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『孟子』巻第四公孫丑章句下 三十四節

2017-01-03 13:18:49 | 四書解読
三十四節

孟子が齊王のもとへ参内しようとしている所に、王からの使者が来て、
「私がそちらへ伺ってお会いしたいと思っているのだが、風邪をひいて、外気にあたるわけにいかず、先生がおいでくだされば、私も朝廷に出てお会いしたいと思っている。どうだろう、お会いできるだろうか。」
と言った。そこで孟子は答えた、
「あいにくと私も病気で、参内することができません。」
翌日、孟子は東郭氏の家に弔問に出かけようとすると、弟子の公孫丑が言った。
「昨日は病気だと言って朝廷にお伺いするのをお断りしておいて、今日大夫の家に弔問に出かけるのは、宜しくないのではありませんか。」
「昨日は病気だったが、今日は治ったのだ。どうして弔問を止められようか。」
孟子が弔問に出かけた後に、王の使者が医者を連れて見舞いに来た。留守居をしていた孟子の従兄弟で弟子の孟仲子が応対して、
「昨日は王様よりお召しがございましたが、あいにく疲れが出たのか朝廷にお伺いすることが出来ませんでしたが、今日は少し良くなったので、参内すると言って急ぎお出かけになりました。病が完全に癒えていないので、無事にたどり着いたかどうかは分かりません。」
とその場を言い繕い、弟子の数人を手分けして、孟子の通りそうな場所へ迎えに行かせ、
「どうかお帰りにならずに、必ず朝廷にお伺いしてください。」
と言わせた。それを聞いた孟子は、帰ることもできず、かと言って参内する気もなかったので、仕方がなく齊の大夫である景丑氏の家に行って泊めてもらった。事情を聞いた景丑は言った、
「家庭内では親子、外では君臣の関係が最も大きな人の道であり、親子は恩愛を主とした繋がりで、君臣は敬意を主とした繋がりではないでしょうか。私の見る所では、王様が先生を敬っておられるのはよく分かりますが、先生が王様に敬意を表しているとは思えないのです。」
「ほう、何をおっしゃる。齊の人々は仁義について王様と誰一人語ろうとしない。それは仁義がつまらないものだと思っているのではなく、王様が共に仁義について語るに足る人だと思ってないのでしょう。もしそうだとしたら、これより大きな不敬はありません。私は堯・舜の行った道以外に王様の前で申し上げようとは思いません。ですから私が齊国の誰よりも王様を尊敬していることになります。」
景子は言った、
「いや、そんな事を言っているのではないのです。礼には、父が呼んだら躊躇せずにすぐに行く、主君がお召しのときは、馬車の用意をする時間も惜しんですぐにかけつける、とあります。もともと先生はご自分の方から参内しようとしておられたのに、王様がお召しだと聞くと、おやめになられた。言われている禮の定めとは異なっているようですね。」
「そのような君臣の禮を言っているのではない。曾子が、『晉や楚の富にはとても及ばないが、彼らがその富を誇るなら、私には仁の徳がある。彼らがその爵位を誇るなら、私には義の徳がある。何も心に引け目を感じるものはない。』と言っています。大体曾子ほどの人が道理に外れたことを言うはずがありません。これも一つの道理です。およそ天下には広く誰にでも尊敬されるものが三つあります。爵位・年齢・徳がそれです。朝廷では爵位が一番であり、郷里では年齢が一番大事であり、世の中を正しく導き、人民の長老となるには徳が一番大事です。どうしてこのうちの一つが有るからと言って、他の二つをおろそかにできましょうか。それゆえ、大事を為そうとする君主には、必ず呼びつけず、相談したいことが有れば、君主自ら出向いていく臣が有るものです。そのような有徳の人物を尊び共に政を楽しむのでなければ、共に大事を成すことは出来ません。故に殷の湯王は先づ伊尹を師として学び、その後に臣として用いたので、それほどの苦労もせずに王者となることができたのです。又齊の桓公も管仲を師として学び、後に臣として用いたので、労せずに覇者と為ることが出来たのです。ところが今や天下の諸侯は領土も人徳も似たり寄ったりで、上に立てて尊ぶほどの者はおりません。それは王が自分の言いなりになるような臣下ばかり好み、意見を述べ、諫めてくれるような臣下を好まないからです。湯王は伊尹を、桓公は管仲を呼びつけようとはしませんでした。あの法家の管仲でさえ呼びつけようとしなかったのに、天下の王道を説く者を呼びつけるなど、とんでもない話ではありませんか。」

孟子將朝王。王使人來曰、寡人如就見者也。有寒疾。不可以風。朝將視朝。不識可使寡人得見乎。對曰、不幸而有疾。不能造朝。明日出弔於東郭氏。公孫丑曰、昔者辭以病、今日弔。或者不可乎。曰、昔者疾、今日愈。如之何不弔。王使人問疾、醫來。孟仲子對曰、昔者有王命、有采薪之憂、不能造朝。今病小愈、趨造於朝。我不識能至否乎。使數人要於路、曰、請必無歸、而造於朝。不得已而之景丑氏宿焉。景子曰、內則父子、外則君臣、人之大倫也。父子主恩、君臣主敬。丑見王之敬子也、未見所以敬王也。曰、惡、是何言也。齊人無以仁義與王言者。豈以仁義為不美也。其心曰、是何足與言仁義也。云爾、則不敬莫大乎是。我非堯舜之道、不敢以陳於王前。故齊人莫如我敬王也。景子曰、否。非此之謂也。禮曰、父召、無諾。君命召、不俟駕。固將朝也、聞王命而遂不果。宜與夫禮若不相似然。曰、豈謂是與。曾子曰、晉楚之富、不可及也。彼以其富、我以吾仁。彼以其爵、我以吾義。吾何慊乎哉。夫豈不義而曾子言之。是或一道也。天下有達尊三。爵一、齒一、德一。朝廷莫如爵、鄉黨莫如齒、輔世長民莫如德。惡得有其一、以慢其二哉。故將大有為之君、必有所不召之臣。欲有謀焉、則就之。其尊德樂道。不如是不足與有為也。故湯之於伊尹、學焉而後臣之。故不勞而王。桓公之於管仲、學焉而後臣之。故不勞而霸。今天下地醜德齊、莫能相尚、無他。好臣其所教、而不好臣其所受教。湯之於伊尹、桓公之於管仲、則不敢召。管仲且猶不可召。而況不為管仲者乎。

孟子將に王に朝せんとす。王、人をして來たらしめて曰く、「寡人如ち就きて見る者なり。寒疾有り。以て風す可からず。朝すれば將に朝を視んとす。識らず、寡人をして見るを得しむ可きか。」對えて曰く、「不幸にして疾有り。朝に造る能わず。」明日、出でて東郭氏を弔せんとす。公孫丑曰く、「昔者(昨日)は辭するに病を以てし、今日は弔す。或いは不可ならんか。」曰く、「昔者は疾あり、今日は愈ゆ。之を如何ぞ弔せざらんや。」王、人をして疾を問い、醫をして來たらしむ。孟仲子對えて曰く、「昔者は王命有りしも、采薪の憂い有りて、朝に造る能わず。今は病小しく愈ゆ。趨りて朝に造れり。我は識らず、能く至れりや否やを。」數人をして路に要せしめて曰く、「請う必ず歸ること無くして、朝に造れ。」已むを得ずして景丑氏に之きて宿せり。景子曰く、「內は則ち父子、外は則ち君臣は、人の大倫なり。父子は恩を主とし、君臣は敬を主とす。丑は王の子を敬するを見る。未だ王を敬する所以を見ざるなり。」曰く、「惡、是れ何の言ぞや。齊の人は仁義を以て王と言う者無し。豈に仁義を以て美ならずと為さんや。其の心に曰く、『是れ何ぞ與に仁義を言うに足らんや。』爾云えば、則ち不敬是より大なるは莫し。我は堯舜の道に非ざれば、敢て以て王の前に陳ぜず。故に齊の人は我の王を敬するに如くもの莫きなり。」景子曰く、「否。此の謂に非ざるなり。禮に曰く、『父召せば、諾する無し。君命じて召せば、駕するを俟たず。』固より將に朝せんとするなり。王命を聞きて遂に果さず。宜しく夫の禮と相似ざるが如く然るべし。」曰く、「豈に是を謂わんや。曾子曰く、『晉楚の富は、及ぶ可からざるなり。彼は其の富を以てし、我は吾が仁を以てす。彼は其の爵を以てし、我は吾が義を以てす。吾何ぞ慊せんや。』夫れ豈に不義にして曾子之を言わんや。是れ或は一道なり。天下に達尊三有り。爵一、齒一、德一。朝廷は爵に如くは莫く、鄉黨は齒に如くは莫く、世を輔け民に長たるは徳に如くは莫し。惡くんぞ其の一を有して、以て其の二を慢るを得んや。故に將に大いに為す有らんとするの君は、必ず召さざる所の臣有り。謀ること有らんと欲すれば、則ち之に就く。其の徳を尊び道を樂しむこと、是くの如くならざれば、與に為す有るに足らざるなり。故に湯の伊尹に於ける、學びて而る後に之を臣とす。故に勞せずして王たり。桓公の管仲に於ける、學びて而る後に之を臣とす。故に勞せずして霸たり。今、天下、地醜(たぐい)し德齊しく、能く相尚(すぎる)ぐるもの無きは、他無し。其の教うる所を臣とするを好みて、其の教えを受くる所を臣とするを好まず。湯の伊尹に於ける、桓公の管仲に於けるは、則ち敢て召さず。管仲すら且つ猶ほ召す可からず。而るを況んや管仲を為さざる者をや。」

<語釈>
○「王」、齊の王、宣王とする説もあるが、定かでない。○「如就見」、この「如」の解釈について異説が多く、「如し」、「圖る」、「往く」などの説があり、安井息軒は「乃」の意に解す。息軒の説を採用する。○「采薪之憂」、服部宇之吉云う、主君に対して疾を称する謙辭なり、我が身を従僕に比し、疾して薪を採ること能わざる意。○「云爾」、「爾」は「然」に通じ、爾(しか)云う、と読み、そういうならば、という意味になる。○「達尊」、朱注:「達」は「通」なり。達尊は、すべてに通じて尊いもの。○「醜」、趙注:「醜」は、「類」なり。動詞に読み、“たぐいす”と訓ず。○「尚」、朱注:「尚」は、「過」なり。

<解説>
私が孟子を好きになれない理由の一つは、屁理屈が多く、人物が狭量であることである。王の呼び出しを断るのは、当時としては非常に非礼な行為で、むしろ景氏の言の方が道理である。それを齊の人は王を仁義を説くに足る人物でないと思っているから、私の方が王を敬っていると言い、管仲などは小人物だと言い、それを呼びつけないのに、王道を説く私を呼び寄せるなどとんでもないことだと理屈をつけて断っている。勿論この理解の仕方は私の個人的なものであり、違う解釈もあり、昔から孟子像についていろいろ議論のある節である。
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