ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第23主日(T25)の福音書

2016-10-22 06:53:13 | 説教
断想:聖霊降臨後第23主日(T25)の福音書
どちらが義人か  ルカ18:9-14

1. 文脈と語義
ここで述べられている譬えはルカ独自のものである。譬えの主眼点は神の前で義とされる者は誰かという点であろう。神の前で義と認められるということはユダヤ教からキリスト教へとつながる最も根本的なテーマで、ユダヤ教徒はそのために律法を遵守することに熱心であったのであり、キリスト教徒、とくにパウロは信仰による義認ということを生涯の大テーマとして主張したのである。
この譬えでは2人の人が対照的に取り上げられている。一人はファリサイ派の人で「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している」人を代表している。もう一人は徴税人で自分を罪人だと自覚している人の典型とされる。彼ら二人が偶然にも同時に神殿で祈ることになる。ファリサイ派の人は自信にあふれ、神殿の前方に進み、心の中で「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」(11-12節)と言う。成る程、立派な祈りである。この祈りに偽りはなかったと思われる。「心の中で」という言葉がそれを示している。他人に聞かせる祈りではない。彼自身と神との直接的な会話としての祈りである。誰からも後ろ指をさされるような生き方をしていないのであろう。ちょっと気になるのは「わたしはほかの人たちのよう」ではないということ、さらに具体的に「この徴税人のような者でもないことを感謝します」という言葉で、イエスがこの譬えを「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」語られたという理由がここにあるように思われる。彼の生活が事実立派な者であったとしても、そのことについてこういう認識と感謝をするということが問題である。ファリサイ派の人は「心の中で祈った」と記されているが、これは何も声高に祈った訳ではない。彼は普段からそう思っているし、それが彼の本音であり、自己認識であろう。
それに対して徴税人の方は神殿の後の方で、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言ったという。ファリサイ派の人の「祈り」と徴税人の「言った」とは対照的である。ファリサイ派の人はたとえそれが「心の中で」のこととは言え、立派な祈りである。しかしこの徴税人は神に祈るということさえも遠慮している。彼が口にしていることは、祈りにもならない呟きである。神の前に出るということさえ、恥ずかしいという思いが感じられる。神の前に立つことさえ差し控えなければならない自己を自覚している。
ここではあえて徴税人という職業について説明したり論じたりしようとは思わない。なぜなら彼が徴税人であるということが主題ではないからである。ただ、おそらく自分自身でも、あるいは他の人たちの目からも「罪人」だと思われている人が主題である。むしろ、そのような人間が神殿に来て祈っていることの方が奇異に思われる人々を代表している。率直に言って、ファリサイ派の人たちの目から見て「あのような人でないことを感謝する」というような人を示している。
もし私たちの目の前にこの2人が立ったとしたら、ほとんどの人は文句なくファリサイ派の人を尊敬し、徴税人を軽蔑するであろう。誰も喜んで徴税人の友だちになる者はいないであろう。もし私たちの教会にファリサイ派の人のような紳士が出席したら大歓迎するであろうし、見るからに罪人と思われる人が来たら、怖がって近づこうとしないのではなかろうか。私たちはほとんど自動的にファリサイ派の人を良い人と思い、罪人を悪い人と思ってしまう。しかももっと悪いことに教会は善人が来るところで、悪人は来てはならないところというような雰囲気を持ってしまう。建前としてはもちろんそれを否定するが、そういう雰囲気が教会には充満している。
例えば、聖餐式について「受聖餐者が明らかに大罪を犯すか、言行で隣り人を害して主の民の交わりを損なった者があれば、司祭はその人に対して、その罪を悔い改め、加えた害を償い、または後に償う決心を明らかにしないときは、陪餐してはならないことを告げなければならない。また、互いに恨みを抱く者があれば、前の規則により、陪餐させてはならない」、というような規定がある。この規定は明らかに教会の交わりの中から罪人を排除する規定である。教会も一つの社会組織であるのでそのような規定を置いておく必要もあるであろうが、問題はそれを適用することにある。むしろ、その規定は教会も過ちを犯す可能性があるということの象徴であって、それを現実に適用することは間違いである。教会は具体的に誰かを指さしてあなたは善人であるとか、彼は罪人であるとか宣言してはならない。というよりも、徹底的にそれを神の判断に委ねるべきである。もしその判断が迫られた場合には、徹底的に「私には分からない」と答えるべきである。

2. この物語の眼目
イエスがこの譬えを持ち出した意図は明白である。2人のうち「どちらが義とされたか」という点にある。ユダヤ教においても、そして同時に私たち自身も、ファリサイ派の人を「義人」だと断定する。ところが、それに反して神は罪人の方を義人であると認めたという。その理由はここでは明らかにされない。結論としてルカは「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と述べているが、これを謙遜という倫理に置き換えて、道徳の話にしてはならない。ここで言う「高ぶる者」とは自分を義人だと思うことであり、へりくだるとは自分自身を罪人だと思うことである。端的に義人は義人だと思い、罪人は罪人だと思うことである。つまり、それは当たり前のこと、常識である。何も内省的に自己を批判して罪を意識するというようなことではない。単純に私たちの常識に反する判断が神によってなされるということであり、その理由は分からない。
当時の教会における重要な問題は「義」をめぐるユダヤ教とキリスト教との対立であった。一体何が問題なのか。ユダヤ教にしろ、キリスト教にしろ、義と認めるのは神であって、わたしたちが義人になるのではないことは明白である。逆の言い方をすると私たちが自分のことをどんなに義人だと思っても「神の目から見て耐えれるような義人」にはなり得ないことは明かである。もしそんなことができると考えるならば、それこそ幻想であり、本当の「うぬぼれ」である。つまり、私たちがどんなに努力をしても、修業を積んでも、どれほど厳しい「断食」をしても、神の前では義人ではありえない。ところがユダヤ教においては律法という文字に書くことが出来る規定が義の基準となり、律法を守れば義人だと認められた。ここに問題があり、キリスト教徒の対立点がある。

3. 「自分を正しい人間だと思うこと」
信仰による義にせよ、律法による義にせよ、神の前で「自分を正しい人間」だと思うことは、不可避的に「他人を見下す」ということにつながる。「自分を正しい人間」と思うことは、「正しくない人間」と比べて初めて言えることである。本日の物語では「律法による義」を前提にしているから、その様な表現になっているが、全く同じように「信仰による義」においても「信仰の無い人間」に対して「見下して」いる。もし真面目なクリスチャンが礼拝で「信仰の無い人」と比較して、「信仰のあること」を感謝するならば、全く同じことである。律法にせよ、信仰にせよ、神の前で「自分を正しい人間」だと思うことは、不可避的に自分を他人と比較しているのである。このことがここで問題にされている。
結論を考えねばならない。本日の物語に登場する徴税人が「信仰による義人」のモデルであるとすると、彼は神の前で自分を「罪人」と呼んでいる。これは単に表現としての言葉ではなく、全く彼は自分のことをそう信じていたに違いない。正真正銘、自他共に認める「罪人」である、と信じて疑わない。だからといって、そうなることが信仰による義と考えてはならない。同じように、あのファリサイ派の人のように、自分を正しい人と考えてもいけない。もし、私たちが自分をちょっとでも信仰があるとか、正しいと思ったとき、私たちはあの律法主義者たちが陥ったと同じ間違いを犯すことになる。
このことは私たちが人を裁く立場になったとき顕わになる。本当の意味で私たちは人を裁けるのだろうか。私たちが裁判官の立場、あるいは検事の立場に立ったとき、私の前に連れてこられた「罪人」を自分とを比べて、この人のようでないことを神の前に感謝することができるのだろうか。そんなことは出来ない。この譬えはそれができないことを語っている。
裁けないということは、同時に赦せないということに通じている。人間に人の罪を赦す権威などはない。聖職者にもそんな権威はない。むしろ、聖職者が赦しの宣言をする前に、先ず聖職者自身が許されなければならない。聖餐式文参照。

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