駅周辺の喧騒がうそのような寺町が、駅から10分ほど南に広がっているのが高円寺でした。教会にはカリオンが、日本のお寺には梵鐘がつき物ですが、その梵鐘を現在も作り続けている町が富山県の高岡です。今回は、路面電車が街中を走り、しっとりとした古い町並みが残されている高岡を紹介します。
高岡は、富山県の北西部の富山湾に面した富山県第2の都市で、高岡城の城下町です。高岡城は一国一城令により江戸初期に早々と廃城となり、その跡は米蔵、塩倉、火薬倉として使われてきたようです。その城址はJR高岡駅の北側にあって、現在は他の地方の城跡と同様に城址公園になっています。城下町の雰囲気を残す古い町並みが残されているのは、城址公園とは路面電車が走る通りを隔てた西側の山町筋と金屋町あたりになります。

山町筋は重伝建造物地区に指定され、平入りに土蔵造りの建物が多い地区です。中でも1階に格子があり、2階が黒漆喰の土蔵造りの商家の建物である菅野家は重要文化財に指定されています。土蔵造りの町家の隣には、洋風の土蔵ともとも言えるレンガ造りの銀行の建物もあって、面白い対比を見せています。


一方の、金屋町は、路面電車の通りからはだいぶ西北に行ったところに位置し、無電柱化された町並みは、すっきりとしています。石畳の通り沿いに、平入りで格子が連なり、うだつのある家並みは、どこか優雅な感じがします。訪れた時は、町制400年の記念祭をやっていて、道路に面した部屋を開け放ってお琴の演奏などもやっていて、優雅さが増幅されていたようです。
山町筋の近くを走る路面電車は3セクの万葉線で、旧式な電車に混じって超低床のLRTが走っています。ヨーロッパなどでよく見かけるスタイルの電車ですが、真っ赤に塗られた車体は、意外と古風な町並みに似合っているように見えます。この万葉線は、かつては加越能鉄道の路線でしたが、乗客数が減って廃止の予定でしたが、存続を望む高岡市と新港市とが中心になって3セクを設立して存続された路線です。ちなみに、万葉線の名称は、万葉集の編者の大伴家持が高岡の伏木に赴任して編集や作歌をしたことによるものです。また、加越能鉄道とは、加賀、越中それに能登を結ぶ鉄道として設立された会社でしたが、路線網最大時でも越中の1国のみの鉄道で、現在はバス路線のみの会社となってしまっています。
ところで、高岡の梵鐘ですが、江戸初期に前田氏が、河内の国から鋳物師を招いて金屋に住まわせ保護したことに始まるようです。第二次世界大戦で、日本のお寺の梵鐘の9割が兵器になってしまったといわれています。戦後に、それらの梵鐘を復刻する折に、その8割以上が高岡の老子(おいご)製作所で引き受け、梵鐘というと高岡ということになったようです。広島の平和の鐘や国連の平和の鐘も老子製作所で鋳造されたものだそうです。
現在の老子製作所は城端(じょうはな)線沿線の工業団地にありますが、高岡を出た城端線の列車が、裏をかすめて通っているのが瑞龍寺です。江戸初期に建造された3つの建物が国宝に指定された、富山県を代表する大きな寺院です。ちなみに、富山県の国宝建造物は、瑞龍寺の3件のみだそうです。この中の仏殿の屋根は、梵鐘の材料の青銅ではありませんが鉛葺きとして有名です。冬の積雪対策が目的のようですが、非常時には、鉛の瓦を鉄砲の弾の材料にするためだ、とも言われてきました。筆者の学生の頃には、お寺の宿坊がユースホステルとなっていて、夜には仏殿で高岡を紹介するスライドを見せてもらった記憶があります。
鉛というと、現在問題となっている放射線による被爆を防ぐ物質の一つとして知られています。放射線はα線、β線、γ線それに中性子線がありますが、外部被爆が問題となるのは、テレビの電波などと同じ電磁波の一種であるγ線です。γ線は、同じ電磁波のX線と同様に透過力が高く、鉛板をもってしても、5cmの厚さで1/10程度に弱めることができるだけです。瑞龍寺の鉛の屋根瓦は、将来の核戦争に備えて、放射線を防ぐために葺かれたわけではないでしょうが。
高岡は、富山県の北西部の富山湾に面した富山県第2の都市で、高岡城の城下町です。高岡城は一国一城令により江戸初期に早々と廃城となり、その跡は米蔵、塩倉、火薬倉として使われてきたようです。その城址はJR高岡駅の北側にあって、現在は他の地方の城跡と同様に城址公園になっています。城下町の雰囲気を残す古い町並みが残されているのは、城址公園とは路面電車が走る通りを隔てた西側の山町筋と金屋町あたりになります。

山町筋は重伝建造物地区に指定され、平入りに土蔵造りの建物が多い地区です。中でも1階に格子があり、2階が黒漆喰の土蔵造りの商家の建物である菅野家は重要文化財に指定されています。土蔵造りの町家の隣には、洋風の土蔵ともとも言えるレンガ造りの銀行の建物もあって、面白い対比を見せています。


一方の、金屋町は、路面電車の通りからはだいぶ西北に行ったところに位置し、無電柱化された町並みは、すっきりとしています。石畳の通り沿いに、平入りで格子が連なり、うだつのある家並みは、どこか優雅な感じがします。訪れた時は、町制400年の記念祭をやっていて、道路に面した部屋を開け放ってお琴の演奏などもやっていて、優雅さが増幅されていたようです。
山町筋の近くを走る路面電車は3セクの万葉線で、旧式な電車に混じって超低床のLRTが走っています。ヨーロッパなどでよく見かけるスタイルの電車ですが、真っ赤に塗られた車体は、意外と古風な町並みに似合っているように見えます。この万葉線は、かつては加越能鉄道の路線でしたが、乗客数が減って廃止の予定でしたが、存続を望む高岡市と新港市とが中心になって3セクを設立して存続された路線です。ちなみに、万葉線の名称は、万葉集の編者の大伴家持が高岡の伏木に赴任して編集や作歌をしたことによるものです。また、加越能鉄道とは、加賀、越中それに能登を結ぶ鉄道として設立された会社でしたが、路線網最大時でも越中の1国のみの鉄道で、現在はバス路線のみの会社となってしまっています。ところで、高岡の梵鐘ですが、江戸初期に前田氏が、河内の国から鋳物師を招いて金屋に住まわせ保護したことに始まるようです。第二次世界大戦で、日本のお寺の梵鐘の9割が兵器になってしまったといわれています。戦後に、それらの梵鐘を復刻する折に、その8割以上が高岡の老子(おいご)製作所で引き受け、梵鐘というと高岡ということになったようです。広島の平和の鐘や国連の平和の鐘も老子製作所で鋳造されたものだそうです。
現在の老子製作所は城端(じょうはな)線沿線の工業団地にありますが、高岡を出た城端線の列車が、裏をかすめて通っているのが瑞龍寺です。江戸初期に建造された3つの建物が国宝に指定された、富山県を代表する大きな寺院です。ちなみに、富山県の国宝建造物は、瑞龍寺の3件のみだそうです。この中の仏殿の屋根は、梵鐘の材料の青銅ではありませんが鉛葺きとして有名です。冬の積雪対策が目的のようですが、非常時には、鉛の瓦を鉄砲の弾の材料にするためだ、とも言われてきました。筆者の学生の頃には、お寺の宿坊がユースホステルとなっていて、夜には仏殿で高岡を紹介するスライドを見せてもらった記憶があります。鉛というと、現在問題となっている放射線による被爆を防ぐ物質の一つとして知られています。放射線はα線、β線、γ線それに中性子線がありますが、外部被爆が問題となるのは、テレビの電波などと同じ電磁波の一種であるγ線です。γ線は、同じ電磁波のX線と同様に透過力が高く、鉛板をもってしても、5cmの厚さで1/10程度に弱めることができるだけです。瑞龍寺の鉛の屋根瓦は、将来の核戦争に備えて、放射線を防ぐために葺かれたわけではないでしょうが。
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要塞から下って、路地を南東にたどると、ハプスブルグ帝国時代に建てられた劇場が現役として残されていたり、聖サンフランシスコ教会などの教会が建っています。ちょっと歩くと元の場所に戻れてしまいまうような狭い旧市街ですが、半日程度で気持ちのよい散歩ができる町並みです。

駅名の高円寺ですが、駅名は知っていても高円寺というお寺を知る人は意外と少ないかもしれません。先ほどの気象神社の前の坂を下っていくと、左手に現れる、都心のお寺としては、ほどほどの寺域を持つ曹洞宗のお寺です。山門から本堂への参道の両側には楓が植えられて、晩秋の紅葉はなかなか奇麗なのですが、最近は紅葉前に茶色になって落葉することが多いようです。
お寺の高円寺も属している、中央線、環七、青梅街道それに高南通りで囲まれた地域は数多くのお寺が集中する寺町の様相です。京都のような観光寺院はありませんが、特色のあるお寺ばかりです。清楚な参道の西照寺、
石仏のかわいらしい松應寺、
かず多くの石仏が並ぶ鳳林寺などなど。他にも、紅葉やツバキそれにハスなど季節ごとの花も色々です。
この地区とは少し離れますが、青梅街道の南の環七沿いにはハスの見事な宗延寺があり、駅の北側の阿佐ヶ谷寄りには、季節ごとにさまざまな花が咲く蓮華寺もあって、都会の中の癒し空間となっています。また、蓮花寺の南には、気象神社が元あった馬橋公園もあります。さらに、高円寺駅から蓮花寺に行く途中の、早稲田通りには下見板張りの古風な2階建ての洋館が残されています。現役の耳鼻咽喉科のようで、80年の歴史があるそうです。古い建物では、使い勝手が悪かったり、保守が大変であったりということがあるでしょうが、いつまでも残して欲しい建物の一つです。
日本に戒律の重要さを伝えた鑑真の出身寺院のある町が、揚子江の北岸にある揚州でしたが、その揚州の姉妹都市の一つに、お隣の国の大邱(てぐ)があります。ソウルや釜山に比べると日本人に対する知名度は下がりますが、韓国版新幹線のKTXも停車し、近くに世界遺産もある韓国で4番目の大都市です。その世界遺産は、おびただしい数の大蔵経の版木を保存している海印寺(ヘインサ)で、市内からバスで約1時間半ほどの距離です。



訪問した時には、ちょうど大邱薬令市韓方文化祭りの最中で、薬草市場街では色々な催しが行われていました。民族衣装の行列あり、薬草を刻むデモあり、仮面劇あり、獅子舞風のものもありです。仮面劇は、大都の北に位置する安東で行われる仮面劇のような感じがしました。仮設ステージでのお琴の演奏も華やかでしたが、道路に座り込んで仮面劇の伴奏をする音楽隊もにぎやかで、華やかでもありました。出店もたくさんで、泥状のクリームを手に塗ってくれて、しっとり感をアピールするかと思えば、鉄棒に刺した豚の丸焼きもありました。
この丸焼きは、薄くスライスしてキムチや岩塩それに野菜などと一緒にお皿に盛り付けてくれましたが、なかなか美味しかった!

同じ頃に建てられた建物が残されているのが大邱郷校の大成殿です。明倫堂、楽育斎など比較的新しい建物も加わり、漢文教育・礼儀教育などの教育施設として、また伝統婚礼場としても人気を集めている現役の施設です。
羽田空港に発着する飛行機を水面の向こうに望む羽田は、空港の華やかさとは対照的にひっそりとした町並みが広がります。多摩川の河口に位置する漁村が羽田の旧来の姿で、低層の住宅街の中に神社や商店街が連なっています。
江戸末期に水害から町を守るため穴守稲荷が祀られ、明治以降は門前町として栄えた歴史を持っています。現在の穴守神社は、羽田空港を隔てる海老取川の蒲田寄りにありますが、かつては現在の羽田空港の敷地内にありました。戦後に羽田空港の拡張で邪魔になるとの理由で米軍から強制退去をさせられ、地元有志の提供した現在地に引越したそうです。大鳥居だけが空港駐車場に取り残されましたが、沖合い展開時に滑走路の進入経路上で支障をきたすということで、現在の天空橋近くに移転しました。ただ、この鳥居は神社からだいぶ離れて、ぽつんと寂しげというか、羽田空港をにらみつけるように建っています。
天空橋といえば、空港モノレールや京急空港線の駅名になっています。名前から、空に架かる虹色の橋を想像しますが、鉄道橋を思わせる地味なガーター人道橋です。1993年に京急の羽田駅が開業の折に、地域住民の利便性を考えて海老取川に架けられ、地元の中学生の公募で名前が決まったそうです。
天空橋の近くから眺める空港は、お馴染みの図柄とはだいぶ印象が違い、なんとなく蜃気楼を見ている感じがします。

天空橋を多摩川の河口のほうに行くと、水死者の供養塔があります。海流などの影響で、このあたりに遺体が漂着することが多かったのだそうです。多摩川を上流の方へ行くと、土手のすぐそばに玉川弁天の社があります。この弁天様も穴森神社と同等に、現在の空港島にあったものが、現在地に強制移転させられたのだそうです。小さな社ですが、江戸時代から多摩川の守護神として江戸商家や回船問屋の信仰をあつめていたとの琴です。このあたりには水門があったり、レンガ造りの多摩川の旧堤防が道路の端に塀のように残っていたりで、水との係わり合いの濃い町並みが続きます。
水とは関係は無いのでしょうが、道端には小さな祠があって、お地蔵様が祭られていたりしてほっとします。


世界遺産の大聖堂は、この広場で東に曲がって800mほどの通りの突き当たりに壁のように立ちはだかっています。身廊の先端の切妻のファサードに接して両側に翼が伸びていて、正面から見える壁が広く、これが衝立のように見えるのかもしれません。正面から見ると直線的な聖堂ですが、裏側に回ってみると祭壇の後方は丸い外観になっていて、とんがり帽子を被って口を開けた人形のように見えます。



この地域には、美しい近代建築がたくさん残されていますが、旧居留地の建物として現存するのは、重要文化財にも指定されている旧神戸居留地十五番館の一棟だけなのです。レンガ造りの下水管の遺構が残されているのも、この建物の東側の歩道です。実は、この建物は、阪神淡路大震災で全壊をしてしまい、元の建材を使って復旧されたものです。建物以外で当時の遺構としては、15番区画と16番区画の境界のレンガ塀の一部が、ビルの谷間にひっそりと残されています。

郵船ビル
神港ビル
海岸ビル
商船三井ビル

そのうちのいくつかを紹介しましょう。地域の東南角にあるのが昭和2年に建てられた神戸税関の建物です。近年に新館が増築されましたが、フラワーロード側からの顔は変わりません。内部は展示ルームもあり見学可能で、建物に囲まれた中庭に入ってみると外からは想像できないような景色が広がっています。この税関の前にも記念碑があり、碑文によると昭和天皇の行幸記念なのだそうです。



金ぴかの仏像が多い中国ですが、鑑真記念館にあった鑑真像は、古めかしい色をしていました。1973年に唐招提寺にある像のレプリカを安置したようです。さらに、唐招提寺と似ていると思ったのは、屋根の両端に乗っている鴟尾ですが、どうもこれは中国がオリジナルで、その意匠が日本に伝わったようです。もう一つ、奈良遷都1,300年の時に会場に遣唐使船の模型が置かれていましたが、そっくりの模型が飾られていました。おそらく、奈良の模型は、大明寺の模型も参考にしたか、オリジナルの資料が同じものなのでしょう。
大明寺の南側には、緑と池の広大な公園があり、名前を痩西湖公園といいます。杭州にある世界遺産の西湖に似ているけれど、細長い、つまり痩せた西湖という命名です。大明寺や痩西湖公園の一帯は水と緑が南北に3km、東西に2kmほど広がる地域で、痩西湖公園自体も500mほどの幅で2kmほど南北に分布しています。広い公園内には、トラムが走っていて、入り口から池のそばの、公園の中心地まで歩かなくて行けます。ただ、南北に長い割りに出入り口が3箇所なので、出口を探すのにちょっと焦ります。中心地には、五亭橋や白塔などもあり、現地の人たちもこの周辺に集まってきているようです。池には遊覧船が浮かび、回廊つきの庭園も造られています。地元の人々にとっては、子供や家族と一日遊ぶのに好都合な場所の一つなのでしょう。


阪神尼崎の駅を降り南に出ると、レンガ造りの建物が目に入ります。由緒ありげな建物ですが、阪神電鉄の専用発電所だったもので、現在は資材倉庫に使っているそうです。JR東日本が信濃川の水力発電や川崎の火力発電所を持っているのと同じ考え方です。窓がふさがれて、ちょっと無粋ですが、遠くから見ると教会と見まがう建物です。この旧発電所を南に行くと尼崎城の遺構があり、現在は公園になっています。さらに南に行くと、国学者の契沖生誕の地の碑があります。



この寺町界隈に七福神が祭られていて、お正月などは七福神巡りで賑わうようです。の七福神は、お寺や神社を巡らなくても、駅の北西にある四番街商店街には七福神ドームというのがあって、それぞれの神様が入れストで描かれて、買い物客を見下ろしています。
この寺町の南に、尼崎信用金庫の本店別館があり、その中に日本で唯一の貯金箱博物館があります。世界中からコレクションをした貯金箱を常時2,500個も常時展示しているそうですが、訪れた時には休館で残念ながら中を見ることはできませんでした。ただ、隣接する尼信記念館のレンガ造りの建物が、なかなかしゃれていました。阪神電鉄の旧発電所、尼信の記念館それに寺町のレンガ造りの塀など、尼崎にはレンガ造りのものが意外と多く残されていました。
初代皇帝の明孝陵は、南京市の東部にあって、市内バスで簡単に訪問できる場所にあります。陵は紫金山という山の南面にあって、近くには中山陵や霊谷寺などもあり大きな森林公園のようになっています。市内バスの終点から、陵の入り口までは観光トラムが走っていて、歩くと20〜30分ほどの時間を短縮をしてくれます。入場ゲートから右手に行くと、長い石畳の先に朱色の門があって、これを越えると、その先に石垣の上に同じ色の楼閣がそびえていて、かなり威圧感があります。
石垣の中央から入って、楼閣の上に登ることができ、木立の向こうに南京の町並みが見えます。皇帝の墳墓は、この楼閣の後方にありますが、さらに上りなので、足に自身の方は上ってみることもできます。
石畳の道を戻って、左手に行くと石像のある参道に出ます。陵に近いほうには人物像が、その先には動物の像が参道を挟んでペアで置かれています。かなりの数の像が並んでいますが、像と像はかなりの感覚が空いているので、複数の像を同じ画面に入れて写すには、かなりの望遠レンズが要りそうです。
動物の石像のほうは、よじ登れる程度のものも多くて、子供の遊び道具になっていました。












