2013年 8月16日(金)
朝起きてホテルを出たら、京都御所の蛤御門が目の前にあったので驚いた!
あの蛤御門の変の蛤問です。
事前に同行人から話を聞いていましたがすっかり忘れていて、昨晩ホテルに着いた時もすっかり暗くなっていたし疲れていたので、門の存在に気が付きませんでした。
朝早く起きたのは、京都御所の見学に行くからです。
見学をする為には、事前に見学の申し込みが必要で、人数も限定されています。
この旅に出る前に済ませておきました。
午前中一番目の組を予約したので、蛤御門を通り御苑内に入り、参観者出入口とされている清所門(せいしょもん)で受け付けを済ませ、朝9時に参観者休所に集合しました。
ガイドをしてくれる職員の後ろをゾロゾロと連なって行きます
御車寄に見学したのは御車寄
御車寄(おくるまよせ)
昇殿を許された者が正式に参内する時の玄関であり、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で優雅な反りをなしている。
(見学の際に頂いたパンフレットより抜粋)
立派な造りに感嘆。
次が諸大夫の間
諸大夫の間(しょだいぶのま)
正式な用向きで参内した時の控え所にあてられる建物。襖の絵にちなんで格の高い順に「虎の間」、「鶴の間」、「桜の間」と呼ばれる三室が東から並ぶ。諸大夫の間は本来桜の間を指すが、普通にはこの一棟三間の総称として用いられている。
(見学の際に頂いたパンフレットより抜粋)
虎の間。
鶴の間。
桜の間。
新御車寄
1915年(大正4年)、大正天皇の即位礼に際して、天皇皇后両陛下のための玄関として建てられたものである。
(京都御所内の説明書きの立札より)
次に向かったのは紫宸殿
紫宸殿への入口、承明門(じょうめいもん)が見えて来る。
鮮やかな朱色が美しい。
紫宸殿(ししんでん)
安政2年(1855年)に再建された紫宸殿は、即位礼などの重要な儀式を執り行う最も格式の高い正殿であり、京都御所の象徴ともいえる存在である。
大正天皇・昭和天皇の即位礼もここで行われた。入母屋(いりもや)檜皮葺(ひわだぶき)の高床式宮殿建築で、間口約37.0m、奥行き約26.3m、棟高約20.5mの純木造平屋建てである。正面に十八段の階段を有し、四方に高欄を付けた簀子をめぐらしている。
内部は寝殿造りの例により中央の母屋の四囲に廂(ひさし)があり、母屋と北廂の間は絹張り襖の賢聖障子(けんじょうのしょうじ)で仕切られ、天井板はなく化粧屋根裏である。四囲は胡粉の白塗り地板に黒塗りの栈で格子を組んだ蔀戸(しとみど)で、開けるときは内側の金物で釣り上げる。六枚の板を透し張りにした簀子の正面上にある紫宸殿の扁額は、岡本保考(おかもとやすたか)の筆で、嘉永時の炎上のときに賢聖障子と共に類焼をまぬがれている。
階段脇には、東に左近の桜、西に右近の橘があり、前面には白砂の南庭が広がり、建物と同様に庭も重要な役割を果たしている。
(見学の際に頂いたパンフレットより抜粋)
承明門から見た紫宸殿。
ズーム
白砂の南庭が広がる。
左近の桜。
右近の橘。
承明門の南側にあるのが建礼門(けんれいもん)。
ここから御苑に出れる。でも通常は閉めているとのこと。天皇陛下?皇族?決められた人しか通れないらしい。
承明門の回廊に沿って歩くと日華門(にっかもん)が見えて来る
日華門。
日華門の近くに置かれた檜皮葺(ひわだぶき)屋根実物模型。
春興殿の西側を通り
春興殿(しゅんこうでん)
1915年(大正4年)、大正天皇の即位礼に際し、神鏡を奉納するために建てられたものである。
(京都御所内の説明書きの立札より)
渡り廊下を潜り抜けて
視界が広がって東庭(とうてい)が見える
少し歩くと、紫宸殿の北側に出る
見えて来たのは清涼殿。
清涼殿(せいりょうでん)
紫宸殿の背後の北西部に東面して達ち、別棟として御常御殿が建てられるまでの永い間、天皇の日常の御生活の場として使用されていた。現在のものは平安時代の内裏のものより小さくなっているが、比較的よく古制を伝え、主に儀式の際に使用された。清涼殿の東側に広がる東庭(とうてい)は、白砂敷きで、正面に呉竹(くれたけ)、南寄り軒下近くに漢竹(かわたけ)が籬(ませ)に囲まれて植えてある。北側に20cm程の落差のある滝口があり、そこから落ちた御溝水(みかわみず)は、水溝に沿って楚々とした流れを作っている。
建物は、入母屋(いりもや)檜皮葺(ひわだぶき)の寝殿造りで紫宸殿と同じであるが、床ははるかに低く、内部は間仕切りも多くなっていて、元々日常の御住居であったことをよくあらわしている。
(見学の際に頂いたパンフレットより抜粋)
天皇陛下の一年の行事(仕事)が書かれてある
呉竹。
滝口。
清涼殿の見学を終えたら、来た道を戻りました
次に見学したのが小御所
小御所(こごしょ)
紫宸殿の北東、御池庭に面して建つ入母屋檜皮葺の小御所は、平安朝の内裏には見られない御殿である。諸種の儀式に用いられ、天皇が将軍や諸侯と対面される場所ともされた。王政復古の大号令が発せられた後の「小御所会議」は慶応3年12月9日の夜、ここで行われた。寝殿造りを基本にしながら、母屋は三室に仕切られ、畳を敷きつめて天井を張った書院造り風になっている。蔀(しとみ)は半蔀(はじとみ)で上部を釣り上げ、下部ははめ込み式である。昭和29年に焼失、昭和33年に復元されたものである。
(見学の際に頂いたパンフレットより抜粋)
御学問所へ移動
御学問所(おがくもんじょ)
小御所の北に位置し、蹴鞠(けまり)の庭をはさんで東に面し、入母屋檜皮葺の御殿である。格子の蔀(しとみ)に代えて舞良戸(まいらど)、遣度(やりど)、引戸(ひきど)で四囲を閉ざす点や、床や違い棚を備えている点で、一層書院造りに近い建築様式である。必ず学問のためだけの御殿ではなく、臣下と対面される行事などにも用いられた。
(見学の際に頂いたパンフレットより抜粋)
蹴鞠の庭。
小御所から覗く御学問所。
御学問所から振り返ると、御池庭が見える
御池庭(おいけにわ)
文字通り大きい池を中心とした回遊式庭園で、前面には州浜(すはま)があり、その中に飛石(とびいし)を配して船着きに導いている。右手にゆったりと弧を描いた欅(けやき)橋が架かり、対岸にはこんもり繁る樹木を配し、様々な景色を楽しむことができる。
(見学の際に頂いたパンフレットより抜粋)
最後は御常御殿へ
御常御殿(おつねごてん)
御学問所の北に位置し、京都御所の中で最も大きい御殿で、内部は十五室の書院造りの様式である。天皇が日常生活を営まれる御殿は、平安遷都当初の仁寿殿(じじゅうでん)から清涼殿に移ったが、やがて清涼殿も居住様式の変化に対応できなくなったことから、豊臣秀吉の行った天正(てんしょう)度の造営に際して、御常御殿が別棟として建てられるようになった。
安政2年(1855年)の再建になる現在の御常御殿は、実用性を重んじ機能的な造りに加え、剣璽(けんじ)を奉安する「剣璽の間」など格式のある間も備えられている。御常御殿から奥(北側)はいわゆる奥向き御殿といわれている。
(見学の際に頂いたパンフレットより抜粋)
これで京都御所の見学は終了。
参観者休所へ戻り、ひと休みして汗を拭いました。
休所にも清涼殿にあった天皇陛下の行事の写しがあった
8月の予定は・・・お忙しそうですね
入って来た清所門から退出
貴重な経験をありがとうございました
予約を入れてくれた同行人にも感謝です
京都御所から出ると、御所の周辺は「京都御苑」と呼ばれる、今は大きな公園のような敷地。
清所門のすぐ近くにある中立売御門。
ここから御苑へ出入り出来る。
そして再び御苑内に入る
京都御苑は御所がスッポリと収まるのだから、とにかく大きさがデカい!
御所の壁。
北から南へ、ずーっと続いている。
清所門からちょっとだけ南へ歩いてみた
宣秋門。
御所の南西の角まで到着
近くには「清水谷家の椋(むく)」と呼ばれる大きな椋の木がある。
椋の木の木陰は涼しくて気持ちが良かった
この大きなムクの木は、このあたりが清水谷家という公家の屋敷であったことから「清水谷家の椋」と呼ばれています。樹齢は約三百年といわれ、苑内でも数少ないムクの木です。1864(元治元)年の禁門の変の時、長州藩士で遊撃隊(長州尊王攘夷激派の一つ)の総督だった来島又兵衛がこの木付近で討死したtも伝えられています。
(御苑内に立てられてある説明書きの木札より)
蛤御門へ向かいました
蛤御門。
江戸時代末期の1864(元治元)年、この門の周辺で長州藩と、御所の護衛に当たっていた会津・薩摩・桑名藩との間で激戦が行われました。この戦いが「禁門の変(蛤御門の変)」で、門の梁にはその時の鉄砲の弾傷らしき跡が残っています。この門は新在家門(しんざいけもん)といわれていましたが、江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、「焼けて口開く蛤」にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになったと言われています。
(御苑内に立てられてある説明書きの木札より)
蛤御門から出ると、泊まっていたホテルが見えた
ホテルに戻り、ひと段落してから次の目的地に出発しました
2013年 S2000ぶらり旅「真夏の西国ドライブ/ 総括 編」
朝起きてホテルを出たら、京都御所の蛤御門が目の前にあったので驚いた!
あの蛤御門の変の蛤問です。
事前に同行人から話を聞いていましたがすっかり忘れていて、昨晩ホテルに着いた時もすっかり暗くなっていたし疲れていたので、門の存在に気が付きませんでした。
朝早く起きたのは、京都御所の見学に行くからです。
見学をする為には、事前に見学の申し込みが必要で、人数も限定されています。
この旅に出る前に済ませておきました。
午前中一番目の組を予約したので、蛤御門を通り御苑内に入り、参観者出入口とされている清所門(せいしょもん)で受け付けを済ませ、朝9時に参観者休所に集合しました。
ガイドをしてくれる職員の後ろをゾロゾロと連なって行きます
御車寄に見学したのは御車寄
御車寄(おくるまよせ)
昇殿を許された者が正式に参内する時の玄関であり、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で優雅な反りをなしている。
(見学の際に頂いたパンフレットより抜粋)
立派な造りに感嘆。
次が諸大夫の間
諸大夫の間(しょだいぶのま)
正式な用向きで参内した時の控え所にあてられる建物。襖の絵にちなんで格の高い順に「虎の間」、「鶴の間」、「桜の間」と呼ばれる三室が東から並ぶ。諸大夫の間は本来桜の間を指すが、普通にはこの一棟三間の総称として用いられている。
(見学の際に頂いたパンフレットより抜粋)
虎の間。
鶴の間。
桜の間。
新御車寄
1915年(大正4年)、大正天皇の即位礼に際して、天皇皇后両陛下のための玄関として建てられたものである。
(京都御所内の説明書きの立札より)
次に向かったのは紫宸殿
紫宸殿への入口、承明門(じょうめいもん)が見えて来る。
鮮やかな朱色が美しい。
紫宸殿(ししんでん)
安政2年(1855年)に再建された紫宸殿は、即位礼などの重要な儀式を執り行う最も格式の高い正殿であり、京都御所の象徴ともいえる存在である。
大正天皇・昭和天皇の即位礼もここで行われた。入母屋(いりもや)檜皮葺(ひわだぶき)の高床式宮殿建築で、間口約37.0m、奥行き約26.3m、棟高約20.5mの純木造平屋建てである。正面に十八段の階段を有し、四方に高欄を付けた簀子をめぐらしている。
内部は寝殿造りの例により中央の母屋の四囲に廂(ひさし)があり、母屋と北廂の間は絹張り襖の賢聖障子(けんじょうのしょうじ)で仕切られ、天井板はなく化粧屋根裏である。四囲は胡粉の白塗り地板に黒塗りの栈で格子を組んだ蔀戸(しとみど)で、開けるときは内側の金物で釣り上げる。六枚の板を透し張りにした簀子の正面上にある紫宸殿の扁額は、岡本保考(おかもとやすたか)の筆で、嘉永時の炎上のときに賢聖障子と共に類焼をまぬがれている。
階段脇には、東に左近の桜、西に右近の橘があり、前面には白砂の南庭が広がり、建物と同様に庭も重要な役割を果たしている。
(見学の際に頂いたパンフレットより抜粋)
承明門から見た紫宸殿。
ズーム
白砂の南庭が広がる。
左近の桜。
右近の橘。
承明門の南側にあるのが建礼門(けんれいもん)。
ここから御苑に出れる。でも通常は閉めているとのこと。天皇陛下?皇族?決められた人しか通れないらしい。
承明門の回廊に沿って歩くと日華門(にっかもん)が見えて来る
日華門。
日華門の近くに置かれた檜皮葺(ひわだぶき)屋根実物模型。
春興殿の西側を通り
春興殿(しゅんこうでん)
1915年(大正4年)、大正天皇の即位礼に際し、神鏡を奉納するために建てられたものである。
(京都御所内の説明書きの立札より)
渡り廊下を潜り抜けて
視界が広がって東庭(とうてい)が見える
少し歩くと、紫宸殿の北側に出る
見えて来たのは清涼殿。
清涼殿(せいりょうでん)
紫宸殿の背後の北西部に東面して達ち、別棟として御常御殿が建てられるまでの永い間、天皇の日常の御生活の場として使用されていた。現在のものは平安時代の内裏のものより小さくなっているが、比較的よく古制を伝え、主に儀式の際に使用された。清涼殿の東側に広がる東庭(とうてい)は、白砂敷きで、正面に呉竹(くれたけ)、南寄り軒下近くに漢竹(かわたけ)が籬(ませ)に囲まれて植えてある。北側に20cm程の落差のある滝口があり、そこから落ちた御溝水(みかわみず)は、水溝に沿って楚々とした流れを作っている。
建物は、入母屋(いりもや)檜皮葺(ひわだぶき)の寝殿造りで紫宸殿と同じであるが、床ははるかに低く、内部は間仕切りも多くなっていて、元々日常の御住居であったことをよくあらわしている。
(見学の際に頂いたパンフレットより抜粋)
天皇陛下の一年の行事(仕事)が書かれてある
呉竹。
滝口。
清涼殿の見学を終えたら、来た道を戻りました
次に見学したのが小御所
小御所(こごしょ)
紫宸殿の北東、御池庭に面して建つ入母屋檜皮葺の小御所は、平安朝の内裏には見られない御殿である。諸種の儀式に用いられ、天皇が将軍や諸侯と対面される場所ともされた。王政復古の大号令が発せられた後の「小御所会議」は慶応3年12月9日の夜、ここで行われた。寝殿造りを基本にしながら、母屋は三室に仕切られ、畳を敷きつめて天井を張った書院造り風になっている。蔀(しとみ)は半蔀(はじとみ)で上部を釣り上げ、下部ははめ込み式である。昭和29年に焼失、昭和33年に復元されたものである。
(見学の際に頂いたパンフレットより抜粋)
御学問所へ移動
御学問所(おがくもんじょ)
小御所の北に位置し、蹴鞠(けまり)の庭をはさんで東に面し、入母屋檜皮葺の御殿である。格子の蔀(しとみ)に代えて舞良戸(まいらど)、遣度(やりど)、引戸(ひきど)で四囲を閉ざす点や、床や違い棚を備えている点で、一層書院造りに近い建築様式である。必ず学問のためだけの御殿ではなく、臣下と対面される行事などにも用いられた。
(見学の際に頂いたパンフレットより抜粋)
蹴鞠の庭。
小御所から覗く御学問所。
御学問所から振り返ると、御池庭が見える
御池庭(おいけにわ)
文字通り大きい池を中心とした回遊式庭園で、前面には州浜(すはま)があり、その中に飛石(とびいし)を配して船着きに導いている。右手にゆったりと弧を描いた欅(けやき)橋が架かり、対岸にはこんもり繁る樹木を配し、様々な景色を楽しむことができる。
(見学の際に頂いたパンフレットより抜粋)
最後は御常御殿へ
御常御殿(おつねごてん)
御学問所の北に位置し、京都御所の中で最も大きい御殿で、内部は十五室の書院造りの様式である。天皇が日常生活を営まれる御殿は、平安遷都当初の仁寿殿(じじゅうでん)から清涼殿に移ったが、やがて清涼殿も居住様式の変化に対応できなくなったことから、豊臣秀吉の行った天正(てんしょう)度の造営に際して、御常御殿が別棟として建てられるようになった。
安政2年(1855年)の再建になる現在の御常御殿は、実用性を重んじ機能的な造りに加え、剣璽(けんじ)を奉安する「剣璽の間」など格式のある間も備えられている。御常御殿から奥(北側)はいわゆる奥向き御殿といわれている。
(見学の際に頂いたパンフレットより抜粋)
これで京都御所の見学は終了。
参観者休所へ戻り、ひと休みして汗を拭いました。
休所にも清涼殿にあった天皇陛下の行事の写しがあった
8月の予定は・・・お忙しそうですね
入って来た清所門から退出
貴重な経験をありがとうございました
予約を入れてくれた同行人にも感謝です
京都御所から出ると、御所の周辺は「京都御苑」と呼ばれる、今は大きな公園のような敷地。
清所門のすぐ近くにある中立売御門。
ここから御苑へ出入り出来る。
そして再び御苑内に入る
京都御苑は御所がスッポリと収まるのだから、とにかく大きさがデカい!
御所の壁。
北から南へ、ずーっと続いている。
清所門からちょっとだけ南へ歩いてみた
宣秋門。
御所の南西の角まで到着
近くには「清水谷家の椋(むく)」と呼ばれる大きな椋の木がある。
椋の木の木陰は涼しくて気持ちが良かった
この大きなムクの木は、このあたりが清水谷家という公家の屋敷であったことから「清水谷家の椋」と呼ばれています。樹齢は約三百年といわれ、苑内でも数少ないムクの木です。1864(元治元)年の禁門の変の時、長州藩士で遊撃隊(長州尊王攘夷激派の一つ)の総督だった来島又兵衛がこの木付近で討死したtも伝えられています。
(御苑内に立てられてある説明書きの木札より)
蛤御門へ向かいました
蛤御門。
江戸時代末期の1864(元治元)年、この門の周辺で長州藩と、御所の護衛に当たっていた会津・薩摩・桑名藩との間で激戦が行われました。この戦いが「禁門の変(蛤御門の変)」で、門の梁にはその時の鉄砲の弾傷らしき跡が残っています。この門は新在家門(しんざいけもん)といわれていましたが、江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、「焼けて口開く蛤」にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになったと言われています。
(御苑内に立てられてある説明書きの木札より)
蛤御門から出ると、泊まっていたホテルが見えた
ホテルに戻り、ひと段落してから次の目的地に出発しました
2013年 S2000ぶらり旅「真夏の西国ドライブ/ 総括 編」