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今週のローズンゲン 2017/07/09~07/15

2017-07-15 09:41:20 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/07/09~07/15

2017 日々の聖句 7月9日(日)
娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。主はお前に対する裁きを退け、お前の敵を追い払われた。(ゼファニヤ3:14~15)

神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。(使徒13:23)

私の黙想:
今日の聖句、今日の主日の旧約聖書と同じでだしで、驚いた。しかし、ここはエファニヤ書、あちらはゼカリヤ書。両方とも12小預言書に属し、書名までよく似ているので紛らわしい。セカリヤは捕囚後の預言者で、セファニヤは捕囚前のヨシヤ王の宗教改革当時の預言者で、時代背景はかなり異なる。北のイスラエルはアッシリアに滅ぼされてからまだ20~30年の頃で、これではイカンという思いからいわゆる申命記運動が始まり、民族の宗教復興期である。まさに、いわゆる「リバイバル運動」で、今日の聖句はその高揚した雰囲気がでている。

2017 日々の聖句 7月10日(月)
初めに、神は天地を創造された。(創世記1:1)

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造されたことが分かるのです。(ヘブル11:3)

私の黙想:
先ず、新約聖書の聖句から、これを裏返しにしていうと、「信仰によらなければ、この世界が神の言葉によって創造されたことが分からないのです」ということになる。つまり、今日の聖句は、「信仰」という立場に立って初めて言えることなのである。しかも、このことが全ての始まりであり、このことを抜きにして論じ、語ることは全て人間が触れたこと、知ったこと、考えたことである。ここで用いられている「初めに」を文語訳では「元始」と訳している。何という重々しい日本語であろう。どうせ訳すなら、これぐらいに訳して貰わないと困る。米田豊先生は、この句について、「これはまさに真理の根底を示すのみならず、また信仰の土台をも提供する言葉である」と註解しておられる。ついでに米田先生はこの句について、「同志社の創立者新島先生は初めて聖書を開き、この第1節の言葉に打たれ、大いに感ずるところがあって神を信ずるようになられたときく」と述べておられる。
「創造された(バーラー)」という単語については、もう一般的な通説になっているから今さら説明する必要もないであろう。要するに、単語は神にのみ用いられる特別な動詞であると言われている。

2017 日々の聖句 7月11日(火)
常に身を避けるための住まい、岩となり、わたしを救おうと定めてください。(詩71:3)

パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。(使徒20:36~38)

私の黙想:
今日の聖句、何か聖句として違和感がある。聖書の言葉として、ヤハウェのこと「常に身を避けるための住まい」という表現に見覚えがない。口語訳では「住まい」という場合、「住んでいる」という動詞として用いられている。ということで、口語訳を見ると、「わたしのためにのがれの岩となり、わたしを救う堅固な城となってください」と訳されている。この語を「住居」と訳しているのは文語訳、関根訳では「護りの岩」、岩波訳は面白い「隠れ家なる岩」、新改訳は「住まいの岩」、ヘブル語では「レツール マオン」で、「マオン」が「住まい」、「レツール」が「大岩」。なるほど、新共同訳が「住まい」と訳している根拠はあるのだ。つまりこの「住居」は「大岩」で作られているのだと推測される。現在で言うと「コンクリート製のマンション」ということになろうか。
この聖句で、興味を引くのは、後半の「わたしを救おうと定めてください」という言葉だ。少なくとも、これに見合う言葉は口語訳にはない。フランシスコ会訳では「私の救いを備えてください」、新改訳では「私をお救いください」、岩波訳はかなり複雑である。「(そこに)いつも入るようにあなたは命じたのです」、成る程、そういうことか。ここでも文語訳はユニークである、「汝我を救わんとて勅命(みことのり)をいだし給えり」。ニュアンスがある。ただの「救いたまえ」ではない。その意味では、新共同訳の「わたしを救おうと定めてください」もなかなか味わい深い。「お前はお前の自主性において思いっきりやれ。どうにもならなくなったら、その後は俺が面倒を見てやる」というニュアンス。こういう「親分肌の神さま」、私は好きだな。

2017 日々の聖句 7月12日(水)
わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ」と主なる神は言われる。(エゼキエル39:29)

あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。(エフェソ1:13)

私の黙想:
これは捕囚中の神の言葉。「二度としない」というのは「わが顔を隠さないこと」だけである。この聖句の場合には、「顔を隠さない」つまり「顔を出す」ということと、「わが霊を注ぐ」ということとが同じことを意味していると思われる。つまり、今までは顔を出したり、隠したりしていたが、これからは四六時中干渉し続けるということであろう。これは有り難いことなのか。もちろん、有り難いことには違いないが、疲れることでもある。大阪弁で言うと「しんどい」ことだ。その意味で、捕囚前と捕囚後とではイスラエルと神との関係は、それまでとは全く異なることになる。それが厳密な意味での「ユダヤ教」の歴史である。
と同時に、その関係をキリスト教も受け継いだ。その意味でキリスト教は本当の意味での「隠れた神」を経験していない。しんどいことだ。

2017 日々の聖句 7月13日(木)
ソロモンは神殿を献堂して言った。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。」(列王記上8:27)

いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(ヨハネ1:18)

私の黙想:
今日の聖句、ソロモンの言葉。さすがに神から知恵を授けられたソロモンだ。凄く「哲学的な疑問」を言い表している。旧約聖書のここまで深い疑問を発した人はいない。もっと凄いことは、こういう疑問を抱きつつ、彼は全力を傾注して、神殿建築に励んだのである。勿論それはダビデ王の後継者としての当然の役割でもあったであろう。その意味では、この疑問は一時封印していたのであろう。そして、その神殿が完成した祝いの席での言葉である。
私は思う。他の仕事のことはよく分からない。しかし、聖書を読み、聖書から語り、神学を考える。これら全てのことは、根本的なところで、この疑問を抱いている。こんなことして何になる。こんなことで、神さまのことが分かるのか、分からせることが出来るのか。神がその気になれば、何でもできる。そこには私の出る幕なんてあるはずがない。こんな私の生き方が、していることで、神さまのことが分かるはずがない。そういう絶望感の中で、生きてきた。こうして生きる他の道が私にはなかった。

2017 日々の聖句 7月14日(金)
主を畏れる人に救いは近く、(栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。)慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけする。(詩85:10,11)

わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。(1ペトロ3:13)

私の黙想:
今日の聖句、はっきり言ってイメージが掴めない。「慈しみ」と「まこと」とは、親戚関係じゃないのだろうか。「正義」と「平和」が口づけする。何か気持ちが悪い。そのことと括弧のなの言葉とはどういう関係にあるのか。面倒だから口語訳を見る。
「その救は神を恐れる者に近く、(その栄光はわれらの国にとどまるでしょう。)いつくしみと、まこととは共に会い、義と平和とは互に口づけし」、あまり違わない。他の訳もあまり違わない。そうなると、私の方に問題があるのだろう。一つ一つの概念の理解の問題だろう。面白いヒントが次にある。12節「まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」。ここでは一つ一つの概念の出所を示している。「まこと」は地から出てくるし、「義」は天から臨む、という。それなら、「慈しみ」は天来のもの、「平和」は地に属する。ということか。成る程、確かに「真実」(岩波、関根)は、人間同士が真実であるところに、主の慈しみが加えられ、「平和」は人間間、民族間の努力の結果であり、そこにこそ神の正義が実現する。これでスッキリした。何でもかんでも、神任せではないのだ。そこには、人間の役割と神の役割とがはっきり区別され、それが綜合されるところに、「救い」があり、「神の栄光」が表される。

2017 日々の聖句 7月15日(土)
モーセは主に言った。どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください。(出エジプト33:13)

良い羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。(ヨハネ10:3~4)

私の黙想:
今日の聖句では「も」が効いている。この「も」は何を意味するのか。前の言葉が重要である。「お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。そうすれば、わたしはどのようにして、あなたがわたしに御好意を示してくださるか知りうるでしょう」。ここでモーセは、ヤハウェの命令を受けてイスラエルの民をここまで導いて来たこと、来られたことを神に感謝し、その上で、自分の後継者のことを願っている。この文脈で注意すべきことはヤハウェはモーセと「その友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」(11節)であろう。ヤハウェとモーセとの親しい会話が行われている天幕の入口にはモーセが最も信頼しているヨシュアが立っている。こういう場面である。つまり、モーセに対する神の導き、交わり、それはつねに「この民のため」という課題があり、その関係の中でモーセは自分自身の任務を果たしてきた。そこでの「も」である。モーセに対するヤハウェの信頼、交わりにおいて「この民も」忘れないで欲しいという、モーセの祈りである。この「も」は新共同訳で初めて用いられた「も」である。勿論、どの訳も、文脈から言って、とくにこの「も」がなくても十分意味は通じるし、そのようなニュアンスは読める。しかし、あるのと、ないのとでは異なる。勿論、こんな「も」がヘブライ語を初め、他の言語にあるとは思えない。あるとしたらもっと仰々しい訳語になるであろう。その点、日本語の「も」は貴重である。
この「も」において、実はヨハネ17章のイエスの「祈り」を思い起こす。特にヨハネ17:24「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」。ここでの「共におらせてください」の「共に」匹敵するのが、この「も」である。
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