重厚な造りで趣のある、箭弓神社 拝殿
先週の箭弓神社牡丹園に引続き今週は箭弓神社をご案内します。
Wikipediaによると、
箭弓神社は712年(和銅5年)の創建と伝えられる。その頃は小さな祠だったようだが、1030年(長元3年)に下総国の城主平忠常の討伐に出かけた源頼信がこの周辺に一泊した際に、近くにあった野久稲荷神社に詣でて、太刀一振と馬一頭を奉納すると、その夜に白羽の矢のような形をした雲が敵陣の方へ飛んでいくのを目撃し、これは神のお告げだと確信、直ちに敵陣に攻め込んだ頼信は快勝し、立派な社殿を建造し「箭弓稲荷大明神」とたたえたと伝えられる。以来、松山城主、川越城主などの庇護を受けた。
社名の由来については、1028年(長元元年)に下総国の平忠常が謀反を企て安房・上総・下総の三カ国を制圧し、大軍をもって武蔵国に侵攻した(平忠常の乱)。これを受けて源氏の棟梁多田満仲の子であり、甲斐国守を勤める源頼信は、忠常追討の綸旨を賜り、鎮圧に向かった。しかし、多勢に無勢、武勇の頼信も心を悩ませた。その時、頼信が布陣する松山本陣近くで古い祠を見つけた。問えば、野久原に鎮まる「野久稲荷大明神」で、本地は「十一面観世音」であるという。
これを聞いた頼信は、野久はすなわち箭弓(矢弓)の意で、武門の守護神であると、大いに奮い立ち、神前に怨敵退散の願書、太刀一振、駿馬一頭を奉納し、ついに忠常を撃退することができた。一説には、白狐に乗った神が弓矢を授けたと伝える。この神恩に報いるため、社殿を再建した。以来、野久稲荷は、箭弓稲荷と号せられるようになった。 と、記されています。
箭弓神社公式ホームページ 駐車場:有り(無料)
小振りだが風格ある朱塗りの鳥居 境内から見る本殿と拝殿
本殿の彫刻は見事(右の画像をクリックしますと拡大します)
奉納されていた東松山太鼓 先週紹介した箭弓神社牡丹園