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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/03/12~03/18

2017-03-18 21:33:51 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/03/12~03/18

2017 日々の聖句 3月12日(日)
さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ、どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。(エレミヤ6:16)

あなたがたが信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。(ヘブル6:12)

私の黙想:
これは明らかに宗教の選択の問題。いろいろな宗教を比較検討して、選べという。それぞれの宗教にはそれぞれの伝統がある。従って、この場合、「昔からの道」というのも当然複数形であろう。ただし、これを語る者にはすでに一つの宗教が選択されている。つまり、自分の宗教に対する自信がある。
さて、エレミヤ書では、これを語っている者はヤハウェである。さて、問題は「昔からの道に問いかけてみよ」という言葉の意味である。これは「問いかけてみよ」なのか。 口語訳では「いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて」と訳されており、「いにしえの道」と「良い道」との関係が曖昧である。フランシスコ会訳では「昔の道を尋ね、どれが最善の道か尋ねて」で、これも曖昧である。その点、新改訳は明快である。「昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね」、つまり伝統的な道が良い道という前提で語っている。岩波訳はもっと明快で、「昔からの通り道を探せ。良い道はどこにあるか」。いろいろな宗教があって、そのうちのどれが伝統的かどうか分からなくなっている。だからよく吟味して、それを探せ、それが良い道に決まっている。
さて、原文がどういう風になっているのか、私には分からないが、個人的には岩波訳がピッタリくるように思う。ところが、イスラエルの民はヤハウェによるこの提案に、反対したのである。「彼らは言った。『そこを歩むことをしない」と』と」。

2017 日々の聖句 3月13日(月)
主は言われる。(だが、今は決してそうはさせない。)わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる。(サムエル上2:30)

イエスの言葉;あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。(ヨハネ13:13)

私の黙想:
今日の聖句、括弧の部分を外している。何を主は怒っておられるのか。ここはサムエル以前の祭司、エリの家である。面白いことに預言者の元に「神に人」が訪問したという。ここでいう「神に人」とは一体何ものだろうか。興味深いが、ここでは深入りしない。彼は言う。要するに、出エジプト以来、祭司の部族としてレビ人を優遇してきた、という。ところが、その祭司エリの家で、不正が行われているという。なすべき祭壇への奉仕をないがしろにし、「献げ物の中から最上のものを奪い、私服を肥やしている」という。もちろんこれは祭司自身がしていると言うよりも最初の息子たちが行っていたことであったが、彼らも祭司でもある。これを見てヤハウェは怒っておられる。だから、レビ人へ特別な約束を取り上げる」という。つまり祭司としての特権の剥奪である。そして、その代わりに、「わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる」というのが今日の聖句である。非常に厳しい。それはイエスラエルの民の祭司中止主義から王制への移行を預言する言葉であると解釈される。しかし、事実としては宗教的指導者としての祭司の役割が失われたわけではないが、預言者の登場でもある。言い換えると、血統主義から召命主義への移行でもある。
私は、この出来事にイエスの神殿批判の意義とその粛正の原点を見る。字義の解釈は専門家にお任せする。

2017 日々の聖句 3月14日(火)
あなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避け所、暴虐な者の壁となってくださる。(暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨)(イザヤ25:4)

誰が、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。(「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。)しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。(ロマ8:35,37)

私の黙想:
今日の聖句の引用の仕方は少々変則的である。それはともかく、今日の聖句では「豪雨を逃れる避け所」という言葉に注目する。なれベラレ手いる他のリストと比べて、「豪雨」というのがユニークである。前後の文脈から考えて、ここでの「豪雨」とは、「暴虐な者の勢い」を示している。「雨」と「豪雨」とは別物である。豪雨の恐ろしさは、全体的であり、逃げ場がない。一寸他人の庇を借りて雨宿りなんていうようなロマンティックな雰囲気はない。まさに一寸先も見えなくなり、それこそ防空壕にでも入らないと、避けられない。ここでの豪雨には豪風も伴っているらしく、それが激しく壁を叩くらしい。
それが暴虐な者のしていることである。社会全体が破壊されていく。そういう状況においては神に頼るしかない。

2017 日々の聖句 3月15日(水)
わたしの目は夜警に先立ち、あなたの仰せに心を砕きます。(詩119:148)

マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。(ルカ2:19)

私の黙想:
今日の聖句、新約の聖句と併せると、「心を砕く」という点に黙想を誘導される。口語訳では、「あなたの約束を深く思います」と翻訳している。なるほど、その方向か。フランシスコ会訳は面白い。「あなたの仰せを思い巡らします」。「思い巡らす」今日の新約のマリアの言葉と同じ言葉が使われている。ああでもない、こうでもないと「思い巡らす」。新改訳は、いかにもファンダメンタルはらしい「みことばに思いを潜めます」。岩波訳は私の気持ちにもっとも近い。「あなたのことばに思い耽る」。原語がどうであれ、翻訳がどうであれ、聖書の言葉に思い耽る」ということの楽しさ。これはもう何ものにも代えられない。結論なんか、どうでもいい。何が正しいかと言うことも、どうでもいい。ただ、聖書の言葉に「思い耽る」ことの楽しさ。詩人はその体験を語っている。

2017 日々の聖句 3月16日(木)
なぜ、わたしの痛みはやむことなく、わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り、当てにならない流れのようになられました。(エレミヤ15:18)

わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。(1コリント13:12)

私の黙想:
預言者エレミヤの嘆き。それは神から言われたことをそのまま人々の語っているのに、誰もエレミヤの言葉に耳を貸さない。エレミヤは人々から離れ(むしろ、「見離され」か)、孤独の中に閉じこもっている。神の言葉を語る預言者の孤独。それを、エレミヤはヤハウェから「裏切られた」と感じている。若き預言者エレミヤは神の言葉を語れば誰でも聞いてくれると思っていたのであろう。その期待は見事に裏切られた。いわば「引き籠もり状態」である。これを読んでいて、私などは「可愛い」とさえ感じる。思わず「大丈夫、大丈夫」と声をかけたくなる。恐らく気の強いパウロも同じような悲しさを感じたことがあるのであろう。神の言葉を語ってはいるものの、もう一つはっきりと確信が持てない。何か朧気な中にいる。今日の新約聖書はそういう状況を語っている。とにかく、神の言葉を語るものは、強そうに見えて気が弱いのである。どこかにお没かなさを抱いているものである。そんなに「絶対」なんて簡単に言えない。そんなエレミヤに語るヤハウェの個人的な言葉がまた、泣かせる。主はこう言われた。「あなたが帰ろうとするならわたしのもとに帰らせわたしの前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず熟慮して語るならわたしはあなたを、わたしの口とする。あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ。(19節)

2017 日々の聖句 3月17日(金)
主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。(詩86:11)

イエスはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。(マタイ4:21~22)

私の黙想:
「神のまことの中を歩く」とは一体どういう事態であろう。その前に「あなたの道」という言葉あるので、ヤハウェ(神)の道をヤハウェの道に沿って歩く(生きる)ということに違いないが、そうなると今度は「ヤハウェの道」とは何か、ヤハウェは歩くはずがないから、ヤハウェが示す道であろう。口語訳では「わたしはあなたの真理に歩みます」と訳している。まぁ、これ以上グジャグジャ穿っても何も出てきそうもない。むしろ、これに続く言葉の方に興味がある。「御名を畏れ敬うことができるように一筋の心をわたしにお与えください」。なるほど、そういうことか。この言葉、口語訳では「心をひとつにしてみ名を恐れさせてください」。ここでの「心を一つ」とは複数の人間が「心を一つにする」のではなく、私の心を一つにする。まさに「一筋の心」である。フランシスコ会訳はなかなか文学的で「ひたむきな心」、岩波訳も面白い、「わが心を集中させてください」。
要するに、11節は全体として何を祈っているのかというと、「一心不乱に」「ヤハウェを畏れ」させてください。ああだ、こおだ理屈をこねることではなく、ヤハウェを「畏れる」、ただこの一点、私の全生活がここに向くようにという祈りである。

2017 日々の聖句 3月18日(土)
わたしはこの地では宿り人にすぎない。(詩119:19)

わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。(フィリピ3:20)

私の黙想:
今日の聖句、「すぎない」という言葉は余分であろう。口語訳では単に「わたしはこの地にあっては寄留者です」で、「すぎない」というような価値観を含む言葉はない。他のどの訳を見ても、そんな言葉はない。ただ単純に事実を述べており、言い換えるとそういう生き方を「わたし」はしているという。この点を外してしまうと、この言葉にいろいろ説明を加えなくてはならなくなる。
私はこの言葉を読むとき、ヨハネ8:23「わたしはこの世に属していない」を思い起こし、さらにポンテオ・ピラトの前では「わたしの国は、この世には属していない」(18:36)と宣言するイエスを思う。この言葉がイエスの生き方の核心部分にある。その上で、弟子たちに対して「あなた方は世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した」(ヨハネ15:19)という。そして復活したイエスが弟子たちに語ったのは「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(20:21)という言葉である。
イエスがそうであったと同様に、全てのキリスト者は「この世には属していない。いわば、この世は「派遣先」である。
この「派遣」ということがキリスト者の生命線であるが、これをもっとも端的に示しているのが教役者である。だから、私は教役者の派遣制度にこだわる。ここまで書いたらどうしても、次のことも書かねばならないだろう。私が若い頃属していたホーリネス教団では、毎年春に「年会」が開催され、その最終日に「教役者の任命式」が行われる。そのとき、全ての教役者は緊張する。実は、任命表はそこではじめて読み上げられ、任地が決まる。それには逆らうことはできない。もちろん、突然の異動もある。そういう場合には、会場からどよめきが起こる。この任命表は「総理」だけが任命権を持っている。それまでの功績とか人間関係は一切考慮されず、総理は祈りの中で決定すると信じられていた。私にとって派遣制度とはそういうものである。ただし、「任地」は教会であって、「地」という言葉がふさわしくない。だから牧師は教会へ派遣されたのであって地域に派遣されているという意識が非常に少ない。その点、聖公会では「教会」への派遣というよりもパリッシュへの派遣であり、それは地域社会への任命である。派遣された聖職は、教会だけに仕えておれば良いというわけではない。地域に仕えなかればならないが、その地域には属さない。これが聖職者の生き方である。今朝は朝寝坊をした上に長々と失礼しました。

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