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蝦夷富士(羊蹄山)

 晴れましたね〜!

 最近は暖かく、とてもよい気候です。

 写真は4月30日午後2時に撮りました。
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鯉のぼり…

 我が家の鯉のぼりです。

 何か変なのですが…

 お父さん鯉がいません!

 我が家を象徴しているのか?
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登別大谷高校…

 去る4月21日より24日まで登別大谷高校・宗教宿泊研修に行って来ました。

 今年は3クラスの入学で例年より少なく感じましたが、元気のいい高校一年生と熱心な先生たちに、たくさんの勇気を貰いました。

 感謝です!

 写真は1年Bクラスの様子です。
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花祭り… 

 4月8日は、お釈迦さまがお生まれになった日であるということで、日本はもとより、世界中いたるところで「花祭り」という行事を通して、ご誕生をお祝いしています。

 仏典の伝えるところによりますと、インドのカピラ国の王子としてお生まれになったゴータマ・シッダールタは、両足でしっかりと大地を踏みしめて、右手で天を指し、左手で地を指し「天上天下唯我独尊」と、声高らかに宣言されたといいます。

 有名ですね…

 「天上天下唯我独尊」日本語的に読みますと「天上にも天下にも、唯、我、独りにして尊し」と読みますが、曽我量深という先生は「天上にも天下にも、唯、我、独りなり。尊し」と読んでくださいました。

 人は何かにもたれ掛かって生きて往こうとします。すがったり責任転嫁したり…

 自らが立つということがないからでしょう。どんなに辛く苦しくとも、自らが立つというところに「唯、我、独りなり」という意味があるのでしょう。

 事実、私の人生は誰にも代わってもらえません。しかし「この事実を事実のままに受け止めよ」と教えられながら、受け止めたかのような顔をして、したたかにスイスイと誤魔化して生きようとする我が思いはニヒルで傲慢ではないでしょうか。

 もっと深いところで「事実を事実として受け止められない」と自覚し涙するところに開ける世界があるように思います。

 「受け止められない」という叫びが、「受け止める」勇気と力になるような…

 誰にも代わってもらえないということは、意志することの自由、自分はどういきるのかという選択の自由が与えられているということなのでしょう。
 
 何が起ころうとも自由はなくならないという自覚なのですね。

 そうでなければ、人は敗北するか風見鶏になるしかありません…




 
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お彼岸…

 お彼岸ですね。

 真宗門徒は御先祖を「諸仏」と仰ぎます。

 なぜなら、長い人生を生き抜いて遂に人間を果たし、いのちの故郷であります浄土に還られた方であるからです。

 お彼岸と聞けば、思い浮かぶのが「供養」ということですが、供養とは「諸仏供養」のことでして、諸仏の勧めに応えることなのでしょう。

 諸仏は何を勧めていられるのでしょうか?

 亡き親たちは諸仏でありましたと、はっきりと頷く時、供養はどうあるべきかが、おのずと知られてくるのです。

 この一点を曖昧にしたまま供養するとなると、単なる先祖供養にとどまるだけでなく、餓鬼供養になってしまうのでしょう。

 お彼岸、こころしたいものです。
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青木新門さん…

 第81回アカデミー賞の授賞式が行われ、外国語映画賞に日本映画の「おくりびと」(滝田洋二郎監督)が受賞しましたね。

 おめでとうございます。

 原作はご存知とおり、青木新門さんの「納棺夫日記」です。

 青木さんは2007年、東本願寺の春の法要で「いのちのバトンタッチ」という講題でお話をなさっています。その講演が東本願寺伝道ブックスになっていますので抜粋して紹介します。

 

 「納棺の現場で生まれた私の詩があります。本日の『いのちのバトンタッチ』という講題はこの詩からとりました。

   人は必ず死ぬのだから
   いのちのバトンタッチがあるのです

   死に臨んで先に往く人が
   『ありがとう』と云えば

   残る人が
   『ありがとう』と応える
   そんなバトンタッチがあるのです

   死から目をそむけている人は
   見そこなうかもしれませんが
   目と目で交わす一瞬の
   いのちのバトンタッチがあるのです

 私は、臨終に立ち会う大切さを強調しましたが、臨終にこだわっているのではありません。ただ、いのちを個人の所有物のようにとらえ、いのちのつながりを断ち切ってしまったら、無量寿(いのち)は伝わらない言いたかったのです。仏教は、今を真実に生きる道を説く教えだと思います。私のお念仏は、いのちが私を生きている実感なのです。いのちと一つになって生かされている感謝のお念仏なのです。」

 
 青木さんの願いが多くの人に届けられるといいですね。
  
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蝦夷富士(羊蹄山)

 
 久しぶりに撮りました。

 何か春っぽいですね…

 写真は2月12日午後3時30分のものです。
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故郷…

 故郷の「郷」という字は、ひとつの食卓に盛ったご馳走を間に、二人の人が向かい合い見つめ合っている姿を表しているそうですね。

 同じ釜の飯を食べ、喜びも悲しみも共にする家庭の原型を示しているのでしょう。
 
 ところで、故郷というと田舎を連想しますが…

 最近では、都会に嫁いだ娘が出産のために実家に帰ることが困難な時代になってしまったのではないかと思ってしまいます。

 なぜなら田舎には、子どもが産める病院がないからです。

 「いまさら」と思う人もいるかも知れませんが、田舎を取り巻く環境を見ると、じわじわと故郷の特権が失われている気がします。

 生まれ育った「ふるさと」は若い人は若い人なりに、老いたる人は老いたる人なりに、いのちの温もりを感じてきた場であったはずです。

 現代は、核家族はもとより過疎過密は避けられない現実でしょう。しかし、故郷を思えばこそ心やすらぎ、勇気が湧くということもあるのでしょう。

 それは実体的な故郷というより、感得すべきは存在の故郷なのかも知れません。

 存在の故郷を浄土というのでしょう。



 
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不景気…

 
 一休さんの歌に「元旦や冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」と詠んだものがあるそうです。

 100年に一度の不景気を迎えて「何もめでたくない!」と語気を荒げた人もいましたね。

 ふと思うのですが、「目当て」にする対象が判らなくなってしまいがちなのではないのでしょうか。

 例えば、学校の先生の目当ては、よく先生の言いつけを守り、しっかりと何でもこなしていく生徒なのか。それとも勉強なんか糞くらえ、学校なんて大嫌いだと背中を向けてくるような生徒なのか。ということです。

 個人の好き嫌いの問題ではなくて学校の先生を名のるのであれば、私は後者だと思うのです。

 これが前者どころか教育委員会や父兄になるからおかしくなるのでは…

 本来、国を名のるものが目当てにしなければならない対象とは何なのでしょう。

 本末転倒してはいないでしょうか?

 不景気と言ってうな垂れていくのではなく、不景気だからこそできることがあるのでは…
 


 
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新年…

 
 近隣の(若手?)僧侶とやっている学習会で、毎年ポスターを製作しています。

 写真が今年の法語になりました。

 参考にさせてもらったのは、松本梶丸さんの「生命の見える時」の文章です。

 抜粋して紹介します。

 「偶然の出会い、必然の別れ。その中に人間は生きている。だからこそ、人は出会いを大切にしなければならないのではなかろうか。別れが必然だから、人はかろうじて優しくなれるのかもしれない。」


 今年も宜しくお願い致します。
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