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断想:聖霊降臨後第24主日(T26)の福音書

2016-10-29 06:34:44 | 説教
断想:聖霊降臨後第24主日(T26)の福音書
ザアカイ事件  ルカ19:1~10

1. ストーリーテーラー(語り手)としてのルカ
ルカは独自の資料をもって、面白い話しを残してくれている。イエスの誕生をめぐるさまざまな物語も、イエスの12歳の時の話しも、やもめの息子を生き返らせた事件も、善いサマリア人の話しも、愚かな金持ちの譬えも、放蕩息子の話も、解釈に苦しむ不正な管理人の譬えも、金持ちとラザロとの逆転の物語も、やもめと裁判官との駆け引きも、ザアカイの回心物語も、これらは全てルカが伝えてくれた物語である。もしルカがこれらの話を残してくれていなかったら、どんなキリスト教会が出来上がっていたであろう。キリスト教からこれらの物語を取ってしまったら、なんと無味乾燥なキリスト教になってしまっていたであろう。私はルカの最大の貢献はこれらの魅力的な物語を伝えてくれた点にあると思っている。

2. エリコという町
エリコという町はエルサレムの東北24キロの所にあり、ガリラヤからエルサレムに向かう直前の大きな町である。ルカ福音書ではエリコの町のことが3回出てくる。一つは善きサマリア人の物語(10:30~37)で、次が盲人が癒される事件(18:35~43)である。いずれも印象深い物語である。
この町はエルサレムに次ぐ大きな町で、パレスチナで最も肥沃な町と言われている。つまり、エルサレムが行政と宗教の中心であるのに対してエリコは経済と文化の町であった。当然、この町の課税額は大きく、ローマ帝国の経済的基盤を支えている町である。
「いちじく桑(スコモレア)」(4節)は葉は桑に似て大きく広い。その意味で身を隠しやすい。幹はいちじくの木のように、太い枝は低い部分から分かれており登りやすい。
ルカは本日の主人公ザアカイを「この人は徴税人の頭で、金持ちであった」と紹介している。この町の徴税人の頭であれば「金持ち」に決まっている。

3. ザアカイ
ここに一人の男がいる。名をザアカイという。職業は徴税人、お金持ちだと言われている。徴税人でお金持ちということは、たとえ徴税人の頭だとしても、大したお金持ちでないことを示している。いずれにせよ、自分の頭と肉体を用いて稼いだ金であり、高が知れている。本当のお金持ちは徴税人などという職業につかない。そもそも、職業などに就かないものである。親譲りの資産と他人の労働の上に立って、一生かけても使いきれない莫大な金を持ち、その経済力で政治的権力まで手にした連中が、本当の金持ちである。
徴税人という職業は、当時の社会において、汚れた職業であるとして非常に嫌われていた。彼らは本当の金持ち連中の手先となって、金持ち連中が勝手に決めた「税金」と称するお金を一般庶民から徴収する仕事をする。戦争の噂があれば、軍備拡充のためと称して税金が集められ、神殿の再建、宮殿の拡張、貿易の振興のための船を作るとか、道路を舗装するとか、税金の種はいくらでもあり、その度に高額の税金が集められた。一般庶民にすれば、たとえ戦争があったとしても、どちらが勝っても、負けてもあまり関係はなかったし、豪壮な神殿が建築されたとしても、それほどありがたいわけではない。むしろ、税金によっておびやかされる、毎日の生活の方が大問題であった。しかし、一般庶民の憎しみの目は、この税金を集め、税金を手にし、甘い汁を吸っている本当の金持ち連中にではなく、彼らの手先となって直接税金を集める徴税人たちに向けられた。有能な徴税人は、有能であればあるほど金持ち連中からは褒められ、一般庶民からは嫌われた。おそらく、ザアカイは有能な徴税人であったのだろう。徴税人としてはいわば成功者であった。彼は自分の仕事に熱心であればあるほど、金持ち連中からは褒められ、金は貯る。しかし、それに比例して、隣近所の人々からは嫌われ、友人は去り、孤独になって行く。かといって、いくら徴税人として成功したとても、金持ち連中の仲間入りが出来るわけではない。

4. イエスがどんな人か見たい
聖書は、ザアカイが「イエスがどんな人か見ようとした」と述べる。ザアカイにとってイエスは不思議な男であった。正に、彼の正反対の生き方をしている男であった。金はない。仕事もない。家もない。金持ち連中からはいみ嫌われている。しかし、一般庶民に圧倒的な人気がある。その人気は、時の権力者を脅かすほどである。ザアカイにとって、人々が自分の所に集まってくるのは、彼が金を使うときだけである。ところが、イエスの場合それが違う。彼は、金を使わない。第1、使う金がない。それでは、その人気の秘密は何か、ザアカイはそれが知りたかった。ザアカイは一目イエスを見たかった。

5. イエスはザアカイに会いたい
イエスはザアカイに「見られる」だけでは満足できない。ザアカイはイエスを見るだけでよかった。しかしイエスはザアカイに見られるだけでは承知しない。隠れて、一方だけが他方を見るという関係は人間関係ではない。見る方は見られる方の人格を無視している。何もザアカイが高い所にいることが悪いのではない。イエスを上から「見おろしている」のがザアカイの高慢さを現わしているのではない。自分を隠して人を見るということが問題なのだ。そこには相手の人格を無視し、相手を「物」として見る非人間性がある。実は、これがザアカイの問題の全てではないか。ザアカイの生き方は、人間を人間としてみない。金と人間とを同じレベルで、いやむしろ人間よりも金の方が値打ちがあり、頼りがいがある、と信じて生きてきたのではないか。他人の人格を無視するとき、実は自分の人格も失う、という人生の真理が分かっていなかったのではないか。
イエスは、ザアカイに「急いで降りて来なさい」という。イエスにとって、一方が身を隠して相手を一方的に見るという非人格的な関係に耐えられない。人間は同じ高さで、顔と顔とを向かい合わせて、見つめ合うことによって人格的な関係が始まる。それが出会いというものである。今晩お宅に泊めて下さい、という依頼だけなら木の下から見上げて言葉をかけるだけでも出来る。なにも、ザアカイは木から降りなくてもよい。イエスがザアカイの家に泊まるということは、イエスとザアカイとの間に人格的関係が始まるということである。

6. 「今日はあなたの家に泊まらなければならない」
この言葉を、英訳聖書でみるとどの訳を見ても、「must」という言葉が用いられている。つまり、「今日私はあなたの家にとまらなければならない」というかなり強い必然性が述べられている。よろしければ泊めて下さい、というようなことではなく、今晩あなたの家に泊まらねばならない、という断定的な言い方である。人の家に泊まるのに、そんな断定的な言い方はない、と思う。ザアカイにすれば、イエスとの出会いは偶然に近いものである。しかしイエスの側からはザアカイとの出会いは「偶然」ではない。そのために、この町に来たのである。
人々はキリスト教との出会いを偶然と思っている。たまたま教会の門を叩いたのだと、思っている。たまたま入園した幼稚園がキリスト教の幼稚園であったと思っている。たまたま就職した所がキリスト教の幼稚園であったと思っている。たまたま結婚した相手がクリスチャンであったから、教会との関わりが出来たと思っている。しかし真実は違う。神があなたを求めて、あなたに出会っているのである。ここには「神の必然」がある。イエスがザアカイの家に泊まるのは「神の必然」である。そして、ザアカイの人生は変わる。人を人とも思わない人生から、人格的な交わりを大切にする人生へと転換する。これが救いである。これ以外の何を救いというのだろうか。
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