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今週のローズンゲン 2017/07/30~08/05

2017-08-05 15:23:54 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/07/30~08/05

2017 日々の聖句 7月30日(日)
主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。(この所で、)お前たちの道と行いを正しなさい。(エレミヤ7:4~5)

神の国は言葉ではなく力にあるのです。(1コリント4:20)

私の黙想:
今日の聖句、口語訳と比較すると面白いが、深入りしない。ここでいう「むなしい言葉」とは「主の神殿、主の神殿、主の神殿」といういわゆる神殿主義、つまり祭儀中心主義と言うべきか。それよりも「道と行い」、つまり信仰による実践(行動)を主張している。大上段に構えれば、生活における宗教(信仰)の位置づけということになれば、両方とも重視しなければならないことは当然である。新約聖書で言えば、パウロの信仰主義とヤコブの実践主義と対比される。この議論は議論そのものがむなしい。どちらにせよ、一方に偏って絶対化したら間違いである。その意味で言うと、ローズンゲンが省略している「この所で」が最も重要である。「この所」が抜けてしまうと、「道も行い」も主観的になり、自分本位になってしまう。口語訳では2節で「その所、その言葉を述べて言え」、3節で「この所」と繰り返され、さらに本日の4節では「ここは」と述べられている。この点だけに注目して、他の訳を比較すると、フランシスコ会訳、新改訳、文語訳では「そこでこの言葉を叫んで言え」となっている。つまり、神殿において行われる重要なことは、「そこで主の言葉が語られる」と言うことである。それらを受けて、新共同訳では4節に「この所で」という言葉が挿入されているのである。従って、「この所で」を省いてはならない。ちなみに新共同訳では2節で「この所で」はない。この辺り、原文ではどうなっているのか私には分からない。

2017 日々の聖句 7月31日(月)
わたしは一日のうちにこの地の罪を取り除く。(ゼカリア3:9)

キリストは十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。(1ペトロ2:24)

私の黙想:
今日の聖句、幻想的雰囲気に包まれて、何を意味しているのか分からない。だから、慌てて、そこにキリスト預言を読み取りたいとクリスチャンは思うが、それはいつでもできること、まず、その時代の中で、その状況の中でこの言葉はどういう意味だと受けとめられたのだろうか、を考える。先ず、注目すべき点は、この言葉は前後に「万軍の主は言われる」という言葉が配置されており、事柄の重要性が強調されている。第2に、この言葉は石に刻まれた「碑文」である。言いっ放しの言葉ではなく、ほとんど永久の保存されるべき言葉であることが述べられている。第3に、その石は「七つの目」があると言われている。「七つ目がある石」、これは何を意味するかよく分からない。ひょっとしたら、単純に7つのへっこみがあるだけかも知れない。そして、最も重要なことは、この碑文が書かれた石の前で、「あなたたちは互いに呼びかけて、ぶどうといちじくの木陰に招き合う」という。まぁ、これは一つの命令であろう。この文章は、彼らにとっては古い預言の言葉に由来していると思われる。おそらくミカ書4:4の言葉を念頭に置いているのであろう。「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もないと、万軍の主の口が語られた」。つまり平和の状況描写である。そして、この言葉の直前の言葉が例の武器の完全放棄宣言である。「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(ミカ4:3)。完全な平和の実現の幻想的描写である。私たちも、このような平和の実現を心から願っている。

2017 日々の聖句 8月1日(火)
わたしの神によって、わたしは城壁を越える。(詩18:30)

世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。(1ヨハネ5:4)

私の黙想:
旧約聖書では「敵」があまりにも多く出て来すぎる。こんな本、毎日読んでいたら「戦闘的な人間」になってしまうだろう。今朝は文脈を忘れて、この「城壁」も「城」を抜いて、ただ「壁」として味わうこととする。大上段に構えて、人生にはいろいろ、多くの「壁」がある。というところから始めても良いが、もっと身近なところに引き寄せて、私にとって「私」が壁であるということを考える。「私」という人間は「困った存在」だ。周囲の人たちにとっては勿論、私自身にも困った存在である。メンツに拘るし、自分自身はだらしないくせに、変なところで正義感を振り回す。私の周りは「バカの壁」ばかりだと、ぼやきつつ、私自身がバカだ。何かをやったというわけでもないのに、何かをやったように態度が大きい。家族からは「歳とったら可愛いお爺ちゃんになって」といわれながら、「憎まれ爺」になっている。独りでは生きていけないのに、誰かと一緒に住むのが嫌だと思っている。家内にとっても最高に「困った壁」なんだろうと思う。でもね、イザとなったら、私だって「私の神によって、私は城壁を越える」と心密かに思っている。この「越える」という言葉、口語訳では「とび越えることができます」と訳している。さぁ、「飛び越える」ことがこの体力で可能かどうか、疑問だが、そこはまぁ、私の神にお任せするとしよう。文語訳はもっとひどい、「わが神によって垣ををどりこゆ」。その意味では新共同訳は優しい、単純に「越える」ですからね。訳文だけ考えると関根先生の訳は面白い。
「あなたによってわたしは垣をこぼち、わが神によって城壁にのぼる」。その「城壁にのぼる」というのが私にとっては大問題なのだ。むしろ、「私の壁」を破壊して欲しい。

2017 日々の聖句 8月2日(水)

あなたの贖い主、あなたを母の胎内に形づくられた方、主はこう言われる。わたしは主、万物の造り主。自ら天を延べ、独り地を踏み広げた。(イザヤ44:24)

世界とその中の万物とを造られた(神が、その方です。この)神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。(使徒17:24~25)

私の黙想:
今日の聖句はいかにも第2イザヤの言葉らしく、堂々として内容が豊かである。ということで、今日は一寸重要ポイントを外して、「(自ら)独り地を踏み広げた」という言葉に焦点を合わせて考える。非常に面白い表現である。天地の創造者が「地」に関しては「独り地を踏み広げた」と言う。一体、これはどういう情景を思い浮かべたらいいのだろうか。神が四股を踏むようにして大地を固められたと言うことか。口語訳では単に「地をひらき」と訳した上で注釈のように「——だれがわたしと共にいたか——」という言葉を添えている。文語訳では「みずから地をひらき」、フランシスコ会訳では「地をうち広げた、誰かわたしと共にいたか」、新改訳では「わたしだけで、地を押し広げた」、岩波訳は「地を押し広げた者」と訳した上で、文章を改めて「誰かわたしと共にいたか」という言葉を付け加えている。全体の雰囲気では、「わたしは主、万物の造り主」という言葉を受けて、それを補う形で、天と地の創造者であると宣言する文脈となっている。それに対して口語訳やフランシスコ会訳では「わたし独り」という点が強調される文章となっている。
私の関心は、そこにはなく、ヤハウェの「地を踏み広げた」という行動である。
どこかで、そんなことを読んだ思いがあるが、「あなたが踏んだ場所があなたのものとなる」という思想。ここではそんな感じがする。うどんを作るとき、粉をこねた者を足の下に置き、それを「踏む」ことによって「広げる」。そんな情景を思い浮かべる。天はともかく、地に関しては、たとえ一坪の地であれ、そこには神の足跡が残っている。というより、神の足が踏むことによって、そこが「地」となった。この新共同訳を読んで、そんなニュアンスを感じる。おそらく、これは私だけの勝手な思い込みにすぎないだろう。
私がよく口にする言葉で「あなたが掃除をした場所があなたのものになる」。聖堂は掃除をした人のものである。これは一寸言いすぎか。でも、掃除をしたこともない聖堂ではあなたはお客さんにすぎない、ということは言えるのではないだろうか。

2017 日々の聖句 8月3日(木)
どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。(イザヤ26:4)

イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。(ルカ8:25)

私の黙想:
今日の聖句、あまりにも真っ正面すぎて、「そりゃそうだ。それっしかない」としか反応の仕方がない。ということで、翻訳の違いを楽しむこととする。先ず、フランシスコ会訳では「世々に主に依り頼め、まことに、主はとこしえの岩」、来れも無難な訳だ。直訳に近いの真情の新改訳、「いつまでも主に信頼せよ、ヤハ、主は、とこしえの岩だから」、おそらくこれが最も原文に近いのだろう。次に文語訳、「汝ら常盤(とことわ)にエホバによりたのめ主エホバはとこしえの巌(いわ)なり」、いかにも文語訳らしい荘厳さに溢れている。今では「巌」など人の名前ぐらいにしか使われないであろう。岩波訳は凝っている、「いつまでもヤハウェに拠り頼め。まことにヤハにおいて、ヤハウェは悠久の岩である」とし、悠久について「永久」を意味するオーラームの複数形と説明が付いている。関根先生は「とことわまでヤハウェに依り頼め。ヤハウェはとこしえの岩である」、安心感のある訳だ。ついでにATDの日本語訳では「とこしえにヤハウェに依り頼め、なぜなら(※)ヤハウェはとわの岩だから」と訳し、※にはBHSを見よ、と注釈している。
こうして並べてみると、同じ原文でも訳し方によってニュアンスに違いがあることが分かる。というところで、口語訳が抜けているではないか、といわれそうだが、私はここでは口語訳が最もピントくる。「とこしえに主に信頼せよ、主なる神はとこしえの岩だからである」。どこが良いかというと、「とこしえ」という言葉を繰り返しているところが単純で良い。それで「だからである」という言葉が生きてくる。

2017 日々の聖句 8月4日(金)
ダビデはゴリアテに言った。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしは(お前が挑戦した)イスラエルの(戦列の)神、(万軍の)主の名によってお前に立ち向かう。」(サムエル上17:45)

パウロの手紙:どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めてくださるように。(エフェソ3:16)

私の黙想:
今日の聖句、日曜学校の子どもたちがワクワクして耳を傾ける物語のクライマックスのセリフだ。ローズンゲンではところどころ手を入れているので、聖書に当たる方がいい。
今日のこのダビデのセリフ、確かにその通りであるが、すこし「隠蔽している」ことがある。ダビデの手に全く武器がなかったわけではない。確かに通常の兵器は持っていないが「護身的な武器」を手にしてそれでゴリアテを倒したのである。ここら辺りが子どもたちに話すときは省略する。ダビデはそのとき、「羊飼いの投石袋」と杖を手にしていたのはであった。この投石袋使い手によってはかなり威力を発揮する。仰々しい武器ではないので敵も、野獣も油断をする。つまり相手を「威喝する武器」ではないが、相手が攻撃してきたときには相手に痛い目に遭わせたり、追い払ったり、倒すことができる。ダビデは投石袋の使い手であり、ただの一発でゴリアテを倒したのである。
さて、このことをどう考えるか。憲法9条との関連で、核兵器の問題で、このことをどう考えるのか。

2017 日々の聖句 8月5日(土)
良くても悪くても、(我々はあなたを遣わして語られる)我々の神である主の御声に聞き従います。(エレミヤ42:6)

“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。(1テサロニケ5:19~20)

私の黙想:
今日の聖句、日々の聖句では括弧の中を省略しているが、これを省略してはいけません。これを省略してしまったら、何の変哲もないイスラエルの民のヤハウェに対する盲従ということになってしまう。ここは南のユダ国もバビロンの侵略の前に国家が滅ぼされようとしている「まさに危機」の状態である。ここでこれを語っているのはイスラエルの民の「高官」たちである。彼らはこのままバビロンに滅ぼされるか、それともエジプトの支援を得て戦うか、それとも(自分他たちだけで)エジプトに「逃げるか」という切羽詰まった状況において、やっと預言者エレミヤの言葉に従うと言い出したのである。一応、「神の御声に従う」と言うが、実はエレミヤに寄りすがっているのである。ここでのエレミヤの言葉は「逃げてはならない、祖国にとどまれ」と言うことである。それは高官たちにとっては,祖国の滅亡、バビロンへの連行を意味した。しかし、結局は彼らは、祖国を放棄し、そこに住む多くの同胞を見棄てて、エレミヤを連れてエジプトに逃げたのである。そして彼らは歴史から消えた。イスラエルの運命はそこにとどまり,バビロンへの捕囚民になった人たちによって継承されたのである。今日の聖句は,偽りの信仰告白である。
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