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今週のローズンゲン 2016/12/04~12/10

2016-12-10 09:29:50 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/12/04~12/10

2016 日々の聖句 12月04日(日)
主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように。(民数記6:26)

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たしてくださるように。(ロマ15:13)

私の黙想:
今日の聖句は24~26節でワンセット、いわゆるアロンの祝福。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」。この祝福の言葉は、レビ記9:22前半の言葉にも続いていたといわれている(山我哲雄)。
「主が御顔をあなたに向けて」、正直に言って、ヤハウェから見つめられたら、平安どころではない。不安でガタガタ震えるであろう。私は神が顔を私に向けられたら、何か悪いことをしたのではないかと思い、恐ろしい。口語訳では「願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように」と訳されている。この最初の「願わくは」という言葉によって、恐ろしさが和らげられている。こちら側の願いで、神にこちらを向いて下さいといっているのであるから。そう言えば、早晩祷の最後の祝祷も、古い祈祷書では「願わくは主イエス・・・・・」となっていたが、現行ではいきなり「主イエス・キリストの・・・・」となっている。考えてみると、「願わくは」ということば文章としてはほとんど無意味なように見えるが、この言葉があるのと、ないのとでは祝福の言葉の印象がかなり違う。昔のプロテスタントの古い牧師たちは「仰ぎ乞い願わくは・・・・」と随分重々しく、そして有難く、祝祷をしたものである。何故、いつから、この冒頭の「願わくは」がなくなったのだろうか。また、つまらんことを考えてしまった。

2016 日々の聖句 12月05日(月)
あなたたちの神なる主によって喜び躍れ。(ヨエル2:23)

ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。(ルカ1:68~69)

私の黙想:
今日の聖句はヨエル書からだ。ヨエル書ということになると、何故か「酔っ払い」をイメージする。使徒言行録2章の影響だろうと思うが、もう一つ「酔える」から来るのかも知れない。だから「酒によって喜び踊れ」と読み違えてしまいそうだ。24節の「搾り場は新しい酒と油に溢れる」という言葉も、その想像を保証するかのようである。
しかし、ヨエル書2章のテーマは断食の布告である。酒に酔っ払っている状態ではない。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなくお前たちの心を引き裂け」(2:12~13)。これがここでのメッセージである。そうすることによって、「あなたたちの神、主に立ち帰る」ことによって、神も災いをくだすことを悔い、恵み与えてくださるという約束である。神の恵みは悔い改める者に与えられるのだ、という。「そのとき主は御自分の国を強く愛しその民を深く憐れまれた。主は答えて、その民に言われた。『見よ、わたしは穀物とぶどうとオリーブをお前たちに送り、飽き足らせよう。お前たちが国々の中で恥を受けることをわたしは二度と許さない』(18~19節)。ここでの「ぶどう」を岩波訳では「新しい酒」と訳している。
使徒言行録の時代のキリスト者たちは、この「新しい酒」を聖霊と解釈した。「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです」(使徒言行録2:15~16)。
今は降臨節第2主日の月曜日、クリスマスを待ち望んで、悔い改めの摂生・克己をしている人もいることでしょう。それがクリスマスに豊かに報われますように。

2016 日々の聖句 12月06日(火)
エリヤの言葉:あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。(王上18:21)

イエスの言葉:だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。(マルコ2:21)

私の黙想:
先ず「どっちつかず」について、口語訳では「二つのものの間に」、どっちでもいいようなものであるが、気になる。フランシスコ会訳では「二つの意見の間をうろうろしているのか」。これは意見の違いなのだろうか。新改訳では「どっちつかずによろめいているのか」。その状況を考えると「よろめく」も捨てがたい。「迷う」のは頭の中での出来事であるが、「よろめく」のは足元の状況である。、岩波訳は「ふらふら迷っている」と訳し、「字義通りには、『二つの枝の上を跳びはねる』。態度がはっきりしないこと」と解説している。まぁ、要するに、そういうことであろう。現実にはそういうことは多い。何時も、何事でも、はっきり決断できるとは限らない。
日本における多くのキリスト者は、まさにこういう状況に置かれている。「よろめく」と言うより、「迷う」というより、「ふらふらしている」、「跳びはねている」状況であろう。小鳥が枝の上で、こっちの枝に飛び移ったと思ったら、あっちの枝に移る。花のまわりを飛び交う蜂もそうだ。こっちの方が美味しそうかな、いやあっちの方が美味しいだろう。必ずしも相手が仏教とは限らないが、非常に優れた仏教徒を見たら、仏教もいいな、と思い、逆につまらない牧師にであったら、キリスト教など捨ててしまえと思ったりする。エリヤのように「どっちかに決めろ」と言われたって、目移りはするものだ。結局、宗教なんて言うものはそれほど違ったものじゃない、いいと思えば、それでいいのだ、というところで落ち着いてしまう。キリスト教って、どっちかに決めろ、と迫るからイヤだ、というところがオチか。それなら、やっぱりキリスト教って素晴らしいというところを見せてくれ、といいたくなるだろう。ここでエリヤはそれを見事に見せている。しかし、見せた後のエリヤの情けない姿を見たらがっかりする。

2016 日々の聖句 12月07日(水)
主の慈しみは決して絶えない。(哀歌3:22)

わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。(1テモテ1:14)

私の黙想:
哀歌はよく分からない。ほとんど読んでいないのに等しい。頭の中からスッポリ抜けている。昔は「エレミアの哀歌」と呼ばれエレミヤ書の後ろに置かれていた。口語訳から「エレミアの」が外された。英語ではlamentationで「哀悼」の意味で、悲嘆の声だという。文語訳では1:1は「ああ哀しきかな古昔はひとのみちみちたりし此都邑(このみやこ)、いまは凄(さび)しき様にて座し、寡婦のごとくになれり」。まさに哀歌である。今日の聖句は5つの内の3番目の詩である。今日の聖句文語訳では「われらの尚ほろびざるは、ヱホバの仁愛(いつくしみ)により、その憐憫の盡きざるによる」となっている。なぜか、哀歌は文語訳が似合う。新改訳では「私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる」と訳されている。この「私たちが滅び失せなかったのは」という節は何処から出て来て、どこから消えたのだろうか。このことについては、岩波訳ではマソラ本文ではこの言葉があったことを示し、「絶えない」を「終わることなく」と訳したと説明している。なる程、そういう訳かと納得する一面、なぜ70人訳はそれを消したのか、説明になっていない。「主の慈しみは決して絶えない」だけでは、詩編の中にいくらでも出てくる平凡な言葉になってしまう。
つまり、エルサレムは滅亡し、廃墟になっている。ヤハウェの恵みは完全に絶えてしまっているが、それでもなお、決して終わりではない。絶えていない。細々としてであれ、続いている。この執拗さ、頑固さ、ないのにあるという信仰、しかも次節を読むと驚くではないか。「それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い」と詩人は言う。いかにもユダヤ人の信仰だ。哀歌、なかなか面白そう。じっくり読んでみよう。

2016 日々の聖句 12月08日(木)
ヨシュアは地にひれ伏して拝し、彼に「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と言った。(ヨシュア5:14)

幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。(ルカ11:28)

私の黙想:
今日の聖句、「約束の地」に入って最初の「土地の産物」を得たときの出来事。この時、天からマナが降るのが止んだという。つまり、新しい土地での生活がいよいよ始まるというときである。なぜ、こういう状況において、「抜き身の剣を手にした男」が登場するのだろうか。少し場違いのような気がする。もう、戦争状態は終わっている(1節)。ヨシュアは彼を見て「敵か、味方か」と考える。彼は答える「わたしは「主の軍の将軍である」と。ヨシュアは彼の言葉をすぐに信じている。本当に信じていいのか。それとも、ただ信じるふりをしただけなのか。ヨシュアは彼に、「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と問う。この問いはある意味で相手の正体を見分ける問いであったのかも知れない。ヨシュアは油断を見せない。彼らの間には緊迫の空気が流れる。その時、彼はヨシュアに命じる。「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である」。これは一種の「符合」だったのかも知れない。これはまさに、ヤハウェが初めてモーセに会ったときの命令の言葉であった(出エジプト3:5)。この言葉を「敵」が知っているはずがない。ヨシュアにすれば、それこそ何度もモーセから聞いていた言葉であったであろう。これで、ヨシュアは彼を信じる。
私は考える。その時、彼は何故「抜き身の剣を持って」登場したのか。これからは安定した平和の時代が続くはずの時である。恐らく、ヤハウェはだからこそ油断をしてはならない。心に常に「抜き身の剣」をもっていなければならないというメッセージであったのではないだろうか。この後、すぐに「エリコ」との闘いが始まる。内的には「アカンの罪」という事も起こる。

2016 日々の聖句 12月09日(金)
バラムは答えた。「たとえバラクが、家に満ちる金銀を贈ってくれても、わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません。」(民数記22:18)

悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ロマ12:21)

私の黙想:
バラムとバラク、どっちでどっちか分からなくなる有名な個所。バラムは占い師。バラクは王。今日のセリフは占い師バラムがバラク王の家来たちに言った言葉。このセリフでは「家」とは占い師バラムの家を指す。要するにバラク王がバラムの家に入りきれないほどの財宝を寄贈してくれても、ヤハウェの命令に背くことはできない、という意味である。預言者バラムは「事の大小を問わず」と言うが、一体王は預言者に何を頼んでいるのだろうか。ここの場面はイスラエルの民が荒野を放浪しているとき、モアブの平原に宿営しているときの話である。イスラエルの民が通過する経路にある部をことごとく打ち破り、家畜も財産も略奪し、非常に強いという噂を聞き、恐れている。そのイスラエルの群衆が、まもなくバラク王の国に近づいているという。そこでバラク王はバラムという占い師を呼び、イスラエルの民を「呪ってくれ」と頼んでいるのだ。バラムの祈祷はなかなか霊験あらたかであったらしい。ここで面白いのはこの異教の占い師が「私の神、ヤハウェ」と言っていることで、読者の頭が少々おかしくなる。それはともかくさておき、占い師王からの再三の依頼を拒否する。これはきっと報酬を値上げしているのだと王の方は判断し、とうとう「家に入りきれないほどの値段になってしまった」。「事の大小」とはそういうことである。
さすがに、この膨大な報酬を前にして、言葉とは裏腹に、占い師バラムは何とかそれを手に入れようとする。それでバラク王の家来たちを自宅に留まらせて、ヤハウェと交渉して何とかしようと思っているらしい。これがこの状況である。ところがその夜ヤハウェは占い師の目に現れる。そして占い師が家来たちと一緒にバラク王の宮殿に出かけることを許可する。ただし、絶対に私の言葉に逆らってはならないと釘を刺す(20節)。しかし、一旦は拒否したヤハウェもいそいそと出かける準備をしている占い師の姿を見て、腹を立てる(21節)。それでヤハウェの使いが一行の前に抜き身の剣を持って通行を妨げる。ところがその姿は、欲にかられた占い師や王の家来たちには見えない。それが見えているのは、一行が乗っている驢馬だけだったという。そこから占い師と驢馬との会話が面白い。続きは、またの機会にチャンチャン。聖書にはこういう話しもあるのだ。面白いでしょう。ぜひ各自で聖書をお読みください。

2016 日々の聖句 12月10日(土)
見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄えこの国に正義と恵みの業を行う。(エレミヤ23:5)

前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(マルコ11:9~10)

私の黙想:
「ダビデのために正しい若枝を起こす」、この場合の「ダビデ」とは歴史的人物としての「ダビデ」というよりも、イスラエルのため全体を意味していることは明白である。彼らにとって「ダビデ」という場合、南北に分裂する以前のイスラエル、ユダとイスラエルに別れる以前のオール・イスラエルである。この分断は外敵によるというよりも、内部の勢力争いの結果であった。つまり、別れているということ自体が、神に対する罪であった。その意味では、この句に続く6節の預言は、統一国家の成立を意味する。それが彼らにとって救いだという。「彼の代にユダは救われイスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる」。その意味では、「ユダ」にとっても「イスラエル」にとっても「民族の再統一」が悲願であり、それが実現されないと、本当の「我らの救い」にならない。エレミヤという預言者は彼の目の前で北のイスラエル国が強大国アッシリアによって滅ぼされたのを見て来たのである。しかもそこに含まれた10支族がアッシリアによってどのような取り扱いを受けたかも見て来た。だから、この悲願は強烈であった。
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