世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

ヨーロッパの田舎のスチャヴァ周辺には素晴らしい修道院群です(ルーマニア)

2017-03-19 08:00:00 | 世界遺産
 仏教とヒンドゥー教の遺跡が15km四方ほどの森林の中に散在しているのがアンコール遺跡でした。パッケージツアーのバスで回っても2日をかけても、その一部しか見られませんでした。一方、キリスト教の5つの修道院が農地の間に散在しているのがルーマニア北部のモルドヴァの教会群です。今回も2度目の紹介になりますが、写真を増やし、周辺も加えて紹介します。

 5つの修道院群があるのは、ルーマニアの最北端のスチャヴァ県で、北側はウクライナとの国境になります。県都のスチャヴァまで、首都のブカレストから急行列車で6時間半ほどです。現在は少し速くなってるかもしれませんが、「思えば遠くに来たもんだ!」という感じがします。このスチャヴァを起点に、その西側に散在する修道院は、個人旅行で行った場合は、タクシーをチャーターすることになります。筆者の場合は5~6時間かかったように思います。

 これらの修道院は、モルドヴァ公国の王がトルコとの戦勝の旅に一つづつ建てたもので、ルーマニア正教の教会堂です。どれも似たような外観ですが、内外の壁がフレスコ画で埋め尽くされ、壮観です。建物は対称的に作られていますが、北側の庇だけが深く作られていて、これは北からの風雨から壁画を守るための工夫だそうです。それでも、北側の壁画は、他の面に比べると痛みが激しいそうでした。これらのフレスコ画は、文字の読めない人に、聖書の内容を教えるためで、それぞれの絵は、聖書の重要な場面だそうです。

 それでは、筆者が訪れた順に5つの修道院と、現地のガイドさんに勧められて世界遺産未指定ですが素敵な修道院とを写真で紹介します。

 フモール修道院
 
 

 ヴォロネッツ修道院
 
 

 モルドヴィッツァ修道院
 
 

 スチェヴァッツァ修道院
 
 

 アルボーレ修道院
 

 ドラゴミルネイ修道院
 
 

 ここからはおまけの画像です。ルーマニア正教の教義に則った結婚式の写真です。 スチャヴァ市内にある教会に入ると、これから結婚式が始まるところでした。全くのよそ者でしたが、この結婚式の一部始終に参列する羽目になりました。
 

 移動中の車窓から見上げたコウノトリの巣は電柱の上。日本では大騒ぎをして保護しているコウノトリが野生で飛んでいます。最後の1枚は、修道院内で見た携帯電話を使う修道女、今から13年前ですから、日本でもやっとFOMAが出た頃です。俗世間から隔離されているはずの修道女には似つかわしくないかもしれないショットでした。
 

 広いエリアに家がまばらにしかない場合は、固定電話より携帯の方が効率がいい場合もあります。事実、携帯電話が出現する前には、電話局から家庭まで線を張らずに無線で飛ばす方式もありました。かつて、どこかの首相が電気も来ないアジアの国で、「それなら携帯電話にすれば!」なんて、ふざけた発言をしたことがあります。IT(アイティー)のことをイットとのたまった人間です。電話の情報は空を飛んでも、電力は現在のところは空を効率よく飛ばないんです。
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博物館の庭園には上野駅周辺の喧騒を忘れるような茶室が5つも建っています

2017-03-12 08:00:00 | 日本の町並み
 山形の専称寺には最上氏の娘で豊臣秀次の側室になる寸前に秀吉に処刑をされた悲劇の姫君である駒姫の墓がありました。わずかに15歳という幼い命だったようです。秀吉という、権力者の気まぐれで、本人はおろか眷属まで抹殺されてしまった、恐ろしい話です。権力というのは、集中するべきではないのですが、どうも日本人は、水戸黄門をはじめ権力者を英雄視して好む傾向があり怖いです。
 秀次を初め抹殺された人々の遺骸は、一つの穴に放り込まれ首塚が作られました。その後、鴨川の洪水で流されましたが、河川改修をした角倉了以により、瑞泉寺が興され供養塔が再建されました。この角倉了以の没後に入れ違いのように、淀川の改修などで富を得たのが河村瑞賢です。この河村瑞賢が、淀川改修の折に休憩所として建てた建物が、茶室として東京国立博物館の庭園に残されています。今回は、前振りが長くなりましたが、博物館の庭園にある5つの茶室を紹介します。

 博物館の庭園は、江戸時代に当地にあった寛永寺本坊の庭園の名残で、本館の裏側に広がっています。江戸時代に創建され、明治から昭和にかけて、こちらに移築された2つの書院茶室と3つの草庵茶室が木立の中に建っています。

 
 これらの茶室の最も東寄りにあるのが、河村瑞賢が休憩所として建て、昭和になって茶室として生まれ変わった春草廬です。元来が休憩所なので、茶室としての決まり事の躙り口や天井に変化を持たせるなどの建物ではありません。この建物は、三渓園を作った原三渓が購入したのち、茶の湯仲間の電力王の松永耳庵に贈られ、所沢の別荘に茶室として移築されたものです。後になって耳庵が小田原に引っ越した時に博物館に寄贈されたものです。この、春草廬の後方には桜の木があって、開花の頃には建物に覆いかぶさるように咲く桜は見事です。

 
 春草廬の西にあって、博物館のテラスから池越しに見える目立った茶室は、転合庵です。この茶室は、江戸時代の初期に小堀遠州が自邸に建てたものですが、これには日本文化を象徴するような逸話が残されています。ある日、遠州は桂離宮を作った八条の宮から一つの茶入れをプレゼントされます。このプレゼントを大変喜んだ遠州は、握りこぶし程度の小さな茶入れ一つのお披露目のためだけに、わざわざこの転合庵を建てたと言われています。小さな茶器が領土やお金と同じくらいの勝ちを持つことがあるという文化の片りんを感じさせる逸話です。

  さらに西に、木立の中に建っているのは、博物館が上野に来る前に移築された六窓庵です。江戸時代の初期に行為服地の塔頭の慈眼院に、金森宗和の好みで建てられました。利休の頃には内部が暗い茶室が好まれましたが、江戸時代になると明るい茶室が多くなり、この茶室も窓が六つあって、明るいだけでなく、時の移ろい、季節の移ろいを感じ取れる茶室になっています。この六草案は茶室の建物だけでなく、寄り付き、腰掛待合、雪隠など草案茶室として必要な道具立てがそろっています。

 
 残りは書院茶室で、2棟のうち東に建っているのが応挙館です。江戸時代に名古屋市郊外の明眼院の書院として建てられ、内部は典型的な勝因づくりになっています。この明眼院は江戸期には眼病治療を行うお寺として、全国から患者が押し掛けたようで、日本画家の応挙もその一人でした。その縁で、この書院の中には、応挙の筆になる襖絵や床の間を飾る絵が描かれています。明治期になって、お寺での治療行為が禁止され、寺は寂れ、この書院は当時の三井の総帥の益田鈍翁に買い取られ品川に移設、応挙館の名前で茶室に転用されました。応挙館の前庭には、江戸時代には眼病治療に使われたというメグスリノキも植えられています。

 
 最後の茶室は、九条館という、江戸時代後期に京都御所内に建てられた書院でした。建てたのは、藤原氏北家の流れをくむ九条家で、代々摂政、関白職を輩出してきた貴族です。明治になって天皇とともに、東京の赤坂に引っ越し、この建物もアークヒルズ近くの九条家の居所として使われたのち博物館に寄贈されました。建物の内部には、藤原氏を象徴する藤の花をモティーフとする釘隠しや欄間などがちりばめられています。

 応挙館の襖絵は、コンピュータによる高精細ディジタルスキャンを使った複製がはめ込まれています。原本は保存のために収蔵庫に保管をされています。気温や湿度、さらには来訪者が触る事故などを考えれば、後世に文化財を伝えるためには、一つの選択肢かもしれません。また、複製は注意深く作られているので、部屋の雰囲気を変えてしまうということもありません。一方、最近驚いたのは、有名な寺院の三重塔の解体修理です。建っている地盤が弱いのでコンクリート・スラブで基礎を補強するとのこと。現在わかっている技術で、解体前の塔を構成する技術の解析はできるでしょうが、現在では解析不可能な部分は失われます。本物が消滅してしまうからです。先ほどの複製では、本物は残っているので、後の時代の技術で解析は可能なはずです。先代の漫談和尚の伝統でしょうか、文化財の保存と言いながら、実は重要な情報を消し去ってるような気がします。
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台中には日本統治時代の建築遺産がまだまだ元気に生きています(台湾)

2017-03-05 08:00:00 | 世界の町並み
 子供たちの前にマリアが出現したことで、キリスト教の聖地の一つとなっているのがポルトガルのファティマでした。マリアの出現は、にわかに信じがたいのですが、中国には、七福神の一人である布袋は、遠い未来に出現するという弥勒仏の垂迹、つまり化身という信仰があります。この信仰の元となるのは、実在する僧(布袋)の周りに不思議なことが、沢山起こったことによるそうです。この布袋の金色の大仏像がデンとあるのが、台湾の台中の宝覚寺です。今回は、その宝覚寺がある台中市内を紹介します。

 
 台中は、台北と高雄との中間ぐらいに位置していて、どちらからも高速鉄道(台湾高鉄)で50分くらいの乗車で到着します。ただ、台湾高鉄の台中駅は、市街地の南西端なので、接続駅から10分ほど乗ると在来線の台中駅に着きます。この台湾高鉄は日本の700系新幹線のシステムをそのまま輸出したもので、台北と高雄間を300km/hの速度で100分ほどで快適に走ります。筆者が乗車した頃は、シニア割引の制度があり、料金が半額になっていました。ただ、この制度は、訪問の翌年に廃止されたようで、経営不振から廃止のうわさも飛ぶ状況からかもしれません。

 訪問した頃の在来線の台中駅は、2代目の英国調の中央に時計台のある駅舎で、地上ホームでした。現在は、高架駅となっているので雰囲気もだいぶ変わったのではないでしょうか。特に、地上駅の時代には、裏口というのがあって、大都市の中央駅とは思えないローカル色が味わい深い風景を醸し出していました。

 
 
 この裏口から近いところにあるのが、台中創意文化園区です。日本の統治時代に酒造工場であった施設を利用し、イベントや文化・産業の展示場に変身しています。地元ッチーが数多く訪れているようですが、日本の姿はあまり見かけません。イベントなどの展示はともかく、かつての酒造工場の、レンガ造りを中心とした少し廃墟じみた建物群は一見の価値はあります。

 
 
 日本統治時代といえば、台中駅の表側の近くに旧台中州庁と旧台中市役所の建物が残されています。どちらの建物も、単なるモニュメントではなく。利活用がなされているようです。旧市役所は、ギリシャ神殿風で、銀行の建物かな?といったふんいきです。旧州庁は中庭を持つ、2階建てですが、かなり大規模な建物です。外壁は真っ白に仕上げられていますが、内部はレンガ造りが解る、ちょっと東京駅を思わせる建物です。

 
 
 台中駅の正面側には、統治時代の民間の建物の旧宮原眼科が食べ物などのお土産などを売る店に生まれ変わっています。2階建ての建物は、内部が吹き抜け状になっていて、天井まで至る壁面に商品のディスプレイがなされています。かつては眼科の医院であったということは、想像すらできないしゃれた空間になっています。

 
 さて、宝覚寺の布袋像ですが高さが30mとの情報がありますが、ちょっとサバを読んでるような感じがします。奈良の大仏が台座を入れて18m、鎌倉が13mあまりということから考えて、ほんと~?って感じです。人物と一緒に撮った写真から推定すると半分以下のの12~15mほどでしょうか。

 
 
 この、宝覚寺と台中駅の間にもいくつかの面白い建築がありますが、その中で広大な境内を持つのが台中孔子廟です。2.4万㎡ほどあるそうで、東京ドームの半分くらいでしょうか。建てられたのは新しく1976年で、中国の世界遺産である曲阜の孔子廟に倣ったのだそうです。これだけ、立派な建物の施設のわりに訪れる人は少なくって、のんびりできる空間の一つかもしれません。

 台湾高鐵は日本の新幹線システムを輸出したものですが、中国の高速鉄道は、自国の技術と称しています。乗車した感じは、明らかに日本などのコピーと思われますが、乗り心地は悪くはありません。ただ、彼らはハードなどはコピーをしたのでしょうが、システムとしてコピーをするのを忘れたように思います。何か、事故や、自然災害などが起こった時に、とてつもない大惨事になりそうなのは、先日の事故で証明されたようです。予想できない事が起こった時に、いかに安全な状態に持ってくるかということは、コンピュータで制御するシステムでも難しいんです。コンピュータは、事前に作られたソフトウェアの範囲でしか動作できないので、予測不能な事が起こった時にも次善の手を打てるかどうかが設計者の技量ではないでしょうか。
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山形駅の近くは、町中が明治大正期の洋風建築の博物館のようです

2017-02-26 08:00:00 | 日本の町並み
 和華蘭の文化の長崎の紹介が続きました。先に紹介のように、九州新幹線が分岐して長崎まで伸びる計画があります。分岐後は在来線を利用して、途中から新線を作る計画のようですが、軌間を変更する列車の技術が間に合わなくって、乗り換えになるとのこと。そこまでして、新幹線を引く必要性は、どう考えても無いように思います。いつもの政治家の無駄遣いで、結局その付けは利用者に回って来るわけです。どうしても引きたいなら、在来線の軌間だけを広くする山形新幹線方式ではだめなんでしょうか。今回は、最初に軌間を広くして乗り換えなしに新幹線を直通させた山形の市内を紹介します。

 山形市は、ご存知、山形県の県庁所在地ですが、山口と同様に、どことなくのんびりした雰囲気の漂う町並みが残っています。山形駅を南西隅とした1.5km四方ほどのエリアに、明治から大正にかけての建築や、お寺、教会、それに雰囲気の良い町並みが残っています。

 
 
 
 このエリアで駅から遠い北東端には教育資料館があります。明治時代に建てられた師範学校の校舎で、比較的最近まで高校の校舎として使われていたようです。資料館の裏側に回ると、その高校があって、よく手入れをされた花壇や植木越しに見る建物の時計塔も綺麗です。

 
 資料館から南に行くと広大な境内のある室町時代に創建の専称寺があります。境内が広く、ちょうど桜が綺麗に咲いていましたが、何の変哲もないお寺のようです。ただ、境内の墓所には、最上氏の娘で豊臣秀次の側室になる寸前に秀吉に処刑をされた悲劇の姫君である駒姫の墓があります。

 
 
 資料館から西に行くと、文翔館、大正期に建てられた旧県庁と県議会議事堂で、広大な前庭の中に建っています。同じ時代に、同じ設計者によって建てられた2つの建物ですが、議事堂はレンガ造り、県庁は御影石造りで髄部と印象が違います。文翔館の北東隣には大正時代に建てらた六日町教会が下見板張りの軽やかな姿を見せています。

 
 文翔館の正面に突き当たるT字路を南に行くと山形市の繁華街で、途中に御殿堰があります。江戸時代に作られた農業や生活用水のための疎水の名残で、こちらでは疎水とは呼ばず取水口の堰と呼ばれています。1mほどの綺麗な流れがあって、お土産屋や飲食店などが流れに沿ってありますが、水の流れはホッとさせます。

 御殿堰を西に曲がってJRを越えると山形城跡に出ます。山形城は明治時代に陸軍の駐屯地となり、城の建物は無くなり堀などの一部も埋め立てられてしまいました。現在は、本丸跡の発掘調査が行われ、本丸北枡形の復元を目指しています。その中で、二の丸東大手門などが復元されていますが、何とはなしに映画のオープンセットです。




 
 山形城に至る手前には、三角形の大きなファサードが印象的な山形美術館や最上氏関連の資料を展示する最上義光歴史館があります。ちょっと南に行くと、大正期の建物のカトリック山形教会があり、白い板張りの建物の上に丸い鐘楼が乗っています。内部も城を基調としたさわやかな空間でした。

 
 城跡公園の南東隅には、明治の初めに建てられた済生館が移築されています。中庭を持つ円形の建物の正面に4層の楼閣が建つという不思議な建物です。中庭に面した場所に立つと、ホテルのような感じがし、楼閣を見上げると、天文台のような感じもします。

 明治時代から大正時代にかけて、多くの洋館が建てられ、趣のある建物を目にすることができます。これらの洋館の大部分は、日本人の手によって日本の伝統技術を使って、外観のみを洋館に似せて作られたものが多いそうです。現代のように、ネットから種々の情報が得られるわけではなく、見た目だけが頼りだったのかもしれません。イギリス流の建築学をジョサイア・コンドルに学んだ辰野金吾などは、例外中の例外だったのではないでしょうか。ただ、これらの疑似洋館は、西洋の模倣ではなく、新しい価値の創造であった、ととらえていいのではないかと思います。
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アンコール・ワットの須弥山の建つ回廊の傾斜は高所恐怖症には辛い角度でした(カンボジア)

2017-02-19 08:00:00 | 世界遺産
 仏教が生まれたインドに、仏教遺跡ではないイスラム教の美しい廟が建てられたのがフユマーン廟やタージマハルでした。一方、インドで生まれたヒンドゥー教の遺跡が仏教国のカンボジアに残るのがアンコール・ワットです。今回は、以前に一度紹介したアンコール遺跡を、その周辺の遺跡を含めて、前回より写真を増やし、切り口を変えて紹介します。ただ、古いデジカメで撮った写真画混じるため、解像度や色再現性が良くないことはご容赦願います。

 アンコール遺跡は、カンボジアの中央部のやや北に位置し、カンボジアを代表する遺跡です。このことは、カンボジアの国旗の中央にアンコール・ワットが描かれていることにも表れています。遺跡群のある芭蕉は、12世紀から13世紀に栄えたクメール王朝の首都の跡で、シエムリアップの北4kmほどのところから、15km四方ほどの山林や原野の中に散在しています。アンコール・ワット遺跡はヒンドゥー教に根差したものですが、アンコール・トムは、仏教の観音信仰の寺院の跡で、両方の宗教がまじりあっています。


 シエムリアップに一番近いところにあるのがアンコール・ワットでヒンドゥー教の寺院跡ですが、およそ400年後に仏教寺院に改修されヒンドゥー教の神様が仏像に置き換えられたそうです。東西1.1km 南北0.9kmの長方形の敷地の周りを190m幅の堀が囲んでいて、広々とした前庭の中央東寄りに三重の回廊で囲まれた祠堂がそびえています。この3番目の回廊への階段が急で60度もあろうかと思われる石段です。登るときは上を見て上りますが、上がってみると下るのが恐ろしくなります。回廊にはおびただしいレリーフが彫られていて、インドネシアノボルブドゥール遺跡を思い起こさせます。

 
 
 
 アンコール・ワットは、堀の外から水面に映る姿も美しいのですが、遺跡の西にそびえるプノン・バケンに上ると、遺跡の全容が上から見られます。上りがきついとおっしゃられる方は、象に乗って登ることもできます。遺跡が、周りの緑に飲み込まれそうで、ジャングルの中に埋もれて歴史から忘れられた時期があることも解るように思います。この、プノン・バケンからは遺跡とは逆方向ですが夕日の名所でもあるようです。一方、朝日は遺跡の西門あたりで待っていると、遺跡の後ろからユラユラと日が昇ってきます。

 
 
 
 アンコール・トムは、アンコール・ワットの北側にあリ、一辺が3kmで複数の遺跡の集合体で、中心となるバイヨンなどは仏教遺跡ですが一部のヒンドゥー遺跡も含んでいます。仏教遺跡といっても、同じ石造りのボルブドゥール遺跡とはずいぶんと違います。やたらと巨大な観音の顔が彫られていて、圧倒的な迫力です。石造りは残りますが、木は朽ちてしまったらしく、象のテラスという遺跡は、かつては上部に木などで作られた閲兵席があり、石の基壇だけが残ったようです。遺跡に無頓着に上って写真を撮る観光客に対して、遺跡の中で瞑想する僧の姿が印象的でした。

  さらに北には、未完のタ・ケウや木が遺跡を飲み込んでしまったタ・プロームなど、数多くの遺跡群があって、頭の整理がつきません。さらに北東方向には、バンテアン・スレイ遺跡があり、こちらにはフランスのアンドレ・マルローが盗掘し逮捕されたデバターがあります。「東洋のモナリザ」と呼ばれるレリーフですが、マルローはこれを切り取ってフランスに持ち帰り、高く売ろうとたくらんでいたようです。空襲から奈良や京都を守ったとされているウォーナも、中国の莫高窟の壁画をはがして持ち帰ろうとしたことは有名で、所詮は西洋人と略奪とは切り離せないようです。アンコール最後の夜に、ホテルでみた現代の東洋のモナリザ達は、東洋人のやさしさにあふれていたようです。

 カンボジアと聞くと、どうしても内戦のことが頭に浮かびます。アンコール遺跡は、ポルポトはの砦として使われたそうで、確かに堀や望楼を備えた立派な城です。また、貴重な遺跡なので、政府軍も攻撃がしにくいという事情があったようです。遺跡や観光地が戦場になることは意外に多いようで、それを破壊することで、相手に精神的なダメージを与える効果があるのだそうです。文化遺産はいったん破壊せれてしまうと再生は、ほとんど不可能で、小さなものなら3Dプリンタという手(データが残されていれば)があるでしょうが、外見は似せられても、本物から得られる膨大な情報は喪失してしまいます。ディジタル技術が最上という誤った風潮がありますが、ディジタルは、その時点で効率の悪いと考えられているデータを落としているんです。
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長崎の蘭文化は江戸時代というより明治以降の西洋文化の名残が強いようです

2017-02-12 08:00:00 | 日本の町並み
 長崎の和華蘭の3回目で今回は蘭ですが、英や葡などもありのようです。長崎の蘭というと出島を思い浮かべますが、出島に最初に来たいたのはオランダ人ではなくポルトガル人だったのです。キリスト教の禁教令によりポルトガル人はオランダ人にとって代わることになります。しかし、オランダだってキリスト教国で、「我が国はキリスト教とは関係ありません」とはよく言えたもので、オランダ人の欺瞞性を感じます。出島は明治時代に周りを埋め立てられて島ではなくなってしまいましたが、1996年から復元事業が開始されています。かつてのオランダ商館の建物の復元だけでなく、周辺を堀で囲んで島の輪郭を復元するのだそうです。

 
 
 蘭が名前に現れているところがオランダ坂ですが、このオランダ坂なるものは山手の居留地に通ずる坂の名前として沢山あるようです。江戸時代の名残で明治以降の居留地に出入りする西洋人をすべてオランダさんと呼んでいたようで、そのオランダさんが通る坂という意味です。ただ、観光客に有名なオランダ坂は活水女子大に通じる坂で、その先には東山手の洋館群があります。この場所は重伝建地区になっていて、番号の着いた居留地の名残の洋館が坂にへばりつくように建っています。神戸でもそうですが、異人館は坂の上に建っているんです、眺めは良かったでしょうが、外出は大変だったのでは。ただ、これらの外人たちは歩くのではなく人力車かなんかに乗ってたんでしょうね。

 
 オランダはキリスト教とは関係ないといった、そのキリスト教関連の建物が多いのも長崎です。教会建築で唯一の国宝の大浦天主堂は、江戸時代に建てられたものを明治に改築したもの。現在の天主堂は、外壁にレンガを積んだゴシック様式ですが、当初のものは3本の塔を持つバロック風で写真を見ると随分とイメージが違います。大浦天主堂は途中までの道にも風情があり、長崎の町を見下ろすマリア像がアクセントになっているように思います。

 
 一方、大浦天主堂に負けない天主堂をということで建てられた浦上天主堂ですが、明治期の建物は原爆で全壊、現在の建物は1959年の再建のものです。浦上天主堂とやや遅れて建てられたのが長崎駅近くにある中町教会で、浦上の外壁がレンガ色に対して中町は真っ白です。こちらの協会も原爆で塔や外壁を残して被災し、1952年に復元されたものです。

 
 原爆の悲劇の前にはキリシタン弾圧の悲劇があったわけですが、秀吉に処刑されたキリスト教徒の殉教碑、記念館そして記念聖堂が並んでいます。記念館の横の壁には「長崎への道」と題したフレスコ、モザイク壁画が描かれていて、ガウディ風の塔を持つのが記念聖堂です。



 
 長崎に入ってきたのはキリスト教だけではなく、オランダからではなくイギリス人のグラバーがビールも持ち込みました。長崎の一大観光地となっているグラバー園の中でも最も人気があるのがグラバー邸で、筆者が修学旅行で訪れた頃に公開されていたのはグラバー邸だけでした。このグラバー邸はライトアップされた姿も綺麗で、邸内から眺める長崎の夜景も格別です。ただ、グラバー個人については死の商人のイメージが強く、好きではありません。

 日本人にとって江戸時代には最先端の技術はオランダのもので蘭学の言葉に如実に表れています。ところが、世界史、特に化学技術史を見てみるとオランダってほとんど出てこない、ドイツ、イギリス、イタリア、フランスなど、コペルニクスだってポーランド人です。シーボルトはドイツ人、オランダ人は単に商才に長けていただけのように思います。現在のオランダも農業、特に花の国でITとは縁が無さそうですが、花の生育に欠かせない温度や肥料の管理には高度なコンピュータ技術が使われているそうです。日本企業の支援だそうで、技術の流れは逆転したようです。
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マリアの出現は信じなくてもファティマ大聖堂はロケットのように天を突いて見事です(ポルトガル)

2017-02-05 08:00:00 | 世界の町並み
 かつては首都でもあった南京には郊外には世界遺産の明孝陵もありますが、旧市街もなかなか魅力的な街並みが広がっていました。我が国にもある孔子廟も夫子廟という名前で、運河が近くを流れていて中国らしい風景です。孔子といえば4大宗教の一つの儒教の聖人ですが、キリスト教の聖人のマリアが20世紀に現れたという場所がポルトガルにあります。今回は、そのファティマを紹介します。

 ファティマは、ポルトガルの首都リスボンの北120kmほど、ポルトからは南へ190kmほどの田舎町です。世界遺産のキリスト教修道院のあるトマルと絵のように美しい漁村と言われるナザレのちょうど中間に位置します。リスボンとポルトを結ぶ長距離バスが立ち寄るとの情報もありますが、かなり不便な場所です。ちなみに、筆者はリスボン発でアルコバッサなどの世界遺産などに加えてファティマにも立ち寄る現地発着の英語ガイド付きバスツアーに乗っかりました。

 ファティマの聖母の話はおおむね次のようなものです。
 1917年5月13日に、3人の幼女の前にマリアが出現し、その後毎月13日に出現をして予言をしたということです。この予言は第一次大戦や第二次大戦に関するもので、信者からは的中したと言われています。ノストラダムスの予言で21世紀は来ることなく世界が滅びると言われましたが、我々は普通に21世紀を生きています。信者以外の門外漢には、予言で右往左往するのは滑稽に見えます。

 


 しかし、信者にとっては大切な聖地で、巡礼のための場所のようで、マリアが出現したという場所にあるマリア像の周りや、大聖堂には数多くの信者が集まってお祈りをしていました。驚いたのは、地面にひれ伏しながら、尺取虫のように少しずつ大聖堂に向かって進んでいく人々がいたことです。チベット仏教でも同様な姿があったように思いますが、宗教の恐ろしさのようなものを感じました。

 
 ただ、宗教色から離れてバシリカ様式の大聖堂を見ると、ちょっと他で見る教会とは一味違って見事な建物です。規模は違いますが、平戸にあるザビエル記念教会とも似て、天を突く鐘楼は巨大なロケットのようにも見えます。第三の予言で世界は滅び、その前に地球から脱出するためのものなのでしょうか。

 ファティマの奇跡は宇宙人の演出との説もあるようです。地球外生物が、なぜ地球人と同じような構造体で、同じ考え方をする、と誰が決めつけたのでしょうか。地球上であっても、人類とは全く違った形で、エネルギーの取り込み方も異なる生物がいるわけで、どこかの天体で水が発見されたから、生物がいるかもしれない、という論理すらナンセンスです。IT技術は、今や全盛ですが、ほんの百年前までは仕組みさえ未知の分野だったわけです。宇宙人やUFOを論じる人は、19世紀のジュールベルヌよりも想像力の無い人々かもしれません。
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崇福寺の境内や孔子廟に入るとここが日本の長崎ということを忘れてしまいます

2017-01-29 08:00:00 | 日本の町並み
 
 長崎の和華蘭文化を紹介していますが、今回は華(中国文化)になります。前回の和の文化で紹介した諏訪神社で披露される蛇踊りは明らかに華の文化に根差したものです。この蛇踊りは、横浜や神戸の中華街では、春節の時には、中国舞踊や中国の獅子舞と一緒に演じられます。このような混沌さが、長崎のチャンポン文化なのでしょう。

 長崎の中国人文化は、江戸幕府が中国商船の入港を長崎一港に限定し、居住も長崎市内の特定地域としたことに始まります。中華街の元祖のようなものでしょうが、これを唐人屋敷と呼びました。当時の中国は清朝の時代で唐ではありませんが、唐とは中国人や外国人全般を指したようです。オランダ人と違って、このエリアからの出入りは比較的自由だったそうです。

 
 
 この唐人屋敷は出島の南南東700mほどの少し小高くなった館内町あたりです。北西端には唐人屋敷象徴門という高さが9m近くもある中華門が建っており、この下を通る通りの名前も唐人屋敷通りとなっています。現在は、民家に完全に飲み込まれてしまっていて、いくつかの祠が残されているだけです。一番手前にあるのが土神堂で門を入るとすぐに小さな石橋の向こうに小さなお堂が建っています。土の神様を祭ったそうです。その奥にあるのが天后堂でこちらは航海の神様の媽祖神をお祭りしたお堂です。そこから左に折れると観音堂で建物は先の天后堂と似ています。どの建物も火災により再建されたようですし、訪れる人も少ないのか荒れて寒々としています。

 
 ちなみに、現在の中華街は唐人屋敷跡から唐人屋敷象徴門から北西300mほど行った路面電車通りに近いところにあります。

 
 この唐人屋敷の人たちが建てた寺が長崎三福寺で、それぞれの出身地ごとに浙江省・江蘇省の興福寺、福建省泉州の福済寺そした福建省福州の崇福寺があります。この中で大雄宝殿が国宝に指定されている崇福寺に参拝すると、宇治の万福寺と同様に日本の寺とは違う雰囲気です。台湾のお寺などで見かけたお札などを焼く竈があって共通性を認識します。

 
 中国というと、仏教というより儒教の世界で、中華街と孔子廟や関帝廟はセットのように思います。長崎の関帝廟は興福寺と崇福寺の中にあって独立の施設はありませんが、孔子廟は明治期に建てられ中国歴代博物館も併設されていてなかなか立派です。境内には72賢人石像がずらりと並び、ミニ兵馬俑の気分です。どうも人物像を群像で並べるのは中国の文化なのでしょうか。

 中国のお寺や塔を見ると軒の出が浅いように感じます。特に、多重の塔はそうで、ずんぐりとして、日本人の美意識からは、あまり美しくありません。この軒の出を支えているのが組物で肘木と斗(ます)で、二段にせりだすの二手先、三段ににせり出すものが三手先と呼ばれています。これらの建築技法の元は中国から伝わったのではないかと思われますが、すたれてしまったのでしょうか。現代の建築はコンピュータによる構造計算や自動描画などが進んでいますが、木造の伝統技法は、日本でも退化しつつあるように思います。そのうちに、軒の深い塔などは修理できなくなる日が来ないか心配です。
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スケジュールが合えばタージマハルを満月の下で眺めるたいものです(インド)

2017-01-22 08:00:00 | 世界遺産
 デリーの市内にタージマハルと似たイスラムの廟が建つのがフユマーン廟でした。このフユマーン廟は、後に建てられたタージマハルに大きな影響を与えたといわれています。このブログでは、12年前に紹介をしていますが、今回は違った切り口で、写真も増やして再度紹介したいと思います。
タージマハルは、インドの首都の南南東180kmほどのアーグラの都心部の東のヤムナー川を背にして建っています。アーグラは15世紀に年の形が形成され、16世紀にはムガール帝国の首都となった都市です。タージマハルの他に、アーグラ城とファテープル・シークリーが世界遺産に登録され、北部インドの観光拠点の一つになっています。

タージマハルは、ムガール帝国第5代皇帝のシャー・ジャハーンが、遠征に同行し遠征先で亡くなった妻ムムターズ・マハルのために17世紀に作ったイスラム様式の廟です。タージマハルは白大理石で作られていますが、川を挟んだ北岸には、シャー・ジャハーン自身の廟を黒大理石で作る計画していたそうです。ところが、長男を後継者と考えていたことに不満を抱いた三男に反旗を翻され、アーグラ城に幽閉されてしまいました。黒大理石の廟は実現せず、窓から見えるタージマハルを眺めながら無念のうちに死亡したようです。

 
 
 さて、真っ白に輝くタージマハルですが、デリーにあるフマユーン廟とは、色が違うだけでなく、敷地の形も違っています。フユマーン廟では正方形の敷地の中央に廟が建っており、門は東西南北の4つありますが、タージマハルでは長方形の敷地に建つため門は南の大楼門のみになりはす。この門は赤砂岩で作られ、アーグラ城と似た色合いで、真っ白の廟とは好対照です。門と廟との間の庭には水路があり、この水面に映る楼門も廟も絵葉書写真になります。また、楼門越しに眺める廟は額縁効果で、白さもさらに引き立つようです。

  
 タージマハルは、庭の向こうにすっくと建っているすがたも美しいのですが、近づいてみると細かな模様がいたる所に彫りこまれています。この彫刻は廟の本体だけでなく、基壇部分にも彫り込まれています。また、中央部のドームですが、フユマーン廟に比べて、より球形に近く九の上半分だけでなく、下の部分が多く、、まさしくネギ坊主の形です。実は、このドームは二重構造になっていて、外から見ると巨大なドームも中からは小さく見えます。外の見栄えと、内部空間のバランスを両立させたものだそうです。同じように二重ドームで有名なものにフィレンツェのドゥオモがありますが、ドゥオモの方は巨大なドームの建築構造上の問題解決の手段だったようです。

 昼間に見ても美しいタージマハルですが、満月の前後には夜間にも入場できるようです。いろいろと制約が多くて、廟の建物のそばには行けないとのことですが、月光に照らされた青白い建物はさぞや見事であろうと思います。青白いというイメージが強い月の光のですが、月で反射した太陽光には赤の成分の方が多く、月は太陽より赤く見えるはずですが、青く見えるのは人間の目の感覚のせいなのだそうです。人間の目は、光が弱い時には、青色に対して敏感に感じ、月のように、弱い光では青く見えるのだそうです。光を初め、いろいろな感覚に対して、コンピュータなどが読み込めるようにセンサが開発されています。これらのセンサは、正直に光の強さを認識しますが、暗いところで青を強く感じる人間の感覚は、人間が生きていくうえで何か理由があったはずなのでしょうね。
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和といっても華や蘭さらには葡の影響が大きな長崎です

2017-01-15 08:00:00 | 日本の町並み
 長崎県の武雄温泉には、東京駅を設計した辰野金吾設計の重文の楼門が東京駅とはまるで違ったイメージで建っていました。その武雄温泉駅は鳥栖から分岐した長崎新幹線が、在来線規格からフル規格に切り替わる予定の駅です。今回は、その長崎新幹線の終点の長崎を紹介します。長崎といえば、和華蘭といって日本、中国それにオランダ文化が融合した町として観光キャンペーンをしていますが、今回は和の面からの紹介ですが、この3か国の文化をどう分けるか、なかなか難しくてワカラン。

 
 長崎の和の文化というと、日本独自の文化と外国の文化が根付いて発展した文化とが分けづらいところがあるように思います。この混沌さが長崎なのかもしれません。今回の和の文化は、筆者の独断と偏見による分類で取り上げてみます。

 
 
 まずは、これは日本と思われる神社の諏訪神社ですが、「くんち」で練り歩く蛇踊りは華の文化の影響のようです。路面電車の電停を降りて拝殿まではかなりの石段があって、息が切れますが、振り返ると長崎市内がよく見渡せます。神社としては比較的新しく16世紀に京都から分霊したとのことで、そのこともあって「くんち」に中国の影響の蛇踊りがあるのかもしれません。

 
 
 一方、明治以降に西欧に追いつくために鉱工業生産に力を入れた、明治期の産業遺産は世界遺産にもなっています。軍艦島が有名ですが、手軽に行ける三菱重工の長崎造船所資料館を紹介します。資料館は三菱重工の工場内にあり、湾の東側のグラバー園などの対岸にあります。長崎駅前からマイクロバスで送迎をしてくれ、便利ですが、これは企業秘密の多い工場内をうろうろされては困るためのようです。建物は、長崎造船所の木型場として明治31年に建てられたレンガ造りのもので、なかなか趣があります。工場が手掛けた蒸気タービンや工作機械のほか、戦艦武蔵の貴重な写真や資料も展示されています。

 
 もう一つ同じ年の明治31年に建てられた建物の旧長崎税関下り松派出所を紹介します。重要文化財にも指定され、現在はべっ甲工芸館として再利用されています。レンガ造りの擬洋館で、中央の2つのアーチと両端の突き出した破風がおしゃれな建物です。

 レンガの建物が続きましたが、白漆喰の土蔵造りで格子がはまった店が思案橋を南に入った所に見つけました。カステラの老舗の福砂屋で、寛永年間の創業ということは、およそ400年の歴史のあるお菓子屋さんです。建物は、創業当時のものとは違うでしょうが、純粋の日本調ですが、作っているカステラはポルトガル文化を受けたものです。こんなところが、長崎なのでしょう。

諏訪神社の境内で修学旅行生に会いました、見たような制服とバッジで故郷の女子高と分かりました。京都でもよく見かける光景ですが、最近の修学旅行は、グループ単位でタクシーに分乗して行動するようです。筆者の頃は、貸し切りバスによる団体行動でしたが、途中ではぐれてしまった一団がいたんです、それも長崎でした。スマホはおろかケータイもない頃ですから、連絡は取れない、自分の居る場所や周辺の地理もわからない状況です。夢中で、長崎の坂を上ったり下ったり、夢中でバスを探したのだそうです。最終的に、どうにか合流でき、先生からはグループから離れたことで目玉を食らったようです。彼らは、持てる情報から、知恵を絞って解決策を模索したようで、試行錯誤なく掌の中で情報を引き出せる現代の学生より、優れていたのでは、と思います。
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