2011年 2月 6日(日)
横浜を出発して小田原へ向かいました。
最初に到着したのが小田原城。
城内にはちらほらと梅も咲いていました。
北入口の駐車場が今年の1月をもって閉鎖したのと
近くの競輪場で競輪が開催されていたので
付近は道に慣れていない観光客で大渋滞でした
どうにかこうにか有料の駐車場を探し出して車を停める事ができました
小田原市には何とかして欲しいものです
天守閣の最上階に上ったら。。。
雲っていたので真っ白でした(笑)
天気が良いと富士山や三浦半島など見えて
見晴らしが良いらしいです
以下、パンフレットより。
小田原城
15世紀中頃に大森氏が築いた山城が前身で、その後戦国大名北条氏の居城となってから、関東支配の拠点として次第に拡張され、豊臣秀吉の小田原攻めに備えるために築造された、城下町を囲む9kmにおよぶ総構(そうがまえ)の出現により城の規模は最大に達しました。北条氏滅亡後徳川家康の家臣大久保氏が城主となると、城は改修され近世城郭の姿になります。大久保氏改易後に城は破却されますが、寛永年間に稲葉氏が城主になると、再び改修工事が実施され城の姿は一新します。大久保氏が再度城主となりますが、元禄16年に発生した地震により天守をはじめ城内の各施設はほぼ倒壊焼失してしまいました。その後、本丸御殿等を除き再建され幕末にいたります。明治3年小田原城は廃城になり、売却された後次々と解体されました。城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられて現在にいたっています。また国指定史跡に指定され、今も整備が続けられています。
天守閣
江戸時代に造られた雛形や引き図を基に昭和35年に復興されました。3重4階の天守に付櫓(つけやぐら)、渡櫓(わたりやぐら)を付しています。なお、最上階の高欄(こうらん)付き廻縁(まわりえん)は復興に際して新たに付けられたものです。内部には甲冑・刀剣・絵図・古文書など、小田原の歴史を伝える資料や、武家文化にかかわる資料などが展示されています。
常磐木門(ときわぎもん)
小田原城本丸の正門にあたり、最も大きく堅固に造られていました。周囲の多門櫓(たもんやぐら)と渡櫓を配した枡形門(ますがたもん)の構造を持ち、そばにある巨松(おおまつ)になぞらえてその名が付けられたと言われています(昭和46年復興)。
S2000 ODO 124,311km
2011年 ぶらり旅「横浜散歩 2011.2.5 編」
横浜を出発して小田原へ向かいました。
最初に到着したのが小田原城。
城内にはちらほらと梅も咲いていました。
北入口の駐車場が今年の1月をもって閉鎖したのと
近くの競輪場で競輪が開催されていたので
付近は道に慣れていない観光客で大渋滞でした
どうにかこうにか有料の駐車場を探し出して車を停める事ができました
小田原市には何とかして欲しいものです
天守閣の最上階に上ったら。。。
雲っていたので真っ白でした(笑)
天気が良いと富士山や三浦半島など見えて
見晴らしが良いらしいです
以下、パンフレットより。
小田原城
15世紀中頃に大森氏が築いた山城が前身で、その後戦国大名北条氏の居城となってから、関東支配の拠点として次第に拡張され、豊臣秀吉の小田原攻めに備えるために築造された、城下町を囲む9kmにおよぶ総構(そうがまえ)の出現により城の規模は最大に達しました。北条氏滅亡後徳川家康の家臣大久保氏が城主となると、城は改修され近世城郭の姿になります。大久保氏改易後に城は破却されますが、寛永年間に稲葉氏が城主になると、再び改修工事が実施され城の姿は一新します。大久保氏が再度城主となりますが、元禄16年に発生した地震により天守をはじめ城内の各施設はほぼ倒壊焼失してしまいました。その後、本丸御殿等を除き再建され幕末にいたります。明治3年小田原城は廃城になり、売却された後次々と解体されました。城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられて現在にいたっています。また国指定史跡に指定され、今も整備が続けられています。
天守閣
江戸時代に造られた雛形や引き図を基に昭和35年に復興されました。3重4階の天守に付櫓(つけやぐら)、渡櫓(わたりやぐら)を付しています。なお、最上階の高欄(こうらん)付き廻縁(まわりえん)は復興に際して新たに付けられたものです。内部には甲冑・刀剣・絵図・古文書など、小田原の歴史を伝える資料や、武家文化にかかわる資料などが展示されています。
常磐木門(ときわぎもん)
小田原城本丸の正門にあたり、最も大きく堅固に造られていました。周囲の多門櫓(たもんやぐら)と渡櫓を配した枡形門(ますがたもん)の構造を持ち、そばにある巨松(おおまつ)になぞらえてその名が付けられたと言われています(昭和46年復興)。
S2000 ODO 124,311km
2011年 ぶらり旅「横浜散歩 2011.2.5 編」