世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

朝ドラで知名度が上がった竹原ですが放送から3年後には静かな町に戻っていました

2018-01-21 08:00:00 | 日本の町並み
 映画のロケやCMのロケで有名になった港町が瀬戸内海の御手洗地区でした。足の便が良くないせいか観光客の弊害はあまり残っていないようでした。この御手洗への足の一つが竹原港からの高速船ですが、今回はこの竹原を中心に紹介します。

 竹原は、広島県の中央で海に面した人口3万人足らず、三原から伸びる呉線で広島方向に40分ほど市です。安芸の小京都の町並みは、竹原駅の北東方向に歩いて15分ほどに広がっています。御手洗がCMロケで全国に知られたように、竹原はNHK朝ドラの「マッサン」のモデルとなった竹鶴酒造があり、放映後は観光客が増えたそうです。1度目の訪問は15年前、2度目は放映から3年後で、落ち着いた街並みを散歩できました。

 
 古い町並みは、南北に流れる本川の左岸と西方寺などがある東側の小高い丘に挟まれた、東西200m、南北500mほどの所で、中心となる本通は石畳が敷かれ無電柱化されています。この町並みの南西の入り口近くの本川沿いに、1990年に建てられた頼山陽の像があります。山陽自身は京都で生まれましたが、父の故郷が竹原ということで縁だそうです。

 
 
 
 
 
 
 本通の格子の並ぶ家並は江戸から明治にかけて建てられた商家で、本通と交差する細井路地にも数多くの古民家が残っています。古い郵便ポストが再現されていたり、用水桶があったりで、町並みの風景を保存しようといった気持ちが出ているように思います。2回目の訪問の日の翌日は、竹の切り株を通りに並べて、ろうそくの明かりをともす憧憬の路というお祭りの日だったようです。旧笠井邸にはその準備のために数多くの竹が準備されていました。また、この旧笠井邸は、本通の南の突き当りに建っているため、玄関を通して見える通りの風景は絵になります。

 
 
 この町並みを俯瞰できるのが、小高い丘を石段で上った先に京都の清水寺を模したという舞台造りの西方寺の普明閣です。ただ、上からの眺めは、手前に瓦屋根の町並みが望めますが、取り立てて風情といったものは、さほど感じられないようです。このほかにもお寺や神社がこの丘を取り囲んでいます。

 竹筒に明かりをともすお祭りを見られなかったのは、計画時のスケジュールミスで残念ですが、明かりと竹と聞くとエジソンを思い出します。エジソンが白熱電球を開発するときに、フィラメントの寿命が短くて困った挙句、使われたのが竹ひごを炭化したもの。この竹には、京都の石清水八幡宮近くの竹が使われ、その場所には記念碑も建っていました。竹の繊維の丈夫さが長寿命を生んだのでしょうが、この丈夫さで困ることもあるようです。最近は竹を使う場面が少なくなり、竹藪が伐採されないで放置され、巨大化した竹は硬くてチェーンソーでも切るのが難しくなるのだそうです。
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プラハ城の丘から眺める百塔の町は赤い屋根の連なりも印象的です(チェコ)

2018-01-14 08:00:00 | 世界遺産
 破壊された町並みを、壁の傷まで復元したのがワルシャワ旧市街でした。ワルシャワには、コペルニクス、ショパンそれにキュリー夫人に関連する施設も集中しています。ショパンは、生前にワルシャワに戻ることはありませんでしたが、遺言によって彼の心臓はワルシャワに持ち帰られ聖十字架教会に収められています。音楽家には母国を離れて活躍する人が多く、一時期は亡命する音楽家も数多くいたように思います。母国から離れて活躍した音楽家の中で、ドボルザークは、アメリカの潤沢な資金力で呼び寄せられた音楽家の一人です。ただ、ドボルザークの場合は、アメリカで一生を終えることは無く、晩年に故郷のプラハに戻っています。今回は、そのプラハの歴史地区を紹介します。

 プラハは、チェコ共和国の首都で、チェコの中ではやや北西よりの内陸都市です。ヴルタヴァ(モルダウ)川の両岸の旧市街、新市街が世界遺産に登録されています。ヴルタヴァ川が大きく東にこぶのように突き出て蛇行している南側が旧市街です。プラハ中央駅も旧市街の東端にあり、アールヌーボー風の芸術的な建物です。この中央駅からカレル橋の間に主な観光ポイントが集中しています。

 
 
 
 中央駅の北西500mほどにあるのが火薬塔のある広場で、この火薬塔は15世紀頃に旧市街の城門として建てられたそうです。この塔の隣には市民会館があり、ファサードの装飾が美しいアールヌーボーの建物です。そこから西に500mほど行くと旧市街広場で、中央にヤン・フスの像が立ち、広場を囲んで色んな建物があります。みんなが見上げるのが天文時計で、毎正時には文字盤の上の窓が開いて、奥を人形が行進しますが、さほどのことはありません。

 
 
 さらに西に500mほど行くとヴルタヴァ川に出ます。プラハ到着の夕食をこのヴルタヴァ川河畔で食べましたが、川面を見ていると、どこからかスメタナの「わが祖国」の一節が聞こえてきたように感じました。ヴルタヴァ川に架かるのが、有名なカレル橋で、14世紀に作られた石橋は、できた当時にはプラハの東西を結ぶ唯一の橋だったそうです。

 
 
 
 
 
 橋を渡って丘を上るとプラハ城です。お城の周りには、聖ヴィート大聖堂やイジー聖堂それにロレッタ教会があり内部も見学ができます。この丘や隣のペトシーンの丘からは、ヴォルタヴァ川を中央にプラハの市街が望めます。百塔の町と言われるだけあり、多くの塔が建っていますが、むしろ赤い屋根の連続する町並みの風景の方が印象的です。

 チェコと聞くと、ソ連による支配が続いた東欧圏のイメージから、後進国のようなイメージが強いのですが、戦前から優れた工業国の一つです。1930年代には世界第7位の工業国だったそうで、戦後のビロード革命後は高い経済成長を果たしています。AIの成果の一つがロボットですが、このロボットという言葉も、1920年にチェコの作家が造語したものです。先日、「プラハのモーツアルト」という題名の映画を見ましたが、全編がプラハでのロケだったそうです。150年ほども前のプラハといった画面ですが、現在のプラハの町並みのロケ画面に違和感はありません。再開発と称して、すぐに町並みを壊してしまう国と違って、古いものを大切にする文化のせいでしょうか。
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バスも船も不便なダイヤですが、着いた御手洗地区には時間が止まったような街並みがありました

2018-01-07 08:00:00 | 日本の町並み
 国東半島の付け根に城下町の名残や金山で築いた財で建てられた的山荘、それに鏝絵が描かれた民家が散在するのが日出でした。この的山荘は浅見光彦シリーズの「姫島殺人事件」のロケ地になりました。浅見シリーズのロケ地は全国に広がっていますが、その中の「はちまん」のロケ地の一つが御手洗地区です。また、最近ではオランジーナのCMのロケ地としても使われています。今回は、重伝建にも指定されている御手洗地区を紹介します。

 
 御手洗は、広島県呉市豊町御手洗と呉市の一部なのですが、呉からはるか離れた芸予諸島の一つ大崎下島の南東端に位置します。島々をつなぐ橋ができて、広島を起点に呉を経由する路線バスの「とびしまライナー」が走り、呉から約1時間半ですが、午前と午後に各2本とかなり不便です。一方、船の方は呉線の竹原から午前に2便と午後に4便と出ていて、40分で到達しとかなり俊足です。ところが午前便と午後便との間は4時間ほど開いていて、どちらのダイヤも観光客用ではなく生活路線といった感じです。

 古い街並みは、北と東が海に面した東西200m、南北300mほどのこじんまりとした集落で、時間が止まったようにひっそりとたたずんでいます。以前に、同じ瀬戸内海の塩飽本島の笠島地区を紹介しましたが、同じ汐待港のせいか似たような感じがします。

 
 
 
 御手洗港から少し西に行くと海寄りに駐車場があり、その前に観光協会があって散歩のためのマップがもらえます。そこから東南東に路地を入っていくと常盤町とおりで格子や板壁、それに土蔵造の古民家が続きます。通りの途中には、伊能忠敬が測量の途中に宿泊したという家も残っています。民家の壁には竹筒の花入れに花が生けられ俳句が添えられているところもあります。

 

 しばらく行くと右手にオリーブグリーンに塗られた下見板張りの床屋さんが現れます。「どこかで見たような??」風景は、オランジーナのCMのロケ現場です。通りを挟んだ郵便局の前には、真っ赤な丸いポストが良く似合います。右に曲がってすぐに若胡子屋敷跡があります。風待ち港の名残の色街の遺構である茶屋の跡です。折り返して、郵便局を通り過ぎると左手に時計屋さん、こちらもCMでみたような。さらに行くと乙女座跡は、昭和初期の映画館の遺構です。

 
 時計屋の前を南に行くと満舟寺で加藤清正が築いたと言われる石垣があります。さらに南に突き当りを海岸に出ると、住吉神社で、その北側には江戸末期に建てられ台風で倒壊したものを1992年に再建された高灯篭があります。ここから海沿いに岬を回って御手洗港に戻ります。途中には江戸時代の船宿の名残を残す町家があり、この道はオランジーナ先生が自転車で走り抜けた道です。

 御手洗はオランジーナのCMが流れた後に観光客がドッと押し寄せたそうです。筆者の訪問した時は、そのほとぼりも冷めて、通りで人と出会うことはほとんどありませんでした。最近はTVやネットで話題になると、とんでもない場所に観光客が津波のように押し寄せ、その辺をかき回し、去った後は、荒れた街並みという現象をよく見かけます。御手洗は、変なお土産屋などができなかったので良かったかなと思います。どうも、我が国はブームに弱いようで、音声だけで使う場合はガラケーの方が安くて使い勝手が良いのに、スマホを持たされます、それもiの付く機種が多いようです。キャリアが作ったブームにそそのかされて、必要でもないものを高い使用料で持たされているように思ってなりません。
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アマランテはタメガ川沿いの小さなエリアの中に絵に描いたような風景がありました(ポルトガル)

2017-12-17 08:00:00 | 世界の町並み
 町の中に川が流れ絵に描いたような街並みが広がるのがドイツ北部のリューネブルクでした。ヨーロッパの町並みには、安野光雅さんの絵本に出て来るような風景が広がる町並みが沢山ありますが、こんかいはそれらの中からポルトガルのアマランテを紹介します。

 
 
 アマランテは、ポルトガル北部、ポルトガルの第二の都市であるポルトの東40kmほどの内陸にある町で,す。人口は5.6万人程度なので、羽村市や茅野市くらいの規模でしょうか。ポルトのバスターミナルから1時間程度、途中は緑の田園地帯を走ります。


 タメガ川に架かる石橋のPonte de Sao Goncaloの周辺の数百メートルほどに教会などが建つ町の中心です。アズレージョのポルトガルらしく、道路には陶板がはめ込まれた標識のようなものもありました。そして絵のような風景も、この辺りになり、またこのあたりの散歩だけで十分のようにも思います。筆者も、世界遺産の町のギマランイスを訪れるバスの途中下車でちょい寄りをしただけでした。この程度でも、町の美しさは感じられ、もっと時間をかけスケッチブック片手に歩き回れば、違った良さが見つかるかもしれません。

  ポルトを三角形の頂点とすれば、世界遺産のギマランイスは底辺の中点、そして底辺の両端がアマランテとボンジェスス教会のあるブラガになります。ポルトから1泊2日で回るのに程よい町々です。

 絵のような風景を描くときに必要となるのが絵具ですが、この絵具に使われる顔料には人体に有害な金属を含むものがあることは意外と知られていないかもしれません。カドミュウム、鉛、クロム、水銀などですが、有害なものほどいい色だったりします。一方、IT分野でも有毒な金属は使われていて、代表的なものは半導体として使われるガリウムヒ素ではないでしょうか。高速動作が必要なトランジスタや赤外発光ダイオードの材料として無くてはならない存在です。また、最近はニッケル水素電池に取って代わられつつありますが、大量に使われたのがニカド電池のカ ドミュウムです。人体には有害ですが、自然界では独自の特性を持った金属なのですね。
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全国的に地名はあまり知られていませんが日出にはかつての城下町の名残が残されています

2017-12-10 08:00:00 | 日本の町並み
 伊豆の長八の鏝絵の美術館があり、なまこ壁の町並みが続くのが西伊豆の松崎でした。この鏝絵は全国の1/3が大分県に集中していて、これは伊豆の長八に習った鏝絵を故郷の大分に戻って広めた青柳鯉市の影響です。拠点としたのが日出で今回は、民家の壁に鏝絵の残る土野町並みを紹介します。

 
 

 日出町は、大分県の中部、国東半島の南の付け根当たり、別府湾の北西端に位置します。JRに日出駅がありますが、鏝絵や日出城跡など、町の中心は隣の駅の暘谷駅の南の600m、南北300mほどに広がります。この駅名は日出城の別名の暘谷城に由来するもので、三代藩主が中国の古書に因んで命名したそうです。この日出城は明治の廃城令で売りに出され二つの櫓を除いて壊されてしまいました。現在は、この櫓が移築復元され、城跡には小学校が建ち、その周りに石垣が残るのみです。城跡からは、別府湾の眺めが綺麗です。

 
 
 城跡には、郷土が生んだ儒学者の帆足万里の像が立ち豊後の三賢人の一人と言われているようですが、全国的にはあまり知られてはいないようです。この帆足万里の記念館としても一時期使われたのが、藩校の致道館の建物です。門と家屋全体が残され、現存の藩校の遺構としては大分県唯一です。

 
 日出城跡の東には、金山開発で富を得た成清博愛が建てた的山荘(てきざんそう)があり、現在は重要文化財に指定され料亭として使われています。的山というのは成清博愛の雅号で鉱山開発で山を的てたいの気持ちを表すものだそうです。別府湾を眺めながら城下が令などの料理が味わえるのだそうです。

 
 鏝絵のある民家は、的山荘の東北寄りで町中にうずもれてしまっていて、見落としそうになります。筆者が見つけたのはウサギの絵とカレイの絵で、いつごろに作成されたものかは不明です。普通の民家の妻部の壁に何げなく描かれているのがいいのかもしれません。

 成清博愛は数々の鉱山開発でしっぱいし、最後にたどり着いた馬上金山で的を射たそうです。金山というと、2020年の東京五輪の金メダルの金は馬上金山のものではなく、都市鉱山から採取するようです。パソコンやスマホやケータイで買い替えた後に廃棄された古い機体から金を抽出するのだそうですが、これが尋常な量ではなく、現用のIT機器までを含めると金では世界の埋蔵量の16%、銀に至っては22%にもなるのだそうです。現用の機器で使われる貴金属はともかく、買い替えによる廃棄はあまりにも無駄ではないでしょうか。使わない機能が増えているだけの新しいスマホへの買い替えをあおるキャリアに踊らされるのは止めにしては。
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執念で復刻させた建物群がある旧市街の他にもワルシャワは見どころ一杯です(ポーランド)

2017-12-03 08:00:00 | 世界遺産
 チェスキークルムロフは、戦後に住んでいた人が立ち去って廃墟同然になっていましたが、かえってそれが町を冷凍保存状態にして、現在のように古い街並みの残る観光地になりました。一方、第2次大戦の戦火によって廃墟になり、元の町並みを力ずくで復活させたのがポーランドの使徒であるワルシャワ旧市街です。今回は、ワルシャワの市街地を中心に紹介します。

 
 
 
 
 
 
 
 
 ワルシャワはポーランドのほぼ中央やや東寄りに位置し、旧市街が世界遺産に登録されています。旧市街は、中央駅の北2kmほど、ビスワ川の左岸に南北400m、東西200mほどの楕円の地域です。現在のワルシャワの旧市街は、戦火によって破壊された町並みを、古い写真や市民の記憶を基に、建物のひび割れまでも忠実に再現したとされています。ただ、そこまでやるか、とその執念に恐ろしさすら感じます。旧市街の中心は、南端に位置する旧王宮で13世紀に侯爵邸として作られた後、首都となった後は行政府などが置かれました。第2次大戦で破壊され1970年代に再建された象徴的な建物です。そこから北の旧市街広場への途中には聖マルティン教会、聖ヨハネ大司教座そして聖母教会と教会が集中しています。さらに旧市街の北端にはバルバカンという要塞の遺跡があります。壁に門がありますが、エストニアのタリンにある「ふとっちょマルガリータ」と似ています。

 世界遺産の指定外ですが、中央駅から旧市街へ通じるクラクフ通り沿いにも見どころが沢山あります。ただ、筆者はバルト三国からの帰路に1泊のみ、それも午後4時過ぎに到着して夜までという滞在であまり紹介できません。ポーランドを代表する有名人と言えば、コペルニクス、ショパンそしてキュリー夫人でしょうか。これらの有名人に関連のある施設もこの通り沿いにありますが、写真は撮れていません。

 
 
 コペルニクスの像は撮れませんでしたが、旧ラジヴィウ家の宮殿の前のユゼフ・ポニャトフスキ大公の像とアダム・ミツキェヴィチの像は撮ることができました。ユゼフ・ポニャトフスキ大公はナポレオン軍に見方をしたポーランドの軍人で、後方に建つのは旧ラジヴィウ宮殿で現在は大統領官邸になっています。一方、アダム・ミツキェヴィチはポーランドを代表するロマン派の詩人だそうです。銅像にもなっていますが、我が国ではあまり知られていないですね。
 通りの南端あたりには、旧ソ連時代にスターリンの指令で建てられた文化科学宮殿が建っています。高さが237mある構想建築で、現在は映画館やオフィスが入居しているそうです。いかにも威圧的な建物ですが、目立つ建物でもあるようです。高層建築ではありませんが、ルーマニアの首都ブカレストにチャウチェスクが建てた国民の館にも似ているように思います。権力を誇示する建物は、このような形になるのかもしれません。

 ショパンのピアノ曲の一部は、弾くピアノが悪いと奏者の指を痛めると言われています。それだけ、超絶技巧を必要とするということでしょうか。ピアニストにとって、指の訓練は必要不可欠で、その前提で、演奏するうえでの解釈が生まれます。極論すれば、指の鍛錬は必要悪で、コンピュータによる自動演奏が進めば、この苦痛から解放され、ピアニストは曲の解釈に専念できる、とも言われています。さらに、現在のピアノ曲は、人間の10本の指で演奏する前提で作曲されますが、この前提からも自由になるかもしれません。ショパンは自動ピアノでの演奏を前提とした場合は、どんな曲を作曲したでしょうか。
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町中になまこ壁の土蔵造りの家並が続く松崎ですが夕焼けも見事です

2017-11-26 08:00:00 | 日本の町並み
 市街地の中心から、東や北や南に行くと明治の校舎や海蝕洞窟などがあるのが松崎ですが、松崎を有名にしているのは鏝絵に多くの作品を残した伊豆の長八です。今回は、長八美術館のある松崎の中心部、なまこ壁の続く街並みを中心に紹介します。


 松崎町の中心部は東西400m、南北600mほどの範囲で、西側は相模湾に面し、対岸は御前崎になります。伊豆の西海岸は、相模湾に沈む夕日の名所で、条件が良ければ、空も海もオレンジ色に輝きます。この夕焼けは、雲の無い快晴よりもオレンジ色が反映する雲がある方が、見栄えがするように思います。

 
 
 
 
 
 さて、伊豆の長八美術館ですが、市街地の南に流れる那賀川を越えた南端あたりにあります。真っ白で左右対称の建物は、どこか神殿風というか、異質な感じがします。内部は2階建てで、長八の」作品が数多く陳列され、細かな部分まで作り込まれているので、会場には虫メガネが常備されています。隣には、カサ・エストレリータというギャラリーがあり、宇宙をイメージしたという建物も、なまこ壁の町並みには、ちょっと異質です。
 市街地は、この長八美術館を南西端とする500m四方ほどのエリアで、神社やお寺、それになまこ壁の古い町並みが残っています。神社は伊那上神社と伊那下神社と上下が少し離れて建っている神社があり、どちらもウサギに縁があるようで境内にウサギの像が置かれてありました。伊那上神社の奥の圓通寺にはサルスベリが咲き、伊那下神社の隣の浄泉寺の楼門は、なまこ壁の家並とおもしろい対比でした。また、夕日の前景となっている弁天島には厳島神社があります。この弁天島は、かつては島だったのですが、河川の工事で現在は陸続きになっています。

 
 
 
 浄泉寺に通じる通りは、なまこ壁通りと呼ばれていて、なまこ壁の大きな土蔵が連なっています。なまこ壁通りに近い観光案内所の隣の近藤平三郎生家も趣のあるなまこ壁の土蔵造り、そして観光案内所のの前の通りを西に行くと文邸で、通りを挟んで北側には旅館がありどれも見事ななまこ壁です。文邸のそばには足湯があって、散歩に着かれた足にはありがたい施設です。

 
 
 さらに、那賀川を北に渡った所には駿河屋と中瀬邸が並んでいます。中瀬邸は内部を見ることもでき、明治の商家の様子がうかがえます。一方の駿河屋は、川の石垣の上になまこ壁の塀があり、いい感じの景色を作っています。

 夕焼けが赤いのは、太陽光が横から射すことで地球の大気を長く通り、散乱されにくい赤が残るためです。赤色というと、それまでは発光ダイオード(LED)を思い起こします。20年ほど前まではLEDは赤色しか実用化されておらず、現在の照明用のLEDは青色LEDが実用化されて初めて可能になりました。この特許権を巡って争いがあり、もと研究者の一人として、研究者の地位向上に多少効果があったことは認めます。しかし、彼の言動には不愉快なところが多いのです。企業は研究ができる環境(人、モノ、金)を準備して研究を行い、失敗のリスクも負担します。企業での研究は、雇用契約の下で行われ、これらのリスクは企業が負担する代わりに、特許権は企業の所有となることが多いのです。彼は、そのような雇用契約にサインをしたのですから、裁判で和解金を受け取ったこと自体契約違反です。そのような雇用契約が嫌なら、他の企業に入るか、個人でリスク負担をして研究するかです。失敗したときは企業が負担して、うまくいけば独り占めは、あまりに虫が良すぎます。外国人の役員には、成功したのは自分の成果で、失敗は社員のせいとのたまう輩が多いのですが、彼の性格に合った風土に行ったのは正解かもしれません。
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観光都市では無さそうなリューネブルクですが、絵本のような街並みは訪れる価値十分です(ドイツ)

2017-11-19 08:00:00 | 世界の町並み
 中国江南地方、蘇州郊外の同里は、水郷らしい風景が広がっていました。この風景は運河の存在が大きな影響を与えています。陸上交通が貧弱な時代には、船による輸送が楽で、このために川に面した都市が発展したようです。自然の川の不足部分は運河が補い、江南地方と北京とを結ぶ京杭大運河は7世紀に作られ総延長が2,500kmもあります。世界遺産に登録されている運河もあり、カナダのリドー運河、フランスのミディ運河です。今回は、特産物の塩を運ぶために下流に運河が作られ、町中には自然の川が絵本のような風景を醸し出すリュネブルクを紹介します。

 
 リューネブルクは、ドイツ北部、ハンブルグの南東50kmほどにある人口7万人余りの都市です。かつて岩塩はリューネブルクから陸路で北にある港町のリューベックまで運ばれました。このリュネブルクとリューベックを結ぶルートは、現在では塩街道と呼ばれ観光地化されています。しかし、馬などで運ぶ陸路ではコストがかかるため、14世紀にリューベックとエルベ川をつなぐ運河が作られました。リューネブルクのイルメナワ川からエルベ川を通り、運河経由でリューベックまで船で運ばれるようになったそうです。塩を運んだ船は、帰りにはリューベックで鰊を積んできたそうで、往復で荷物があって効率的だったんですね。この積み荷の塩や鰊の積み下ろしに使われた18世紀に設置された木製のクレーンが残っています。クレーンのそばには、鰊の貯蔵庫も残されています。

 

 リューネブルクには中心駅が2つあって、道を挟んで東西の駅が並んでいます。メインの駅は東駅で、西駅はローカル列車が停車するだけで、駅の機能も東駅に集約されています。旧市街は駅の西側に1km四方ほどの範囲で広がっていて、イルメナワ川は、駅と市街地の間を南北に流れています。木製クレーンは、川の東岸にあり、その上流には川が二股に分かれ小さな島があって、小さな滝があります。

 
 
 
 
 
 
 
 
 街中には、聖ニコライ教会、市庁舎それに聖ヨハニス教会などの観光ポイントがありますが、町全体が絵本に出てくるような風景です。安野光雅さんの絵本に出てくるような、取り立てて有名な建物などがあるわけでは無いのですが、気持ちがゆったりする空気が流れています。ドイツには重伝建というような指定は無いでしょうが、そのような感じです。ただ、日本との違いは、日本の重伝建地区のほとんどは、開発に取り残されて、やむなく古民家が残ったといった印象ですが、ヨーロッパの町並みでは、現役として生きている感じがします。建物の構造の違いもあるのでしょうが、日本の住居は再開発の名のもとに、いとも簡単に破壊されてしまうのは、デヴェロッパーと銀行の悪だくみのように思います。
 リューネブルクの特産品であった岩塩はハロゲン化鉱物の代表格ですが、ハロゲン化物と聞くとすぐに思いつくのがハロゲン化銀です。ハロゲン化銀は、フィルムや印画紙に塗られている感光材の主成分です。かつて、アナログ写真全盛の頃は、銀の使用量の中で感光剤として使用する量が最大であったそうです。現在は、ディジタル化が進み、この分野での使用量は激減したようです。ディタル写真の初期の頃には、ICの一つの画素の大きさがアナログフィルム上の銀の結晶より小さくなるとは思えませんでした。ところが、現在ではデジタルの観光素子はアナログをはるかに越える解像度までになりました。ディジタルカメラは写真を気軽に取れる環境を提供してくれましたが、気軽すぎて作画が雑になっ朝にも思います。
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伊豆松崎の近郊には明治の学舎や天然と人工の洞窟など見どころいっぱいです

2017-11-12 08:00:00 | 日本の町並み
 小海線の中込や雲仙市の神代には木造の校舎が残されていて、かつて学校は未来を担う子供たちへの投資として重要であったことを思わせます。これらの学舎は、かなりの数が全国に残されていて、有名なところでは松本の旧開智学校は重文にも指定されています。重文の学舎がどの程度残されているかを調べると、意外と多いのに驚きます。今回はこれらの中から西伊豆にある岩科学校と、岩科学校のある松崎の郊外を紹介します。

 松崎町は、伊豆半島西海岸の南寄り、鉄道は無く、路線バスで、修善寺から土肥経由で西海岸を南下するか、下田から山越えで西に向かうなど足の便が悪い町の一つです。そのためか、町全体にはのんびりした雰囲気があります。

 
 
 岩科学校は、松崎の中心街から南南東3kmほど、路線バスで10分ほどの距離にあります。岩科学校は明治10年代に建てられた疑似洋館で、建設費の40%余りが住民の寄付で賄われたそうです。それだけ、学校に期待するところが大きかったのでしょう。校長室であった部屋には、校長さんが、教室であった部屋には戦士と生徒の人形が置かれていて、一瞬ハッとします。

 
 
 
 
 建物は、お風呂屋を思わせる唐破風の下にしゃれたバルコニーがあり、なまこ壁の上にはアーチ状の窓があるという和洋折衷のデザインが、それなりの調和を見せています。折衷と言えば、木の床張りの教室の他に畳敷きの和室があり、床の間と違い棚があります。この和室の欄間には、伊豆の長八の作品の鶴の群像の鏝絵があり、破風の上部にあって現在は和室に飾られている鶴も長八作品と言われています。岩科学校からさらに東南東へ2kmほどの永禅寺への道筋は、田んぼが広がるのどかな道に石仏があったり、なまこ壁の古民家があったりで気持ちの良い散歩道です。

 
 
 松崎の郊外には、もう一つ明治の初期に建てられた大沢学舎が残っています。依田佐二平が私財で自邸内に建てた公立校で、現在は道の駅の花の三聖苑に移築されています。三聖苑は市街地の東5kmほど、下田に向かい路線バスで12~13分くらいの場所です。道の駅には温泉があり、この大沢学舎と松崎が生んだ三人の聖人を紹介する三聖会堂などが建っています。大沢学舎は、2階建てですが岩科学校に比べてずっと小ぶりで、上下に一部屋ずつですが、二階にはバルコニーもあって、しゃれた建物です。



 
 これらの学舎は、観光的にさほど有名ではありませんが、松崎付近で鏝絵と並んで有名なな場所が堂ヶ島かもしれません。堂ヶ島があるのは、松崎町ではなく西伊豆町になりますが、松崎からは路線バスで北に10分ほどで、松崎の観光エリアといった感じです。海蝕断崖と洞窟それに三四郎島などがあり伊豆の松島と呼ばれるようですが、ちょっと島の数が少ないようです。海蝕洞窟は、上部から覗いたり船で入ることができますが、よほど凪でないとダメなようです。

 
 一方、南西に3kmほど行くと、室岩洞があります。こちらは、天然の洞窟ではなく、採石場の跡で、江戸時代から60年ほど前まで凝灰岩の伊豆石を切り出していた場所です。洞窟内は2千㎡ほどあり、道路に近い場所の出入り口から、かつて切り出した石を海岸まで運び出した出入口の付近までに電灯が点けられて見学ができます。透明な水をたたえた池などもありますが、かなりマイナーで人影が無く、内部で迷わないか、ちょっと心配になります。

 明治時代の学舎は、趣があって、こんな校舎に通えたらいいなと思います。岡山の吹屋小学校では、ごく最近まで明治の校舎が使われていたようですが、使う立場からは、かなり傷んでいて使いづらい面もあったそうです。このような校舎で、明治時代に、どんな授業が行われたかと思いますが、少なくともタブレット端末などは無かったでしょう。授業にパソコンやタブレットが導入されて、数多くの資料を簡単に見られるようになったのはメリットだと思います。しかし、それらはあくまでイメージ情報で、現代っ子は岐津物に触れる機会が減っているように思います。現場を見ないで、あれやこれやと言う政治家やジャーナリストが多いのも、この流れでしょうか。
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チェスキ・クルムロフ城のタワーの階段もホテルの階段も上りは辛いですが眺めは抜群でした(チェコ)

2017-11-05 08:00:00 | 世界遺産
 バルト三国を南から北へ紹介してゆきましたが、似ているところあり、違っているところありで三国を順に訪問すると面白いかもしれません。ラトビアに三兄弟の家があるかと思えば、エストニアには三姉妹のホテルがありました。この三姉妹のホテルに泊まった方から、エレベータの無い4階の部屋で荷物を持って上がるのが大変だったことをお聞きしました。一方、筆者は元は修道院であったホテルで、やはりエレベータの無い3階の部屋に泊まったのがチェコのチェスキー・クルムロフでした。今回はこのチェスキー・クルムロフを紹介します。

 
  
 
 チェスキー・クルムロフへは、17年も前の訪問でしたので、現在は状況が変わってしまっているかもしれません。チェコの首都ノプラハを流れるヴルタヴァ川の上流にあり、プラハの南120kmほどにあります。プラハからビールのバドワイザーの語源となった町チェスケ・ブデヨビチェまで鉄道で2時間半、そこからバスで45分くらいの場所です。ヴルタヴァ川が何度も蛇行をして流れの方向を180度以上も変えていますが、そのこぶ状の一つにチェスキー・クルムルフ城があり、の南のこぶ状の場所にホテルや教会、美術館、広場などがひしめいています。どちらも直径が200~300m程度の川に囲まれた狭いエリアです。泊まったホテルは、南のこぶの南の縁で、ホテルの裏側はヴルタヴァ川が流れています。お城からは遠い側のホテルなのですが、お城が見える部屋が少しだけあり、アサインされた部屋は最上階の屋根裏部屋でした。螺旋階段を上がっていくのは辛かったのですが、ライトアップされたお城が居ながらにして眺められる贅沢な部屋でした。ただ、偶然にも重い荷物は、乗換駅のチェスケ・ブデヨビチェに預けていたので、階段を持って上がる荷物は身の回りの品だけでした。


 チェスキー・クルムロフは13世紀後半から城と町の建設が始まり、ヴルタヴァ川の水運を利用して繁栄しました。しかし、19世紀になって鉄道の幹線から外れて徐々に衰退をしていったのは、日本でもよくあるケースのようです。第2次大戦まで多くいたドイツ系の住民は戦後に追放され、町は廃墟同然となったそうです。ある意味、その時点で町全体が冷凍保存されたのかもしれません。その後、ビロード革命を境に町並みの復興がなされ、かつての美しさを取り戻したそうです。

 
 
 
 お城のある丘の上から眺めるとホテルや教会のあるこぶ状の地域は、オレンジ色の屋根が連なり、その向こうの緑との対比で際立った美しさがあります。

 その丘の上のクルムロフ城は、18世紀にバロック様式で改装され、その時に劇場も建設されています。場内は、ガイドツアーのみで見学でき、1時間くらい、当時はチェコ語、独語、英語の3種類でしたが、現在は増えているかもしれません。当時は劇場は工事中でしたが、現在は公開され、機械式の舞台装置も見られるようです。お城の塔はガイドツアーとは別に上ることができ、階段の上りはきついですが、頂上からはジオラマのような街並みと緑の丘が眺められます。

 町が寂れて、その結果で古い町並みが残され、観光客を呼んだ町はチェスキー・クルムロフに限らず、我が国においても、あちこちで耳にします。ただ、観光用の建物群だけではなく、現役の建物にも古い建物を使い続けるのがヨーロッパ流かもしれません。日本では、観光用の古い建物は、展示館や博物館になってしまい、現用として活躍しているものは、少ないように思います。特に役所関係はコスト意識がないのかすぐに壊して立て替えてしまうのは不愉快です。手狭になったというのなら、役所の口出し範囲を小さくすればよいし、無線化が進み消費電力が減って、昔のようにITオフィス用の2重床の必要も無くなっているでしょうに。
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