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今週のローズンゲン 2017/06/04~06/10

2017-06-10 15:22:38 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/06/04~06/10

2017 日々の聖句 6月4日(日)
わたしこそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。わたしのほかに、神を認めてはならない。わたしのほかに、救いうる者はない。(ホセア13:4)

神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。(1ヨハネ4:13~14)

私の黙想:
今日の聖句の鍵は「わたしのほかに、神を認めてはならない」であろう。何と嫉妬深い神だろう。私はあなた以外の神を信じないし、愛さない。だから、他の人が他の神を信じているのを認めてもいいじゃないですか。私は私、他人は他人。それを「認めてはならない」なんて、あまりにも狭量過ぎますよ。「私の神」としてはあなた以外の神を認めません。
ところで、この「認めない」とはどういう意味だろう。口語訳では「あなたはわたしのほかに神を知らない」と訳されている。フランシスコ会訳、新改訳でも「知らない」。岩波訳は一寸ひねって「知らないはずだ」。関根先生の訳でも「私以外の神を君は知らない」である。何故、新共同訳だけが「認めない」なのだろうか。認めないという場合には、他の神も「知っている」と言うことが前提となる。確かに、出エジプト以来、カナンの地に定着するまでは、「他の神を知らなかった」に違いないが、カナン以後は「知っている」だから、「認めない」なのか。この方が実態には即している。私だって聖書の神(キリスト教の神)以外の神を知っている。いや、よく考えるとホントウに知っているのだろうか。頭では知っているし、認めていると思っているが、よく考えて見ると、それは「知っている」と言えるのだろうか。隣の息子は隣の大人を自分の親として信じているが、彼らは私の親ではないし、考えて見るとどんな親なのか知らない。
神を神として知るとは、そういうことなのだろう。単に戸籍上の「親権」を認めているというのとは異なった次元の話だ。場合によっては「親として認めない」としての、親だということを知っている。この「知る」は「認める」よりももっと根源的なことなのだ。その意味では岩波訳の「知らないはずだ」という訳語は意味を持っている。

2017 日々の聖句 6月5日(月)
主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。(イザヤ50:4)

わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。(2コリント1:4)

私の黙想:
ここでの「弟子」とは先週の土曜日に既に説明したことば。誰かの弟子というよりも、神の言葉を語る者として神から教えを受けた者。弟子は自分の言葉を語っているようで、実は師の言葉を語っている。師の言葉を語ってるようで、実は自分の言葉を語っている。師弟関係とはそういう関係である。ここで預言者イザヤは神との「師弟関係」を語っている。面白いのは「舌」と「呼び覚ます」。舌は既に自分のもの、自分の機関である。その舌が語る言葉は、自分の中に既にある言葉であるが、呼び覚まされるまでは、無いのに等しい。「舌」を与えてくださった「師」は、その舌で、師から受けた言葉を思い出す。イエスも弟子たちに教えられた。「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」(ルカ12:11~12)。

2017 日々の聖句 6月6日(火)

主よ、わたしの神よ、御名のために、わたしに計らい、恵み深く、慈しみによって、わたしを助けてください。(詩109:21)

彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。(ルカ15:20)

私の黙想:
「敵」に対する呪いの詩。フランシスコ会訳では「敵に呪われた義人の祈り」と題している。この題が正しいだろうか。敵の呪いに対して呪い返している。今日の聖句だけを読んでも、ずいぶん身勝手な祈りの言葉だ。詩人は「神の御名のために、私に計らい」と祈っている。「私のために」なら、理解できるが、それを「御名のために」というところに「義人の義人たるところ」があるのか、あるいは「義人と称する人間の嫌らしさ」があるのか。
何か、国会討論における政権側の主張に似ている。

2017 日々の聖句 6月7日(水)
神に従う人は誇らかに喜び祝い、御前に喜び祝って楽しむ。(詩68:4)

神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。(ロマ14:17)

私の黙想:
訳本によって4節と5節の切り方が異なるが気にしない。例によって「神に従う人」は「義人たち」あるいは「正しい人」。ここでは「正しい人」に対応する者は誰かということで、3節の「神に逆らう者」、口語訳では「悪しき者」、フランシスコ会訳では「悪い者」、新改訳「悪者ども」、岩波訳「不法者」と訳されている。彼らの滅び方が面白い。「蝋は火の前に溶ける」ように滅びるという。滅びる者も祝い喜ぶ者も「神の前」での出来事である。そうなると、ここで「誇らかに」という言葉が気になる。ところが新共同訳以外にはこの「誇らかに」という言葉が見えない。どうやら他の訳では「踊る」と訳されているようだ。「踊る」と「誇らかに」とでは違う。私としてはどちらが正しいのか分からないが、「踊る」方が明るくて気持ちがいいが、「誇らかに」は陰湿であまり気持ちのいいものではない。

2017 日々の聖句 6月8日(木)
わたしの魂よ、主をたたえよ。(主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。)主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒す。(詩103:2,3)

足の不自由だった男は、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。(使徒言行録3:8)

私の黙想:
今日の聖句、2節と3節とを直接結んでしまうから違和感がある。2節では詩人は「わが魂」に呼びかけており、3節では話者は「わたし」ではなく、客観的な論述として、「主」がなさることを述べている。日々の聖句では括弧の中を省略している。ということで、何とありがたいことかで、もうそれ以上何も語ることは無い。
あえて、何か取り上げるとしたら、ここで省略されている、「主の御計らい」ということだろうか。口語訳も文語訳も「そのすべての恵み」と単純に訳している。フランシスコ会訳も同じ。新改訳が一寸変化球で「主のよくしてくださったこと」、岩波訳では「忘れるな、彼の行為のすべてを」、関根訳では「その総て恵みのわざを忘れるな」である。これらの訳に共通することは、神によって「なされた行為」である。その点では「御計らい」となると、必ずしも「為された行為」とは限らない。「御計らい」という訳語は、新共同訳で初めて登場する言葉で8回も使用されている。
この「御計らい」、現在のはやりの言葉で言うと「忖度」に近い。神が私たちのために忖度をするはずが無いが、一寸「違和感」がある。表現しようとしているのは、必ずしも神の直接的な「行為」ではなくても、巡りめぐって「わたしのためになること」を神は配慮しているという意味であろうが、無理にこういう奇異な単語を使わなくても十分に表現できるであろう。

2017 日々の聖句 6月9日(金)
人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように、(戦利品を分け合って楽しむように。)(イザヤ9:2)

信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。(使徒言行録4:32)

私の黙想:
とにかく,今日の聖句は人々が喜び祝ったということが述べられている。人々は何をそんなに喜んでいるのだろうか。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。このことが人々にとって「深い喜びと大きな楽しみ」になったという。それが具体的にどういうことなのか,分からない。素直に読めば、「光を見た」、まるでUFOを見たようなものだという。もう駄目だと思って諦めていたとき、突然、「なんとかなりそうだ」という希望が見えてきたということだろう。ここに出てくる、「異邦人のガリラヤ」という言葉が気になる。預言者イザヤの時代からガリラヤ地方は「異邦人の地」だと思われていたのだろう。考えて見ると、イエスの活動の地がガリラヤだったということは、気になる。人びとから軽蔑されていた「ガリラヤ」である。光り輝くエルサレムではない。あんなところからまともな人間が出てくるはずが無いと思われたところから,イエスが登場した。まさに「異邦人の地ガリラヤ」に「光を見た」。
復活したイエスが姿を現したのはどこかという議論がある。エルサレムに拘っているのはルカだけだ。共観福音書はガリラヤだったという。私はガリラヤだったと思う。その意味では,一種の「歴史観」を持った人間の証言よりも,何も前提の無い人間の証言の方が真実を含んでいるであろう。

2017 日々の聖句 6月10日(土)
あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。(詩16:2)

なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(フィリピ3:13~14)

私の黙想:
「幸い」という言葉に一寸恥ずかしさを感じるが、今日の聖句、ただ「アーメン」と言うのみ。ここでの「幸い」は、どうやら原語では「トヴ」らしい。天地を創造されたとき、大地と海とを造られたとき、それを見て神が「良し」と言われた。それ以後の創造物が完成する度に「良し」を繰り返された。それが「トヴ」であった。だから、詩16の場合、「幸い」というよりも「満足です」の方がピッタリくるのではないか。ということで,一句。「ヤハウェや呼び方変わりキュリオスなり」
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