世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

高岡の古い町並みには、なぜか赤い色の路面電車もよく似合います

2012-05-27 08:00:00 | 日本の町並み
 駅周辺の喧騒がうそのような寺町が、駅から10分ほど南に広がっているのが高円寺でした。教会にはカリオンが、日本のお寺には梵鐘がつき物ですが、その梵鐘を現在も作り続けている町が富山県の高岡です。今回は、路面電車が街中を走り、しっとりとした古い町並みが残されている高岡を紹介します。

 高岡は、富山県の北西部の富山湾に面した富山県第2の都市で、高岡城の城下町です。高岡城は一国一城令により江戸初期に早々と廃城となり、その跡は米蔵、塩倉、火薬倉として使われてきたようです。その城址はJR高岡駅の北側にあって、現在は他の地方の城跡と同様に城址公園になっています。城下町の雰囲気を残す古い町並みが残されているのは、城址公園とは路面電車が走る通りを隔てた西側の山町筋と金屋町あたりになります。

 
 山町筋は重伝建造物地区に指定され、平入りに土蔵造りの建物が多い地区です。中でも1階に格子があり、2階が黒漆喰の土蔵造りの商家の建物である菅野家は重要文化財に指定されています。土蔵造りの町家の隣には、洋風の土蔵ともとも言えるレンガ造りの銀行の建物もあって、面白い対比を見せています。



 
 
 一方の、金屋町は、路面電車の通りからはだいぶ西北に行ったところに位置し、無電柱化された町並みは、すっきりとしています。石畳の通り沿いに、平入りで格子が連なり、うだつのある家並みは、どこか優雅な感じがします。訪れた時は、町制400年の記念祭をやっていて、道路に面した部屋を開け放ってお琴の演奏などもやっていて、優雅さが増幅されていたようです。

 山町筋の近くを走る路面電車は3セクの万葉線で、旧式な電車に混じって超低床のLRTが走っています。ヨーロッパなどでよく見かけるスタイルの電車ですが、真っ赤に塗られた車体は、意外と古風な町並みに似合っているように見えます。この万葉線は、かつては加越能鉄道の路線でしたが、乗客数が減って廃止の予定でしたが、存続を望む高岡市と新港市とが中心になって3セクを設立して存続された路線です。ちなみに、万葉線の名称は、万葉集の編者の大伴家持が高岡の伏木に赴任して編集や作歌をしたことによるものです。また、加越能鉄道とは、加賀、越中それに能登を結ぶ鉄道として設立された会社でしたが、路線網最大時でも越中の1国のみの鉄道で、現在はバス路線のみの会社となってしまっています。

 ところで、高岡の梵鐘ですが、江戸初期に前田氏が、河内の国から鋳物師を招いて金屋に住まわせ保護したことに始まるようです。第二次世界大戦で、日本のお寺の梵鐘の9割が兵器になってしまったといわれています。戦後に、それらの梵鐘を復刻する折に、その8割以上が高岡の老子(おいご)製作所で引き受け、梵鐘というと高岡ということになったようです。広島の平和の鐘や国連の平和の鐘も老子製作所で鋳造されたものだそうです。

 現在の老子製作所は城端(じょうはな)線沿線の工業団地にありますが、高岡を出た城端線の列車が、裏をかすめて通っているのが瑞龍寺です。江戸初期に建造された3つの建物が国宝に指定された、富山県を代表する大きな寺院です。ちなみに、富山県の国宝建造物は、瑞龍寺の3件のみだそうです。この中の仏殿の屋根は、梵鐘の材料の青銅ではありませんが鉛葺きとして有名です。冬の積雪対策が目的のようですが、非常時には、鉛の瓦を鉄砲の弾の材料にするためだ、とも言われてきました。筆者の学生の頃には、お寺の宿坊がユースホステルとなっていて、夜には仏殿で高岡を紹介するスライドを見せてもらった記憶があります。

 鉛というと、現在問題となっている放射線による被爆を防ぐ物質の一つとして知られています。放射線はα線、β線、γ線それに中性子線がありますが、外部被爆が問題となるのは、テレビの電波などと同じ電磁波の一種であるγ線です。γ線は、同じ電磁波のX線と同様に透過力が高く、鉛板をもってしても、5cmの厚さで1/10程度に弱めることができるだけです。瑞龍寺の鉛の屋根瓦は、将来の核戦争に備えて、放射線を防ぐために葺かれたわけではないでしょうが。
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湖のような河口をバックに巨大な聖ヤコブ大聖堂のドームが遠望できるシベニクです(クロアチア)

2012-05-20 08:00:00 | 世界遺産
 ゴチックの聖堂の多いドイツで、国内で最大級のロマネスクの聖堂がシュパイヤー大聖堂でした。ロマネスクの教会で最大規模を誇るものは、かつてフランスにあったクリュニー修道院といわれていますが、レンガや木等を使わず石のみで作られた最大の教会はクロアチアのシベニクにある聖ヤコブ大聖堂です。今回は、聖ヤコブ大聖堂のあるシベニクも合わせて紹介します。

 シベニクは、クロアチアのアドリア海沿岸の中央部にあるダルマチア地方を代表する都市の一つです。クルカ川がアドリア海に注ぐ河口の近くで膨らんで、逆に出口は狭くなって湖のようになった水面に沿って町並みが広がります。ダルマチアといえば、百一匹わんちゃんの主人公のダルメシアンの原産地であるといわれていますが、シベニクでダルメシアンを見かけたという記憶はありません。

 
 聖ヤコブ大聖堂は、海岸に近いところに建っていて、聖堂を上から見て十字になる交点にある巨大なドームが目立ちます。このドームはユーゴ内戦で破壊されましたが、数年後には修復されたそうです。全体的に丸みを帯びて、ゴシックの教会のように天を突くような尖塔は無く、柔らかな印象です。
 
入り口近くの柱や、窓の上のはりには、アダムとイヴなど人間や動物の彫刻が施されているのもロマネスクの特徴なのでしょうか。聖堂の裏の外壁に彫られた72人の顔の彫像は、個性的な顔がそろっていて、見ていて飽きません。


 聖堂の左手にはシティ・ホールがあり、その横をすり抜けて細い路地を登って行くと、聖ミカエル要塞にたどり着きます。かなりきつい上りですが、上からの眺めは抜群です。






 
要塞は石造りの城壁が残っているだけですが、その城壁からは、麓には聖ヤコブ大聖堂のドームとそれに続く町並みが、その向こうには海の入り江のようなクルカ川の河口が眺められます。

 
 要塞から下って、路地を南東にたどると、ハプスブルグ帝国時代に建てられた劇場が現役として残されていたり、聖サンフランシスコ教会などの教会が建っています。ちょっと歩くと元の場所に戻れてしまいまうような狭い旧市街ですが、半日程度で気持ちのよい散歩ができる町並みです。

 石造りのドームは、アーチを作る技術と類似で、2次元のアーチを中心軸で回転させたものといえるそうです。石の重みと摩擦力で、お互いが押し合ってアーチ状の形状を維持しています。聖ヤコブ大聖堂のドームは直径33mで、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の世界最大のドームの直径45mには及びませんが、コンピュータによる構造計算のなかった頃に作られて現存するのは驚きです。技術は常に進歩しているというのは、必ずしも正しくはないようで、現在の木造技術では、根来寺の大塔は作ることは不可能なのだそうです。
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高円寺駅の南には、阿波踊りの雰囲気とは違った顔の町並みが広がっています

2012-05-13 08:00:00 | 日本の町並み
 空港の近くには近代的な空港とはちょっと違った雰囲気の町並みが広がっていたのが羽田でしたが、技術がこれだけ発達した現在でも、飛行機の運航は天候に左右されることが多いものです。今回は、全国的にも珍しい天気の神様である気象神社のある高円寺界隈を紹介します。

 
 高円寺は、新宿から4駅西寄り、中央線の三寺の一つとして知らない人が居ないくらいの有名な町です。ちなみに三寺は、高円寺、吉祥寺と国分寺で八王子は含まれません、「じ」の発音は同じでも寺と子は字が違うんですね。日本で唯一の気象神社ですが、駅から5分とかからない近さで、南口を出て少し東の氷川神社の境内の西寄りにこじんまりと祭られています。さすがに境内には気象予報士の合格祈願の絵馬がたくさん懸かっていました。

 駅名の高円寺ですが、駅名は知っていても高円寺というお寺を知る人は意外と少ないかもしれません。先ほどの気象神社の前の坂を下っていくと、左手に現れる、都心のお寺としては、ほどほどの寺域を持つ曹洞宗のお寺です。山門から本堂への参道の両側には楓が植えられて、晩秋の紅葉はなかなか奇麗なのですが、最近は紅葉前に茶色になって落葉することが多いようです。

 お寺の高円寺も属している、中央線、環七、青梅街道それに高南通りで囲まれた地域は数多くのお寺が集中する寺町の様相です。京都のような観光寺院はありませんが、特色のあるお寺ばかりです。清楚な参道の西照寺、





 石仏のかわいらしい松應寺、











 かず多くの石仏が並ぶ鳳林寺などなど。他にも、紅葉やツバキそれにハスなど季節ごとの花も色々です。









  この地区とは少し離れますが、青梅街道の南の環七沿いにはハスの見事な宗延寺があり、駅の北側の阿佐ヶ谷寄りには、季節ごとにさまざまな花が咲く蓮華寺もあって、都会の中の癒し空間となっています。また、蓮花寺の南には、気象神社が元あった馬橋公園もあります。さらに、高円寺駅から蓮花寺に行く途中の、早稲田通りには下見板張りの古風な2階建ての洋館が残されています。現役の耳鼻咽喉科のようで、80年の歴史があるそうです。古い建物では、使い勝手が悪かったり、保守が大変であったりということがあるでしょうが、いつまでも残して欲しい建物の一つです。

 現代の天気予報にコンピュータによる数値解析、シミュレーションを元にしています。この解析を地球規模に拡大したものが、スーパーコンピュータの応用分野として有名な地球シミュレータです。これだけ、コンミュータを駆使していますが、影響を与える要因が多い大気の動きを予測するのは、、たいへんな困難を伴うそうで、外れることも多いように思います。ただ、晴れの定義は、空全体での雲の割合が90%以下ということで、晴れの予報なのに曇りだ!というのは、案外と予報は当たっていた日もあるかもしれません。
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韓方医学で使う薬草市場のある大邱は大都市の中にも古い文化を残しています(韓国)

2012-05-06 08:00:00 | 世界の町並み
 日本に戒律の重要さを伝えた鑑真の出身寺院のある町が、揚子江の北岸にある揚州でしたが、その揚州の姉妹都市の一つに、お隣の国の大邱(てぐ)があります。ソウルや釜山に比べると日本人に対する知名度は下がりますが、韓国版新幹線のKTXも停車し、近くに世界遺産もある韓国で4番目の大都市です。その世界遺産は、おびただしい数の大蔵経の版木を保存している海印寺(ヘインサ)で、市内からバスで約1時間半ほどの距離です。

 大邱は、韓国の東南部の内陸都市で、釜山からKTXで45分ほどの距離にあり、高速バスでも1時間ちょっとの距離にあります。韓国は、高速バスの路線網が発達していて、在来線の鉄道よりも速く本数も多いので旅行者にも便利な移動手段です。韓国で高速道路網が発達したのは、いざと言うときに道路を戦闘機のための滑走路に転用するためのようです。過去においては、実際に訓練で使われたこともあるとか。

 揚州のある中国を代表する医学が漢方医学ですが、韓国には韓方医学と、日本語読みでは発音が同じ医療があります。この韓方医学で使う薬草の3大市場の一つが大邱薬令(ヤンニョン)市場です。町中には、薬草を煎じる像も置かれ、薬草の展示施設には薬草標本がたくさん並べられていましたが、説明文はハングル表記で理解不能でした。

 
 
 
 訪問した時には、ちょうど大邱薬令市韓方文化祭りの最中で、薬草市場街では色々な催しが行われていました。民族衣装の行列あり、薬草を刻むデモあり、仮面劇あり、獅子舞風のものもありです。仮面劇は、大都の北に位置する安東で行われる仮面劇のような感じがしました。仮設ステージでのお琴の演奏も華やかでしたが、道路に座り込んで仮面劇の伴奏をする音楽隊もにぎやかで、華やかでもありました。出店もたくさんで、泥状のクリームを手に塗ってくれて、しっとり感をアピールするかと思えば、鉄棒に刺した豚の丸焼きもありました。 この丸焼きは、薄くスライスしてキムチや岩塩それに野菜などと一緒にお皿に盛り付けてくれましたが、なかなか美味しかった!








 
 この薬草市場街の近くには、慶尚監営(キョンサンカミョン)公園があり、大都市の中に緑の広がる憩いの場所になっています。16世紀末に慶尚監営が置かれた場所が記念公園となったもので、執務をしていた建物と宿舎とが公園内に建てられています。この韓国伝統の建物の近くには、ゴシック風の教会の尖塔も建っていて、面白い対比を見せています。韓国はキリスト教の信者が多いようで、ちょっとした都市には教会の建物を見受けます。

 同じ頃に建てられた建物が残されているのが大邱郷校の大成殿です。明倫堂、楽育斎など比較的新しい建物も加わり、漢文教育・礼儀教育などの教育施設として、また伝統婚礼場としても人気を集めている現役の施設です。

 医療の分野、特に検査の分野ではIT技術が大活躍なことは言うまでもありません。体の中の断面の画像を撮影する断層撮影装置という大掛かりなものがかつては存在しました。X線照射装置とフィルムとが体の回りで回転して、撮りたい断面の周りの影響を薄くするものでしたが、大掛かりに割りにあまり鮮明な画像ではなかったようです。現在ではX線CT装置がコンピュータの画像処理により短時間でより鮮明な画像を提供しています。西洋医学では、機械等によって客観的な検査データを必要としますが、東洋医学では脈拍や触診などで病気の原因を探るようです。どちらが良いかは一概に言えないと思いますが、どうも最近の西洋医学は、検査漬けのような感じも受けます。
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羽田空港とは川を一つ隔てた羽田は漁村の面影を残す古風な町並みです

2012-04-29 08:00:00 | 日本の町並み
 神戸の居留地は港が外国に開かれた窓であった頃の遺産でしたが、現在の外国との窓口の主役は空港に移っています。日本を代表する国際空港は、成田に移っていましたが、アクセスの不便さから羽田への回帰が進んでいます。空港で有名な羽田ですが、少し鎌田寄りに空港とは違った顔の羽田があります。今回は、羽田空港とは海老取川を挟んだ町名に羽田を冠している地域を紹介します。ちなみに、羽田空港施設がある場所の地名は、羽田ではなく羽田空港です。

 羽田空港に発着する飛行機を水面の向こうに望む羽田は、空港の華やかさとは対照的にひっそりとした町並みが広がります。多摩川の河口に位置する漁村が羽田の旧来の姿で、低層の住宅街の中に神社や商店街が連なっています。





 江戸末期に水害から町を守るため穴守稲荷が祀られ、明治以降は門前町として栄えた歴史を持っています。現在の穴守神社は、羽田空港を隔てる海老取川の蒲田寄りにありますが、かつては現在の羽田空港の敷地内にありました。戦後に羽田空港の拡張で邪魔になるとの理由で米軍から強制退去をさせられ、地元有志の提供した現在地に引越したそうです。大鳥居だけが空港駐車場に取り残されましたが、沖合い展開時に滑走路の進入経路上で支障をきたすということで、現在の天空橋近くに移転しました。ただ、この鳥居は神社からだいぶ離れて、ぽつんと寂しげというか、羽田空港をにらみつけるように建っています。

 天空橋といえば、空港モノレールや京急空港線の駅名になっています。名前から、空に架かる虹色の橋を想像しますが、鉄道橋を思わせる地味なガーター人道橋です。1993年に京急の羽田駅が開業の折に、地域住民の利便性を考えて海老取川に架けられ、地元の中学生の公募で名前が決まったそうです。




 天空橋の近くから眺める空港は、お馴染みの図柄とはだいぶ印象が違い、なんとなく蜃気楼を見ている感じがします。








 
 天空橋を多摩川の河口のほうに行くと、水死者の供養塔があります。海流などの影響で、このあたりに遺体が漂着することが多かったのだそうです。多摩川を上流の方へ行くと、土手のすぐそばに玉川弁天の社があります。この弁天様も穴森神社と同等に、現在の空港島にあったものが、現在地に強制移転させられたのだそうです。小さな社ですが、江戸時代から多摩川の守護神として江戸商家や回船問屋の信仰をあつめていたとの琴です。このあたりには水門があったり、レンガ造りの多摩川の旧堤防が道路の端に塀のように残っていたりで、水との係わり合いの濃い町並みが続きます。
 水とは関係は無いのでしょうが、道端には小さな祠があって、お地蔵様が祭られていたりしてほっとします。









 さて大きな鳥居が空港島のそばにぽつんと取り残された穴守稲荷ですが、強制移転先は京急の穴守稲荷前駅から歩いて5分足らずのところにあります。神社の参道には、やや小ぶりの鳥居があってその先に本殿がありますが、本殿の右奥には小さな鳥居が重なった先に奥の宮があります。このように重なった鳥居の列はお稲荷さんの定番なのでしょうか、伏見稲荷にある鳥居の数は半端ではありません。この奥の宮には神砂(あなもりの砂)と言うものがあって、漁師の逸話と共に、招福の砂として尊ばれているようです。

 航空機は電子装置の塊のようなもので、大型機になるほど安全に飛行できるようです。飛行している現在地を知る装置は慣性航法装置(INS)が有名ですが、長距離になると誤差が増えるので現在はGPSなどと併用されているようです。一番事故の率が高いと言われる着陸の時に、まったく滑走路が見えない状態でも自動着陸が可能なのです。もちろん空港側にそれなりの設備が要りますが、現状では設置されている空港は皆無とのことです。着陸できても、滑走路からスポットまでが移動できないので、そのような設備を設置しても無意味だからです。技術的に可能でも、実現は不可能という例でしょうか。
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ロマネスク最大規模のシュパーアー大聖堂の周辺にもユニークな教会がありました(ドイツ)

2012-04-22 08:00:00 | 世界遺産
 皇帝が死後も自身の権力を誇示するために巨大な墳墓を作ったのが明・清王朝の墳墓群でした。中国の陵墓は人工の山を作ってしまいますが、ヨーロッパでは墳墓の上に教会の建物を作るのが一般的です。今回はこれらの教会の中から、ドイツで2番目に世界遺産に登録されたシュパーアー大聖堂とその周辺の町並みを紹介します。

 シュパイアーはドイツのフランクフルトの南80km、ハイデルベルグの西南西20km、マンハイムの南南西20kmほどに位置し、人口5万人ほどの町です。世界遺産の大聖堂は、駅の南東で歩いて25分ほどの距離にあります。駅を出て鉄道と平行に南に800mほど行くと、鐘楼のある広場に出ます。この鐘楼が巨大で、こちらもなかなか存在感があります。





 世界遺産の大聖堂は、この広場で東に曲がって800mほどの通りの突き当たりに壁のように立ちはだかっています。身廊の先端の切妻のファサードに接して両側に翼が伸びていて、正面から見える壁が広く、これが衝立のように見えるのかもしれません。正面から見ると直線的な聖堂ですが、裏側に回ってみると祭壇の後方は丸い外観になっていて、とんがり帽子を被って口を開けた人形のように見えます。

 シュパイアー大聖堂は、11世紀に当時の神聖ローマ皇帝が自身の永眠の場所として建造し、その後も7人の皇帝などが葬られています。皇帝たちの棺は、地下聖堂に安置されていて、祭壇の手前から降りていくことができます。世界的にもロマネスク様式で建てられた教会として最大級の建物です。ドイツではゴシック、ロマネスクはフランスやスペインの建物というイメージが強いのですが、意外にもドイツにもロマネスクの建物が数多く残されています。このコラムでも紹介した、アーヘン大聖堂、トリアー大聖堂、マインツ大聖堂、ロルシュ修道院などがロマネスクを代表する建物です。

 
 鐘楼のある広場をシュパイアー聖堂のほうに曲がるのではなく、まっすぐに行くと2つの教会があります。ガイドブックにも載っていない教会ですが、それぞれに個性があって寄り道をしたくなります。右手の教会は、尖塔が多く端正な感じで、左側は天を突く塔が印象的です。
 
左側の教会はGedächtniskirche Speyerという名前のようですが、内部で古い金管楽器の展示を見ることができました。常設展示なのか、たまたまの特別展だったのかは判りませんが、現在のホルンなどとはだいぶ違った形の楽器を見ることができました。

 楽器の電子化によって、難しかった楽器の演奏も少しは楽になってきているようです。電子化トランペットでは、マウスピースからメロディーを口ずさんで吹き込めば、その音程をトランペットの音に変換してくれるそうです。電子化楽器は、シンセサイザーや電子トランペットのように音を合成するものや、電子バイオリンなどのように音の共鳴を補助するもの、自動ピアノなどのように、人間の動きを擬似するものに分類できるでしょう。最後のカテゴリーのものは、電子技術が発達する前から機械式のものも作られていました。機械式の自動ピアノ用に残された演奏家の演奏は、録音技術の悪かった頃の演奏家の演奏より、良い音で録音が残されているという、奇妙な現象が起こっているようです。
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居留地時代の建物は一棟だけですが近代建築の博物館のような神戸旧居留地です

2012-04-15 08:00:00 | 日本の町並み
 工業地帯としての色彩が強い尼崎にも寺町に連なるお寺やレンガの建物が残されていて、違った顔を見せています。レンガ造りの阪神電鉄の旧発電所は立派な産業遺産としてもう少し宣伝をしてもいいのではないかとも思いますが、その阪神電鉄の神戸側の起点の元町駅の浜側には、旧居留地で使われていたレンガ造りの下水管が産業遺産として残されています。今回は、元町駅から三宮駅の南側、海岸沿いに広がる神戸旧居留地あたりを紹介します。

 神戸の旧居留地は、西側を元町駅の東にある鯉川筋、東を三ノ宮駅を通り抜けるフラワー道路、北側は旧西国街道(現在の市役所北側の花時計線)で囲まれた地域で、江戸時代最終年から1899年まで存在しました。現在では、神戸を代表する観光地ですが、治外法権を認めさせられた、日本人にとっては屈辱的な地域でした。

 
 この地域には、美しい近代建築がたくさん残されていますが、旧居留地の建物として現存するのは、重要文化財にも指定されている旧神戸居留地十五番館の一棟だけなのです。レンガ造りの下水管の遺構が残されているのも、この建物の東側の歩道です。実は、この建物は、阪神淡路大震災で全壊をしてしまい、元の建材を使って復旧されたものです。建物以外で当時の遺構としては、15番区画と16番区画の境界のレンガ塀の一部が、ビルの谷間にひっそりと残されています。




 
 居留地として外国人の権利を大幅に認めた土地の南端には、神戸海軍操練所跡碑が建っています。明治になる5年前に勝海舟の進言で設置されましたが、翌年に閉鎖された施設です。坂本龍馬や陸奥宗光などそうそうたる塾生を擁したのですが、幕府の施設が討幕派の拠点となったのでは潰されますね。海軍と言えば、外国に対しての防衛任務と言うことですが、その施設が居留地ができる前とはいえ同じ場所にあったのは皮肉です。外国に対しての唯一の玄関が港であった明治時代には、港の後方の土地は利用価値が高かったのでしょう。その神戸海軍操練所跡碑の近くには、神戸電信発祥の地の記念碑も建っています。明治3年に神戸伝信機局と大阪との間で電信が開始された場所だそうですが、時代と場所から推定して、居留地の外人相手ではなかったのかと思います。

 郵船ビル
 神港ビル
 海岸ビル
 商船三井ビル
 居留地時代に建てられた建物以外に、旧居留地および栄町通、海岸通にかけて大正から昭和初期に建てられた近代建築が残されています。震災によってかなりの数が失われましたが、現在も30を超える優雅な建物が健在です。大規模なビルは、オフィスビルとして使われていますが、1階部分は洒落たレストランやブティックが多いようです。

 
 そのうちのいくつかを紹介しましょう。地域の東南角にあるのが昭和2年に建てられた神戸税関の建物です。近年に新館が増築されましたが、フラワーロード側からの顔は変わりません。内部は展示ルームもあり見学可能で、建物に囲まれた中庭に入ってみると外からは想像できないような景色が広がっています。この税関の前にも記念碑があり、碑文によると昭和天皇の行幸記念なのだそうです。





 
 一方、西に行って元町通りを抜けた南側にはファミリア・ホールの建物があります。明治30年に旧三菱銀行神戸支店のビルとして建てられたものを転用したもので、元が銀行だけになかなか重厚な建物です。

 
 元町商店街の周辺には、小ぶりで個性的な建物も残されています。一つは栄町通りに面した毎日新聞神戸支局のビルで、元は横浜火災海上保険神戸支店の建物です。これも金融関連の建物なので、入り口は石造りの重々しい面構えをしており、新聞社の雰囲気は薄い建物です。ただし1階部分は古い建物を利用していますが、2階から上は新しいビルが乗っかっています。もう一つは、杉原産業のビルで、こちらは表通りから1本入ったとおりに面しています。階段ピラミッドのように2階と3階が少しずつ小さくなって積み重なっています。

 オフィスビルではパソコンなどのOA機器の電源やネットワーク用の配線が必須ですが、古いビルにこれらのインフラを設備するのはかなり大変なのです。20年ほど前に高層ビルにフリーアクセスの2重床を設置する検討では、ビルの構造計算からやり直しと言うことを聞いた記憶があります。全ての階の床を2重床にする構造物の総重量は大変な値になるのだそうです。旧居留地近辺の近代建築群は、美しい外観を保っているものも多いのですが、この問題をどのように解決しているのでしょうか。
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鑑真が住職であった揚州の大明寺の近くには痩せた西湖という名の湖もあります(中国)

2012-04-08 08:00:00 | 世界の町並み
 ユーラシア大陸の西の端にあるのがポルトガルのロカ岬でした。大航海時代には、この岬を眺めてアジアに向けて船出をしていった舟も多かったと思いますが、ヨーロッパ人にアジアへの夢を抱かせる源となったのがマルコポーロの東方見聞録です。マルコポーロの旅は陸のシルクロードをたどったものですが、中国滞在中に高官を務めた都市が揚州です。今回は、日本にも関連の深い鑑真和上の出身寺院の大明寺の周辺を中心に紹介します。

 揚州は、上海の西の揚子江の北岸に位置し、上海から列車で1時間ほどの鎮江まで行き、バスで揚子江に架かる橋を渡って1時間ほどで到着します。7年ほど前までは、揚子江をフェリーで渡っていて時間がかかったそうですが、橋ができた現在はバスはあっけないくらい短時間で向こう岸に着いてしまいます。京都市より少し広いぐらいの市域を持っていて、鎮江からの長距離バスが着く市の南西部から大明寺の東北部までは市内バスで1時間ほどもかかります。このバスは市の中心部を通り抜けますが、緑や水が多くて、時間があれば途中下車をしたくなる景色がたくさんあります。

 
 大明寺は、バスを降りて急な坂を上がった所にあって、巨大な九重塔が出迎えてくれます。鑑真の出身寺院ということで期待をして訪れたのですが、鑑真が創建した日本の唐招提寺に比べると少々期待はずれでした。中心となる建物の規模も小さく、中には塔を初め新たに建てられたものも目立ち、仏像も見るべきものが無かったことによるかもしれません。中国では、文化の違いなのでしょうが、古色蒼然という仏像は見かけません。仏像は、当然ながら、信仰の対象で、その対象は金色に輝いている必要がある、という考え方のようで、とにかく金ぴかなのです。信仰が現役と感じたのは、大明寺の後方には、広大な土地に僧侶の教育機関のような施設があり、観光だけの寺院ではなさそうでした。

 
 金ぴかの仏像が多い中国ですが、鑑真記念館にあった鑑真像は、古めかしい色をしていました。1973年に唐招提寺にある像のレプリカを安置したようです。さらに、唐招提寺と似ていると思ったのは、屋根の両端に乗っている鴟尾ですが、どうもこれは中国がオリジナルで、その意匠が日本に伝わったようです。もう一つ、奈良遷都1,300年の時に会場に遣唐使船の模型が置かれていましたが、そっくりの模型が飾られていました。おそらく、奈良の模型は、大明寺の模型も参考にしたか、オリジナルの資料が同じものなのでしょう。

 大明寺の南側には、緑と池の広大な公園があり、名前を痩西湖公園といいます。杭州にある世界遺産の西湖に似ているけれど、細長い、つまり痩せた西湖という命名です。大明寺や痩西湖公園の一帯は水と緑が南北に3km、東西に2kmほど広がる地域で、痩西湖公園自体も500mほどの幅で2kmほど南北に分布しています。広い公園内には、トラムが走っていて、入り口から池のそばの、公園の中心地まで歩かなくて行けます。ただ、南北に長い割りに出入り口が3箇所なので、出口を探すのにちょっと焦ります。中心地には、五亭橋や白塔などもあり、現地の人たちもこの周辺に集まってきているようです。池には遊覧船が浮かび、回廊つきの庭園も造られています。地元の人々にとっては、子供や家族と一日遊ぶのに好都合な場所の一つなのでしょう。

 
 五亭橋は痩西湖に架けられた橋の一つですが、中央に5つの亭を持っていて、橋と言うより湖の上に作られた東屋といった感じです。池の中にある島から眺めると、なかなか典雅な形をしています。白塔のほうは北京の北海公園のものを真似て作ったということで、急いで作ったので最初は塩で作ったという逸話のあるものです。この塔、遠くから見ると、なんとはなく徳利に見えてしまいます。

 鑑真は律宗の開祖で、わが国に授戒のシステムを伝えた僧です。戒律は僧侶として守らなければならないルールで、日本に仏教が伝わった頃には重要性が認識されていなかったようです。奈良朝になり、その重要性が見直され、招聘を受けて、困難の末に来日した高僧が鑑真だったわけです。集団で生活をする人間の世界では、どのような場面にもルールが必要になるようで、IT分野でもしかりです。ネットにつないぐばあいも、プロトコルと呼ばれる通信手順に従わないと、何もできません。ちなみにプロトコルという名称は「外交辞令」という英語からきています。もちろん、この手順はパソコンなどのキホンソフトの中に組み込まれていて、利用者が意識することは少ないのですが。しかし、装置やソフトを作る人たちにとって、どのルールが採用されるかにより、有利/不利が生まれ、ルールを決める国際会議などでは火花が散るというわけです。
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工場が建ち並ぶイメージの強い尼崎ですが寺町周辺は別世界が広がっています

2012-04-01 08:00:00 | 日本の町並み
 平等院の参道には老舗のお茶屋さんが店舗を連ねているのが宇治でしたが、その宇治の産業はお茶だけではなく、ユニチカのメインの工場の一つがあります。ユニチカは、かつては尼崎紡績という綿糸の製造メーカーで、名前の通り発祥の地は、尼崎なのです。発祥の地には、登記上の本店が置かれており記念館があるのみですが、今回はユニチカ発祥の最寄り駅である大物駅の隣の阪神尼崎駅周辺を紹介します。

 尼崎は、兵庫県の南東端に位置しますが、市外番号は'06'つまり府県を跨った大阪市内と同じなのです。何故、06となったかの理由は諸説あるようですが、尼崎紡績が当時は電話が無かった尼崎に、大阪から自費で電話回線を引いたからと言う説もあるようです。日紡発祥の地と言うことからも判るように、工業地帯というイメージの強い土地柄です。しかしながら、市域の北の阪急沿線は高級住宅街もあって、東京の大田区が、町工場の顔と田園調布とい2つの顔を持つのと似ているかも知れません。ここで紹介する阪神尼崎駅は海よりの工業地帯の色彩が強いような場所ですが、尼崎城の遺構や寺町など意外な顔をも見せる界隈です。

 
 阪神尼崎の駅を降り南に出ると、レンガ造りの建物が目に入ります。由緒ありげな建物ですが、阪神電鉄の専用発電所だったもので、現在は資材倉庫に使っているそうです。JR東日本が信濃川の水力発電や川崎の火力発電所を持っているのと同じ考え方です。窓がふさがれて、ちょっと無粋ですが、遠くから見ると教会と見まがう建物です。この旧発電所を南に行くと尼崎城の遺構があり、現在は公園になっています。さらに南に行くと、国学者の契沖生誕の地の碑があります。




 
 
 
 ここから、橋を渡って西に行くと寺町が広がります。ここが尼崎かと、目を疑うような大小の寺寺が、国の重要文化財の建物だけでも5棟もあり、軒を接するように並んでいます。それぞれのお寺の境内には、石造りの塔などもあって、丁寧に見ていくと色々な由緒があるようです。場所によっては、寺の前の道路も石畳にされていて、風景の後方ににょっきりそびえるマンションが無ければ、京都か奈良にいるのではないかと思ってしまいます。

 この寺町界隈に七福神が祭られていて、お正月などは七福神巡りで賑わうようです。の七福神は、お寺や神社を巡らなくても、駅の北西にある四番街商店街には七福神ドームというのがあって、それぞれの神様が入れストで描かれて、買い物客を見下ろしています。




 この寺町の南に、尼崎信用金庫の本店別館があり、その中に日本で唯一の貯金箱博物館があります。世界中からコレクションをした貯金箱を常時2,500個も常時展示しているそうですが、訪れた時には休館で残念ながら中を見ることはできませんでした。ただ、隣接する尼信記念館のレンガ造りの建物が、なかなかしゃれていました。阪神電鉄の旧発電所、尼信の記念館それに寺町のレンガ造りの塀など、尼崎にはレンガ造りのものが意外と多く残されていました。

 ユニチカといえば、かつての日紡ですが、東京五輪でバレーボルで金メダルを獲得した東洋の魔女の中心メンバーは日紡貝塚の選手でした。日本中が試合の中継を見るためにTVに釘付けになったものでした。日本のテレビは、現在の天皇のご成婚の時に白黒テレビが、東京五輪の時にカラーテレビの普及が進んだと言われています。地デジはしかし、取り立ててエポックとなるようなイヴェントは無かったように思います。アナログで時代では、視聴者の欲求から供給が進んだのですが、地デジは、どうも上からの意思で導入された感じがしてなりません。
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明・清王朝の墳墓群の明孝陵にある動物の石象は子供の格好の遊び場でした(中国)

2012-03-25 08:00:00 | 世界遺産
 奇麗な町並みの先に、3つのアーチを持つ小さな門が一つだけ残されて世界遺産に登録されているのがロルシュ修道院跡でした。同じ3つのアーチの門でも、巨大で来るものを威圧するような構えを見せているのが中国にある明王朝の墳墓です。世界遺産には、明、後金、清、14世紀から20世紀にかけての代々の皇帝の墳墓群が明・清王朝の墳墓群として登録され中国の東部の9箇所に分布しています。今回紹介するのは、明王朝の初代皇帝の明孝陵と3代皇帝の長陵です。

 初代皇帝の明孝陵は、南京市の東部にあって、市内バスで簡単に訪問できる場所にあります。陵は紫金山という山の南面にあって、近くには中山陵や霊谷寺などもあり大きな森林公園のようになっています。市内バスの終点から、陵の入り口までは観光トラムが走っていて、歩くと20〜30分ほどの時間を短縮をしてくれます。入場ゲートから右手に行くと、長い石畳の先に朱色の門があって、これを越えると、その先に石垣の上に同じ色の楼閣がそびえていて、かなり威圧感があります。石垣の中央から入って、楼閣の上に登ることができ、木立の向こうに南京の町並みが見えます。皇帝の墳墓は、この楼閣の後方にありますが、さらに上りなので、足に自身の方は上ってみることもできます。







 石畳の道を戻って、左手に行くと石像のある参道に出ます。陵に近いほうには人物像が、その先には動物の像が参道を挟んでペアで置かれています。かなりの数の像が並んでいますが、像と像はかなりの感覚が空いているので、複数の像を同じ画面に入れて写すには、かなりの望遠レンズが要りそうです。



 動物の石像のほうは、よじ登れる程度のものも多くて、子供の遊び道具になっていました。











 3代皇帝の長陵は、北京郊外に分布する明の十三陵のうちの一つで、その中でもっとも規模が大きなものです。北京の中心部の西北方向に50kmほど離れていて、路線バスでも行けるようですが、乗換えなどあり、ちょっと面倒のようです。筆者は、長城とセットになった英語による一日観光バスに乗車して訪問しました。こちらも、入り口の門は朱塗りで3つのアーチ状の開口部があります。長陵の見所は、故宮の太和殿にそっくりの稜恩殿です。ずいぶんと巨大な建物で、内部の柱も太くて数が多く圧倒されます。

 中国の陵墓に限らず、ピラミッドや仁徳天皇陵など巨大な墳墓は、権力者が死んだ後にも自己の権力を誇示したい欲望の現れのようです。あるいは、自分の命の永遠性を望み、地下宮で生前と同じ生活ができるものと考えたのかもしれません。IT分野では、あらゆる情報がデジタル化され、永遠に劣化しないで、未来永劫まで、保存したときと同じ品質を保持できる、と称されてきました。確かに、0や1として記録された情報は、保存されるでしょうが、それを人間が認識できるアナログ情報に戻す仕組みがめまぐるしく変化するので、決して不滅とは言いがたいのです。例えば、デジタル情報の再生ではありませんが、ベータ方式のビデオテープは再生装置は作られていませんし、8mmビデオもしかりです。人間の寿命は、宇宙の寿命と比べるまでもなく、地球の寿命と比べても一瞬ですが、デジタル記録された情報の寿命は、0.1瞬なのではないでしょうか。
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