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断想:復活節第7主日の旧約聖書(2017.5.28)

2017-05-26 10:22:56 | 説教
断想:復活節第7主日の旧約聖書(2017.5.28)
顔を隠す エゼキエル39:21-29

<テキスト>
21 わたしは国々の間にわが栄光を現し、国々はすべてわたしの行う裁きと、彼らの上に置く私の手を見る。
22 その日から後、イスラエルの家はわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。
23 国々は、イスラエルの家がわたしに不信の行為を行ったために捕囚となったこと、また、わたしが顔を隠し、彼らを敵の手に渡したため、彼らは皆、剣に倒れたことを知るようになる。
24 わたしは、彼らの汚れと罪に応じて行い、わたしの顔を隠した。
25 それゆえ、主なる神はこう言われる。今やわたしはヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ。
26 彼らは自分の土地に安らかに住み、脅かす者がいなくなるとき、わたしに背いた恥とすべての不信の罪の責めを担う。
27 わたしが彼らを諸国の民の中から帰らせ、敵の地から集めるとき、わたしは国々の前で、彼らを通して自分の聖なることを示す。
28 わたしは彼らを国々に捕囚として送ったが、自分の土地に集めて、もはや、かの地には残さない。そのとき、彼らはわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。
29 わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ」と主なる神は言われる。
<以上>

1. 復活節第7主日
復活節第7主日はまた「昇天後主日」でもある。復活なさった主が40日間弟子たちと共に居られて、弟子たちの見ている目の前で劇的に「昇天」なさった。「昇天」という出来事は言いかえると、今まで目の前に居たものが「見えなくなる」という経験である。主はもはや彼らの側に居られない。しかし彼らは主は生きて神の右の座に座っておられる。と信じているものの、やはり側におられないのは事実である。存在すると信じてはいるが、ここに居ない。母親の側で安心していた幼児が、突然母親の姿が見えなくなったときに感じるあの不安。幼児をあやすときに、大人たちは両手で顔を隠し「イナイ イナイ」という。その時、幼児は瞬間不安になるが、大人が顔を出して「バー」というと、子どもは安心して喜ぶ。その「居ない居ない」が昇天という体験である。それはまさに主が「顔を隠す」という出来事でもある。
主が十字架刑によって亡くなったときも、イエスが見えなくなるという経験をした。あの時は、絶望しかなかった。しかし今回は、すでに復活の主を経験している。その意味では前回とは異なる。しかし、昇天における経験には希望がある。地上を離れるイエスの最後の言葉は「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」という命令であった。恐らく、弟子たちはこの言葉に従って、「聖霊を受ける」までは終わらない祈りを始めたにちがいない。この祈りはいつ終わるのか、分からない。ともかく、終わりのない祈りをはじめた。使徒言行録ではその祈りについて「彼らは皆、心を合わせて熱心に祈った」(1:14)とだけ記録しているが、その祈りの内容とはいったい何だったのだろうか。聖書は何も語らないが、面白ことが記録されている。その第1がイスカリオテのユダの脱落に関する「総括」(1:15~20)、第2がそれを補う選挙(1:20~26)である。つまり、十字架の出来事以来の一つ一つの出来事を分析、討論し、総括したのであろう。当然、ペトロの裏切りだって告白されたであろうし、イエスを見放して逃げたということも反省されたであろう。聖書には書かれていないが、私が思うに、使徒も信徒たちも含めて、一人一人が「自分とイエス」との出会いからその後の関わり、そしてその時のイエスに対する思いを吐き出したのであろうと思う。実は、この10日間(実際にはどれほどの長さか不明)、これらの懺悔と信仰告白がその後のこの共同体のあり方を決定したのだと思うわれる。

2. 神が顔を隠す
この主日の旧約聖書のテキスト(エゼキエル39:21~29)には神が「顔を隠した」が2回(23,24)、「わが顔を彼らに隠すことなく」が1回(29)語られている。ここにはイスラエルの民が神に対する不信のために神が顔を隠し、その結果イスラエルの民が捕囚という悲劇を経験するに至ったことが記されている。そして一定期間の懲らしめの結果、神に対する信仰を回復したときに、神の怒りが治まり、イスラエルの民は捕囚から解放される。再び神の顔を現す。ここでは、冒頭に「わが栄光を現し」(21)という言葉と、最後の「わが顔を彼らに隠すことなく」ということが対照され手居る。神が栄光を現しておられるときには神の民イスラエルは栄え、イスラエルの神があがめられる。神が顔を隠されるとイスラエルは衰え、神の民イスラエルに不幸が訪れる。これが神と神の民との関係である。しかし、神は神であるゆえに、「わが聖なる名のゆえに」(25)、必ずイスラエルの繁栄を回復される。これがエゼキエル諸全体を総括した言葉となっている。興味深いことは、ここで「神が顔を出す」ということと、「わが霊をイスラエルの家に注ぐ」ということとが同じこととして記されている点である。まさこにこれが「昇天後主日」の課題である

3. 「わが霊」
姿を隠されたイエスの言葉に従って、エルサレムにとどまり祈り続けた弟子たちにとって、このエゼキエルの預言は祈りの根拠でもあっただろう。ただ、彼らは「わが霊を注ぐ」ということの具体的なイメージがつかないまま、祈り続けた。その時、彼らが信じていたことは、これが神の顕現の最後であって、再び「隠れる」ということがない。最初のクリスマスにおいてこの世界に生まれた御子イエスは十字架刑によって弟子たちから引き離された。イースターの朝、弟子たちに姿を現された主イエス・キリストは昇天というドラマによって再び姿を隠された。しかし、次ぎに姿を現されたときには、もう再び隠れることはない。これが彼らの確信であった。具体的にどういうことが起こるのか、はっきり分かっていたわけではない。しかし、イエスが再び姿を現されることを信じて彼らはそういう神を待ち望んで祈り続けた。そして、10日目、彼らは「聖霊を受ける」という異常な出来事を経験した。復活節第7主日とは「聖霊を待つ」主日である。

4. 「隠れたところにおられる神」
ところで、主題は異なるが、「隠れた神」ということについてマタイ福音書に面白い記事がある。これはわたしたちの祈りに関する一つの秘密事項である。一応、祈りについてのイエスの教えということになっているが、主の祈りについてイエスが語られたこととは少し異なる雰囲気を持っている。
結論を言うと、これは明らかに教会の状況における祈りの本質に関することである。祈りとはどうあるべきか。祈りとは「隠れたところにおられる神」に対するものであり、神はわたしたちの祈りを「隠れたところ」で見ておられる、とする(マタイ6:6)。ここでは明らかに神の本質として「隠れている」、つまり人間の目には見えない、ということが語られている。「見えないから」いないのではない。むしろ、「見えないからこそ」わたしたちの祈りを見ておられるということが語られている。人々は単純に「神を見る」ことを求めている。しかし、逆に神は見えないからこそ、ここにおられるのである。逆説的になるが、聖霊経験とは「隠れた神」がおられるという経験に他ならない。
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