ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

「善と悪とを知る木の実」をめぐる私の新解釈とその後の問答

2014-07-19 17:50:04 | 小論
「善と悪とを知る木の実」をめぐる私の新解釈とその後の問答

「(エデンの)園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えさせられた」(創世記2:9)。

あの時、エヴァは本当に善悪の知識の木の実を食べたのであろうか。確かに一寸だけおそるおそる齧ったものと思われる。なぜなら、夫アダムに食べることを勧めている。齧るという行為と食べるという行為とは違う。確かにエヴァは齧ってみて、一つのことを発見した。それでも「死ななかった」ということである。それまでエヴァもアダムも、食べたら死ぬと思い込んでいたと思われる。ところが齧っても死なないということを発見した。いわば「安全食品」だと思ったのであろう。だからアダムにも薦めた。アダムもおそるおそる齧ったのであろう。
その結果、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知った」(7節)が同時に死なないということも知った。その時の味は木の実の味というよりも神の言葉に逆らっても死なないという発見であったと思われる。それは凄いことであった。神から独立した自分たちの姿であった。それは幼児が初めて母親に逆らって経験する「我」の目覚めであった。
そこに神が登場する。すると、もう一つのことを発見した。神から独立した「我」、神に対する隠し事、「自分たちだけの秘密」ができてしまった。そうすると今までのように神との関係がスムーズではなくなる。他人行儀である。裸の自分を神の前に晒せない。だから、隠れた。それを一応キリスト教神学の伝統に従って「罪の意識」としよう。
ところが創世記の物語は最も肝心な「善と悪を知る」という結果について何も語らない。アダムとエヴァはいわゆる禁断の実を食べて「善と悪とを知った」のだろうか。
ここからは私の妄想的な解釈である。彼らは禁断の実を中途半端にしか齧らなかった。つまり食べていない。本格的に食べるより前に、罪の快感を味わってしまった。罪は快感を伴う。しかし神が人間に対して隠そうと思っていたのは「善と悪との基準」である。それを知られてしまったら、神が神であるということも主張できなくなってしまう。つまり人間は完全に神から離れ、神なしでも生きられるものとなる。
だが幸いなことに、人間は「善と悪とを知る木の実」を齧っただけで、つまり中途半端にしか食べなかったので、未だに「善と悪との基準」を知ることができない。これだけはどうしても、神に任せるしかない。
まぁ、そう考えたら、私たちの神学的営みというものは結局、中途半端なものであることも理解できる。(2014年7月15日)

KRさんそう言う解釈も面白いです。(^^)

TYさん うっかり随いていくと泥沼に嵌りそうですね。そう言えばある牧師曰く、「神学とはああでもない、こうでもない、と考えること」と。

FHさん マーク・トウエインの「イブの日記」(旺文社」もおも白いですよ。

IKさん 即死ではないけど、彼らの罪よって死が入ったとされていますね。
ドラマの毒殺シーンでは毒入りワインを飲んだ途端に死にますが、嘘だそうです。

AUさん この線でやる場合は、木の実の中に善悪を知る実体的な成分や効果が入っているというわけではない、手を伸ばすという行為や行為へといたる意志そのものに…、という風に展開することが可能かと思います。

OTさん 中学時代に、初めて見たこの箇所。神が死ぬこと言っていたのに、何で?直ぐに死な無いかが解りませんでした。いまは、そうなのかな!?と仮説 想像しています、

文屋 善明 この新解釈の眼点は、罪の意識はあるのに、善悪の基準を持たない人間の「中途半端さ」です。あの時、しっかり、禁断の実を食べておれば、善悪の基準を手に入れることができたのにというアウグスチヌス以来の問題に切り込んだつもりです。ははは。

SYさん 人倫道徳としての善悪は、人の判断でしょうが、善悪の判断は、神をまたないと、人には下せないという理解でよろしいですか?^_^

文屋 善明 そうです。「法的善悪」は人間が定めることができますが、それは時代的、文化的限界内のことです。

SYさん 善悪を人が判断できるようになったら、神はすることがなくなるというのは、先生らしいユーモアですね(^o^)

文屋 善明 真理はユーモアの中で語られる。

SYさん おおらかな神だったら、ここは人間諸君で善悪について、よく考え直してくれたまえ、と言うところでしょうか?^_^

文屋 善明 神話の解釈というものは、伝えられたテキストに制限を受けています。その意味では自由な発想ではないのです。私の「新解釈」もあくまでも創世記のテキスト内での解釈です。それは、過去と現在との対話の中で生まれてくるものでなければなりません。

SYさん ちょっと脱線が過ぎました。申し訳ありません。

文屋 善明 いやそういうものですよ。神話の解釈というものは非常に厳密な解釈学に基づく必要があります。

SMさん 何でついでに命の木の実からも取って食べて、さっさと神々になっておかなかったのだろうか、といつも読みながら思ってしまいますね。

文屋 善明 「遠い過去」のことをいろいろ悔やんでも、もう遅い。夕食を食べそこねた息子のようなものです。明日の朝食が待っている。

SMさん 何をおっしゃる。黙示録では天使たちが追い払われ、もうひとつの「禁断の木の実」が食べられることになるとありますぞ。

文屋 善明 神様もはじめは人間を信頼して目の前に「命の木」と「善悪を知る木」とを置かれたが、信用出来ないということがわかると、エデンの園から追い出し、しかも天使によって人間が近寄ることができないように守られた。

文屋 善明 黙示録は、創造物語の「続き」ではなく、「一つの解釈」でしょう。

SMさん 解釈は無制限に可能ですが、妥当な解釈の枠内に入りますね。要素に対する反射的な規則性も見て取れますし。

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