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断想:聖霊降臨後第26主日(T28)の福音書

2016-11-12 06:45:28 | 説教
断想:聖霊降臨後第26主日(T28)の福音書
歴史観  ルカ21:5-19

この主日について
この主日は、降臨節前主日の一つ前の主日である。しかし、この主日は特別な意味が込められている。教会暦では「降臨節前主日」が1年の最後の主日であるが、この主日では、福音書はルカ23:35~43かあるいは19:29~38が取り上げられている。そこでの主題は十字架上のイエスが「ユダヤ人の王」と言われて嘲弄されている部分であり、19:28~38はイエスのエルサレム入城の場面でイエスが「王」として歓迎される部分である。つまり教会暦の最後の主日のテーマは「王なるキリスト」ということである。それに対して、その前の主日、つまり今日の主日は「歴史の終わり」が主題である。つまり、教会の時代の終わり、ルカ福音書ではそれを「神の国」という象徴的な言い方をする(ルカ9:57~62)。その意味では実質的には、この主日が「終末主日」と呼ばれるに相応しい。

文脈と語義
ルカ福音書の21:5~38はマルコ福音書の13:1~37のいわゆる「小黙示録」に基づき描かれたと言われている。主題はエルサレムの滅亡と終末の問題である。先ず、この部分について資料的にルカ福音書をマルコ福音書に対比、分析しておく。普通は学者でない限り、ここまで分析する必要はないが、聖書をキッチリと理解したい人もいるので、問題点を指摘しておく。
(1)5~6節はマルコ13:1-2
マルコが「弟子の一人」とするところをルカは「ある人たち」(5節)と一般化する。この「ある人たち」とは神殿に「見とれている」人で、おそらく観光客であろう。
(2)7~19節はマルコ13:3~13(18節はルカ独自の句)
神殿崩壊の時が何時なのかと問うのは「ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ」と特定しているのをルカは5節の「ある人たち」を受けて「彼らは」(7節)とする。マルコの「まだ終わりではない」をルカは「世の終わりはすぐには来ない」(9節)に変え、これらの現象と「世の終わり」とを切り離す。
(3) 10~19節の迫害はマルコにおいては終末の「始まり」(8節)として叙述しているが、ルカでは終末とは関係なく、教会が現実に経験する、あるいはしている迫害を意味している。
(4) 18節「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」は現在のこととして意味がある。
(5)20~24節は同14~19節(マルコの20-23節の偽メシアの登場をルカは省略する)
(6)25~28節は同24~27節
(7)29~33節は同28~31節
(8)34~38節はルカ独自の資料
      ※ 20節以下は省略
ルカはマルコ福音書のいわゆる小黙示録といわれている部分を資料としながら、基本的には5~19節の出来事を「世の終わり」とは区別して語る。5~6節でのエルサレムの神殿の崩壊は、ルカの時代においてはもう既に起こったこと(20~24節)であり、過去のことである。言い換えるとルカは、マルコの近未来に関する終末論を過去から現在、さらには未来にわたる「歴史観」に変換したと言えるのではなかろうか。
従って8節から19節までの部分はルカにとっての「現在の教会」が置かれている状況である。具体的にはエルサレムにあった教会は神殿崩壊の直前にエルサレムを去り、ヨルダンの東ベラに避難している(エウセビウスの『教会史』)。ルカが所属していたヘレニスト・キリスト者たちはアンティオケおよびエフェソを拠点にしていたものと思われる。従って、この個所はイエス在世当時の思い出を語る5~6節と迫害の中にある教会の状況を語る7節以下とはかなり背景が異なる。

2. 本日のテキスト(5~19節)
5~6節では、ここでの会話が全体としてイエスと一般の人びと(観光客)との会話として場面が設定されている。7~9節の部分のキイワードは「惑わされるな」で、「世の終わりは未だ来ない」と述べられる。そこで、10~11節ではいわゆる終末の前兆が語られ、25~28節の語られることの伏線になっている。12~19節は終末の前兆として、「起こる前」の状況としてキリスト者の直近の状況として激しい迫害について語る。しかし、最後には「あなたがたの髪の毛の一本も決しなくならない」という励ましの言葉で結ばれている。

3. イエスと巡礼者との会話
今日のテキストはエルサレムの神殿の前で立ち話をしている「ある人たち」にイエスが話しかけるところから始まる。
現在でもイスラム教では一生に一回はメッカ詣出をすることが義務づけられているとのことであるが、ユダヤ教でもエルサレムの神殿に詣でるということは重要なこととして考えられている。実際に、それがどれ程厳密に行われていたのかということは明らかではないが、少なくともイエス当時はすべてのユダヤ人に1年1回のエルサレム詣出が義務づけられていた。エルサレム近郷に住んでいる者にとっても、あるいは遠く外地に住んでいる者にとっても、神殿は彼らの信仰の中心であり、そこに来て生贄を捧げることが彼らの生活の中で最も重要な事柄であった。近くに住んでいる人々にとっては難しいことではないと思われるが、地中海地方に散らばっていたユダヤ人(ディアスポラと呼ぶ)にとっては非常に困難な義務であったと思う。しかし詩編の中の多くの巡礼の歌に見られるように、彼らはそれを「宗教的義務」としてよりも「信仰の喜び」として受け止めていたようである。
おそらく神殿の前で立ち話をしていた「ある人たち」とはそのような巡礼者の一団であろう。彼らは豪壮な神殿を見て、とくに見事な石垣に感動していた様子がうかがえる。神殿が堅固であるということは彼らの信仰と生活の堅固さの徴であった。従って見事な石垣を見て彼らは彼らの生活基盤の確かさを確信したのであろう。その様子を見てイエスは「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と言われた。実にお節介で、嫌みである。

4. 「見とれる」
さて、このイエスの言葉の中で「見とれる」という言葉が用いられている。この「見とれる」という言葉は、確かにこの場の状況というものを表現していると思う。しかし、それはあくまでも日本人から見た感性であって、果たして日本語の「見とれる」という言葉が表現しているような状況であったのだろうか。日本人の観光客がユダヤ教の大本山である豪壮な建物に見とれるのとは違う。実は、この「見とれる」と訳されている言葉は、「うっとり」して見ている、むしろ「我を忘れて(忘我)」見るのとは異なる言葉が用いられている。最近では半分ぐらい日本語になっている「セオリー」という言葉があるが、ここで用いられているのはその「セオリー」という言葉の元になった「見る」である。ボーとして見ているのではなく、それを見て「理屈」を考えている。
彼らにとって神殿は単なる建物ではない。見事な神殿にイスラエルの過去の全歴史が込められている。神殿を見ることによって、彼らの目前にはモーセ以来の全歴史が展開している。たとえヘロデ王によって建造された新しい神殿とはいえ、それは「歴史的建造物」である。エルサレム神殿は歴史的建造物であるという意味は、イスラエルの全歴史がここに凝縮されているという意味と将来の全歴史を予見させるという意味でその建造物は歴史そのものを象徴するものだという意味である。言い換えると、今目の前に見ている神殿は過去の全歴史を示す象徴であると共に、彼らの将来をも語るものである。これを私たちは「歴史観」と呼び、縮めて、「史観」ともいう。
彼らは外国の観光客のようにただ「すごい、すごい」と言って眺めていたのでもなく、その美しさにうっとりと見とれていたのでもない。彼らが見ていたもの、話し合っていたものは過去から未来へと至る「歴史」である。しかも、それは幻想的な、夢のような、輝かしい歴史である。
余談になるが、現在の中東問題を考える際に、この問題は極めて重要である。パレスチナという土地は、そしてとくに、エルサレムという都市は、ユダヤ人にとっても、イスラム教徒にとっても、さらには一部のキリスト者にとっても、現在でもなお特別な場所であり、それぞれが自分たちの歴史と将来とを見る聖地である。ユネスコ推薦の世界遺産というレベルではない。聖地とは過去と現在と未来とが交錯し、集中している場所である。他の場所と交換することができない「あまりにも意識過剰」な場所が聖地である。だから簡単に「他人」に譲れない。それに加えて石油という現代の技術社会の最も重要なエネルギー源が、「あまりにも現実的な価値」を産み出し、問題をさらに複雑にしている。

5. 「違う」
話を戻そう。イエスは「あまりにも意識過剰な会話」に対して「違う」「ノー」と言う。この神殿、この石垣は「過去の栄光」ではなく「将来の悲劇」を語っているとイエスは言う。ローマの建築技術、石垣作りによって建てられたこの豪壮な神殿は、豪壮であれば豪壮であるほど、ローマに対するイスラエル(神の民)の屈辱を示し、イスラエルの歴史の悲劇を語り、悲劇の始まりを語っている。多くの人々が未来永劫、決して崩れることがないと思っている「この石垣」が崩れるときが必ず来る。イスラエルも、ローマでさえも滅びるときが必ず来る。この世において絶対に確実であるというものは存在しない。ただ神の言葉だけが永遠であるとイエスは宣言する。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(ルカ21:33)。そして事実、エルサレムの神殿はまもなくローマの軍隊によって徹底的に破壊され、そのローマ帝国も滅びた。しかし、それと平行して、イエスの言葉によるキリスト教信仰は全世界へと広がった。
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