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断想:聖霊降臨後第2主日(特定6)の旧約聖書(2017.6.18)

2017-06-16 06:51:21 | 説教
断想:聖霊降臨後第2主日(特定6)の旧約聖書(2017.6.18)

契約宗教   出エジプト19:2-8a
<テキスト>
2 彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。
3 モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。「ヤコブの家にこのように語りイスラエルの人々に告げなさい。
4 あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。
5 今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。
6 あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」
7 モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。
8 民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と言った。
<以上>

1.聖霊降臨語第2主日
この主日から、普通の主日が始まる。祈祷書ではそれを「特定」という言い方をしている。カトリック教会では「年間主日」と呼ぶ。この特定と呼ばれる主日は、降臨節前主日まで続く。だいたい年によって違うが、だいたい23~24週ほど続く。最後の主日(聖霊降臨前主日)が特定28で、聖霊降臨後第2主日が毎年、復活日の移動によって変わる。
今年は「特定6」から始まる。つまり今年は23週というわけだ。この期間は、特別な例外を除き、祭色は緑で、私たちの信仰の成長を課題としている。この主日の旧約聖書は出エジプト記19章2節から8節前半までである。ここでの主題は「契約」である。

2. 宗教のタイプ
世界にはいろいろな宗教があるが、それらを細かく見ていくと、結局、宗教は3つのタイプに分けられる。
第1のタイプは「ユダヤ教、イスラム教、キリスト教」などが含まれる「契約宗教」。第2が仏教に典型的に現れている「自覚の宗教」。第3は日本神道とかヒンズー教や中国の道教などに代表される「所属宗教」である。第2のタイプの仏教については、もっとも説明がしやすい。つまり、この宇宙の中の生きとし生けるものはすべて神のものである。ところが、そのことが私たちに分かっていない。それを自覚(悟り)したとき、私たちは仏になる。それが仏教徒である。あまりにも単純化されているので、おそらくほとんどの仏教徒は、この単純化に不満かも知れない。
第3の「所属の宗教」というのはもっと分かりやすいはずであるが、あまりにもわかりやすすぎて、追求すればするほど、逆に神や信仰というものが曖昧模糊になってしまう。別な言い方をすると、「土地に所属している宗教」と言えばわかりやすいかも知れない。日本人であれば、みな、その神に所属している──信者(氏子)であるというのがこのタイプの宗教の特色」であるとされる。わかりやすそうで、分かりにくい点は、では「日本人であれば」という意味はどういう意味なのか。無理矢理外国人に日本人になることを強制しても「日本人である」と言えるのか。「血」なのか「文化」なのか。いろいろ複雑な問題が絡んでくる。

3. 契約宗教
さて、第1のタイプ、契約宗教、これはなかなか理解できない。しかし、「なかなか理解できない」などと、他人事のようにいうわけにはいかない。なぜなら、キリスト教という私たちの宗教はこのタイプだといわれているからである。確かに、キリスト教は契約の宗教である。最も単純に言えば、キリスト教において聖典とされている旧約聖書とか、新約聖書という場合の「約」という言葉は、そもそもこの「契約」という意味である。日本人には、この「契約」ということがなかなか理解できない、といわれている。(山本七平「聖書の常識 第5章日本人にはむずかしい契約の思想」講談社)もちろん、日本語でも約束という言葉もあるし、契約という行為もなされる。つまり、私たちが普通理解する契約とは、基本的には対等な関係における水平的契約関係である。多少、力関係や経済的関係で対等とは言えないような関係であっても、契約書を交わす場合においては対等である。つまり、お互いに「ノー」と言える関係にある。ところが、聖書における契約においてなかなか理解できない関係は「神と人間との契約」ということである。こういう発想は日本人にはない。親子の間で本気に契約を結ぶようなものである。一寸した金銭の貸し借りにおいて契約書を交わすことがあっても、それは他人との関係のような真剣さはない。特に、親子の関係そのものについての契約は成り立つのだろうか。親あるいは子は契約関係の保証人になりえても、契約の相手にはなり得ない。もし、そういう関係があれば日本人は「水臭い」と思う。ともかく、本日の旧約聖書のテキストは「神との契約関係」についての、最も基本的な言葉である。この言葉を通して旧約聖書における「神との契約関係」を学びたい。
先ず、神から「あなたたちは見た」(4節)と宣言される。これは宣言というよりも、イスラエルの民の現状認識に対する確認である。「見たな、確かに見たな、間違いないな」。神によって示されたのではなく、自分の目で見たということが肝心である。見たことの内容は出エジプトという出来事である。重要なポイントは、イスラエルの民が見たこと、経験したことが「神による」のか、否か。確かにこれは「神による」という認識が契約の根拠となる。具体的な実例をあげると、ここに家を建てるのにふさわしい土地があるとする。地主をAさんとする。この土地を借りたい人Bさんは、この土地の地主はAさんであると確認する。そこで初めてAさんとBさんとの契約交渉が始まり、その交渉の結果、AさんはBさんに土地を貸し与え、Bさんは借地料を支払う契約が成立する。
契約には契約関係にある両者の履行義務というものがある。ここでは、イスラエルの民は「神の言葉に聞き従う」ということであり、神の側の義務は、あなたたちはすべての民の間にあって、「わたしの宝」とする、ということである。この神の側で作成された契約書をもってモーセは民に問う。「どうする」と問う。そこで民は声を揃えて「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と答える。これで契約成立である。

4. 契約宗教における違約
契約宗教とは、原理的に必ずしも唯一神信仰でなければならないわけではない。重要なポイントは、私(民)はあなたを「私の神」とするという信仰と、私(神)はあなたを「私の民」とするという宣言との契約関係である。言い換えると、私はあなた以外のものを「私の神」とはしない、という約束である。あなた以外にどれ程多くの神があろうとも、あるいはあなたよりもっとすごい神がいようとも、私はあなただけを「私の神」とするという立場である。事実、彼らの周辺には多くの神々が存在し、勢力を競っていた。イスラエルの民もそれらの神に時には誘惑を感じていた。この点が、原理的には「無神論」である「自覚の宗教」と異なる。あるいは、神という存在をすべての生きとし生けるものの中にあるものとする「所属宗教」とも異なる。
契約があるからそれに対する違約というものが存在する。イスラエルの歴史は、神との契約の違約の歴史である。これについて多く語る時間はない。ともかく、旧約聖書は人間がいかに神との契約を破ってきたかということを語る。そこに「罪」という意識が成立する。自覚の宗教や所属の宗教においては罪意識は生まれない。

5. 新しい契約
さて、キリスト教は一口で言って、人間は神との契約を守れないという深刻な自覚から始まる。守ろうといくら努力しても守れない。そういう人間に対して、神は救済の道を準備しておられないのだろうか。
多くの議論をすべてはしおって、次の言葉を取り上げ考えよう。イエスが最後の晩餐の席上で語られた言葉である。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マルコ14:24)。この言葉は、今でもすべての教会で繰り返される聖餐式における言葉である。キリスト教における「神との契約」ということのすべてこの一語に集約されている。これが、これ以前の神との契約関係を「古い契約」とする「新約=新しい契約」(1コリント11:25)である。ここで語られている事柄は、神との契約の当事者であるイスラエルの民は契約当事者として破綻したが、それをイエスが十字架に掛かって死ぬことによって、当事者としての責務(履行義務)を代行し、イスラエルの民は履行義務から解放された、ということである。言い換えると、民の立場から考えると契約の履行義務からは解放されたが、契約関係によって与えられる恩恵はそのまま受け継ぐという、非常に有り難いことがなされたのである。
さて、そこでよく考えてみると、新しい契約関係というものはもはや「契約」というような言葉で表現されるような関係ではない。残っているのは、契約関係の根拠となった契約関係以前の認識、「あなたたちは見た」(出エジプト19:4)と宣言された状況が、契約関係なしに、つまりこちら側の履行義務なしで継続的に与えられているという自覚である。それは契約からの離脱でも、逃避でも、否定でもなく、契約関係の超越である。非常に割り切った言い方をすると、キリスト教は「契約宗教」の枠を越えて、限りなく「自覚の宗教」に近づいている。この自覚ということと、契約ということとを繋ぐ接点に聖餐式がある。キリスト教信仰においては聖餐式に与るということにおいて神との関係は維持される。

6. 交わりの宗教
聖餐式にはもう一つ重要な働きがある。それは交わりの形成という機能である。そもそも聖餐式の始まりがイエスによる最後の晩餐であった。つまり、聖餐式とはイエスを中心とした新しい共同体の儀式である。共に一つのパンを分け合い、同じ杯からワインを飲むということによって、それぞれがそれまで所属していた共同体やしがらみから解放されて新しい共同体に参加することを示している。つまり、その人がどういう考えなのか、どれ程善人なのか、あるいは罪人なのか、民族も、文化も、言語も性別もなどすべてを乗り越えて一つになる。陪餐することによって共同体の一員であることが保証され、共同体が分け合うすべての恩恵によくすることが出来る。そこでは、もはや契約という観念も、贖罪という観念も絶対的ではない。ただ、イエスの体(パン)を食し、血(ワイン)を飲む、唯それだけでよい(エクス オペレ オペラト、事効論)。この受動的なサクラメントに与るだけで、その人は地縁、血縁など、この世のすべてのしがらみから解放されて、キリストの共同体の枝となる。かくして、キリスト教は限りなく「所属宗教」に近づく。

7. 結び
かくして、キリスト教は非常に濃厚な契約宗教を母体として生まれた。契約宗教が他の二つの宗教タイプと決定的に異なる点は、契約の当事者としての神の輪郭がはっきりとしている点である。伝統的神学においてはその輪郭の明白さを「人格」という概念で理解してきた。つまり、「人格神」である。キリスト教においては契約宗教の枠をこえたといいつつも、この人格神という神観は維持している。
神道や仏教がしっかりと根付いている日本社会の中で、日本人キリスト者はここに語るべきメッセージがある。キリスト教信仰は仏教における究極的なニヒリズムを克服し、また同時に所属宗教における神観念の究極的曖昧さを乗り越えて、新しい神と人間との関係を語る。
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