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2011年 S2000ぶらり旅「信州&北陸/金沢市 兼六園 編」

2011年05月02日 | 周遊紀行 / 東海&北陸地方
2011年 5月 2日(月)
兼六園へ行きました。


(パンフレットより)
兼六園は江戸時代の代表的な林泉回遊式大庭園の特徴をそのまま今に残している。
もともと兼六園は金沢城の外郭として城に属した庭であった。
庭としての歴史は、城に面した傾斜地が古い。加賀藩5代藩主・前田綱紀(つなのり)が1676(延宝4)年、この地にあった作事所を城内に移し、蓮池御亭(れんちおちん)を建て、その周辺を作庭した。これが本園の始まりで、当時、蓮池庭(れんちてい)などと呼ばれていた。
1759(宝暦9)年金沢大火で、蓮池庭も大半が焼失した。11代藩主・治脩(はるなが)は復興に取り組み、1774(安永3)年に今にみる夕顔亭や翠滝(みどりたき)を築造している。
一方、東南の平坦地である千歳台一帯は、7人の家臣の屋敷があったり、藩校が建てられる変遷があったが、1822(文政5)年には12代藩主・斉広(なりなが)の豪壮な隠居所ー竹沢御殿が完成している。その庭には辰巳用水を取り入れて曲水をつくり、各種の石橋を架けた。竹沢御殿の完成した年に斉広は奥州白河藩主・白河楽翁(らくおう)に庭園の命名を依頼した。楽翁は中国宋の時代の詩人・李格非(りかくひ)の書いた洛陽名園記の文中から採って、宏大(こうだい)・幽邃(ゆうすい)・人力(じんりょく)・倉古(そうこ)・水泉(すいせん)・眺望(ちょうぼう)の六勝を兼備するという意味で「兼六園」と命名した。
竹沢御殿完成後、わずか2年で斉広は死去した。同御殿を取り壊した13代藩主・斉泰(なりやす)は、霞ヶ池を掘り広げ、曲水の新たな取り入れも行い、以前からあった蓮池庭と調和するよう作庭した。
こうして、今にみる雄大な回遊式庭園の基本的な構図はできあがった。
廃藩後、1874(明治7)年5月7日、兼六園は一般開放された。1922(大正11)年3月8日に「史跡名勝天然記念物法」の規定により、「名勝」の指定を受けた兼六園は1950(昭和25)年、現「文化財保護法」により改めて「名勝」の指定を受けた。さらに、1985(昭和60)年3月20日、「特別名勝」となった。


徽軫(ことじ)燈籠。
形が琴の絃を支える駒(琴柱)に似ているところから名付けられたといわれている。前に架かる虹橋は、琴の胴に見立てて、別名「琴橋」ともいわれる。

唐崎松(からさきのまつ)。
13代藩主が近江の唐崎から種子を取り寄せて実生から育てたもので、園内で最も枝ぶりが見事な黒松。冬には雪吊がほどこされ、北陸の冬の風物詩となっている。

霞ヶ池。

雁行橋(がんこうばし)。
11枚の赤戸室石を使って雁が列を飛んでいる姿に作られているので「雁行橋」と呼んでいる。また一枚一枚の石が亀甲の形をしているので亀甲橋ともいう。
(同行人の説明を受けるまで雁には見えませんでした

兼六園菊桜。
花弁の数が300枚以上なのが一番の特徴。

根上松(ねあがりのまつ)。


曲水。
園内を流れる曲水の豊かな水は、1631年の寛永の大火の翌年、3代藩主・利常(としつね)の命により町人 板屋兵四郎が城の「防火用水」としてつくった辰巳用水を利用している。両岸には桜が植えられ、4月の開花時には杜若(かきつばた)の若緑とともに美しい景観を楽しめる。

夕顔亭。
園内で最も古い建物で、1774(安永3)年に建てられた茶室。茶席の次の間の袖壁に夕顔(瓢箪/ひょうたん)の透(すかし)があるので夕顔亭という亭名がつけられている。

翠(みどり)滝。

噴水。
上にある霞ヶ池を水源としており、自然の水圧であがっている。通常、水の高さは3.5メートルで、霞ヶ池の水位の変化によって変わる。1861(文久元)年、金沢城二の丸の居間先に噴水があがっているが、兼六園の噴水はその試作といわれている。日本最古といわれている噴水。

虎石。
(見えるような、見えないような


庭園を見て、風流を感じるには
ボクにはまだチョット若いかな?
もう少し大人になったら
もっと楽しめただろうね。

2011年 ぶらり旅「信州&北陸/総括 編」

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1 コメント

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今度は (のんのん)
2011-05-25 15:52:15
違う季節に行ってみたいな
その時はもっと早めに行って成巽閣も見てみたい
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