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今週のローズンゲン 2016/09/11~09/17

2016-09-18 08:40:30 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/09/11~09/17

016 日々の聖句 09月11日(日)
あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください。見捨てないでください。(詩27:9)

イエスの言葉:わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないことである。(ヨハネ6:39)

私の黙想:
さて、日本人のキリスト者の中で、どれだけの人が「神から見捨てられる恐怖」を感じているのであろうか。少なくとも、私にはそういう恐怖はほとんどない。むしろ、私が神を見捨てるかもしれないという恐れがある。この感覚の違い、これは決定的である。といって、神は絶対私を見捨てないという強い確信がある訳ではない。むしろ、見捨てるとか、見捨てられるという関係ではないと、心のどこかで思っている。こう言うのって、どうなんだろう。聖書を見ると、神から見捨てられるとか、神を見捨てたという叙述が満載されている。それって、健全な神関係なのだろうか。これは民族性の違いか、時代性の違いか。わからない。でも、そういう気持ちで神を信じることって、しんどいだろうな。今週木曜日、テレビドラマ「初めまして、愛しています」が最終回を迎える。非常に感動的な物語である。どこに感動するか。養子縁組という関係の「あやふやさ」がジーンときて涙を誘う。そういう結末になるのだろうか。楽しみだ。

016 日々の聖句 09月12日(月)
主であるわたしはその番人。常に水を注ぎ、害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。(イザヤ27:3)

あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。(ヨハネ15:8)

私の黙想:
「その番人」の「その」は前節の「ぶどう園」を意味するのであろう。野に、山に、園にある収穫物。それは農民が長い時間汗を流し、苦労をしてきた収穫物である。ただの「物」ではない。神も陽を注ぎ、雨を降らせ、その収穫に参加している。その収穫を喜ぶのは彼らだけではない。その恩恵に浴する全ての人である。農民は全ての人を信頼して、解放している。それを盗む奴がいる。飢えた人が園に入って一口、二口食べるのとは意味が違う。イエスと弟子たちも飢えたとき、他人の麦畑で麦の穂を手で摘まんで食べたという。それは罪ではない。現在の「ぶどう園荒らし」は、本当に罪人だ。ただ「物」を盗んでいるのではない。「神の目」を盗んでいるのだ。人の心、神の喜び、人の心を盗んでいるのだ。近頃、そういう人間が増えて来たようだ。「けしからん」では済まされない。1年間、懲役で畑仕事を命じたらいい。

016 日々の聖句 09月13日(火)
多くの者がわたしに言います。「彼に神の救いなどあるものか」と。主よ、それでもあなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。(詩3:3~4)

重い皮膚病を患っている人が来て、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と懇願すると、イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われた。(マルコ1:40~41)

私の黙想:
ここには、息子アブサロムの謀反と息子に追われる憐れな父ダビデがいる。人びとは、もうダビデは終わりだという。それでもなお神に信を置くダビデの悲しみがある。人間の無責任な言葉にもかかわらず、神の行為を信じる。「彼に神の救いなどあるものか」という人間の言葉は「多く」しかも「激しい」。ダビデに救いがあるのかどうか。言葉の激しさは、必ずしも、その正義を示さない。それは「誰の」言葉か、が重要である。アンケート調査の結果としての「数」がその言葉の真実を示さない。しかし、それは言葉に過ぎない。しかも「根拠のない」予測に過ぎない。まさにこの言葉は「多くの者」、マス・コミュニケーションの言葉である。そんな言葉に惑わされず、ダビデは彼とヤハウェとの関係に基づいてヤハウェを信じる。ある注解者が、この詩の1つの特徴として、この短い詩の中にヤハウェという言葉が6回も繰り返されていることに注意せよ、という。

016 日々の聖句 09月14日(水)
主はまことの神である。生きた神であり、永遠の王である。(エレミヤ10:10、口語訳)

(神は、)祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方に誉れと永遠の支配がありますように。(1テモテ6:15~16)

私の黙想:
先ず、何故今日は「口語訳」なのか。おそらくドイツ語版が口語訳に近いのであろう。それはそれで理由がはっきりしている。ということで新共同訳と読み比べてみよう。「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」。成る程、違いがはっきりしている。翻訳としては、それぞれ正当な主張がありそうだ。フランシスコ会訳も新改訳も文語訳も口語訳に近い。こうなると、新共同訳の分が悪い。要するに、「真理の」「命の」「永遠の」等の「の」の解釈の問題であろう。とくにはっきりするのは「永遠を支配する」にその特徴が明瞭に現れている。
例えば「主は私の神」という場合、この「の」をどう理解するか。「私を支配する神」か、「私が所有する神か」、「私のペンはあなたのペンではない」と同じように、「私の神はあなたの神ではない」、と言えるのだろうか。「真の神」と「真理の神」とは同じ意味だろうか。つまり、「真理=神」という公式が成立するか。この場合はかなり明瞭に成立すと言えるだろう。ところが、「命の神」と「生ける神」でも同じようには「神=命」と言えるのだろうか。これは言えない。つまり神以外の者が「生きているという生命」は当てはまらない。だから「生ける神」とは言えても「命の神」とはいえない。「永遠の場合だけ「神」ではなく「王」というのも、考えると面白い。王者はつねに「神になろう」と企む。
あ〜あ、今朝はつまらないことにハマってしまった。これも、「私の」悪い癖だ。

016 日々の聖句 09月15日(木)
わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。(エレミヤ32:40)

わたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。(テトス3:7)

私の黙想:
このエレミヤの言葉はユダヤ人に与えられた神の約束である。われわれ非ユダヤ人から見ると羨ましく思う。非ユダヤ人のキリスト者としては、ここに私たちも含まれると信じるまでには、いろいろ複雑な手続きがいるように思う。日本人でありつつ、ユダヤ人の子孫の恩恵に与る。その際に、日本人としての国籍を放棄していない。勝手な言い方であるが、ヤハウェは日本人の国籍を放棄する必要がない、と言っておられる気がする。その意味では、いわば非ユダヤ人のキリスト者は二重国籍者である。むしろ、ヤハウェは私が日本人のママであることが望ましいとさえ言っておられるような気がする。イエスは十字架を目前にしてギリシャ人が訪問したとき、異常の興奮を示された。やっと、これで万端整ったと言われたような気がする。ユダ人であるイエスの弟子たちはイエスのその興奮にさぞ驚いたことであろう。理解出来なかったのかも知れない。しかし、その時の思いが、彼らを世界宣教へと駆り立てたことは事実である。

016 日々の聖句 09月16日(金)
彼らはわたしの民となり、わたしは真実と正義に基づいて、彼らの神となる。(ゼカリヤ8:8)

御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。(コロサイ1:18)

私の黙想:
「わたしの民となり、わたしは彼らの神となる」という言葉、旧約聖書に結構でてくる、がその場合に、「わたしは真実と正義に基づいて」というような言葉はない。神が神となるのに、何か根拠が必要なのか。おかしい。と思って、口語訳を見る。「彼らはわが民となり、わたしは彼らの神となって、共に真実と正義とをもって立つ」。これなら分かる。フランシスコ会訳、新改訳では「わたしは真実と義をもって、彼らの神となる」、うーむ、微妙だけど許容範囲内である。文語訳では「彼らは我が民となり、我は彼らの神となりて共に誠実と正義に居らん」、さすがに日本語の達人の翻訳である。うかつなことはしない。神の真実と正義とを神と民とが共有する。いや厳密には、民が神の真実と正義の中で生きる。これが民が神の民となるリアリティである。

016 日々の聖句 09月17日(土)
主を畏れる人よ、主に依り頼め。(詩115:11)

希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ロマ5:5)

私の黙想:
口語訳、新改訳の「恐れ」よりは「畏れ」の方がいい。逆に「寄り頼め」よりは、口語訳、フランシスコ会訳、新改訳の「信頼せよ」の方がいい。これは単なる個人的な好みの問題ではある。ここで面白いのは「畏れ」と「信頼」とが対比されている点である。主を畏れる人が主を信頼する。岩波訳では「拠り頼め」と訳している。私の知る限り、こんな日本語はない。おそらく訳者松田伊作氏の造語であろうと思われるが、なかなか含蓄がある。主は畏るべき方ではあるが、私の依って立つ、根拠でもある。主を疎かにしたら、私自身が崩れてしまう。
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