S2000奮闘記

スポーツカー偏愛録。
S2000のメンテナンスノート。

「名前」

2009年08月16日 | 雑記
寺沢広高(テラサワ ヒロタカ)

「下に命令するところを、

自ら先に立って行うことを善しとす。

身をもって教えれば、口でとやかくいうよりも

下僕は従うものだ」


戦国時代、多くの武将は戦で武功を上げ、
自らが仕える大名に引き立てられて出世するのが一般的であった。
しかし中には、戦でさして名を上げる活躍をしていなくとも
取り立てられる武将もいる。
統率力や行動力に優れている、武芸や戦略に秀でるなど、
おそらくは人より抜きん出た能力を持っているか、
存在感を発揮できないとなかなか上司の目には止まりにくいが、
いずれにしても持って生まれた強運の持ち主はいるものだ。

戦国時代の終わりから江戸時代にかけて唐津12万3,000石の大名になった寺沢広高は、
戦でこれといった活躍はしていない。
しかし行動力、実行力に優れ、何より豊臣秀吉、徳川家康という
天下人の覚えに預かったことが運を切り拓くきっかけになっている。

もともとは尾張の出身で、父の広政は織田信長の家来で、
その後、豊臣秀吉の家臣になっている。
生まれは永禄6年(1563年)。
父とともに豊臣秀吉に仕え、文禄元年(1592年)の朝鮮出兵に祭し、
肥前名護屋城の普請に携わり、秀吉の側近となった。
また朝鮮出兵した秀吉軍の海上輸送などの担当指揮官として活躍するなど、
8万3,000石を拝領している。
秀吉の没後は、徳川家康側につき、関ヶ原の合戦で勝利すると
小西行長の旧領天草など4万石を加増され12万3,000石の大名になった。

唐津城は、寺沢広高が築いた城として知られる。
広高は、質素倹約を旨とする行動力、
実行力の武将であったとされる。
たとえば毎朝4時ごろに起きて6時には城に顔を出し、
馬場に出て騎乗してから食事をとったという。
その食事は、家臣と一緒に「一汁一菜」に徹したとも言われる。
12万3,000石の大名でありながら、広高の妻もまた質素倹約に努め、
めでたい席や決まった行事でも贅沢なもてなしは控えたという。
そうした質素な生活の背景には、
優れた家臣を育てたいという目標があったようだ。
事実、家臣には1,000石取りの者が40人もいたとされる。
家臣の目線で周りを見据え、技能に優れた人物を重用した。
それが冒頭のセリフにも表れている。

トップが率先して行動を示す。
それは現代のビジネスや経営にも通ずる教訓である。
過去の栄光や名声にすがり、実績や経験を誇示し、
上から目線で説教しても人は付いて来ない。
まず自分が率先して実践する。
その結果で実績を示せば、人はおのずと付いて来る。
寺沢広高の生き方は、その事を私達に教えてくれている。

大同生命(株)発行
「月刊DAIDO-rapport(ラポール)2009年8月号 - 歴史に学ぶ人生訓」より


唐津城

天才と凡才

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