ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/04/16~04/22

2017-04-24 08:58:34 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/04/16~04/22

2017 日々の聖句 4月16日(日)
人生の年月は七十年ほどのものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。(詩90:10)

この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(1コリント15:54~55)

私の黙想:
今日は復活日。今日の聖句は新約の方は確かに復活日を意識しているが、旧約の方はどうだろう。それはともかく、私個人にとっては80才の復活日を迎えることができたことが先ず感謝である。そして、その80年を振り返って労苦と災いは多かったと思うが、決して「瞬く間」ではなかった。その一瞬一瞬は有意義であったし、まぁ一部まずいところや失敗も結構あるが、誇りにできる。それは私の個人的な幸運というよりも、両親から始まって多くの人たちの支えによることも事実である。
アッ、ここか。復活日に関係するのは「わたしたちは飛び去ります」。要するに死ぬということなんだけど、それを「飛び去る」とはどういうことなんだろう。新改訳の詩78:39によれば「吹き去る」。要するに神の目から見たら、「吹けば飛ぶような人生」だったということであろう。こんなところで「神の目」は不要である。私の人生は決して「吹けば飛ぶような人生」ではなかった。イエスの人生は30年、もう少し厳密に考えてもせいぜい33年。私の人生はその2倍はある。内容の重さを比べることはできないが、まぁまぁ、というところでしょうか。私自身は復活するかどうか、それは分からないし、知ろうとも思わない。これで十分だ。

2017 日々の聖句 4月17日(月)
主はこう言われる。倒れて、起き上がらない者があろうか。離れて、立ち帰らない者があろうか。(エレミヤ8:4)

イエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:17)

私の黙想:
倒れて、起き上がれない者は大勢いる。離れて、立ち帰らない者も沢山いる。従って、今日の聖句は現実を無視している。いや、無視しているのではない。5節では、その現実を述べている。「どうして、この民エルサレムは背く者となりいつまでも背いているのか。偽りに固執して立ち帰ることを拒む」。つまり、神を信じない世界はその通りだという。神がいない世界では、倒れた者を起き上がらせる者もいないし、離れた者を立ち帰らせる者もいない。この言葉の中に、神自身の叫びが聞こえる。そこに倒れている者、正道から外れている者がいるのに、誰も助けないのか。現実をよく見ていると、お互いがお互いに心を開いて話し合っていない(6節〜8節)。預言者はいないのか、祭司はいないのか。司祭はいないのか、執事はいないのか。それじゃ仕方がない、私はサマリア人を立ち上がらせて彼らを救おう。

2017 日々の聖句 4月18日(火)
順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ。人が未来について無知であるようにと神はこの両者を併せ造られた、と。(コヘレト7:14)

パウロの手紙:いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピ4:12~13)

私の黙想:
今日の聖句は面白い。順境には何も考えずにただ楽しめ。逆境には考えよ。何しろ楽しめないのだから考えるしかない。「良いときもあるさ、悪いときがあってもしょうがない。何しろ創造者が人間には未来を予測する能力をお与えにならなかったのだから。そのことを悟るために、順境と逆境とがあるんだ」と。口語訳、フランシスコ会訳、新改訳、一寸づつ違うが、そんなことは小さいことだ。この文の前後とは少々異なっている。要するに、神の意図なんか人間に分かるもんじゃない、という人間の知恵と神の知恵との根比べのようなものである。その中で「将来のこと」となると人間にはお手上げだ。文語訳がもう一つ面白い。「神はこの二つをあひ交錯(まじへ)て降したもう」。良いことと悪いこととが入り混ざって降る。「悪い状況においてもその中に良いこともあるさ、その逆に、良い状況においても悪いこともあるよ、だから気を付けなさい」。これが持っても現実に近いのではないか。

2017 日々の聖句 4月19日(水)
お前たちは、ただ隣人や兄弟の間で互いに、「主は何とお答えになりましたか。主は何とお語りになりましたか」とだけ言うがよい。(エレミヤ23:35)

あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。(コロサイ3:1)

私の黙想:
今日の聖句、ただこれだけを取り出しただけでは何のことか分からない。文脈を読むと非常に面白い。要するに「主の託宣(言葉)」の取り合いだ。いろいろな立場の人間が、自分勝手に、それぞれの思いつきを「主の託宣だ」という。誰かが「これが主の言葉だ」というときには先ず、それを信じてはならない。要するに今日の聖句は、偽預言者たちの言葉に対して、その言葉の出所を確かめろ、という意味である。本当にそれは主から出て来た答えなのか、主の言葉なのか。これは難しい。その人が「主の言葉だ」と言ったら、それを信じていいのだろうか。そんなはずはない。それでは「主の言葉」とは何か。ここで一種の言葉遊びがある。主の言葉とは「マッサ」である。その言葉は同時に「重荷」を意味する。だからややこしい。「主のマッサ(託宣)とは何か」「お前たちこそが主のマッサ(重荷)だ」。さて、これをどう解釈するか。問いは哲学的な問いとなる。「だから主はお前たち(マッサ)を捨てる」という。預言者エレミヤは主がイスラエルを捨てた」というメッセージを語る。さぁ、これにどう反応するか。今日の黙想は問いかけで終わる。

2017 日々の聖句 4月20日(木)
心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。(1サムエル7:3)

ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。(フィリピ1:27)

私の黙想:
この句だけを取り出したら、まるで「イミタチオ・クリスチ」の言葉のようだ。ただし、サムエルが言いたいことは、この文章の前に言葉である。「あなたたちの中から異教の神々やアシュトレトを取り除き」。要するにイスラエルの民は強力な隣国、ペリシテ族に占領され、重要な「神の箱(筺)」まで取り上げられ、異教の神を押しつけられて、20年を経過したいた。なんだかんだあって、「神の箱」をもてあましたペリシテが神の箱を送り返してきた。その時の、預言者サムエルの言葉である。いわば「民族刷新」という場面である。
ここで注目すべき言葉は、2節後半の「イスラエルの家はこぞって主を慕い求めていた」という言葉である。このことが切っ掛けになり、イスラエル人たちは自分たちの「王」を求めるようになる。「主を慕い求める」ことが「王」を求めることになるというところに、今後の展開の鍵がある。

2017 日々の聖句 4月21日(金)
(それで)王は命令を下し、ダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれることになって引き出された。王は彼に言った。「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように。」(ダニエル6:17)

虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。(2コリント4:9)

私の黙想:
今日の聖句はバビロンの王がダニエルに言った言葉。この言葉の重要ポイントはダニエルはいつも拝んでいたということ。「拝む」という言葉を新共同訳以外の邦訳はほとんど「仕える」と訳している。「拝む」と「仕える」とではレベルが異なる。「拝む」は個別的な行為であるが、「仕える」は生き方の問題である。ここで王が「仕える」という言葉を使っているのは意味深長である。ダニエルは「王に仕える」のが仕事であり、生かされている理由である。そのダニエルが王以外のものに「仕えている」。王は自分と「ダニエルの神」とを同レベルにおいている。実はここで王はダニエルをなんとか救い出そうとしたが、力不足で救い出すことができなかった。それで王はダニエルに王いう言い方をしたのであろう。

2017 日々の聖句 4月22日(土)
主はわたしを光に導かれ、わたしは主の恵みの御業を見る。(ミカ7:9)

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった。(ルカ24:30~31)

私の黙想:
旧約聖書の聖句を見て、新約聖書の聖句と比べて、ローズンゲンの編集者が旧約聖書の聖句の意味をそういう意味に解したのかと、思う。
ミカ書については預言者イザヤの時代の田舎の預言者としてしか知らないが、民族存亡の危機において都市部の裕福なかいそうに対する鋭い批判者である。しかし、ミカ書4章以下の預言はミカ以外のものの言葉とされる。むしろここでは民族復興、再生の預言が多く語られる。今日の言葉の時代背景は10節、11節に次のようの述べられている。恐らく、バビロン捕囚語の祖国復興の状況であろう。
「お前の神、主はどこにいるのか」とわたしに言っていた敵はこのことを見て恥に覆われる。わたしの目はこの様を見る。今や、敵は路上の泥のように踏みつけられる。あなたの城壁を再建する日それは、国境の広げられる日だ。暗かった日々は過ぎ去り新しい時代の夜明けの情景である。
今の日本の状況と重なる。日本は世界から馬鹿にされて当然の状況である。まさか、「お前の神、主はどこにいるのか」という言葉を神国日本と重ねるわけではないし、「日本の神はどこにいるのか」と解釈するわけではないが、今の、そしてこれからの日本を建てる国是は何か。戦争なき、核なき、平和の実現に貢献する日本である。
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