため、湿度の調整や招集にも役立つようです。また、光センサなどを使った研究では、コンクリートなどに比べて、可視光に対しては反射率が高く、赤外線の放射率も高いとのことです。土蔵の中が、夏の暑いときにも涼しく感じるのはこのためのようです。
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ラトビア野外博物館は、派手さはありませんが、森の中の木造民家群は魅力です(ラトビア)

2017-06-25 08:00:00 | 世界の町並み
 スウェーデンの首都のストックホルムの広大な野外博物館がスカンセンでした。スウェーデン各地から集めた建物の博物館という性格だけでなく、店頭工芸の保存や動物園、遊園地としての性格も持っていました。スウェーデンからバルト海を渡ったバルト三国の一つのラトビアにも広大な敷地を持つ野外博物館があります。

 
 
 ラトビア野外博物館は、首都のリガの東北東10kmほど、ユグラ湖畔にあります。路線バスもあり、博物館の正面に停車しますが、始発のバス停や路線番号が解りません。筆者は、復路にはバスを利用できましたが、往路はトラムで行けるところまで行って1.5kmほど炎天下を歩きました。広さは87haですから東京ドームの18倍ほど、明治村よりちょっと狭いくらい、スカンセンの3倍近い面積です。とても短時間で全部を回るのは大変な広さです。ラトビアの各地から移築した建物が散在しているのはスカンセンと同じですが、建物は広大な森の中の木立に埋もれている感じです。江戸東京建物園の森林を、ぐっと深くして10倍の広さにしたといった様相です。

 
 
 
 これらの建物の中や前で糸紬や針仕事などの実演をしているのはスカンセンと似ていますが、こちらはもっと素朴な感じを受けます。スカンセンは町並み的なエリアと農家のエリアがありましたが、ラトビアは農家と教会です。移築された建物群ですが、博物館的ではなく、そこで生活が営まれている雰囲気がします。南ヨーロッパで見られるような石造りの建物は見当たらないのは民家が中心だからでしょうか、目に入るのはすべてが木の建物、もちろん教会も木造です。ゴシックの威圧的な石の塊である教会を見慣れた目には、「なんと優しい教会だろう」との印象を受けます。

 筆者がラトビアを訪問したのは15年ほど前で、この野外博物館の情報は黄色のガイドブックにもほとんど載っていず、ネット上にも情報はありませんでした。訪れるのに、随分と苦労をした覚えがあり、そのせいもあってか日本人の姿は皆無でした。現在では、情報も増えて、より楽にアクセス可能と思われます。世界遺産のリガの旧市街を見た後に、半日時間が取れれば、緑の中でのんびりするのもいいかもしれません。

 東京五輪まで3年ほどですが、「その頃にはAIが進んで通訳はいらないだろう」という意見と「まだまだ」との議論をしました。字面を単純翻訳するだけならAI翻訳で十分でしょうが、文化や背景は、まだまだ無理というのは筆者の意見です。ただ、多数の国の言語を、字面の翻訳でいいから早く実用化してほしいとも思います。英語圏を訪問する時には、なんとか英語でコミュニケーションができるので、目的地へのアクセスもなんとかなります。英語圏以外でもホテルなどでは、なんとか英語が通じますが、まちなかに出ると、身振り手振りの世界です。スマホで道案内を翻訳してくれれば、活動範囲がぐっと広がりそうです。世界の言語は多様ですから、コンピュータの持つ辞書が膨大になりそうですが。
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長崎街道の宿場町の塩田津は流通拠点としても栄えた名残の白壁の続く街並みです

2017-06-18 08:00:00 | 日本の町並み
 家屋の中に土蔵造りの内蔵と呼ばれる居住空間のある街並みが空き家県の増田でした。外部から見える町並みは、内蔵の鞘堂的なもので、白漆喰の土蔵造りはあまり見当たりません。一方、白漆喰の土蔵が住居として使われる居倉造りは、白い漆喰の家並が並ぶ町並みとなります。このような居倉造りの町並みの中から、今回は佐賀県の塩田津を紹介します。

 
 
 
 塩田津は、佐賀県嬉野市の一部で、嬉野温泉の東、武雄温泉の南に位置しますが温泉は湧いていないようです。ちょうど両温泉への道路が分岐するあたりになります。塩田津は、長崎街道の宿場町の一つですが、有明海に注ぐ塩田川の水運を利用した流通拠点としても栄えました。かつての物流拠点も、現在は佐世保線の武雄温泉駅か長崎本線の鹿島からバスということになりますが、かつての塩田には2つの鉄道がありました。一つは祐徳稲荷を起点として鹿島、塩田を経由して武雄温泉に至るもので、明治の末に開通しています。当初は馬車鉄道でしたが、後に蒸気機関車化され昭和に廃止されたようです。もう一つは、塩田と嬉野温泉を結ぶもので、大正末期に開通し電車が走りましたが、こちらも昭和初期に廃止されています。

 
 
 古い町並みが残るのは、嬉野市役所の西側に武雄温泉に延びる道路あり、その道路に沿った塩田川の支流の対岸になります。およそ300mほどの道の両側には、ずらりと白壁の土蔵造りのいえば並んでいます。街灯の支柱は建てられていますが、無電柱化により景色がすっきりしています。うだつの上がる町並みとして有名になった美濃関も無電柱化がなされ、景色も似ているように思います。ただ、美濃関の町並みは格子が目立つ茶色の世界で、塩田は白とこげ茶のの世界です。

 現在残る、居倉造りの町並みは、江戸時代からの豪商の住まいの名残で、奥に長い家屋の裏側は塩田川に面しているものも多いようです。その中の一つの西岡家は重文で、川に面した塀は道路側とは好対照の地路のモザイク模様でした。川に降りる階段のことをタナジと呼ぶそうですが、その名残の石段のそばには一羽のサギがとまっていました。

 
 
 街並みの北西側は、なだらかな里山があって、その麓にはいくつかのお寺が建っています。立傳寺は、街並みの東端あたり30段ほどの石段を上った先に本堂があり、16世紀末の創建だそうです。本応寺は町並みの中央あたりを、北西に少し入った里山の高台に建っています。やはり16世紀末の創建で、藩の本陣としても利用され、茶室のある書院が残されてます。山門の両側に立つ塩田石を使った仁王像は18世紀のもので、ちょっとコミカルな姿をしています。この塩田石というのは、塩田で40年ほど前まで掘られていた安山岩で、町並み交流集会所のそばに見本が置かれていました。この塩田石は、コンクリートの2倍の強度があるのだそうです。

 かつて塩田津を通っていたという馬車鉄道ですが、日本最初のものは1882年(明治15年)に新橋と日本橋との間に開通したのが最初です。レールの上を走る馬車は、摩擦が少ないので通常の馬車より大きな車両が使え、でこぼこも無いので乗り心地も良かったそうです。排気ガスを出さない環境にやさしいかもしれなかった乗り物でしたが、排ガスならぬ排泄物の始末が大変との理由もあって、廃止や電車に取り換えられたようです。現在でも観光地に行くと、馬車や牛車を見かけますが、移動手段としてはともかく、町の景色の一部として溶け込んでいるように思います。ただ、次の馬車が来るまでの時間を表示するバスロケならぬ馬車ロケは備えられてないでしょうが。
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ギザの三大ピラミッドは、砂漠にありますが、すぐそばまで市街地が迫ってきています(エジプト)

2017-06-11 08:00:00 | 世界遺産
 カソリックの頂点に君臨するのがローマ法王庁ですが、キリスト教が生まれるずっと昔にも宗教はありました。古代エジプトでは数々の宗教が生まれ、多くの神々が祭られ神殿が作られました。また、ファラオはその神々の神権を持つものとして権力を持っていました。エジプトのピラミッドは、かつてはファラオの墳墓という説が有力ですが、現在では諸説があり、中には、宇宙人が作ったという説まで飛び出しているようです。今回は、カイロ郊外のギーザの三大ピラミッド周辺を紹介します。今回も3度目の紹介で、22年も前の訪問でしたが、写真を増やし、消えそうな記憶をたどっての紹介です。

 
 ギザの三大ピラミッドは、カイロの中心街から西南西に13kmほど、ギザの市街地が砂漠に変わる所に建っています。スカイツリーや東京タワーが東京のどこからも見えるように、ピラミッドはカイロに市内からもカイロのビル群の上ににょっきりと顔を出しています。ただ、高さは140mほどなので、東京タワーと比べても半分以下なのですが。逆に、ピラミッドのそばからは、砂漠の端の向こうにカイロのビル群が林立しています。東京駅を起点で考えると、羽田空港あたりにピラミッドがある感じにで、意外と近くに巨大な石の塊があるんです。

 

 これだけ町並みに近いピラミッドですから、ピラミッドの近くにもホテルがあって、窓からピラミッドが見える客室もあって、これが売りのところもあるようです。当然これらの客室は、裏側より高く設定されていると思います。パッケージ旅行であった筆者は、運が無くって裏側でした。一方に廊下を寄せて、全部ピラミッドオ・フロントにできないのでしょうか。カナダのナイアガラでは、パッケージではないせいもあって、一流のホテルではありませんでしたが、全室がフォール・フロントで、部屋から滝のライトアップが楽しめました。

 このピラミッドの中でクフ王のものが最大で、中に入ることもできます。筆者の頃は人数制限はありませんでしたが、現在は午前と午後とで百数十人という制限らしいです。人の呼気でカビが発生するのを防止するそうですが、人数のカウントはかなり、いい加減とのことです。この内部空間は、背の低い(中腰でないと歩けない)トンネルが、かなりの傾斜で続き、かなり辛い上りです。そして、上りきっても何も無く、行った!ということだけです。閉所恐怖症や、腰痛のある方にはお勧めできません。内部に入るには別料金が必要なので、なんとはなしにボッタクリの感があります。

  
 三大ピラミッドには大スフィンクスがつきもので、観光写真にはピラミッドの前景にスフィンクスが写っています。このスフィンクス全長は70m以上、幅が6mで高さが20mある一枚岩から掘り出された彫像としては世界最大の像ですが、頭だけは別の場所から運ばれてきた石灰岩なのだそうです。石灰岩の丘を掘り下げて作られたために、像の周りは堀のような窪地が取り囲んでいます。このような地形のせいか、20世紀初頭までは首から下が砂に埋もれていたそうで、幕末にヨーロッパに行った遣欧使節団が立ち寄った時の写真でも侍たちはスフィンクスの胸あたりに並んで立っています。実は、この写真、TVの何かの番組で放映され、これが筆者のエジプト行のきっかけでした。

 クフ王のピラミッドは、底辺が260m、高さが140mほどで、質量は600~700万トンと推定されています。ニュートンの万有引力の理論に従えば、2つの物体の間の引力は、それぞれの質量をかけたものを物体間の距離で割ったものです。地球の質量は5.972 × 1024kg、半径は6千kmと推定されていますから、ごく大雑把に見積もってピラミッドのそばでは、地球の引力の1/(10の11乗)程度の横向きの力が働いていることになります。ただ、この程度の力では最新のIT技術を駆使しても測定は難しいんでしょうね。
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増田の内蔵は、鞘堂のように家の中に蔵がすっぽり収まっていて、中には茶室までありました

2017-06-04 08:00:00 | 日本の町並み
 大陸への窓口として大和朝廷の出先機関として作られたのが大宰府でした。大宰府への転勤は都から遠く離れた僻地ということもあり、はっきり言って左遷でした。菅原道真も藤原氏との権力闘争に負けて大宰府に左遷されましたが、道真は大宰府政庁には一度も登庁しなかったそうです。一方、北の方で藤原氏(奥州藤原氏)の権力が確立したのが後三年の役でした。奥羽本線には古戦場の近くの、横手駅の北に後三年という駅も残ります。今回は、その後三年の古戦場に近い横手市の増田の町並みを紹介します。

 
 
 
 
 増田は、奥羽本線の湯沢駅と横手駅との中間にある十文字駅から東にバスで5分ほどの場所で、現在は横手市の一部ですが、合併前は独立の町でした。江戸時代から流通の拠点として栄え、14世紀には17世紀初頭までは城もあったようです。明治以降は、流通拠点としてだけでなく酒造業が盛んになりました。妻入りの間口の狭い家並が続きますが、奥行きはその10倍にも達します。京都の町家は「うなぎの寝床」と称されますが、遥かにそれを超越しているようです。100mほどの間隔で南北に並行する道路がありますが、その両側に面している家も珍しくありません。その中に石田理吉家があり、秋田でも珍しい木造三階建が塀の向こうににょっきりと建っています。貴重な材木をふんだんに使った贅沢な家屋ですが、三界にした理由は、三階から見える増田の花火大会で客人をもてなすためであったとか。


 
 
 増田の特徴は、この奥に長い母屋の中に、内蔵と呼ばれる土蔵があることです。もちろん家屋の中にある蔵ですから、土足禁止で、什器や書物の保管のためや居住空間として使われました。なかには、蔵の中に茶室が作られている蔵もあります。この茶室のある蔵の一つは佐藤養助漆蔵資料館で、こちらでは秋田名物の稲庭うどんを食べることもできます。このような内蔵のある街並みが他にない特徴のため重要伝統的建物群保存地区(重伝建)に指定されています。

 
 変わったところでは、町並みから少し外れたところに増田まんが美術館があります。現在はリニューアルのために閉館中ですが、田んぼの中の特異な形の建物は、ちょっと寄り道をして建物の外観だけでも見る価値がありそうです。この美術館は、増田が釣りキチ三平の作者の矢口高雄の故郷だからなのだそうです。


 増田の花火大会は成瀬川のの河原で9月中旬に開催されるようです。二尺玉の早打ちで迫力があるのが魅力だそうです。最近の花火大会は、音楽に合わせるなど凝った演出が盛んになり、人手で打ち上げるのが難しくなり、現在では、およそ20%くらいの花火大会がコンピュータ制御になっているそうです。コンピュータ制御になって、音楽に合わせて安くはなりましたが、事前の準備が、従来の3倍もかかるのだそうです。それは、コンピュータと打ち上げ筒との間を1本1本線で結ばなければならず、その数が膨大で、チェックも大変だとか。ただ、微妙なタイミングの調整は職人さんの感なのだそうです。
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世界でもっとも古い野外博物館のスカンセンは動的な展示も見ごたえです(スウェーデン)

2017-05-28 08:00:00 | 世界の町並み
 順天では、周辺を回るバスツアーで、映画村やお寺に加えて民俗村もコースに入っていました。韓国では、ソウルの南の水原郊外にも民俗村があって、村内では結婚式の行列などいろんなイベントがありました。日本の各地にも民俗資料館的な施設を抑見受けますが、単に昔の道具を集めたり、昔の様子を図示していることが多く、資料的な意味合いが強いだけの感じを受けます。一方、外国の同類の施設は、色んな実演などを交えて、入場者を楽しませる工夫がなされている場合が多いようです。スウェーデンのストックホルム郊外のスカンセンは民俗村とは謳っていませんが、伝統的な住居やモノづくりの実演が楽しめます。

 スカンセンは、ストックヒルムの中心街の東2kmほどにあるユールゴーデン島にある野外博物館で、スウェーデン各地の建物が緑豊かな園内に散在しています。建物の中では、鍛冶屋や陶芸などの伝統的な手仕事の実演もされていて、動的な展示にも厚みがあります。30万㎡という広さは、東京ドームの6倍以上、バチカン市国の2/3ほどということになります。

 
 
 この広い敷地にある伝統建築は、18世紀から20世紀にかけて建てられた建物がスウェーデン各地から160棟ほども移築されています。単純に建物を並べているだけではなく、その建物が元あった環境が復元されているようで、周りには農園や森林が広がります。筆者は気が付きませんでしたが、北の方の建物の周りには、北の方の花々を、南には南の花々が植えられているそうです。農家の建物が多く、ほとんどが木造で、民家にしては300年もよく持ったなってかんじです。寒い地方では、きの保存性が良いのでしょうか。

 
 
 スウェーデンの伝統的な手仕事の実演は、メインエントランスを入って、エスカレータを上がったところに集中しています。数多くの店屋が並ぶエリアに、ガラス工房、陶芸、パン屋や鍛冶屋などが並んでします。伝統建築の中で、伝統衣装を着た人たちが実演を行っています。これらの工房で作られたものは、お土産で売られたり、パンなどはその場で食べることもできます。そういう意味で、これらの工房で実演をしているたちは、マニュアルで動いているのではなく、本物の職人さんたちのようです。

 
  園は少し高台になっているので、ストックホルムの眺めが良く、園内にはミニトレインも走っています。筆者は、行き損ねたのですがスカンジナビアの動物を集めた動物園もあるようです。子供も大人も一日楽しめるテーマパークのように思いました。このテーマパークは、どこかのランドのようにレプリカではなく、本物の家や工房が並んでいるのでお値打ちではないでしょうか。

 スカンセンに行くと、木造の古い家の丈夫さに驚きますが、木というのは切った時よりも、切った後に強度が増し、その後はだんだん弱くなるのだそうです。例えば、ヒノキの場合は、切った後50~100年くらいに最強になり、その後弱くなりますが、1,000年経っても元の強度以上なのだそうです。建物を建てる時には、構造計算をして、使用する木材を選ぶのですが、通常は切り倒された木材を使って測定します。ところが、最近のIT技術の発展で、生きている木にセンサーと取り付けて、木の中を伝わる音波の速度を測定して、強度を図ることができるそうです。民家のための木材の調達では、そこまではやらないでしょうが、大規模な木造建築では、事前に強度が分かれば、余分な木を切らなくて済むというメリットがあるのかもしれません。
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大宰府政庁跡の周辺には、過去から現代につながる見どころが沢山です

2017-05-21 08:00:00 | 日本の町並み
 砂丘、稲荷そして祭りと日本の三大XXを続けましたが、今回はさらにその続きで日本三大史跡の一つである大宰府の周辺を紹介します。大宰府の東にある太宰府天満宮は、三大天神の一つにもなっています。

 
 
 大宰府跡は、福岡市の南東10kmほど、西鉄の大牟田線の都府楼前駅の東900m、大宰府線の西鉄五条駅の西1.2kmほどに位置します。大宰府は6~7世紀に大和政庁の出先機関として置かれ、現在は政庁跡は南北200m、東西100mほどの原っぱに石柱や礎石などが残るのみです。政庁跡はこの程度ですが、かつては政庁の南側には2.5km四方ほどの条坊製の町並みが広がっていたそうです。

 
 政庁跡の東には、観世音寺と戒壇院とがあります。戒壇院は、もとは観世音寺の西戒壇で、日本三大戒壇の一つになっているそうです。観世音寺側の門のそばには、鑑真が唐から請来したという天然記念物の菩提樹があります。

 
 
一方の、観世音寺は、7世紀に創建の九州を代表する古刹です。梵鐘が国宝に指定されていますが、宝蔵の中央に立つ三体の重文像に存在感があります。像高が5mほどの馬頭観音、不空羂索観音そして十一面観音で、あたりを圧しています。

 さらに、東に行くと菅原道真を祭る太宰府天満宮があります。京都の北野天満宮と共に全国の天神様の総元締めになっています。境内には、道真が大宰府に左遷されたときに、後を追って京都から飛んできたと言われる飛梅があります。大宰府に赴任の前に、自邸の梅のそばで歌った、「東風ふかば、にほひおこせよ梅の花、あるじなしとて、春な忘れそ」はあまりにも有名です。

 
 天満宮を頂点にした三角形の他の頂点には、光明禅寺と九州国立博物館(九博)があります。光明禅寺は13世紀に創建され、江戸時代には天満宮に仕える人たちの菩提寺でした。苔寺とも呼ばれ、苔むした庭は美しく、特に秋の紅葉の頃は、京都にも負けない景色がひろがります。
 一方九博は、美術系の博物館の性格を持つ東博、京博、奈良博に対して歴史系の博物館として位置づけられています。位置づけだけでなく、曲線を多用した建物は、他の博物館とは一味違った博物館となっています。

 観世音寺にある馬頭観音とう仏像は、なじみが少ない仏像の一つかもしれません。観音は信者の様々な願いを聞きとどけて、さまざまに姿を変えて出現し、これを変化観音といわれています。馬頭観音もその一つで、、千手観音、十一面観音などなどがあります。聞きとどけると言えば、現在ではスマホに向かって話せば、話す内容を認識してくれます。筆者が就職したころは、大型コンピュータを使い、特定の話者が事前に録音した言葉の中から内容を認識するのが精いっぱいで、それもオフラインでの処理でした。その後のコンピュータの処理能力の向上と、ソフト技術の発展で現在のように手軽に使えるようになりました。そこには、スマホの販売者ではなく、陰でこれらの技術を支えた技術者の存在を忘れてはならないと思います。
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