世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

朱色の祐徳稲荷の最寄り駅のそばには茶色の肥前浜宿の町並みが続いています

2017-04-23 08:00:00 | 日本の町並み
 前回は東京国立博物館の表慶館を設計した片山東熊の設計した仁風閣のある鳥取を紹介しました。鳥取は三大砂丘で有名ですが、今回は三大稲荷です。これも諸説あって、伏見稲荷は外せないものの、それぞれの稲荷神社が、ご自分を入れた三大を主張されています。これらの中で、伏見稲荷から最も遠い稲荷神社と思われるのが佐賀県の祐徳稲荷です。今回は、この祐徳稲荷と、その最寄り駅に近い肥前浜宿も町並みとを合わせて紹介します。

 
 
 祐徳稲荷は、佐賀県の西よりの鹿島市にあり、JR長崎本線の肥前浜駅から南に2kmほどの所にあります。伏見稲荷は千本鳥居が壮観ですが、祐徳稲荷は、山の斜面に清水の舞台に似た懸崖作りが見事です。清水の舞台が、木肌の茶色の世界ですが、こちらは鮮やかな朱塗りの社殿が緑に映えます。当然社殿を支える柱も朱で塗られていて、これが壮観です。社殿の右側には、社殿まで登るのが辛い人のため、以前に訪問の時には無かった有料のエレベータがあります。以前に訪問の時と違った現象は、中国人の多さでした。案内所の方によると8割ほどが中国からで、その理由は佐賀空港に上海からのLCCが到着するからのようです。

 
 この祐徳稲荷の最寄り駅になる肥前浜駅の南側には、長崎街道の脇街道の宿場町の遺構である浜宿があります。宿場町としてだけでなく、佐賀平野の米と良質の水を原料とした酒造りの町として、街並みの中には造り酒屋が数多く残っています。こちらの町並みには、さすがの中国人も出没はせず、祐徳稲荷の朱色の世界ではなく、茶色の世界です。
 
 
 
 
 旧長崎街道沿いの古い町並みは、長崎本線の南西200mほど、ほぼ線路と平行に通っています。白壁の土蔵造りが連なる景色は壮観にも見えます。これらの町並みの中心は、造り酒屋の酒蔵と商店、それにオーナーの自宅です。その中の一軒では、酒蔵の見学もできます。宿場としての遺構は少なく、よく見かける本陣跡などはありません。継場という人馬の継立業務を行っていた建物ぐらいでしょうか。

 
 
 庇の上に鬼瓦がずらりと並んでいる工務店や、格子の前の水路など、酒蔵以外のも点景も数多くです。そして、モノクロームと茶色の世界の中に、下見板張りのオリーブグリーンのパステルカラーの建物が1件あり、新鮮な印象です。林業再生事業の看板が掲げられていましたが、もとは郵便局の建物だそうです。

  
 これらの町並みから離れて、駅のすぐそばに建つのが漬蔵で、百年以上の歴史のある漬物屋さんだそうです。こちらは土蔵造りではなく、板壁の古風な建物です。

 お酒づくりの世界では、急速にIT技術の導入が進んでいるそうです。発酵過程で、味を左右する環境は、すべて数値化され、この値になるように、コンピュータによって発酵タンクの自動制御を行うそうです。また、味を左右する酵母も、純粋培養が進み、酵母の製品名で購入して、再現性の高い酒を作られるようです。万が一、天災や火事などで酒蔵が失われても、元の酒の味を簡単に再現可能だとか。もはや、酒は農産物ではなく、工業製品の様相です。ただ、すべてのファクタが数値化できるとは思えないし、酵母も純粋といっても、微量な不純物が紛れて、味を左右するのではないかとも思ってしまいます。ただ、この微妙な差を、飲む人間が判別できるかは疑問ですが。
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アルビのサント・セシル大聖堂よりサン・サルヴィ聖堂の回廊や町並みの方に親しみを感じます(フランス)

2017-04-16 08:00:00 | 世界遺産
 仏教とヒンドゥー教の遺跡のアンコール遺跡、そしてルーマニア正教の修道院群があるスチャヴァと続きました。今回は、フランスの中でローマカソリックが権勢をふるう都市がアルビです。世界遺産は、サント・セシル大聖堂などの大規模な建築だけではなく、歴史的な街並みも対象になっています。

 このアルビは13世紀ころには、カソリック聖職者の堕落に反対するカタリ派の一部のアルビ派の信仰の拠点でした。その後、宗教と国王とが連携した戦争で制圧され、北フランスとローマ・カソリックの権力と文化に汚染されてしまったそうです。そういえば、その後の14世紀には南フランスのアヴィニョンにローマ教皇庁が移転していますから、南仏までローマ教皇の権力に侵されていたわけです。

 
 
 
 アルビは、フランス南部のトゥールーズの北東50kmほど、列車で1時間足らずですが、筆者が訪れた時には線路の補修とかで代行バスでは2時間近く。市街地の北側をタルン川が蛇行して流れ、南に突き出した川沿いにベルビ宮殿があります。ベルビ宮殿はロートレックの美術館としても使われていますが、川沿いに作られた庭園やタルン川の眺めが綺麗です。

 
 この、宮殿まで駅から歩いても15分ほど、途中の町並みも、なかなか趣があります。

 
 
 
 サント・セシル大聖堂はベルビ宮殿の手前で、13世紀から16世紀にかけて作られたゴシック建築です。レンガで作られた聖堂としては世界一の規模で、114m(奥行き)×35m(幅)で高さも40mあるそうです。身廊のそばにそびえる鐘楼は高さが78mあって、かなり威圧感があります。内部には、膨大なイタリア絵画で飾られていて、天井には最後の審判が描かれています。

 
 さらに、駅寄りにはサン・サルヴィ聖堂が町並みに飲み込まれるように建っています。入り口は、ビルのアーチの階段を上ったところだったような気がします。回廊が美しく、ロマネスクとゴシックが入り混じった構成なのだそうです。ただ、なんとはなく廃墟的で、中庭は学生のたまり場の雰囲気です。

 アルビ派は、聖職者の堕落を糾弾しているにもかかわらず、十字軍から攻められています。いつの時代にも、聖職者と称する人間どもの権力は、暴走して困りものです。そもそも、宗教というもの、立ち上がりの頃は、信者の心を掴むために、宗教らしく振舞うのですが、信者が増えると、権力欲にとらわれるように思います。当初から、権力目的の新興宗教もあるようにも感じます。どうも、人間という弱い存在を利用して、権力を手中に収めるようです。弱い人間は、何かに頼り、やがては、その存在無くしては生活できなくなる習性の悪用です。最近の、スマホ依存症を見ていると、この弱さとしての同じような現象を感じます。
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弟子の設計した鳥取の仁風閣は、師匠が設計した旧岩崎邸と似ていました

2017-04-09 08:00:00 | 日本の町並み
 東京国立博物館の紹介が続きましたが、今回は博物館の表慶館を設計した、片山東熊の作品のある鳥取を紹介したいと思います。東熊は、ジョサイア・コンドルの初代の4人の教え子の一人ですが、東京駅などの設計をした辰野金吾に比べて知名度が低いようです。赤坂の迎賓館はあまりにも有名ですが、その迎賓館の設計者で、他にも宮殿風の建物を数多く手がけています。博物館関連では、京都と奈良の旧本館、そして伊勢にある徴古館など、そして鳥取城跡に建つのが今回紹介する仁風閣です。


 仁風閣は、後の大正天皇が皇太子の頃に山陰を巡行の折に宿泊所とした建物です。旧鳥取藩主が、鳥取状跡に別邸として、フレンチ・ルネサンス様式で建てられたものです。ふれんち・ルネサンスは、ロアールの古城群で見られる様式のようで、片山東熊の作品では京都の博物館の旧館がそのようです。前回紹介した、東京の表慶館はネオ・バロック用紙ですが、片山東熊はフランスのデザインが好きだったのでしょうか。




 池泉式回遊庭園の宝隆院庭園に面した側は、2階にサンルーム、1階はテラスになっています。転記が良かったので、このサンルームからの眺めは気持ちが良かったです。このデザインはどこかで見たことがあると思ったら、東京の湯島にある旧岩崎邸でした。旧岩崎邸は、ジョサイア・コンドルの設計ですから、弟子の東熊の設計も似てくるのでしょうか。内部は、旧鳥取藩と藩主の資料が陳列されて公開されています。建物の後方の小高い丘の上には、その旧鳥取城が石垣だけを残し、一帯は山の名前を取って久松公園となっています。

 鳥取というと三大砂丘の一つの鳥取砂丘を外せません。仁風閣も砂丘へのバス路線の途中にあります。さて三大砂丘と言われますが、残りの2つは諸説あり、どうも鳥取は別格のようです。学生の頃に鳥取を訪れると、鳥取の三大日本というのを聞きました。日の丸自動車、日本交通そして日本一の砂丘だそうです。日本人って三大が好きなんですね。



 さてその鳥取砂丘のそばに、砂の美術館なるものがあります。砂で作った巨大な彫刻の美術館ですが、素材が砂なので、恒久的な作品保存は無理で、毎年テーマを決めて作品群が展示されます。メインの展示は体育館のような建物で、中国の兵馬俑遺跡のような感じがします。その中に巨大な建物や人物の群像などが作られています。屋根で覆われているので、雨で砂が崩れないようになっていますが、乾燥してもダメなので、適度に水を撒いているようです。筆者が訪れたときは、「砂で世界旅行・東南アジア編」でしたが、砂で作られたアンコール遺跡の巨大な塔が、しっかりと建っていました。屋内以外にも小ぶりの作品が並んでいて、こちらもなかなかユニークなものがありました。

 砂の彫刻は氷の彫刻ほどではありませんが、保存性は無くって、刹那的な芸術の一種かもしれません。空間芸術の分野である彫刻が、時間芸術的な面を持つのかもしれません。逆に、本来は時間芸術であった音楽も、録音と再生の技術が進んで、時間に縛られなくなってきています。もちろん、いくら録音技術が進んでも、鑑賞するためには時間の束縛からは逃げられまえんが。録音された音楽は、好きな時に効くことができて、名だたる演奏家の演奏が最良の状態で聴けるというメリットがあります。コンピュータで制御された録音技術は、SPで録音された名盤から雑音を取り除いてリメイクできます。有名な指揮者は、録音の1音だけを差し替えることをしたそうですが、音楽の流れを妨げるやり方は納得できません。
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カルガリーでは恐竜も動物園のメンバの一員です(カナダ)

2017-04-02 08:00:00 | 世界の町並み
 町中のお寺に大きな布袋像があったのが台湾の台中でした。カナダには、動物園の一画に巨大な恐竜がにゅう~っと顔を出す所があります。それは、カルガリー動物園で、今回はその動物園を中心に紹介をします。

 カルガリーは、カナダの南部、やや西寄りの都市で、西海岸のヴァンクーヴァから飛行機で1.5時間ほどの100万都市です。カナディアンロッキーの玄関口としてにぎわい、1988年には冬季五輪も開催されました。ただ、それだけ大きな都市の割には、どことなく落ち着いた感じで、動物園は市の中心部から東へほんの2kmほどですが、周辺は草原と針葉樹林帯です。市街地の中をボウ川が流れ、動物園もボウ川の北岸に面しています。このボウ川は、カナディアンロッキーのボウ氷河に源があり、バンフ国立公園の中を流れ下ってカルガリーに達しています。バンフでは、マリリン・モンローが主演をした「帰らざる河」のロケ地にもなりました。源流が氷河のためでもないのでしょうが、市内を流れるボウ川の風景はちょっと寒々しい感じがしました、訪れたのが晩秋だったからかもしれませんが。

  さて、カルガリー動物園です、市の中心部からはC-Trainというトラムで20分ほどで動物園駅に着きます。このC-Trainは市街地では路面の併用軌道を走り、郊外に出ると専用軌道を走ります。広島電鉄の宮島線のような感じです。動物園ンお広さは、およそ50万㎡で、上野動物園の3.5倍ほどもあり、園内を歩き回ると、けっこうくたびれます。訪れたのが晩秋だったせいか、売店やキャフェテリアもほとんど閉まっていて、暖かいものを飲んで一休み!というわけにはいきませんでした。


 内部は6つのゾーンに分かれていて、北米、南米などそれぞれのエリアに生息する動物が居ます。その中に、恐竜ゾーンというエリアがあるのです。周りの雰囲気も、恐竜が生息していたと思われる太古の感じに作られています。恐竜は、もちろん生きている実物ではなく、原寸大の作りものですが、木々の間から現れる姿は、けっこう迫力があります。この動物園に恐竜がいる理由は、カルガリーの南にバッドランドという恐竜の化石が数多く見つかり世界遺産に登録されている場所があるからです。



 一方、本物の動物は北米ゾーンを中心に見て回りましたが、あまり数多くは見られませんでした。やはり、冬ごもりの前で、動物たちもバックワードに引っ込んでいたのかもしれません。北アメリカというと、ビーバーを見たかったのですが見られず、代わりにバイソンが、のんびりと寝そべっていました。

 外国に行くと、数多くの車両を連結した路面電車を見かけます。C-Trainも4連で走っています。我が国では、無賃乗車を防ぐためでしょうか、通常は単機で走っています。地下鉄の代わりに路面電車が便利で建設コストもかからない思うのですが、単機の電車では輸送能力に限界があり、効率もよくありません。外国では、車掌が居なくとも、ちゃんと乗車券を買って、乗車時に刻印機に通している様子を見ます。また、時折は検札があって、無賃乗車の場合は、容赦なく数倍の料金が徴収されます。日本では、これだけITや、乗車券のIC化が進んでいて、犯罪の少ない国ですから、なんとかクリアする解は無いのでしょうか。
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東京国立博物館の建物は時代や様式が異なり建物だけでも博物館の様相です

2017-03-26 08:00:00 | 日本の町並み
 前回は東京国立博物館の庭園にある5つの茶室を紹介しましたが、今回は展示に使う5つの建物を紹介したいと思います。建てられた古さの順から並べると、表慶館、本館、東洋館、法隆寺宝物館そして平成館になります。

 
 
 古さの順では表慶館ですが、まずは本館です。現在の本館は昭和13年に開館した二代目です。初代の本館は、明治15年に、ジョサイア・コンドルの設計で現在の本館ある場所に建てられましたが、関東大震災で壊れてしまいました。昭和天皇の即位を記念したもので、復興本館と呼ばれています。基本設計は、銀座4丁目の和光を設計した渡辺仁ですが、実施設計の段階で少しデザインが変更されています。本館は日本美術の展示に使われ、2階が歴史順、1階はジャンルごとの展示になっています。地下などはバックオフィスに使われています。この2階に上がる正面階段は、巨大で目立つ存在のためにテレビのドラマなどでロケに使われます。有名なところでは、半沢直樹で銀行の内部として使われました。

 
 続いて、表慶館は本館に向かって左側、緑のドームが印象的な建物です。こちらは、のちの大正天皇の成婚を記念して明治42年に開館しています。設計をしたのは、初代本館を設計したジョサイア・コンドルの教え子の一人である片山東熊で、当時ヨーロッパで盛んであったネオ・バロックという様式が採られています。特別展が平成館で行われることが多く、表慶館は時たま使われる程度になりました。最近の傾向として、宝飾関連の特別展や、貸し切り展示に使われるようです。内部のエレガントな雰囲気が、これらの展示にあっているからかもしれません。こちらの内部の中央ホールや両端の階段などCMなどでよく見かけます。

 
 本館向かって右側の建物は、東洋館で、東洋美術の展示を行っています。霞が関ビルが建てられた昭和43年に開館しています。設計は谷口吉郎で、神社などの高床式を思わせる和風モダニズムの設計になっています。内部はスキップ・フロアーといって、一つの建築平面の高さをそろえず、区画によって異なる建築手法が採られいます。東京ハンズやソニービルなどで見られる床構造ですが、東洋館の場合は、見えている場所に行く経路を探すのに苦労することもあります。

 
 法隆寺宝物館は、正門から入った場所からは見えません。左手の奥まったところに建っていて、この建物も二代目になります。初代は、昭和39年に建てられ、法隆寺宝物を保存収蔵するための、校倉風の2階建ての建物でした。この初代は、公開の目的が薄く、木曜日のみの公開で、気象環境が悪いと公開中止でした。学生の頃、関西から博物館を訪れて、木曜なので法隆寺が見られると思って行ったら閉まっていてガッカリの経験があります。夏休み中は湿度が高かったのでしょうね。そして現在の2代目の建物は、東洋館を設計した谷口吉郎の息子の吉生の設計で、平成11年に建てられました。縦横の線を強調したドライな設計になっています。内部にある陽光が差し込むレストランも好評なようです。

 
 一番新しい建物の平成館は、本館の左側の奥にあり、もっぱら特別展の展示会場として使われています。皇太子の成婚記念ということですが、この博物館は元の名前が帝室博物館ということもあってか、皇室のエポックに併せた建設が多いようです。100年もつように、との設計がなされていていますが、六本木ヒルズの事故を受けて、正面の回転ドアだけは100年たたない前に取り換えられています。特別展は2階の展示室が使われていますが、天井で一番高い部分は8.5mあり、計算上は東京大仏が収まる高さです。一方、1階には400名収容の講堂があり、頻繁に講演会などが開かれています。ビジュチューンの井上涼の講演の時には客席を埋めた子供たちの熱気で、いつもの雰囲気とはずいぶんと違いました。

 本館1階の17室には保存修復を解説したコーナーがあります。地味な展示で、大部分の人は、本館から平成館への通り道として通り抜けるだけです。その解説によりますと、収蔵品の調査をして、そのカルテを作っているそうですが、現在のペースで200年はかかるのだそうです。調査には最新の電子機器が使われ、なんと仏像もまるごとCTスキャンにかけられるようです。これらのカルテは、おそらく電子ファイルとして保存され、検索もコンピュータが使われるでしょうが、200年後にもウィンドウズは存在するのでしょうか。
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ヨーロッパの田舎のスチャヴァ周辺には素晴らしい修道院群です(ルーマニア)

2017-03-19 08:00:00 | 世界遺産
 仏教とヒンドゥー教の遺跡が15km四方ほどの森林の中に散在しているのがアンコール遺跡でした。パッケージツアーのバスで回っても2日をかけても、その一部しか見られませんでした。一方、キリスト教の5つの修道院が農地の間に散在しているのがルーマニア北部のモルドヴァの教会群です。今回も2度目の紹介になりますが、写真を増やし、周辺も加えて紹介します。

 5つの修道院群があるのは、ルーマニアの最北端のスチャヴァ県で、北側はウクライナとの国境になります。県都のスチャヴァまで、首都のブカレストから急行列車で6時間半ほどです。現在は少し速くなってるかもしれませんが、「思えば遠くに来たもんだ!」という感じがします。このスチャヴァを起点に、その西側に散在する修道院は、個人旅行で行った場合は、タクシーをチャーターすることになります。筆者の場合は5~6時間かかったように思います。

 これらの修道院は、モルドヴァ公国の王がトルコとの戦勝の旅に一つづつ建てたもので、ルーマニア正教の教会堂です。どれも似たような外観ですが、内外の壁がフレスコ画で埋め尽くされ、壮観です。建物は対称的に作られていますが、北側の庇だけが深く作られていて、これは北からの風雨から壁画を守るための工夫だそうです。それでも、北側の壁画は、他の面に比べると痛みが激しいそうでした。これらのフレスコ画は、文字の読めない人に、聖書の内容を教えるためで、それぞれの絵は、聖書の重要な場面だそうです。

 それでは、筆者が訪れた順に5つの修道院と、現地のガイドさんに勧められて世界遺産未指定ですが素敵な修道院とを写真で紹介します。

 フモール修道院
 
 

 ヴォロネッツ修道院
 
 

 モルドヴィッツァ修道院
 
 

 スチェヴァッツァ修道院
 
 

 アルボーレ修道院
 

 ドラゴミルネイ修道院
 
 

 ここからはおまけの画像です。ルーマニア正教の教義に則った結婚式の写真です。 スチャヴァ市内にある教会に入ると、これから結婚式が始まるところでした。全くのよそ者でしたが、この結婚式の一部始終に参列する羽目になりました。
 

 移動中の車窓から見上げたコウノトリの巣は電柱の上。日本では大騒ぎをして保護しているコウノトリが野生で飛んでいます。最後の1枚は、修道院内で見た携帯電話を使う修道女、今から13年前ですから、日本でもやっとFOMAが出た頃です。俗世間から隔離されているはずの修道女には似つかわしくないかもしれないショットでした。
 

 広いエリアに家がまばらにしかない場合は、固定電話より携帯の方が効率がいい場合もあります。事実、携帯電話が出現する前には、電話局から家庭まで線を張らずに無線で飛ばす方式もありました。かつて、どこかの首相が電気も来ないアジアの国で、「それなら携帯電話にすれば!」なんて、ふざけた発言をしたことがあります。IT(アイティー)のことをイットとのたまった人間です。電話の情報は空を飛んでも、電力は現在のところは空を効率よく飛ばないんです。
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博物館の庭園には上野駅周辺の喧騒を忘れるような茶室が5つも建っています

2017-03-12 08:00:00 | 日本の町並み
 山形の専称寺には最上氏の娘で豊臣秀次の側室になる寸前に秀吉に処刑をされた悲劇の姫君である駒姫の墓がありました。わずかに15歳という幼い命だったようです。秀吉という、権力者の気まぐれで、本人はおろか眷属まで抹殺されてしまった、恐ろしい話です。権力というのは、集中するべきではないのですが、どうも日本人は、水戸黄門をはじめ権力者を英雄視して好む傾向があり怖いです。
 秀次を初め抹殺された人々の遺骸は、一つの穴に放り込まれ首塚が作られました。その後、鴨川の洪水で流されましたが、河川改修をした角倉了以により、瑞泉寺が興され供養塔が再建されました。この角倉了以の没後に入れ違いのように、淀川の改修などで富を得たのが河村瑞賢です。この河村瑞賢が、淀川改修の折に休憩所として建てた建物が、茶室として東京国立博物館の庭園に残されています。今回は、前振りが長くなりましたが、博物館の庭園にある5つの茶室を紹介します。

 博物館の庭園は、江戸時代に当地にあった寛永寺本坊の庭園の名残で、本館の裏側に広がっています。江戸時代に創建され、明治から昭和にかけて、こちらに移築された2つの書院茶室と3つの草庵茶室が木立の中に建っています。

 
 これらの茶室の最も東寄りにあるのが、河村瑞賢が休憩所として建て、昭和になって茶室として生まれ変わった春草廬です。元来が休憩所なので、茶室としての決まり事の躙り口や天井に変化を持たせるなどの建物ではありません。この建物は、三渓園を作った原三渓が購入したのち、茶の湯仲間の電力王の松永耳庵に贈られ、所沢の別荘に茶室として移築されたものです。後になって耳庵が小田原に引っ越した時に博物館に寄贈されたものです。この、春草廬の後方には桜の木があって、開花の頃には建物に覆いかぶさるように咲く桜は見事です。

 
 春草廬の西にあって、博物館のテラスから池越しに見える目立った茶室は、転合庵です。この茶室は、江戸時代の初期に小堀遠州が自邸に建てたものですが、これには日本文化を象徴するような逸話が残されています。ある日、遠州は桂離宮を作った八条の宮から一つの茶入れをプレゼントされます。このプレゼントを大変喜んだ遠州は、握りこぶし程度の小さな茶入れ一つのお披露目のためだけに、わざわざこの転合庵を建てたと言われています。小さな茶器が領土やお金と同じくらいの勝ちを持つことがあるという文化の片りんを感じさせる逸話です。

  さらに西に、木立の中に建っているのは、博物館が上野に来る前に移築された六窓庵です。江戸時代の初期に行為服地の塔頭の慈眼院に、金森宗和の好みで建てられました。利休の頃には内部が暗い茶室が好まれましたが、江戸時代になると明るい茶室が多くなり、この茶室も窓が六つあって、明るいだけでなく、時の移ろい、季節の移ろいを感じ取れる茶室になっています。この六草案は茶室の建物だけでなく、寄り付き、腰掛待合、雪隠など草案茶室として必要な道具立てがそろっています。

 
 残りは書院茶室で、2棟のうち東に建っているのが応挙館です。江戸時代に名古屋市郊外の明眼院の書院として建てられ、内部は典型的な勝因づくりになっています。この明眼院は江戸期には眼病治療を行うお寺として、全国から患者が押し掛けたようで、日本画家の応挙もその一人でした。その縁で、この書院の中には、応挙の筆になる襖絵や床の間を飾る絵が描かれています。明治期になって、お寺での治療行為が禁止され、寺は寂れ、この書院は当時の三井の総帥の益田鈍翁に買い取られ品川に移設、応挙館の名前で茶室に転用されました。応挙館の前庭には、江戸時代には眼病治療に使われたというメグスリノキも植えられています。

 
 最後の茶室は、九条館という、江戸時代後期に京都御所内に建てられた書院でした。建てたのは、藤原氏北家の流れをくむ九条家で、代々摂政、関白職を輩出してきた貴族です。明治になって天皇とともに、東京の赤坂に引っ越し、この建物もアークヒルズ近くの九条家の居所として使われたのち博物館に寄贈されました。建物の内部には、藤原氏を象徴する藤の花をモティーフとする釘隠しや欄間などがちりばめられています。

 応挙館の襖絵は、コンピュータによる高精細ディジタルスキャンを使った複製がはめ込まれています。原本は保存のために収蔵庫に保管をされています。気温や湿度、さらには来訪者が触る事故などを考えれば、後世に文化財を伝えるためには、一つの選択肢かもしれません。また、複製は注意深く作られているので、部屋の雰囲気を変えてしまうということもありません。一方、最近驚いたのは、有名な寺院の三重塔の解体修理です。建っている地盤が弱いのでコンクリート・スラブで基礎を補強するとのこと。現在わかっている技術で、解体前の塔を構成する技術の解析はできるでしょうが、現在では解析不可能な部分は失われます。本物が消滅してしまうからです。先ほどの複製では、本物は残っているので、後の時代の技術で解析は可能なはずです。先代の漫談和尚の伝統でしょうか、文化財の保存と言いながら、実は重要な情報を消し去ってるような気がします。
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台中には日本統治時代の建築遺産がまだまだ元気に生きています(台湾)

2017-03-05 08:00:00 | 世界の町並み
 子供たちの前にマリアが出現したことで、キリスト教の聖地の一つとなっているのがポルトガルのファティマでした。マリアの出現は、にわかに信じがたいのですが、中国には、七福神の一人である布袋は、遠い未来に出現するという弥勒仏の垂迹、つまり化身という信仰があります。この信仰の元となるのは、実在する僧(布袋)の周りに不思議なことが、沢山起こったことによるそうです。この布袋の金色の大仏像がデンとあるのが、台湾の台中の宝覚寺です。今回は、その宝覚寺がある台中市内を紹介します。

 
 台中は、台北と高雄との中間ぐらいに位置していて、どちらからも高速鉄道(台湾高鉄)で50分くらいの乗車で到着します。ただ、台湾高鉄の台中駅は、市街地の南西端なので、接続駅から10分ほど乗ると在来線の台中駅に着きます。この台湾高鉄は日本の700系新幹線のシステムをそのまま輸出したもので、台北と高雄間を300km/hの速度で100分ほどで快適に走ります。筆者が乗車した頃は、シニア割引の制度があり、料金が半額になっていました。ただ、この制度は、訪問の翌年に廃止されたようで、経営不振から廃止のうわさも飛ぶ状況からかもしれません。

 訪問した頃の在来線の台中駅は、2代目の英国調の中央に時計台のある駅舎で、地上ホームでした。現在は、高架駅となっているので雰囲気もだいぶ変わったのではないでしょうか。特に、地上駅の時代には、裏口というのがあって、大都市の中央駅とは思えないローカル色が味わい深い風景を醸し出していました。

 
 
 この裏口から近いところにあるのが、台中創意文化園区です。日本の統治時代に酒造工場であった施設を利用し、イベントや文化・産業の展示場に変身しています。地元ッチーが数多く訪れているようですが、日本の姿はあまり見かけません。イベントなどの展示はともかく、かつての酒造工場の、レンガ造りを中心とした少し廃墟じみた建物群は一見の価値はあります。

 
 
 日本統治時代といえば、台中駅の表側の近くに旧台中州庁と旧台中市役所の建物が残されています。どちらの建物も、単なるモニュメントではなく。利活用がなされているようです。旧市役所は、ギリシャ神殿風で、銀行の建物かな?といったふんいきです。旧州庁は中庭を持つ、2階建てですが、かなり大規模な建物です。外壁は真っ白に仕上げられていますが、内部はレンガ造りが解る、ちょっと東京駅を思わせる建物です。

 
 
 台中駅の正面側には、統治時代の民間の建物の旧宮原眼科が食べ物などのお土産などを売る店に生まれ変わっています。2階建ての建物は、内部が吹き抜け状になっていて、天井まで至る壁面に商品のディスプレイがなされています。かつては眼科の医院であったということは、想像すらできないしゃれた空間になっています。

 
 さて、宝覚寺の布袋像ですが高さが30mとの情報がありますが、ちょっとサバを読んでるような感じがします。奈良の大仏が台座を入れて18m、鎌倉が13mあまりということから考えて、ほんと~?って感じです。人物と一緒に撮った写真から推定すると半分以下のの12~15mほどでしょうか。

 
 
 この、宝覚寺と台中駅の間にもいくつかの面白い建築がありますが、その中で広大な境内を持つのが台中孔子廟です。2.4万㎡ほどあるそうで、東京ドームの半分くらいでしょうか。建てられたのは新しく1976年で、中国の世界遺産である曲阜の孔子廟に倣ったのだそうです。これだけ、立派な建物の施設のわりに訪れる人は少なくって、のんびりできる空間の一つかもしれません。

 台湾高鐵は日本の新幹線システムを輸出したものですが、中国の高速鉄道は、自国の技術と称しています。乗車した感じは、明らかに日本などのコピーと思われますが、乗り心地は悪くはありません。ただ、彼らはハードなどはコピーをしたのでしょうが、システムとしてコピーをするのを忘れたように思います。何か、事故や、自然災害などが起こった時に、とてつもない大惨事になりそうなのは、先日の事故で証明されたようです。予想できない事が起こった時に、いかに安全な状態に持ってくるかということは、コンピュータで制御するシステムでも難しいんです。コンピュータは、事前に作られたソフトウェアの範囲でしか動作できないので、予測不能な事が起こった時にも次善の手を打てるかどうかが設計者の技量ではないでしょうか。
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山形駅の近くは、町中が明治大正期の洋風建築の博物館のようです

2017-02-26 08:00:00 | 日本の町並み
 和華蘭の文化の長崎の紹介が続きました。先に紹介のように、九州新幹線が分岐して長崎まで伸びる計画があります。分岐後は在来線を利用して、途中から新線を作る計画のようですが、軌間を変更する列車の技術が間に合わなくって、乗り換えになるとのこと。そこまでして、新幹線を引く必要性は、どう考えても無いように思います。いつもの政治家の無駄遣いで、結局その付けは利用者に回って来るわけです。どうしても引きたいなら、在来線の軌間だけを広くする山形新幹線方式ではだめなんでしょうか。今回は、最初に軌間を広くして乗り換えなしに新幹線を直通させた山形の市内を紹介します。

 山形市は、ご存知、山形県の県庁所在地ですが、山口と同様に、どことなくのんびりした雰囲気の漂う町並みが残っています。山形駅を南西隅とした1.5km四方ほどのエリアに、明治から大正にかけての建築や、お寺、教会、それに雰囲気の良い町並みが残っています。

 
 
 
 このエリアで駅から遠い北東端には教育資料館があります。明治時代に建てられた師範学校の校舎で、比較的最近まで高校の校舎として使われていたようです。資料館の裏側に回ると、その高校があって、よく手入れをされた花壇や植木越しに見る建物の時計塔も綺麗です。

 
 資料館から南に行くと広大な境内のある室町時代に創建の専称寺があります。境内が広く、ちょうど桜が綺麗に咲いていましたが、何の変哲もないお寺のようです。ただ、境内の墓所には、最上氏の娘で豊臣秀次の側室になる寸前に秀吉に処刑をされた悲劇の姫君である駒姫の墓があります。

 
 
 資料館から西に行くと、文翔館、大正期に建てられた旧県庁と県議会議事堂で、広大な前庭の中に建っています。同じ時代に、同じ設計者によって建てられた2つの建物ですが、議事堂はレンガ造り、県庁は御影石造りで髄部と印象が違います。文翔館の北東隣には大正時代に建てらた六日町教会が下見板張りの軽やかな姿を見せています。

 
 文翔館の正面に突き当たるT字路を南に行くと山形市の繁華街で、途中に御殿堰があります。江戸時代に作られた農業や生活用水のための疎水の名残で、こちらでは疎水とは呼ばず取水口の堰と呼ばれています。1mほどの綺麗な流れがあって、お土産屋や飲食店などが流れに沿ってありますが、水の流れはホッとさせます。

 御殿堰を西に曲がってJRを越えると山形城跡に出ます。山形城は明治時代に陸軍の駐屯地となり、城の建物は無くなり堀などの一部も埋め立てられてしまいました。現在は、本丸跡の発掘調査が行われ、本丸北枡形の復元を目指しています。その中で、二の丸東大手門などが復元されていますが、何とはなしに映画のオープンセットです。




 
 山形城に至る手前には、三角形の大きなファサードが印象的な山形美術館や最上氏関連の資料を展示する最上義光歴史館があります。ちょっと南に行くと、大正期の建物のカトリック山形教会があり、白い板張りの建物の上に丸い鐘楼が乗っています。内部も城を基調としたさわやかな空間でした。

 
 城跡公園の南東隅には、明治の初めに建てられた済生館が移築されています。中庭を持つ円形の建物の正面に4層の楼閣が建つという不思議な建物です。中庭に面した場所に立つと、ホテルのような感じがし、楼閣を見上げると、天文台のような感じもします。

 明治時代から大正時代にかけて、多くの洋館が建てられ、趣のある建物を目にすることができます。これらの洋館の大部分は、日本人の手によって日本の伝統技術を使って、外観のみを洋館に似せて作られたものが多いそうです。現代のように、ネットから種々の情報が得られるわけではなく、見た目だけが頼りだったのかもしれません。イギリス流の建築学をジョサイア・コンドルに学んだ辰野金吾などは、例外中の例外だったのではないでしょうか。ただ、これらの疑似洋館は、西洋の模倣ではなく、新しい価値の創造であった、ととらえていいのではないかと思います。
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アンコール・ワットの須弥山の建つ回廊の傾斜は高所恐怖症には辛い角度でした(カンボジア)

2017-02-19 08:00:00 | 世界遺産
 仏教が生まれたインドに、仏教遺跡ではないイスラム教の美しい廟が建てられたのがフユマーン廟やタージマハルでした。一方、インドで生まれたヒンドゥー教の遺跡が仏教国のカンボジアに残るのがアンコール・ワットです。今回は、以前に一度紹介したアンコール遺跡を、その周辺の遺跡を含めて、前回より写真を増やし、切り口を変えて紹介します。ただ、古いデジカメで撮った写真画混じるため、解像度や色再現性が良くないことはご容赦願います。

 アンコール遺跡は、カンボジアの中央部のやや北に位置し、カンボジアを代表する遺跡です。このことは、カンボジアの国旗の中央にアンコール・ワットが描かれていることにも表れています。遺跡群のある芭蕉は、12世紀から13世紀に栄えたクメール王朝の首都の跡で、シエムリアップの北4kmほどのところから、15km四方ほどの山林や原野の中に散在しています。アンコール・ワット遺跡はヒンドゥー教に根差したものですが、アンコール・トムは、仏教の観音信仰の寺院の跡で、両方の宗教がまじりあっています。


 シエムリアップに一番近いところにあるのがアンコール・ワットでヒンドゥー教の寺院跡ですが、およそ400年後に仏教寺院に改修されヒンドゥー教の神様が仏像に置き換えられたそうです。東西1.1km 南北0.9kmの長方形の敷地の周りを190m幅の堀が囲んでいて、広々とした前庭の中央東寄りに三重の回廊で囲まれた祠堂がそびえています。この3番目の回廊への階段が急で60度もあろうかと思われる石段です。登るときは上を見て上りますが、上がってみると下るのが恐ろしくなります。回廊にはおびただしいレリーフが彫られていて、インドネシアノボルブドゥール遺跡を思い起こさせます。

 
 
 
 アンコール・ワットは、堀の外から水面に映る姿も美しいのですが、遺跡の西にそびえるプノン・バケンに上ると、遺跡の全容が上から見られます。上りがきついとおっしゃられる方は、象に乗って登ることもできます。遺跡が、周りの緑に飲み込まれそうで、ジャングルの中に埋もれて歴史から忘れられた時期があることも解るように思います。この、プノン・バケンからは遺跡とは逆方向ですが夕日の名所でもあるようです。一方、朝日は遺跡の西門あたりで待っていると、遺跡の後ろからユラユラと日が昇ってきます。

 
 
 
 アンコール・トムは、アンコール・ワットの北側にあリ、一辺が3kmで複数の遺跡の集合体で、中心となるバイヨンなどは仏教遺跡ですが一部のヒンドゥー遺跡も含んでいます。仏教遺跡といっても、同じ石造りのボルブドゥール遺跡とはずいぶんと違います。やたらと巨大な観音の顔が彫られていて、圧倒的な迫力です。石造りは残りますが、木は朽ちてしまったらしく、象のテラスという遺跡は、かつては上部に木などで作られた閲兵席があり、石の基壇だけが残ったようです。遺跡に無頓着に上って写真を撮る観光客に対して、遺跡の中で瞑想する僧の姿が印象的でした。

  さらに北には、未完のタ・ケウや木が遺跡を飲み込んでしまったタ・プロームなど、数多くの遺跡群があって、頭の整理がつきません。さらに北東方向には、バンテアン・スレイ遺跡があり、こちらにはフランスのアンドレ・マルローが盗掘し逮捕されたデバターがあります。「東洋のモナリザ」と呼ばれるレリーフですが、マルローはこれを切り取ってフランスに持ち帰り、高く売ろうとたくらんでいたようです。空襲から奈良や京都を守ったとされているウォーナも、中国の莫高窟の壁画をはがして持ち帰ろうとしたことは有名で、所詮は西洋人と略奪とは切り離せないようです。アンコール最後の夜に、ホテルでみた現代の東洋のモナリザ達は、東洋人のやさしさにあふれていたようです。

 カンボジアと聞くと、どうしても内戦のことが頭に浮かびます。アンコール遺跡は、ポルポトはの砦として使われたそうで、確かに堀や望楼を備えた立派な城です。また、貴重な遺跡なので、政府軍も攻撃がしにくいという事情があったようです。遺跡や観光地が戦場になることは意外に多いようで、それを破壊することで、相手に精神的なダメージを与える効果があるのだそうです。文化遺産はいったん破壊せれてしまうと再生は、ほとんど不可能で、小さなものなら3Dプリンタという手(データが残されていれば)があるでしょうが、外見は似せられても、本物から得られる膨大な情報は喪失してしまいます。ディジタル技術が最上という誤った風潮がありますが、ディジタルは、その時点で効率の悪いと考えられているデータを落としているんです。
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