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年の瀬…

 2008年も、まもなく幕を下ろしますね。

 「早いね〜」という挨拶を繰りかえしています。

 昔、こんな詩を聞いたことがあります。

 「水の流れは目に映るが時の流れは目に映らない、一日はあっと言う間に過ぎ、一年は訳もなく過ぎ、意味もなく一生が終わっていく。」

 判る言葉ですね…

 年の瀬になると「来年こそは!」という合言葉で自らを奮い立たたせてきたのですが、なかなか希望の持てない時代なのかも知れません。

 では、希望とは何でしょう?

 人間として本来的に求めている事柄、目に映らない事柄、これは聞かせて貰わなければ、頷くことは難しいのでしょうね。

 私は仏法に聞いてまいりたいと思っています。

 さぁ〜、2009年がやって来ます。

 09年も宜しくお願いします。
 

 
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初心…

 「たとえ未熟で稚拙であろうとも粗雑であってはならない」

 今月14日の法話会での講師の言葉です。

 世間は未熟で稚拙であることを良しとはしないですよね…

 先生は「粗雑」に生きることは「人生を傷つけ汚すこと」なのだと示しておられました。

 「いい人間になったつもりで生きてはいませんか?」

 「正体を隠し、うわべを装い繕ってはいるにもかかわらず…」

 「偽装してまでやらねばならない底にあるものとは何ですか?」

 「利益最優先でしょう!」

 「いい人間のつもりで…」

 「地金という自我は隠せなくなりますよ!」

 厳しい言葉の連続でありましたが、未熟で稚拙であろうとも、丁寧に大切に生きることの重さを語っておられたのだと思います。

 粗雑に生きる自らを揺り戻す「はたらき」とは、既に失ってしまった「初心」かも知れません。

 そういう意味で「初心」って大切ですよね…


 

 
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出あい直す…

 穏やかな師走を過ごしておりました…

 仏典は「いのち」あるものの一生を「生・老・病・死」の四字で押えます。生まれたかぎり、やがて年を取り病んで死に至る。しかもこの四苦は皆苦であって、苦しみの連続が人生であると教えます。

 現代の風潮は「そんな暗い話は聞きたくない」という拒否反応で終わりですね…

 しかし「生・老・病・死」は誰一人として逃れることのできない「いのち」の事実ですから、考えないわけにもいきません。

 「生」に始まるこの人生、生まれたということは一生を尽くして歩みつづけなければならないものとして生まれたということですね。そうならば「死」は生の否定ではなく、生の完成であって、歩みつづけなければならない責任からの解放といえるのでしょう。「浄土に還る」という表現がありますが、故郷に帰るように、「いのち」の根元に帰るのですから、死は生の完成ということなのでしょう。そうであるならば、生きる「いのち」には重大な使命があるのであって、この一大事に気づいていく機縁として「老」と「病」の二つを挙げて、人間を成就する「いのち」の事実を語っているのでしょう。

 数十年前に亡くなった或る僧侶は「俺は胃袋と生殖器でしかない…」と、ご自身を述懐されていました。

 「仏の教えを通して自他共に出あい直す」これが仏法だと、最近感じています。


 
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命終の知らせ…

 尊敬しお慕い申し上げておりました先生が亡くなられました。

 先生に教えて頂いた言葉を紹介します。

 「率直に言って私達は真実よりも、差し当たっての安心感をこそをまず求めてきたように思います。よく本当のことが知りたいと言いますが、しかし、真実を知るということは、それが真実であるならば、どんなに耐え難く辛いことでも、それに従って生きるという勇気と智慧が無くてはかなわないことであります。そして事実、真実といものは時に私達の生活の安らかさを根底から揺り動かし、突き破って迫ってきます。本当のことを知りたいと言いながら私達はどこかで本当のことを知ってしまうことを恐れているという一面があるのです。」

 大切なことをたくさん教えて頂きました。

 宮城先生、ありがとうございました。
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表現…

 こんな話を聞いたことがあります。

 飛行場の近くに暮らす人は大変な騒音で辛い思いをしていると思います。

 そんな中、ある子どもが「おかあちゃん、飛行機が痛い」と言ったそうです。

 この場合どうでしょう…

 文章的におかしいと難癖をつける必要などなく、ものすごく実感の伝わる言葉として聞こえてきます。

 言葉というのは理論だけを表すのではなく、発する人の精神状態や出会った事柄の深さを表すのかも知れません…

 「信心とは、自分自身に納得し人生に納得することです。」

 最近聞かせてもらった言葉です。

 このような表現が導き出される「はたらき」に、わたしも出会いたいなぁ〜

 なんて思っています。

 

 
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蝦夷富士(羊蹄山)…

 およそ一月ぶりの羊蹄山です。

 うっすらと雪化粧がいいですネ。

 写真は11月1日、午前11時に撮りました。
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先輩の言葉…

 先週末、ある先輩住職の法話を聞かせて貰いました。

 「本当に頷けたんです。迷惑を掛け傷つけ続けた人に、実は支えられ励まされていたことが…。夫と云いながら妻に迷惑を掛け、父と云って子を傷つけていた。でもその妻と子に励まされ支えられていたのです。そう腹の底から思えた時、夫と呼ばれること父と呼ばれることが、勿体なくも有難いことだと気づかされました。本当にありがとうと言いたいのです。」

 実感のこもったその言葉に胸を打たれました。

 私の暮らす町にも今日、雪が降りました。

 いよいよ冬がやってきます。
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立脚地…

 「吾人の世にあるや、必ず一つの完全なる立脚地なかるべからず。もしこれなくして世に処し、事をなさんとするは、あたかも浮雲の上に立ちて技芸を演ぜんとすものの如く、その転覆を免るる事能わざること言を待たざるなり。」


 明治34年1月、清沢満之という方が、東京の浩々洞から「精神界」という仏教雑誌を刊行されました。その巻頭論文の一部です。


  何につけ、立脚地を持たない者は技術に溺れ転げ落ちていく…

  立脚地なき者は、したたかに上手にやり過ごしているだけ…

  浮雲の上で技芸を演ずるとは、なんと愚かなことか…

 
 転覆している自らの在り方を抉り出してくるような厳しい言葉です。久しぶりに読み返し、ドキッとしました。

 自分は何を立脚地として生きるのか、問われているのでしょう。

 
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夕張…

 10月6〜7日、夕張の本浄寺さんの報恩講に行って来ました。

 一応、布教師として…

 夕張はもう紅葉を迎えていました。

 帰り道、ふと立ち寄ってしまった「滝ノ上自然公園」です。

 とても、美しい風景でした。

 夕張の方が「紅葉は最高よ!」と仰っていた言葉…

 納得です。


 

 

 
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信心…

 最近読んだ文章の一節を紹介します。

 
 自分自身が成立するときには成立する基盤というものがあります。我々は、「私」「自分」と言って生きていますから、自分自身というものが初めから成り立っているはずのつもりでいます。そういう自分自身というのは、どういうあり方をしているのかと言えば、我がものといわれるものの上に私というものが成り立つというあり方をしています。
 具体的な言い方をすれば、私の身体といわれるものの上に私は成り立っています。私の仕事といわれるものの上に私というものが成り立ちます。私の家族、私の何々というように、「私の」といわれものを基盤にして私というものが成り立ちます。(中略)
 ですから、どうしても他のものとの違いを際立てるという生き方にならざるを得ませんし、絶えず比較して生きざるを得ないのです。そして、比較して私のものがみすぼらしく見えた場合には、この私がみすぼらしくなりますし、つまらなく見えれば、誠に自分自身がつまらないものとして現れ出てきます。(故 平野修師 講義)


 「私」というものが、自分が所有しているものの上に成り立っているかのような錯覚を破り、「私」というものが本当に成立するような根拠を信心というのでしょう。
 
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