築70年の家をリフォームする(11.脱衣所の水回り工事終了)

2017年03月14日 | その他
 2月20日に脱衣所の水回りの工事終了。午前9時開始、午後12時には撤収。携わった人数二人。なんと簡単なことだったのか。当日に母から写真が送られてきた。仕事や私事で忙しく先日の土日に一ヶ月ぶりに帰省して自分の目で確かめる。もっと追加工事の痕跡が残るものと思っていたがまったく痕跡無し。違和感なし。うちの家はずいぶんと簡単な作りのようだ。

 瑕疵対応ということで無料。
 有料だったらいくらかかっていたのか。


(2017年3月)
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ハート・ロッカー

2017年02月24日 | 映画
ハート・ロッカー DVD
クリエーター情報なし
ポニーキャニオン


 ケーブルテレビで観た映画。パック契約で月替わりで映画が観れるのだが、観たことのある有名どころよりは観たことのない映画をと思い録画で観ている。その中では面白かった映画。

 キャスリン・ビグロー監督による2008年のアメリカ映画。イラクを舞台としたアメリカ軍爆弾処理班を描いた戦争アクション。

 わりと淡々とその日常を描いているのでハリウッド映画によくあるアクション映画とは全く別。彼らと共に戦場にいる感じ。彼らの仕事は路上に仕掛けられた「即席爆発装置(IED)」と呼ばれる爆弾の解体、爆破の作業。なんだろう、例えが悪いが第二次世界大戦の日本の神風特攻隊が美しく潔く見えた。それほど即席爆発装置は悪辣。例えば人がその即席爆発装置となる、なるのではなくされる。

 イラクでは街中に米兵とイラクの市民は共存している。普通の暮らしを市民はしている。しかしその中に敵対分子が混ざっている。その区別はつかない。その怖さ。

 思い出したのは私が会ったことのない伯父の話。伯父は中国戦線で亡くなった。農家の次男に生まれ、出来がよかったので早稲田大学の夜学に進学。昼間は書生をしながら通っていたという。体調を崩し帰省し農家を手伝ってはいたが思うところあって中国へ渡る。青島(チンタオ)で徴集。そのまま陸軍に入り言葉が出来たため斥候として任を遂行中に戦死した。状況はハート・ロッカーとよく似ていて、周りは皆一般人が普通に暮らしている。ある村の近郊。村の様子を見に伯父は数人で斥候として出て行ったそうだ。皆笑顔で挨拶してくるので気の緩みもあったのだろう村の奥に入ったのが失敗。ゲリラに囲まれてしまう。寺の敷地に立て籠もり銃撃戦。異変に気付いた本体が村に駆け付けた時は叔父は戦死した後だった。

 私が幼かった頃は当時の中国戦線からの復員者が村にまだ存命で、ときどき中国の話しをしてくれた。幼い子供に差し障りのない程度の話しだったのだろうけど。365日の内360日は大規模な戦闘も無い状態。ただその360日の日常が異常なのだそうだ。いったいどこの誰と戦争しているのか分からない状態。昨日敵だった連中が今日は降伏してきて味方になるという。共産党なんて見たこともないが中華民国軍でさへめったに見ない。軍隊なのか何なのか分からない連中が跋扈する、戦国時代みたいな感じだったと言っていたような気がする。

 そんな昔話を思い出させてくれた映画。

(2017年2月)
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箸 - 一色八郎(カラーブックス)

2017年02月14日 | 本のメモ
箸 (カラーブックス)
一色 八郎
保育社


持ち歩いていたら行方不明になった本。

色々な箸が写真で紹介されている。長い短い、材質が竹、木、象牙、骨、金属とかあるのですが感覚的に箸には二系統あるのかなと思った。

一つは日本の見慣れた箸。もう一つはモンゴルの箸。

モンゴルというと広がりがありすぎるので北東アジアのオロチョン族などの狩猟民族と言った方が合っているか。どういう物かというと箸が鞘に収まっている。小さな刀(ナイフ)とセットになっていて腰に下げて使う。材質は獣の骨か金属。この形の箸の広がりは中国東北部、朝鮮半島あたりまで。今でも韓国で土産物として売られているらしい。朝鮮は人も文化もどっぷり北の影響下にあるという事。現代の朝鮮で特徴的なのは箸単体ではなく匙とセットになっているということで匙箸(スジョ)とひとくくりで表現されている。これは他に見ない。日本の東大寺正倉院に保存されている食器にも箸と匙のセットがあるから、当時の正式な食事作法として広く分布していたのだろう。朝鮮の匙箸(スジョ)はその系譜かもと思ってしまいそうだがどうなのか。連綿とどこかで誰かがその習慣を繋いできたという事はあるのかもしれない。

箸の最古例としては、殷墟(BC 14 世紀ごろ - BC 11 世紀ごろ)からの青銅製の遺物が出ている。これは祭祀用とされている。

箸の普及は孟子が「君子厨房に近寄らず」(君子遠庖廚)の格言に基づき、厨房や屠畜場でしか使わない刃物の、食卓上での使用に反対したことから料理はあらかじめ厨房でひと口大に、箸にとりやすい大きさに切りそろえられ、食卓に出されるようになったとネットに書いてある。まことしやかではあるが本当だろうか。切りそろえる必要性から箸使用文化圏とまな板を常用する文化圏はだいたい一致しているそうだ。これはありそうな話だと思う。

中国で飯を箸でつまむようになったのは明代の頃からと言われる。ずいぶん最近。

周から漢にかけての作法をまとめた礼記には「飯は器に盛ってあるものを各自が手でつまんで食べ、汁ものは匙ですくうか椀に口をつけて吸い、野菜のような具が入っている場合は箸を用いても良い。」とあるらしい。朝鮮半島に帯方郡、楽浪郡があったころの作法だ。日本に伝わった作法はこの作法だろうから匙で飯は食わなかったと思う。

ここでいう飯は何をさすのか。飯とは、イネ科の米、麦、あるいはキビ亜科の穀物に、水を加えて汁気が残らないように炊いた、あるいは蒸した食品である。雑穀一般だと考えれば良い。容易に手でつまむことが出来る。陸稲(熱帯ジャポニカ)なら日本にも縄文時代からあったらしいから礼記の書かれた地域、時代にもあったかもしれない。焼畑と天水で栽培できる陸稲は栽培に水平を出す土木工事と灌漑工事の技術は不要なので山間部でも容易に可能だとしても気候的にみて中国東北部や朝鮮半島北部は栽培可能だったのかどうか怪しい。

中国文化が周辺地域に影響力を及ぼすと共に他の国でも使われるようになっていったそうだ。楽浪郡の遺跡からも箸が見つかっている。

日本では、弥生時代末期の遺跡から一本の竹を折り曲げピンセット状の形にした「折箸」が発見されているが、神に配膳するための祭祀・儀式用の祭器として使われたものであろうと言われる。魏志倭人伝には邪馬台国では「手食」と書かれているので箸を使っていたかどうかは不明。

とここまで書いたが、本は行方不明。書いた内容はこの本からではなくネットで読んだり別の本からの知識。

(2017年1月 西図書館)

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築70年の家をリフォームする(10.引き渡し後1ヶ月。とんでもないことに気付く)

2017年01月18日 | その他
 人は都合よく物事を見るものだというお話。

 リフォームの引き渡しが終わり一ヶ月。母と二人で年越し。元旦には弟家族や嫁に行った姪家族、従妹夫婦、東京から帰ってきた娘がそろい賑やかに新年を祝う。

 1月8日の日曜日、正月に帰らなかった妻を連れて再び帰省。月曜日の朝、洗面台の前で歯磨きしながら洗面所を見渡してとんでもないことに気付く。洗面所は風呂の横にあって脱衣所も兼ねている。洗濯機を置くつもりでそうお願いしていた。洗面台の横が洗濯機を置く予定のスペース。狭いので洗面台は小さくなってしまったけど不自由はない。我々が帰ってきて住むときにはこの空いたスペースに洗濯機を置く予定・・・。

 写真を見て何がおかしいか理解いただけるだろうか。

 そう。洗濯機用の水回り一式が無い。

 あるはずのものが一切ない。

 何で気づかなかったのか。あれほどコンセントの位置や数、照明のスイッチの位置、TVの同軸ケーブルの位置、エアコン設置の場所を何度も工事中から確認しまくっていたのに。洗面所と風呂を皆使っていながら誰も気づかなかった。洗濯機防水パンは不要という事で床のままという認識が見える世界を歪めていたのか。

 図面を確認する。洗濯機をここに置くことになっているし、私がわざわざ指定したコンセントの印も他と同じ様に付いている。見積り書を再確認。洗面所一式・・・。D社はこのあたりいい加減で明細が出ていなかった。でも図面には明記されているし。さっそく業者に電話。営業氏が飛んでくる。現場監督が言うには家の外に設備を追加したから・・・と歯切れが悪い。でもそれは追加費用で払っているし。どうも母が洗濯機を(当面は)外に置くのだと言い続けていたため、それに引っ張られた節がある。そんなこと私は知らない。そこは追加費用を払っているし。

 結局、工務店側が都合のいい時に工事するという話で決着。1年後になるかもしれないけど。次は失敗しない。次があったらの話しだが。
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築70年の家をリフォームする(9.工事二ヶ月目 & 引き渡し)

2016年12月23日 | その他
 11月7日、流し台を注文する。19日搬入。

 11月8日、トイレの小便器の撤去が始まる。ここは既製品の洗面台を設置。当初は棚をしつらえて洗面台は天板の上に陶器の洗面ボウルを載せたようなカッコ良いのにするとか夢が膨らんだ箇所。結局、A社のコーディネータ女史のああいう洗面台は掃除が大変、既製品が一番楽なんですよとかいうご提案でご提案通りになった。A社とは契約しなかったけど。小便器の上には目線の位置に木枠のガラス窓があってここは現状維持。既製品の鏡付の洗面台をどう配置するかで迷ったが、洗面台は正面窓の下、鏡の部分は左の壁に設置ということになった。スペースからみてこう成らざるを得なかった。当初の洗面台の野望はまた今度。

 11月9日、次期アメリカ大統領にトランプ氏が決定。腹黒きヒラリーよりはマシか。

 11月12日、大工仕事終了。タイミングが悪いことに母が婦人会(老人会だけど)の集まりで外出。大工さんに挨拶できず。母は途中で心付を渡していたが色々お世話になったので後日、私の住所と名前でお歳暮も送った。神戸?知らんな、ということで受け取り拒否という小さな騒動があった。

 11月15日、サッカー日本代表がサウジアラビアに僅差で勝利。ワールドカップ出場に望みをつなげる。

 11月16日、クロス貼り開始。妻の部屋だけ別の柄。後は全て見慣れた今住んでいる部屋の柄に近いものを選んで統一。良かったのやら悪かったのやら。とにかく白い。

 11月18日、休暇を取り銀行回り。410万円用意する。当初の見積りであればこれでお釣りがくる。午後、岡山へ。部屋はクロスが張られ見栄えがするようになる。新築のマンションのうようになった。壁も天井も白いというのが印象。部分的でも真壁にすれば良かったかなと少し後悔。単調なのだ。



 11月19日、建具が5か所に入るが2ヶ所の動作が不良。別の1箇所は図面と開き方が逆になっていた。家が古いので歪みがある。北に少し傾いでいるらしい。建具は特注なのだが歪みまで考慮できていない。微調整が必要とのこと。昼前に流し台が到着。夜、設置された電燈のスイッチを確認していたら風呂場の電燈が点かなくなる。まだ電燈を付けていなかったし電気工事も途中。ショートしたか。

 11月26日、妻と岡山へ。最終確認。建具2ヶ所、床下収納の扉開閉に1ヵ所、クロス1ヵ所、壁と床の接点に1ヵ所不具合有。クロスは経過観察、建具は後日修理に来ることになる。後はその場で対応してもらう。追加費用は20万円。思ったより高い。腰桁を上げたのが5万円、外壁で一部モルタル塗を追加したのが6万円、途中で追加した電燈スイッチ工事、外構の電燈工事、追加の廃棄物処理等で20万円。渡された資料にある総額は思っていたより安い。ほくそ笑む。これは消費税が入っていなかったため。糠喜び

 この日から全面的に使用開始。夕方、弟が来る。いそいそと退避させていた家具や食器を運び込み久々に食堂で食事をとる。何年振りか。父が病気になってから寝込むまでここに座り込んでいたため使うことができず、父が他界してからは母が机と椅子を持ち込んで狭くしていたので使わなくなっていた。弟がボソッと昔に戻ったみたいと言う。そう、子供のころはいつもこの部屋にいた。当初妄想していたリノベーションとは程遠い部分的なリフォームになったが最初はこんなものかと思う。

 窓がサッシになったこと、可能な限り断熱材を入れた事、他にも理由はあるのだろうけど、まだ寒さの緩いこの季節ならファンヒーター一つで家の北側全部が暖かい。全面段差なしの床は大正解で人の動線が変わった。一人暮らしなら手を入れたこのスペースだけで楽に生活できるレベル。今回手を入れた箇所だけ表現するならば1LDKが完成。今回手を入れなかった南側と併せて3LDK。二人暮らしには十分な広さ。これと別棟の離れと併せれば5LDK。離れに増築した母の部屋を入れれば6LDK。手つかずの箇所の方が広いがそこはまた今度。

 11月27日、神戸への帰りの車の中で妻から母は頑なすぎるという話しが出た。台所や部屋の使い方を話したら意見を聞かず我を通しすぎるとのこと。前からわかっていたが一緒に暮らすのに難ありか。当面、母一人暮らしだし今考えても良い解決策は無し。母に意見しても聞く耳は持たないだろう。実の息子でさえ面倒だと多々感じる。


 
ここから引き渡された直後の様子



 母の嫁入り道具の水屋箪笥。50年ほど日陰の身だったものを表に出してみた。2か月ほど陰干しを行い清掃。オイルステインで仕上げた。奥の棚はたぶん戦中の品。納戸の奥で使われていたもの。こちらも表に出した。材料は作られた当初から廃材を流用。こちらは痛んだ箇所があったため補修してオイルステインを塗り仕上げた。


 台所。以前は壁一面が窓だった。換気扇はA社、B社ともフード型のもので話しが進んでいたがD社で壁付型になった。元のものをそのまま使う見積りがきたが新品でお願いした。シンプルでこれは良かったと思っている。掃除もしやすい。外から見た時の壁のアクセントにもなっている。流し台は短くスペース不足だが仕方がない。棚をどうするか思案中。キッチンパネルには穴を開けたくない・・・。


 右端の柱は通し柱で撤去できなかった。柱から向こう側の床が以前は土間だった部分。流し台の上に腰桁が見える。流しの上の腰桁を上げたため通し柱のこちら側と向こう側で腰桁の位置が異なる。大壁で仕上げたのでアクセントが無くて単調な感じになってしまった。A社の提案は真壁、B社の提案は大壁。C社、D社は大壁。D社の途中の工事を見てきた感じでは大壁の方が楽だったんだろうなと思った。桁や柱を見せる真壁だと歪んだ箇所が多い材料を使っていたので苦労が多かったと思う。それは仕上げや費用に跳ね返ってくる。A社は安いから真壁といっていたのだが、任せていたらどういう仕上げになっていたのか気になるところ。

 右側にサッシのドアがある。勝手口。床上げしたためここを開けると短い階段が付く。下見だけで音沙汰が無くなったC社の担当者はここを壁にして東の食堂の掃き出し窓から出入りしたら良いとか適当な事を言って帰った。ずいぶん適当なことをいうなと思っていたが、そのとおり適当な業者だった。街道沿いに派手な看板を上げている業者には気をつけよう。

 工事初日の状態と比較した写真。左の写真は天井も垂れ壁も撤去されていて、床に土壁や塵が溜まっている。中央に四角く開いた空間が見えるが、ここが五右衛門風呂を炊くための空間。向こうの壁も撤去されているので風呂場のタイルが見えている。天井を外した暗い空間に小さく明るいところがある。ここが屋根と壁の間にある空気抜き。そこから光がさしている。

 大きく変わった風呂。五右衛門風呂のあった場所にユニットバスを設置。たいした風呂でもないが前と比べると格段の違い。何が凄いと言って黴臭くなくなったw。前から比べれば風呂を用意するのも入るのも仕舞うのも楽になった。風呂場としては少し狭くなったが空いたスペースは洗面台と洗濯機が置ける脱衣所兼洗面所となった。同じ仕様の洗面台を風呂の横とトイレ横の旧小便器があった箇所の2ヶ所に付けた。



 父が小さな居間兼食堂だった部屋を増築した箇所。増築した際に壁にフィックス窓を東と北の壁に付けた。ここの窓は壁にするかそのまま残すかでもめたが結局残した。壁にすると言っていたのは私で理由は窓といいながら前面に白いシールを貼り付け明り取りにしか用を足していなかったから。外から見られるのが嫌だからという理由でシールを張ったらしい。であれば仕上げも雑で隙間もあることだし壁で良いと。残すと言っていたのは母。明るい方が良いという理由。窓として残す気になったのは壁でとお願いしたらA社のコーディネーター女史がベニヤ板でふさいだら良いと言い出したため。そんな雑なことを言われたら雑でも今のままの方が良いと思ったしだい。今思えばA社もきっとこのくらいには綺麗に仕上げてくれたのだろうとは思っている。



 出来上がりは見事に窓が生き返った。母がうるさく言うのでカーテンレールを取り付けたが少し後悔している。将来ここはステンドグラスを入れたい。シールを取るのには手間取った。弟と母と三人でチマチマとやっていたのだが一向に捗らない。どうしたもんかと専用の器具や溶剤を買うつもりでいたが完成前の清掃工程であっという間に取り去ってくれた。感謝。


 納戸だった所を洋間に改造。窓を付けた。ガラスは合わせガラス。西向きのため夏は暑いと思うが大きな窓という妻の要望に従った。将来はこの窓から見える部分に庭を作る。元からあったサッシは二重サッシに変更。


 納戸から台所へ通じる廊下。右側が今回の改装対象外の部分。

 完成してからそろそろ一月が過ぎようとしている。支払いも完了。銀行口座が目減りしてさみしい。母は何事も無かったように慣れて暮らしている。毎週帰省することも無くなった。帰れば帰ったで色々やりたいことがあるが慌てる事もない。

 自分のために始めたつもりが母のためにやったような結果になってしまった。自分がここに帰る頃まで家が無事耐えてくれることを祈る。ここに帰ったら今度は庭、離れ、屋根。やることは目白押し。

(2016年12月)
 






      
 
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築70年の家をリフォームする(8.工事は淡々と進む 一ヶ月目)

2016年12月06日 | その他
 10月15日、妻の部屋に新たに設けた窓が小さいことに気付く。ガラス面の大きさをイメージして工務店にこのくらいの大きさでと話をしていたが、その大きさは窓枠込の大きさとしてとらえられた。サッシの窓枠は思いのほか大きく、ついでに引違いの窓だからさらにガラス面は狭い。妻に伝えるとカンカンな様子。大きなものに取り換えをお願いする。勝手口の側の照明スイッチの位置が少し遠いことに気付く。ここも変更をお願いする。ついでに台所の照明スイッチは当初は2箇所配置する予定だったがもう1箇所追加。三方向からの操作。リフォーム後、母がもう1箇所欲しかったと言い出した。2mも無いんだから歩けと思ったが照明のリモコンで良いじゃないかという話しになった。これは母が自分でリモコンスイッチを柱に養生テープで留めていた。

 10月16日、村祭りの日。神社から獅子舞の囃子が聞こえてくる。中高生が獅子舞をしていることに驚く。我々の世代は一つ上の世代、つまり団塊の世代以上が多く人員余剰だったのか中高生は子供だと相手にされていなかったのか、とにかく教えてもらっていなかった。私よりいくつか上の人もぽつぽつ来ていたがやはり手持無沙汰な様子。我々は狭間の世代なのだと思う。40年もこの土地を離れていて引退後に帰ってきて馴染めるのか少し不安になる。

 10月21日、鳥取県の米子を震源地として震度6弱の地震あり。私の勤め先がある大阪のビルも横揺れが断続的に数分続く。弟がこの日は仕事を休んで実家のリフォームの様子を見に行っていた。岡山もかなり揺れたが家は何ともないとの連絡有り。作業も止まらず進んでいるそうだ。耐震対策など何もない、ただ基礎石の上に柱がのっているだけの家なので地震は気が気ではない。

 翌日から風呂が使えるようになる

 風呂の話。五右衛門風呂の風呂場の床は土間より若干高いだけ。だから風呂に入るには床から二段降りる。風呂の天井の高さは他と同じだからずいぶんと天井が高い。風呂場の面積は六畳ほどか。天井の高さもあり広く感じる。天井は杉材が張られ湯気抜きがありその真ん中に白いガラス製のカバーに覆われた電球が付く。杉材の天井は長年の湯気にさらされ黒い黴が模様になっていた。階段を降りて風呂場に入るという儀式も相まってどこかの温泉場にきたようだと偶に来る客人からは好評だったと母は言う。しかし風流も何も感じない私の息子に言わせると風呂場は外気と同じ気温だと不評だった。長年の使用で経年劣化もあり風情だけでは如何ともしがたい。気に入っていた天井だけでも活かせないかという思いはあったが、予算の制限は全てに勝る。天井は撤去し風呂場の空間にユニットバスを押しこめるということになる。

 当日午後に岡山へ移動。五右衛門風呂はユニットバスに変わっていた。見慣れた漆喰の壁も湯気抜きのある杉材の天井も目地が黒くなったタイルも真っ白な矩形の箱に代わり、膝を抱えて入っていた武骨な鉄の釜は小柄な母なら足をまっすぐ延ばせるんじゃないかと思える風呂に早変わり。母の温泉通いも終了。

 この日、現場監督さんから台所の上に張り出している腰桁が低いのが気になると言われる。床上げをすると決めた時から、いやまだリフォームを決める前から気になっていた箇所。土間の時にはそれは気にならなかったが床上げするとなると厄介である。床を上げることにより床から桁までの高さが170cm強しかなく部屋の隅とはいえ邪魔なのだ。ちょうどその下あたりに流し台が来る。前かがみになるから身長170cmの私の背の高さでも使えないことは無いと思い込もうとしていたが上げられるものなら上げたかった箇所。ただ見積もり段階では屋根裏の構造が不確かで確約できないと、どこの工務店からも言われとりあえずそのままにしていた。上げられますかと問うと出来ないことはないとの回答。追加でお願いする。
 
 夜、風呂を使ってみる。母が新しい風呂に最初の入るときは風呂の中でウドンを食べるものだと言い出す。そういう習慣があるらしい。しぶしぶ従う。二番風呂の母も風呂でウドンを食べていたが、二番目は違うんじゃないかと思ったが言わなかった。ウドンの儀式を終えてあらためて新装になった風呂を眺める。珍しくもないユニットバスではあるがここが実家の風呂とは思えない。嫌だった黴臭さは微塵もない。特に汗をかく仕事の多い夏場は楽になるだろうなと思う。手桶の類は今まで使っていたものを持ち込んだが、風呂に入った時にまず行ったのはそれらの清掃。前は気にしていなかったがそのまま使うと風呂が汚れるのだ。前はどんな状態だったのかと嫌になる。

 10月23日、弟のところにステンレスのシンクをもらいに行く。足が付いた新品。他界した義父が溜め込んでいた物の山の中から持って来たそうだ。このシンクは家の勝手口の横のスペースに置く。以前は使い古しの洗面台を置いていた箇所。母はこの洗面台も残すというのでそのつもりだったが、ガレージに簡易的に設置した元の流し台も残せと言い始めたのでどちらかひとつにしてくれと頼んでいた。弟が気を利かしてこれを持ってきてくれたのでこれ一つを置くことにして後の二つは廃棄物に追加してもらった。広く深いステンレスシンクは洗面台のシンクに勝り、流し台のシンクと同等の機能を有す。汚れものや土が付いた野菜の類はここを使って洗ってもらう。焼き板の外壁を後ろにしたその姿は綺麗に配管された水道とともにリフォーム直後に一瞬美しい絵になる姿を見せてくれた。弟のおかげである。ただリフォーム一週間後には母がどこからか持ってきた棚や物に囲まれて見るも無残な姿に成り果てていたが・・・。

 10月28日、妻がとりあえず設置することにしていたネット販売100,000円の流し台のカタログを見ながら将来もこれで良いのではと言い出した。自分たちが引っ越した暁にはここは再度一新させ輸入物のシステムキッチンを置くという話からずいぶんと現実的な方向へ転換。でもたぶん何らかの再リフォームは必要だとは思うが。

 10月29日、例年より4日遅れの木枯らしの日。弟から工事の様子の写真が送られてくる。見事に腰桁が上がっている。以前の腰桁は短い小屋束を経て本梁を支えていた。後から聞いた話だがジャッキで本梁を支えて腰桁を降ろし小屋束を取り除いた後に新しい腰桁で直接本梁を支えるようにし、短い小屋束分だけ腰桁の位置を上げる作業を行ったとのこと。

 月末までに古い壁を隠すための枠組みが出来上がる。天井は石膏ボードで覆われた。まだ仕上がりの状態は想像できない。妻は家の北西の納戸を改装した自分の部屋から廊下、洗面、風呂、台所、食堂、トイレまで全て面一の床になるとご満悦。この改装した範囲が妻のテリトリーだそうだ。この前までは間にある台所の箇所は元土間だったので降りて上がるという踏み台昇降のうようなことをやりながら移動していた。母の足腰が丈夫なのはここでの運動のおかげでという噂がある。風呂は思っていたものより小さくなったが妻は気にしていない様子。広い風呂は掃除する面積が広がるだけで良いことはないという。なるほど。

 母は元々物に囲まれた圧縮した空間で過ごすのが好きな性質なので、台所用品や雑貨が積み込まれた臨時の小さな空間の生活が苦にならない様子。捨てる予定の建具を残せ、半端な部材を置いていけとあいかわらずなのには閉口する。 
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築70年の家をリフォームする(7.工事開始初日)

2016年12月02日 | その他
 10月10日、午前9時。工事が唐突に始まる。前夜までにあらかたの物は移動させていたのですが朝食を作る手前、そんなことはこの日の朝は適当に済ませればいいものを、最低限の食器や鍋釜は台所に残ったまま。大慌てでそれらを別の部屋に移動させ工事を見守ることに。

 D社からは工程表が無かったので催促し簡単な日程表のようなものをいただいていました。10日から工事開始は分かっていたのですがこうも唐突に始まるものなのかという印象。なんせ初めてなもので。

 見慣れた壁や天井と別れを惜しむ間もなく一気に破壊が始まる感じ。もっと丁寧に元の状態の写真を撮っておけばと思ったけど後の祭り。仕方ないので破壊の現場写真をポツポツと撮る。

 慣れた人が複数で作業にかかるとあっけなく壁は撤去される。その日だけで五右衛門風呂は撤去され風呂跡はがらんとした空間になり台所から風呂にかけての天井も外され屋根の小屋組みを支える大きな梁がむき出しになる。TV番組の「大改造 劇的ビフォーアフター」を観ている雰囲気。70年間天井裏にたまった塵や埃が静まった後、恐る恐る家の中に入れてもらう。



 長年の煤と埃にまみれ黴もついているが梁や桁が予想外に大きい。戦時中に建てた家なので物資が欠乏していたため部材の使い回しは多いことは分かっていたので梁や桁も貧弱なんだろうなと思っていた。皆でそれを見上げる。屋根の部材も見える。屋根の部材は傷んでいるように見える。屋根もやり替えたかったが、限りある予算を内装と水周りに優先させたので見ないことにする。もっと潤沢な予算が用意できれば屋根を張り替え、この梁や桁も見える状態でのリフォーム、古民家リノベーションも可能だったのかという思いが頭の中をよぎるが無理なことは無理。



 暗いはずの小屋組みに光がさしている。家の構造が古いので風を通すためか屋根の下の四方に隙間を設けてある。そこから光が入っている。夜中にドッタンバッタンと天井を走るものがいるが、鼠じゃなくてイタチの類なんだろうなと前から家族と話はしていたがこれだけ隙間があれば入るはずだと納得。従兄が来て指をさしてどうするというが、今度屋根の張替えをする機会があれば金網でも張り巡らすしかないなと思う。

 この時は完成した姿が全く想像がつかない状態。なにしろ細かいことは全てお任せ。なんとかなるんだろうなという感じでこの日は終わる。



 懐かしい落書きが出てきた。私が五右衛門風呂の焚口のコンクリートに消し炭で書いた「火の用心」の落書き。弟が見つけた。焚口をずいぶん前に閉ざした後は物置に使っていた場所。

 この日から当分の間は不便な生活を母に強いることになる。洗面は今回は手を入れない増築部分の母の部屋の近くに父が取り付けたものがあり、ここは使用可能。トイレも今回は男性用の便器は撤去するが女性用の便座はそのままの予定だったので使用可。既存の流し台はガレージに運び込み簡易的に上水道をつなげてもらいシンクからの排水は家の裏にある昔の汚水貯めに流すようにしてもらっていたが火は使えない状態。弟と外構に付けてあったソーラーパネル付のライトを流し台のところへ移し夜も灯りが手元を照らすようにしたが不便なことには変わりなし。調理にはIHの小さなコンロを購入。それを室内の洗面台の横に据え付けて簡単な料理は可能。母は調理道具の一切合財を増築部分の洗面台の周りに積み上げていたし冷蔵庫も移動した。当面は夕食用に弁当の宅配を母が頼んでいたので食事はいつも通りとはいかないが何とかなるだろう。母が心身共に元気であることが幸い。

 困るのは風呂。真っ先に使えるようにしてもらうことになっていたが、2週間は風呂が無い状態が続く。妻と弟、私の三人で母を温泉に連れて行くスケジュールを組むが3日に一回程度しか風呂には入れないことになる。当初は2kmほど離れたところに住む叔母のところにも母が自力で行く予定だったが、互いに面倒なのかその話は実現しなかった。

 さっそく母がガレージに仮設した流し台をそのまま残せと言い出す。後々始末に困るからと断るが弟が家の外で使えるステンレスシンクを義妹の実家の倉庫から持ってくるまで母は言い続けていた。

※既存の流し台はそのまま台所で使い続けるつもりで見積りもそうなっていた。その後に変更したため既存の流し台の廃棄料は追加される。弟が持ち込んだステンレスのシンクへの水道工事も追加となった。



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私家版戦車入門1: 無限軌道の発明と英国タンク - モリナガ・ヨウ(大日本絵画社)

2016年11月24日 | 本のメモ
私家版戦車入門1: 無限軌道の発明と英国タンク
クリエーター情報なし
大日本絵画


2016年4月28日初版第1刷。

著者は1966年東京生まれ。早稲田大学教育学部卒。

2016年は戦車誕生100周年。1916年1月、マザー又はビッグ・ウィリー又はムカデ号がイギリスで作られる。

ビッグ・ウィリー マークⅠ:28トン、8人乗り、6ポンド砲×2門(雄型)、機関銃4挺(雄型)、ダイムラーフォスター製ガソリンエンジン105馬力、5.95キロ/時、長さ9906mm、幅4191mm(雄型)、高2438mm。

これより前にリトル・ウィリーというのが試作されていて、これを元にビッグ・ウィリーが作られる。じゃあリトル・ウィリーが最初だろうとも思うが試作段階ということでビッグ・ウィリーが最初となるらしい。履帯を車体の左右に配する事、その左右の履帯の速度を変えることで進行方向を操作することなど今に続く戦車のコンセプトを作った嚆矢。


(2016年9月 西図書館)


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よみがえれ! 老朽家屋 - 井形慶子(新潮社)

2016年11月22日 | 本のメモ
よみがえれ! 老朽家屋
クリエーター情報なし
新潮社


2011年4月15日 初版発行

著者は長崎県生まれ。日本外国特派員協会会員。
ここにメモした他の著書は「イギリス式キッチン―丸ごと料理でいつもキレイ!」2006年12月15日 第1刷発行 だいわ文庫、「老朽マンションの奇跡」 2009年11月20日 発行 2010年3月10日 第4冊。

日本では老後の住まいに平屋を選ぶ人が増え、マンション派は減少。住環境研究所調査(2010)では1位が平屋で46.9%、2位がマンションで32.5%。

著者は東京・吉祥寺でみつけた築31年の中古住宅のリフォームを始める。予算300万円台。そのドキュメント。面白く読みました。

この本を読んだのが2016年4月~7月。私は1月に築71年の実家のリーフォームを思い立ち、工務店に見積りを依頼していた最中になる。私が用意した予算も当初は300万円。きっと参考になるだろうと思ったが40年の差は大きかった。というか施主のこだわりとそれに応えようとする工務店側の思いの違いは大きかった。

私は3つの工務店に見積りを依頼するも1社からは梨の礫。予算を400万円に上げるも、家の半分とはいえ壁、床、天井、電気配線、風呂・キッチン・洗面の一新を含むリフォームは不可能でシステムキッチンを諦めることになる。建具はこういう仕様でと細かな希望をいうも抱える大工・建具師の技量で出来ないことは出来ないし、話を聞く工務店側も面倒なことは嫌がり、はなから出来合いの製品の設置を望む。つまり施主は諦めることばかり。思うようにいかないものだとつくづく感じた。


(2016年4月 西図書館)





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築70年の家をリフォームする(6.台所)

2016年11月09日 | その他
 家自体は戦前の建物。台所の様子を具体的に説明するのは簡単で「トトロ」でサツキとメイが引っ越してきた家の台所をイメージしてもらえばほぼ間違いはない。風呂もあんな感じになる。手押しのポンプがコンクリートでできた流し台の右側にあり地下水を汲み上げる。風呂へもそのポンプで水を送ることが出来、台所の流しに水を出すか風呂へ水を送るかは単純な弁を切り替える仕様。子供の時に風呂へ水を張るのは私の仕事だった、いつもではないが、そういう記憶がある。風呂を沸かすのも台所の土間の隅に切り込んだ焚口から行うが、これもサツキが実演する場面が「トトロ」に出て来る。家全体が「トトロ」に出て来る家そのものだと思った方が良いかも。(※1)

 昭和30年代までは台所の外の軒下に小さな釜がしつらえられ、そこで炊事を行っていたが(私の物心ついたころの初期の記憶だが・・・)、プロパンガスの普及でガスコンロになり、手押しのポンプは電気モーターで動くものに代わり、上下水道が引かれる。長らく親しんだ土間も父が15センチほど嵩上げし床を張った。コンクリートの流し台は父が自ら既成の流し台に変更。それでも風呂も含め基本的な家の構造は建てた当時のまま。今回、この風呂と台所、それに続く食堂、西側の納戸を改装することにした。家の北側半分にあたる。

 さて台所。これはB社の提案内容に擦り寄った感じになった(※2)。B社はたいへんオーソドックスでほぼ部屋の機能・構造は変えずA社よりはるかに隙がない提案をしてきた。A社のコーディネーター女史のようにあれもあるこれもあるというものではなく、こうしましょう、こうなりますという完成形で早い段階から電気系統の配線図もついた設計図が出た。什器を置く場所も想定し壁のしつらえにも工夫があった。下見からの経過時間は1ヶ月。このレベルにA社が達したのは下見から5ヶ月かかったことを考えるとB社は優秀というかA社がおかしいというか。B社は勝手口の位置変更を行い妻が希望していた対面キッチンも実現していた。見積り額が高くなければ、いや私が用意できる予算がもっと潤沢であればここに頼んでいたに違いない。

<理想>





 部屋の機能・構造はそのままにすることになったので自ずと台所の使い方も今を引きずることになる。実をいうとここの改修を一番楽しみにしていたのは誰あろう私自身だと思っている。こうしたいというイメージがあって、それは欧米の乾いた感じだといえば通じるだろうか。大きな広い台所が出来ればそれに越したことはないのだが、私自身はシステムキッチンなどはなから眼中になくて業務用のステンレス調理台の中古で上等だと思っていた。いや、それが良いとさへ思っていた。なんなら理科の実験室の流しに調理台をくっつけてコンロは簡易な2連のIHヒーターで良いと考えていた。しかし妻に考えを話すと即却下。取りつく島もない。妻の希望は対面式のシステムキッチン。この時点では部屋の構造を変えないということには至っておらず大きなシステムキッチンを置ける可能性はまだあったし、どれだけ費用が掛かるのかも不明で漠とした希望はあった。ただ妻が言うシステムキッチンは値段がかなりお高いものだったので無理だろうなとは思っていたが口には出さなかった。

 IKEAに行くこと数度、メーカーのショールームに通うこと数度。理想の形態に組み上げられたシステムキッチンはカッコよく、それを見に来る若いカップルは希望にあふれてオジサンにはまぶしくて照れくさくて。買えもしないものについて質問する気にもならず、そんな風だから店員さんも声をかけてこない。だがちょっと待ってほしい。温帯モンスーンの湿潤で夏冬の気温差の激しい日本の風土で日本人が作る料理はかなり多種多様。オーブン、アーガ、ディープフライヤーが中心の欧米の食生活とはかなり違う気がする。私が頭に描く欧米の乾いた台所は日本では無理があるのではないか。(日本の昔の台所も竃や囲炉裏が主体で調理というものは簡単なだったはずだが・・・)

 加えて我が実家、母が溜め込んだものが溢れかえり、そうとう整理させたがそれでも母からすれば合理的に、傍から見ればなんとも散らかった台所という現実がある。少々器を変えてもそこを使うのは人であり、その使い方には人の個性や生活慣習が出てしまうのは世の常。母が溜め込んだ機器を置くとどんなツンと澄ましたシステムキッチンであろうと即歴戦の勇士に変身してしまうに違いない。

 日本の家の台所は戦後の食生活の変化、生活様式の変化による使用機器の多様化でそれに応じた調理器具もあふれかえる。台所が広い狭いに限らず必要なものは必要だから、狭ければ散らかるのも仕方なし。それに加えてここは田舎。こじんまりとした野菜の束ではなく畑から採ってきた土が付いた野菜がどーんと台所に入ってくる。バシャバシャと水を使うウェットな台所。どうも私が思い描く乾いた台所の姿はここの田舎生活ではありえそうもなかった。現実に起こりうる姿を想像して頭を抱えた。

<こういうのは嫌いではない>



 ためしに他所さまではどういう状況なのか調べてみることにした。他家の台所を見る機会などそうそうなかったし、あったとしても興味が無かったので覚えてもいない。伝手を頼って戸建でシステムキッチンを置いている、まあ今時はどこの家も置いているんだろうけど、そういう家の台所を幾つか拝見させていただいた。結果は想像どおり。システムキッチンはショールームに置かれていた澄ました姿とはうって変わって日本の台所らしい、ある意味活気あふれた姿になっていた。もはやシステムキッチンはただの流し台と調理台、棚。そこに何か期待した整理されたとか合理的なという姿はない。ドイツ生まれもスウェーデン生まれもその面影はない。絶対生まれ故郷で過ごしていたらあり得ない姿。少し安心するとともにやはりシステムキッチンである必要ないじゃない、そう確信。

<せめてこうでありたい>



 予算のこともあり器となる空間をまずは作り上げることにした。それに私たちは即帰ってくる予定はない。当面は母一人の暮らしが続く。そこに妻の希望したシステムキッチンを置いたとしても意味は無い。帰って来た時にそこはまた考えようと難題は後回しにすることを妻と相談し、流し台もコンロも今のままのものを使うことで工事を進めてもらうことにした。(※3)



※1 思えば我が家の台所は70年前であれば当時の最新式だったに違いない。当時の食生活や生活様式に合った合理的でシンプルで使い勝手の良い台所だったことだろう。それが戦後の食生活の変化、生活様式の変化、技術の発展による使用機器の多様化、加えて経年劣化で使いづらいものになってしまった。母がこの家に住むようになったのは終戦から10年ほど経ってから。何もない倹しい生活で食器も二人分しかなく偶に義理の姉とかが訪ねて来て食事を振る舞う際には、母の食器が無くて同席を促す義理の姉に作り笑いで後からいただきますからと言って凌いだとか、そんな話しを聞いたことがある。母があれもこれもと買い揃え積み重ねるのは、その頃の反動もあるのかもしれない。

※2 A社からの初期の案では大胆に間取りを変更するものが3つ出てきたが、ことごとく母が却下。今の位置では流し台の長さが短いので部屋の内向きに流しを据える案もあったが、これも窓に面していないのはいかがなものかと母が却下。長さを確保するためにL字のシステムキッチンの提案も居間からコンロが見えるのはいかがなものかと母が難色を示す。この辺りからA社のコーディネーター女史は少しやる気をなくしてきた。それより私が母に対し怒り始めた。

※3 D社に依頼することにしたため少し予算が余ったこともあるが、今の使い古しの流し台を置いた場合、母の使い方は今と同じになるに違いないと想像し流し台を買い換えることにした。廉価版のシステムキッチンのばら売り。コンロ組込済の流し台だけ購入。10万円。感心なさげだった妻はこのカタログを見て今後もこのままでいいという話になった。将来的に工事費も含め100万円近く安く上がった気分。

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