ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

原本ヨハネ福音書から抜粋(11/1~57)

2017-03-30 10:07:00 | 説教
原本ヨハネ福音書から抜粋(11/1~57)

大斎節第5主日の福音書<(11:1~16)、17~44>

巻6には4つの出来事が含まれている。このうち「ラザロの甦り」と「ギリシャ人の来訪」はヨハネ福音書独自の出来事であり、他の2つも取り扱い方が共観福音書とかなり異なる。
巻6に入ると今までとは雰囲気がガラリと変わり、「死」という言葉があちらこちらに散見される。
先ず、死にそうなラザロから。

第1章 ラザロの甦り

ここは5つのシーンに分けられている。

シーン1 ラザロ、危篤の知らせ

<テキスト11:1~16>
語り手:ベタニアの村にイエスが親しくしていた家庭がありました。長女マルタと次女マリアと弟ラザロの3人の姉弟でした。<著者註:このマリアはイエスの足に髙価な香油を塗ったマリアと同一人物である(12:3)。>
姉二人が可愛がっていたラザロがかなり重い病気にかかり、姉妹たちはイエス宛の手紙を書き、使いの者に持たせました。「先生、あなたにも可愛がっていただいている弟のラザロが病気で死にそうです」。それを受け取ったとき、イエスは非常に冷静に、「この病気で死ぬことはないであろう。このことによって神の栄光が現れ、神の子が崇められるにことになる」と言われただけで、2日間もベタニア村に行く気配を見せませんでした。そして病気の知らせを受けて3日目のことです。

イエス:もう一度、ユダヤの町に行こう。
弟子たち:先生、それはおよしになった方がいいでしょう。あそこは非常に危険な場所です。ついこの間もあそこのユダヤ人たちはあなたを石で打ち殺そうとしたではありませんか。それなのに、またそこへ行かれるというのですか。やめときましょうよ。
イエス:もうしばらくは大丈夫だろう。私の友だちラザロは眠っているのだ。だから私は起こしに行く。
弟子たち:先生、眠っているだけなら、私たちがそんな危険を冒すこともないでしょう。そのうちに元気になりますよ。
<著者註:だがイエスは彼の死のことを言ったのであって、それを彼らは、イエスが眠りについて言っているのだ、と思ったのである。>
イエス:いや、はっきり言って、ラザロは死んだのだ。私が臨終の場にいなかったことはかえって良かったのかもしれない。このことによってあなた方が信じるようになるかも知れないからね。
トマス(仲間の間では「双子のトマス」と呼ばれている):私たちも行こう。先生に何かがあったら、私たちも一緒に死ねばいい。

<以上>

イエスと弟子たちとがユダヤ人たちから身を守るために、「ヨルダン川の向こう岸」(Jh.10:40)に滞在していたとき、親しく交わっていたマルタとマリアからの手紙でイエスも可愛がっていたラザロが危篤であるという知らせを受けた。普通なら飛んで行くであろうのに、この時のイエスの動きは鈍い。その理由がわからない。その上、「この病気で死ぬことはない」と言う。結果的には死んだのであり、イエスの判断は間違っていたことになる。おまけに「このことによって神の栄光が現れ、神の子が崇められるにことになる」とまで言う。イエスに何か考えがあるのか。ともかく理由がわからない。このイエスの緩慢な動き、これはカナの婚礼の時(Jh.2:1~11)もそうだったし、兄弟たちが仮庵祭に誘いに来た時(Jh.7:3~9)にも通じる。もしイエスにその理由を問えば「私の時はまだ来ていない」(Jh.2:4,7:8)ということになるであろう。知らせを受けて3日目に突然「ユダヤの町に行こう」とイエスは言う。ベタニアはエルサレムから3キロほどの距離にあり、エルサレムとほとんど一体化しているので、「ユダヤ地方の町」という表現になったのであろう。それを聞いた弟子たちが驚く。ユダヤ地方はイエスにとって危険地帯である。エルサレムで危険な目にあったのでヨルダン川の向こう側、つまりペレア地方に逃げてきたのである。その時と状況は少しも変わっていない。むしろ危険さは増していることであろう。今、エルサレムに近いベタニアに行くことは危険である。従って、弟子たちはイエスがラザロの危篤を聞いても出かけるのを躊躇していたのはそのためだと思っていたらしい。それでイエスが「ユダヤの町に行こう」と言い出した時かなり強行に反対したのである。
次のイエスの言葉は曖昧である。ギリシャ語原文では「昼間には12時間あるではないか。昼間に歩むのであれば、躓くことはない。この世の光が見えるからだ」(Jh.11:9)。何とも訳のわからない言葉である。松村克己はこの謎のような言葉を「父なる神の命令に従えば、光が輝き行く手を照らし、決して躓いたり転んだりしない。神の御心のないところ、必然性のない行為、それが夜である」と解釈している。田川建三は、著者が言いたいことは「ユダヤ人たちがイエスの逮捕、惨殺を実行するまでしばらくの時が残っているのだから、その時を利用しようではないか」という意味であろうと言う。それで私は「もうしばらくは大丈夫だろう」と訳しておいた。なお、次の言葉も曖昧である。「ラザロは眠っているのだ。だから私は起こしに行く」(Jh.11:11)。当然弟子たちは眠っているだけなら、危険を冒してまでわざわざ行くことはないという。

シーン2 マルタ、マリアの家にて

<テキスト11:17~37>
語り手:さて、イエスたち一行がベタニア村に到着したときには、ラザロは既に死後4日もたっており、墓に葬られていました。 <著者註:ベタニアはエルサレムから3キロほどのところにある。>
イエスと弟子たちとがベタニア村に近づくと村の入り口付近には大勢の弔問客が集まっていました。マルタもイエスが来られたと聞いて、駆けつけて来ましたが、マリアは家の中で座わりこみ呆然としている様子です。マルタはイエスに言いました。

マルタ:先生、先生がもしここにいてくださいましたら、私の弟は死なないで済んだでしょうに。でも、あなたが神さまにお願いしてくだされば、神さまは何でもかなえてくださると、私は今でも承知していますが、もう手遅れでしょうね。
イエス:あなたの弟は復活します。
マルタ:もちろん、私だって終末の日にすべての人が復活するということは知っていますし、そう信じていますわ。
イエス:私が復活すると言ったのはそんなことではありません。私が復活であり、生命なんです。だから私を信じる者は死んだとしても、生きるということです。そして生きて私を信じる者はみな、永遠に死ぬことがありません。あなたはこれを信じますか。
マルタ:ええ、先生、あなたがキリスト、世に来たるベき神の子である、と信じてきましたけど・・・。

語り手:マルタは中途半端な言葉を残して、家に帰り妹マリアの耳元で、「先生が来ておられますよ、そしてあんたを呼んでおられます、とささやきました。マリアはそれを聞くと、大急ぎで立ち上がり、イエスを迎えに行きました。家に来ていた弔問客たちはマリアが急に立ち上がって出て行くのを見て、彼女について行きました。彼女が泣くために墓に行くのだと思ったのです。イエスは人々に案内されて、ラザロが葬られている墓地の前まで来ていました。マリアはイエスの姿を見るなり、足もとにひれ伏し言いました。

マリア:先生、先生がもしここにいてくださいましたら、私の弟は死なないで済んだでしょうに。

語り手:イエスは彼女たちが泣き、一緒に来たご近所の人たちも泣いているのをご覧になって、感動し、身震いして言われました。

イエス:彼が埋葬されているのはどこですか。
人々:先生、おいでください。そして見てやってください。

<以上>

イエス一行がベタニア村の入口に到着するとそこには大勢の弔問客が集まっていた。彼らによるとラザロは4日前に息を引き取り、既に墓に葬られているという。イエスが到着したことはすぐにマルタたちに伝えられ、マルタはすぐにやって来た。マルタは遅れて来たイエスに恨み言を言う。知らせを受けて、すぐに来てくれれば間に合ったかも知れない。その時、イエスは信じられないことをいう。ラザロは復活すると。マルタは復活論なら知っているという。彼女たちが求めていたのはその様な復活論ではなく、今、ここでラザロが死なないことである。イエスはマルタに謎のような言葉を語る。「私が復活すると言ったのはそんなことではありません。私が復活であり、生命なんです。だから私を信じる者は死んだとしても、生きるということです。そして生きて私を信じる者はみな、永遠に死ぬことがありません。あなたはこれを信じますか」(Jh.11:25)。この言葉にマルタは返事に困る。イエスをキリストと信じるということと復活を信じるということとは同じではない。マルタは中途半端な答えを残したまま、マリヤにイエス到来を耳打ちするために家に帰る。マリアはすぐに立ち上がりイエスを迎えに出る。大勢の弔問客も何もわからず、マリアについて出てくる。そこで著者は「彼女が泣くために墓に行くのだと思ったのです」と解説する。マリアもマルタと同じように恨み言を言う。マリアの恨み言を聞いて弔問客ももらい泣きする。その光景を見たイエスも感動する。「感動する」の直訳は「激しく息をする」で、新共同訳では「心に憤りを覚え」、口語訳では「激しく感動して」、フランシスコ会訳では「心に憤りを覚え」と訳している。またこの語と重ねて用いられている「身震いして」も原文では「みずから混乱する」という意味で、新共同訳では「興奮して」、口語訳では「心を騒がせ」、フランシスコ会訳では「張り裂ける思いで」、岩波訳では「かき乱されて」と訳している。イエスのこの感動が一体何なのかよく分からない。イエスはラザロが何処に葬られているのか訊ね、案内されて墓場にやって来る。

シーン3 墓場にて

<テキスト11:38~44>
語り手:イエスはラザロが葬られている墓を見て、思わず涙を流されました。

あたたかい人々:ああ、イエス様が涙を流しておられる。それほどラザロを愛しておられたのだ。
冷ややかな人々:盲人の目を開けたこの人でもラザロが死なないようにはできなかったのだ。

語り手:イエスはこの評論家的な言葉を聞いて溜息を付き、墓の入り口に近づき言われました。墓は洞穴で大きな石でふさがれていました。

イエス:どなたか、墓をふさいでいる石を取りのけてください。
マルタ:先生、ラザロは死んでもう4日もたっていますし、もう臭いですよ。
イエス:もし信じるなら、神の栄光を見ると、言っておいたでしょう。

語り手:人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで祈られました。

イエス:父よ、私の祈りを聞いて下さることを感謝いたします。
語り手:イエスはこのように祈った後、墓穴に向かって大声で呼びかけました。

イエス:ラザロよ、出て来なさい。

語り手:すると、死んでいたラザロが、手と足を布で巻かれたまま出て来ました。顔は覆いで包まれていました。イエスは人々に静かに言われました。

イエス:手と足とに巻かれている布をほどいてやってください。

<以上>

墓場にやって来たイエスはその墓場を見て「思わず涙を流されました」(Jh.11:35)。先ほどのイエスの感動といい、またここでのイエスの涙をどう解釈したらいいのだろうか。この物語全体はイエスは初めからラザロを甦らせようとしている。周りのものが、どれ程興奮していても「甦らせる」という結果を先取りしマルタにもラザロは「復活する」とハッキリと宣言し、て冷静である。にもかかわらず、この場に来て興奮し涙を流す。このちぐはぐさは何だろうか。昔から問われ続けて来た「謎」である。おそらく、このちぐはぐさはイエスに帰するよりは、これを書いている著者の心理によると考える方が自然であろう。著者が感動し、著者が涙を流している。こういう場面で、冷静であり続けるイエスを描けなかった。私たちはむしろこのようにしか描がけなかった著者を理解する。イエスの「ラザロよ、出て来なさい」という言葉に応えてラザロが死装束のまま墓から出てきたとき、人々は声も出なかったようである。

シーン4 事件、その後

<テキスト11:45~48> 
語り手:それでユダヤ人たちはマリアに近づき、「素晴らしい」と言ってイエスを信じました。しかし、ある者たちはパリサイ派の人々の所に行き、イエスがしたことを告げ口しました。その報告を受けて、祭司長たちとファリサイ派の人々とが緊急会議を開き、「イエスという男は多くの奇跡を行っているが、我々はそれにどう対処すべきか」ということを協議しました。もしもこのままイエスを放置していたら、ほとんどの民衆が彼を信じるようになるだろう。その結果、ローマ人が来て、エルサレムを占拠し、私たちの自治を取り上げるかも知れない。
<以上>

ラザロの甦りの現場にいた人々はその驚きをただ一言「素晴らしい」という言葉を発しただけである。このラザロ・ショックは直ちにエルサレムのユダヤ人共同体の当局に伝えられた。それを聞いた祭司長やファリサイ派の人々は直ちにユダヤ人社会の最高議会(サンヘドリン)を招集し、緊急会議が開かれ、対応策が協議された。この事件をこのまま放置していたら、ほとんどの民衆がイエスを信じるようになるだろう。そうなると、共同体内はイエス支持派と反イエス派とに分裂し大混乱する恐れがある。そうなったら、その混乱の収拾を口実にローマの軍隊が出動して、ユダヤ人共同体の自治権が剥奪されるかも知れない。

シーン5 イエスの殺害計画(11:53~57)

<テキスト11:53~57> 
語り手:ラザロの復活事件後に開催された協議の結果、イエスの死刑が決議されました。それでイエスはユダヤ人社会で公然と歩くことは避け、荒野に近い、エフライムと呼ばれている町に移動し、そこで弟子たちと共に滞在しました。
ユダヤ人の過越の祭が近かづき、多くの人たちがエルサレムに集まって来ました。その人たちは神殿でイエスを探し、イエスの噂話で持ちきりでした。それで祭司長たちとパリサイ派の人々は、イエスを逮捕するために「イエスの居所を知っているものは申し出よ」という布令を出しました。

教会的編集者の挿入 11:49~52

<以上>

緊急会議の結果、イエスの死刑が決議された。共観福音書ではイエス殺害がいつ決議はされたか曖昧で、イエスがローマ兵によって逮捕された後に開催された法廷で、かなり無理な証拠をでっち上げて、死刑が決まったようである(Mk.14:55~15:1)。
ヨハネ福音書ではラザロの甦り事件はイエスの十字架刑に向けて決定的な事件として描かれている。ところがこれ程のショッキングな事件が共観福音書では一言も触れられていない。何故であろうか。共観福音書の著者たちは全く知らなかったのか、あるいは余りにも荒唐無稽すぎると思われたのか。
イエスは自分の処分が決定され、逮捕されることが明らかになったので、「荒野に近い、エフライム」に身を隠した。
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