「理解」をめぐるMandala(曼荼羅)
2014/12/31
いままでいろいろな原稿を書いて来たが、これほどまでによい本を責任を持って出そうとする編著者(それもお二人)にあったことがなかった。
もちろん、編著者として出版するうえでの責任もあるに違いないが、読者の視点に立って細部に渡ってご指摘くださった。
初稿より三稿は、格段に読者の「理解」を得られるものとなっているはずだ。
筆者としても納得の三訂版を、昨晩、二人の編集者に送った。
刊行が楽しみだ。
あとは刊行され、本書と本稿を読んだ方々やこれをテキストとして使用される方々からのご感想やご意見、ご要望を待つしかない。
今回の経験を振り返ると、これまで自分の書く原稿について、常に読者視点に立って書いてきたかというと、正直、不安になる。
推敲を重ねても、そのときの思いや願いを前面に出して書き進めてしまっていたのではないか。
自らの主観による自らの主観の客観化、
他者(の主観)による自らの主観の客観化、
そして複数の他者による自らの主観の客観化、
そこに描かれる世界、
それは主観か客観化の二項対立を超えたところにある「間主観性」の世界の重要性への確信。
また、読者の「理解」を得る為には、いくつかのステップを踏むというより、読まれるとき、同時に6つの側面が満たされる必要があるということ。
これは「理解」をめぐるMandala(曼荼羅)。
説明
自己認識 解釈
理解
共感 衡観
応用
・説明(Explanation): 他者が納得できる論理・証拠はあるか?
・解釈(Interpretation):意味づけ・メタファーはあるのか?
・応用(Application):多様な状況や文脈での活用はできるのか ?
・衡観(Perspective): 批判的、洞察的な視点はあるか?
・共感(Empathy):他者の感覚や世界観の受容はできるか?
・自己認識(Self-knowledge):メタ認知・自己相対化ができるか?
(McTighe & Wiggins, 2004):下線?は筆者
これらは、ものを書くとき、語るとき、常に意識しなければならないことかもしれない。
ますます、自らハードルをあげてしまったのかもしれないが、刊行されるものにはそれは相当の覚悟がいるものだ。
一年の終わりに、
新しい年を迎えるにあたって記す。
2014/12/31
成田喜一郎