ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のFB 02/10

2017-02-12 06:36:40 | ツイッター
お早うございます。主の平和。家内は整骨院へ。顕現節第6主日の断想を投稿。昼寝30分。カガミ『聖書入門』、ヨブ記、超真面目。俳句の勉強。寒すぎるので散歩は休み。家内は買い物かねてお散歩。東京は雪。夕食後、「科捜研の女」、「就活家族」報ステを見て10時半に就寝。5時半に起床。体温:36.3、血圧(153:83、88)、血圧計の電池を入れ替えたら超真面目に働いて、かなり高めに現されている。体調・快調、チュン、チュン。

38 Luke Etsuzou Nomahさん、佐藤 静代さん、他36人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

齋藤篤 科捜研の女、東京では午後2時からも放映しています。ですから昨日は2回も観てしまいました。週休日だったので、ま、いいか。

文屋 善明 こちらでも昼間から古いのをやっていますよ。

播 稔 わたしは録画してあります。

村田 多鶴子 おはようございます~♪
電池を入れ替えたら血圧計が真面目に働いて数値が上がるですって??? 初耳です(笑)
先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

文屋 善明 それまでが不真面目で本人にゴマをすっていたのでしょう。ね!
·
萩野 秀子 おはようございます。チラシ配りです。守られますようにお祈りします。

東山 富昭 おはよう😃ございます。雨から雪になるかもしれません。雨が降っていても、今日は、郵便局に行って、支払い等をします。よろしく、お願いします。

文屋 善明
2月10日 6:13 ·

お目覚めの花。「寒い寒いと言いながら、季節はどんどん春に向かって進んでいます」「今の寒さ今冬の最後のあがきでしょう」。
画像に含まれている可能性があるもの:花、植物、屋外、自然

38 佐藤 静代さん、木下 海龍さん、他36人

文屋 善明
2月10日 6:28 ·

2017 日々の聖句 2月10日(金)
わたしは(エルサレムを喜びとし)わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。(イザヤ65:19)
希望をもって喜びなさい。(ロマ12:12)
私の黙想:
「希望をもって」しか喜べないのは悲劇である。本当の喜びとは「現在」でなければならない。ここに信仰による誤魔かしがある。
「エルサレム」は今も、いや今こそ泣く声、叫ぶ声が響いている。神の約束は常に反故にされる。それは人間の罪の故か。いや、人間の罪は常である。それをはるかに凌駕するところに「神の業」が在るはずだ。神よ、今の中東の混乱をどうなさるつもりですか。酷いじゃ在りませんか。あの約束はもう反故にされたのですか。ローズンゲンの編集者も「エルサレムを喜びとし」という言葉を表に出せないで、省略してしまったではありませんか。そうしたら、今日の市区は宙に浮いた「希望を持ってしか喜べない」現状を露わにしている。私たちは「希望を持って喜ぶ」ことはできない。

22 播 稔さん、東山 富昭さん、他20人
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齋藤篤 神と人間のミスコミニケーションなんでしょうね。コミニケーションは一方的なものでは成り立たないので、相互作用的な。

文屋 善明
2月10日 6:37 ·

今日の名言:@baka__meigen
人間一人ひとりを見ると、みんな利口で分別ありげだが、集団をなせばたちまち馬鹿が出てくる。(シラー)
<一言>何とか女史だって、何とか代議士だって、何とか総理だって、一人一人をみれば、(ああ、そうでもないのもいるか〜〜)まぁ、一応学歴もしっかりしているし、職業だって一人前以上だ。なのに、何故、〇〇党になるとバカになるのだろうか。

27 佐藤 彰子さん、大野 泰男さん、他25人
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三浦 三千春 権力と組織は人を馬鹿になす?

水草 修治 ニーバーの『道徳的人間と非道徳的社会』というのに、そのへんの仕組が書かれていた記憶があります。

文屋 善明
2月10日 6:40 ·

トランプと安倍首相との春うらら 善明

21 佐藤 彰子さん、佐々木 弘幸さん、他19人
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齋藤篤 うららというパラドックスが乙!

文屋 善明 甲ではなくて乙ですか。丙でなくてよかった。

徳善 義和 (下の句)寒さに震える 民残し

文屋 善明 これで和歌の完成ですね。

播 稔 これは 「善明」 なのですね。

播 稔 上の句、下の句 いいですねー。

文屋 善明
2月10日 6:43 ·

イミタチオ・クリスチ(393)
イエスと共に食卓を囲みたいと願う者は多い。しかしイエスと共に断食したいと願う者は少ない。わたしたちはみな彼と共に喜ぶことを願う。しかし彼のために多少でも苦しむことを望む者はまれである。2:11:3~4

22 東山 富昭さん、大野 泰男さん、他20人
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辻本 昌弘 人々のために十字架にかかる勇気は、今も昔も自分にはありません。

文屋 善明
2月10日 6:48 ·

それ俳句 問われて答う 我流なり 仙明
五七五 言葉並べりゃ 俳句なり 仙明
俳句とは 言葉遊びと わきまえぬ 仙明
はははは

44 Mizota Michael Satoshiさん、安井 郁夫さん、他42人
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齋藤篤 はははは、に座布団!

村田 多鶴子 雅号の由来が気になります(*^^)v

大脇 友弘 おはようございます。言葉遊び楽しんでますね。
善明→ゼンメイ→センメイ→仙明ですか?...もっと見る

文屋 善明 仙流の仙と仙人の仙、ゼンメイを清らかにしてセンメイです。

清水 正彦 おそれながら添削させていただきます。

一句目 ×答ゆ ○答ふ(現代仮名遣いであれば「答う」)...もっと見る

文屋 善明 清水先生のご指導に従って、字句を改めました。


清水 正彦 僭越なことをしてしまいまして、まことにすみません。おそれながら、まだ現代仮名遣いと旧仮名遣いが混在していますので統一された方が美しいかと存じ上げます。

文屋 善明 実は文語訳聖書を引用する際に、旧仮名遣いと現代仮名遣いとの区別に困っています。まだ、はっきり区別がつきません。いまさら「けふ」も使えませんので、「きょう」でとおしていますが。

清水 正彦 たしかにややこしいですが、俳句を真面目にやってると、すぐに馴れますよ。

旧仮名遣い
それ俳句問はれて答ふ我流なり
五七五言葉並べりや俳句なり
俳句とは言葉遊びとわきまへぬ

現代仮名遣い
それ俳句問われて答う我流なり
五七五言葉並べりゃ俳句なり
俳句とは言葉遊びとわきまえぬ

旧仮名遣いと現代仮名遣いを整理しますと以上の通りです。まだ文体の問題が残ってますが。「五七五」の御句は「言葉並べりゃ」という口語と「俳句なり」という文語が混在しているので、これもどちらかに統一した方がよいでしょうね。

五七五言葉並べば俳句なり(文語)
五七五言葉並べりゃ俳句だよ(口語)

文屋 善明 頑張ります。

文屋 善明 清水 正彦 よくわかりました。それにしても、清水さんはいい先生ですね。これからも、どしどしご教授ください。

清水 正彦 俳句には詠み人の人生が表れますので文屋先生ならきっと味わい深い作品を産み出されるものと思います。文法とか文体とか仮名遣いは俳句を表現していく上で重要ではありますが、もっと重要なことがあると思います。俳句は言葉遊びではなく季題を詠む詩です。五七五の十七音という限定がありますので一言一句はおろか、一文字一音たりとも無駄遣いする余地はありませんし、生きた言葉を使わないと、名句にはなり得ません。私もまだまだ初心者ですが、一生かかって俳句を追求していこうと決心しています。

文屋 善明 「言葉遊び」という言葉は、私の現時点での感想で、言葉への関心(おもしろさ)ということです。

清水 正彦 深いですね。梁塵秘抄の「遊びをせんとや生まれけむ」という一節を思い出しました。私たちは遊ぶために神によって造られたのかもしれません。

文屋 善明 良いですね。神は言葉で世界を創り、それを観て、善しと語る。神が楽しんでいる。

清水 正彦 私は俳句を「神に対する存問の句」であると定義しています。存問とは挨拶といった意味です。俳句は、この世の四季の移ろいの中で体験する物や事から自分という実存が得た感動を言葉にするものですが、それらはすべて神から与えられたものでありますので、神への感謝の意を俳句で表すように心掛けています。俳句のある国に生まれてきてよかったです。まだまだ下手くそですが。精進していきたいと思います。

文屋 善明 私もそこまで到達したいと思いますが、おそらく時間切れでしょう。

清水 正彦 いつ最期を迎えるかはだれにもわかりません。「朝の紅顔 夕の白骨」ですから私も今夜は死んでるかもしれません。ともかく、俳句の世界には高齢になってから始めて開花した人は沢山おられます。俳人金子兜太は97歳にして矍鑠と俳句を詠み続けています。金原まさ子という1911年生まれの俳人も活躍中ですし、日野原重明も俳句をやってます。

文屋 善明 挑戦的ですね。

藤木 冨士子 どっちかというと俳句ではなくて川柳では?

文屋 善明
2月10日 6:57 ·

今日からは俳句と川柳二刀流 仙明

29 佐藤 静代さん、藤木 冨士子さん、他27人
コメント

中尾香鶴子 先生、俳句や川柳やポケモン、聖書とか、守備範囲、広いですね‼

文屋 善明 もう一つ自慢をすると、礼拝でオルガンも弾きますよ。ハハハ。

中尾香鶴子 先生、まだまだ趣味、特技が出そうですね‼

文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
2月10日 7:40 ·

芽出た、目出たの若松。5年前のローズンゲンです。
5年前
この日の思い出を見る

文屋 善明
2012年2月10日 ·
losungenj 2012.02.10(fri)
エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育つ。(Isa11:1)キリストの言葉:わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(Joh15:5)
私の黙想 「芽出た、芽出たの若松さまよ」という声が響いてくる感じ。芽が出るとは希望の印。原爆により廃墟になった広島で、新しい芽が出てきた時の日本人の喜びの声を、当時11歳だった私は、かすかに覚えている。エッサイの株とはダビデ王家、ダビデ王家の復興を待つ民。

14 小貫 ツマさん、安井 郁夫さん、他12人

文屋 善明
2月10日 10:44 · 福岡県 宗像市 ·

どうしたんだろう?何に反応しているのか?日本株が暴騰している。

18 小杉 義信さん、藤木 冨士子さん、他16人
コメント

Mizota Michael Satoshi アメリカ不安でしょうね。トランプ万歳です。

播 稔 安倍さんと大統領の対談が丸く収まると読んでいるのでしょう。

加藤 佑三 フライング反応ですって。外国の投資家が日本株は対談後に上がると読み違えているのでは?。

播 稔 本来 株は将来を読む者、ですが今回の日本株は、その根拠がないに等しい。

Mizota Michael Satoshi トランプがアメリカのためにいろいろやればやるほど、日本が儲かるという逆説。。。

播 稔 米国株が上がるとよんでいるのでは?

Mizota Michael Satoshi トランプ政権ではアメリカの国が危ないですからね。。。

文屋 善明
2月10日 11:12 ·

「断想:顕現後第6主日の旧約聖書」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

15 中野 芳夫さん、川染 三郎さん、他13人

文屋 善明
2月10日 11:53 ·

「昨日のFB 02/08」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

12 中野 芳夫さん、川染 三郎さん、他10人

文屋 善明
2月10日 20:01 ·

今日のきょう昔はけふと書いていた 仙明
高校時代、古文を怠けていたツケが今頃回ってきました。旧仮名づかいと新仮名づかいとの区別がわかりません。国語の勉強のやり直しです。

40 Luke Etsuzou Nomahさん、萩野 秀子 さん、他38人
コメント

藤木 冨士子 ならったのは高校生になってから

久保和男 中学時代は満州でしたか?

文屋 善明 10歳の時帰国しました。

久保和男 大変でしたね。

櫻井啓子 てふてふ夫人はおわかりでせうか。

久保和男 てふてふ とは

文屋 善明 あれ、さっき返答したのに、消えている。

文屋 善明 ちょうちょう夫人

櫻井啓子 ピンポーン!!!

文屋 善明 せうか→しょうか

櫻井啓子 ご名答!!!

久保和男 でしょう

久保和男 あてじですね

文屋 善明 「あてじ」とはどういう意味ですか?

久保和男 古文にてふてふなどと言いますか。

文屋 善明 昔はそう書きました。

久保和男 勉強不足でした。

文屋 善明 「てふてふ」は何歳ぐらいの人まで通じるのかな。「けふ」も同じだと思います。

藤木 冨士子 わかります。

櫻井啓子 日本キリスト教団の54年版賛美歌なら、けっこうまだ文語の歌詞があるし、始めの頃の刷りなら、おそらく旧仮名遣いがかなりあったような…。(ウチにはありませんが。)

櫻井啓子 推量や意思の助動詞「む」を「ん」と読むのは、私の場合戦前創立の小学校と高校の校歌で慣らされまくりました。

久保和男 そういえば校歌で「ん」がでてきます。

櫻井啓子 校歌ですから「〜しよう!」という内容になりやすいですね。わが子らの校歌は21世紀にできたので「楽しい夢をえがこうよ」ですが、私の小学校ときたら「誉れを挙げむ、勤しみて」です。意味不明なまま歌っておりました。

中尾香鶴子 てふてふは蝶々の事ですよね‼私の母親は手紙を書く時、何々でしょう。を何々でせう。と書きます。これも昔言葉でしょうかね‼

櫻井啓子 さふいふことです。(笑)

そういうことです

清水 正彦 「さういふ」ですねm(_ _)m

櫻井啓子 あっ、…(汗)。

文屋 善明 清水先生、助けてください。私の記憶の奥底に沈んでいた大問題に足を踏み入れてしまいました。問題は、小学校1年生の教科書にありそうですね。私は昭和11年生まれですから、敗戦は小学校3年の時です。家内は5年したなので、この間に日本の国語教育が大きく変わったようです。口語訳聖書が1960年。それまでは文語訳聖書を普通に読んでいました。「元始に神天地を創造り給へり」です。そもそも句読点の使い方から違います。

久保和男 私は文語訳聖書を持っていませんが、教会には英国聖書会社の新約全書の初版本が寄贈されています。読みづらいです。貴重な本なので開いたままケースの中に飾っています。

文屋 善明 それが文語訳以前の訳ですね。貴重な資料です。

久保和男 日本中探してもここにかなさそうです。

久保和男 いわゆる「大正訳聖書」の基本となった聖書らしいです。

清水 正彦 私は先生ではございませんm(_ _)m
戦後の国語改革も良し悪しだったということですね。漢字を簡素化して仮名遣いを実際の発音に近づけた結果、もしかしたら識字率は少しは向上したのかもしれません。しかし、日本人全般の言葉に対する敬意は損なわれ言葉を用いる力も低下したのではないでしょうか。

文屋 善明 そもそも教科としての「古文」というのがはっきりしない。源氏物語とか徒然草の「古文」が私たちの時代の古文であって、ここで問題になっている古文は明治以後の文語で、これを正式に学んだことはありません。漱石の小説とか聖書を通しての文語、それに基づく旧仮名遣いと第2次世界大戦後の新仮名づかいとの区別がが問題です。学徒出陣で死んで行った青年たちの遺書、これは見事な文語文です。これがスラスラと読めなくなってしまったら、非常に惜しい。

櫻井啓子 夫(西田哲学研究者)は、西田幾多郎が書いたものがただの文語文通り越して漢文調なために解読するだけで大変なようです。
戦前は漢文基調の文語が、ある程度教養ある方々(学徒出陣も大学生ですからね…)の「ことば」であったことがわかりますね。

文屋 善明 波多野精一先生の文章も同じです。それが松村克己の時代になると漢文調がなくなってきます。

久保和男 中学では漢文も学びましたが。私など工業高校では現代国語しか習わなくて、あとは中学時代の古典で古文を現代語訳にする学習でして、中学時代に近くの会社の図書館で俳句集に夢中になったりしただけで、仮名がよく分からずじまいです。でも中学の国語は5をもらいました。高校時代は劣等意識で図書館に毎日かよいずめで小説などにも挑戦し、またまた高得点を頂きました。哲学と西洋文学に夢中になった覚えがあり神学への興味をもったしだいです。脇道にそれましたが、勉強になりました。

櫻井啓子 私の世代(72年生まれ、第二次ベビーブーマー)の中等教育では、現代文、古文、漢文と別々に習うのですが、一連のお話をよむにつれ、あまり切り分けないで、明治や大正などの文学を読むことで「日本に定着した漢文表現」や「書き言葉と話し言葉」を知るような授業があっても良いと思いました。
音楽でも、例えば古い文部省唱歌や童謡を昔の歌詞表記で習ってみるとかもあっても良いかと。

文屋 善明 現代文、古文、漢文、私たちの時代と同じだ。凄い伝統ですね。漱石などはどこに入るのだろう。

久保和男 しいて言えば現代文でも分かるのでは。

櫻井啓子 漱石は現代文ですよ。鴎外も。私の担任が国語科教諭で、彼の朗読する「舞姫」「こころ」その他戦前の小説や詩は独特で格別でした。(合唱部出身の柔らかな声の持ち主。)
旧制中学の伝統を引く学校ゆえ、みな、一通り文系から理系の教養をつけ………たのでせうか、私は。さぼつてばかりでをりました。w

久保和男 漱石も鴎外も読みましたが神学的研究にもなりそう。

文屋 善明 そして「現代文」となると、もう「国語」ではなく「文学論」ないしは「思想」になるでしょう。それで結局、その頃の「国語」が飛んでしまうのです。

久保和男 漱石は相当キリスト教に感化されていたのでは。

久保和男 いわゆる国語というものが現代国語として教育されているわけですね。

久保和男 戦後生まれの私は中学に入ってから古文なり古典を習い始めました。

水草 修治 私も同じです。父の筑摩現代日本文学全集というのを読んで、旧仮名遣いに馴染みました。そのころから、現代仮名遣いが表音文字としては中途半端なものだなと感じ始めました。
「こうし」は格子なのか子牛なのかわからない。

小渕 春夫 はるか昔は、日本語の発音の種類や子音が今より多かったのでは?

須田 信良 · 共通の友達: 石田 聖実さん
私の祖母は明治20年生まれでしたが、「当時」「冬至」「湯治」を発音し分けていました。順に「タウジ」「トウジ」「タウヂ」。

門叶 国泰 私も「蝶々」を「テフテフ」と書いた年代です。国民学校一年生は甲府でしたが、甲府駅の表記は、右から「かふふ」でした。

文屋 善明 別なところでも書きましたが、小学(当時は「国民学校」)1年生の国語の教科書が鍵ですね。いつ頃から「ちょうちょう」に変わったのか。

文屋 善明 「ゐ」が消えてしまったように「を」も消えてしまうかもしれませんね。

門叶 国泰 それは大丈夫でしょう。

文屋 善明 けど、発音は完全に「お」と同じになっていますからね。

文屋 善明 右書き、左書きも、見事に英語並みになってしまいました。

小渕 春夫 「わ(いうえお)」の(いうえお)にあたる発音が消滅してしまったのでしょうね。

文屋 善明 「を」は残っています。私が子どもの頃までは「ゐ」も「ゑ」もありました。さすがに「う」は消えていましたが、ちなみに、「ゐ」を入力するときは「wi」ですし、「ゑ」は「we」で入力しますが、「wu」では変換できません。「w」と「u」とが、ほとんど同じ発音だからでしょうね。

小渕 春夫 なるほど。鼻濁音の「が」を意識することもなくなりましたね。

文屋 善明 そのために韓国語の「ng」が発音できなくなってしまいました。

門叶 国泰 学校は「がくかう」でしたね。

文屋 善明 そうでした。がくかうに行きませう。

須田 信良 · 共通の友達: 石田 聖実さん
江戸時代にはヤ行の「エ」もア行の「エ」とは違う発音だったとか。

文屋 善明 ゑびすビール

播 稔 弟が夏目漱石の復刻版をかったことがありました。本人は読まないので、わたしが読んだところ 読みにくいことであきらめました。

播 稔 なお近所の古本屋へ持っていったところ、値段は0円(ただ)でした。20冊以上揃っていたのですが。

有賀 豊彦 ちなみに「卒業証書」は学を修めた方に渡すものであるという理由から句読点を打たないというのが「基本」らしいです

石田 聖実 文屋先生の世代で旧仮名遣いがわからないとおっしゃるのであれば、私やもっと下の世代にとってはほぼ外国語並みです。
ユダヤ教由来のキリスト教の聖書(ユダヤ教聖書原典はヘブライ語であった)がヘブライ語ではなくギリシャ語、それもコイネーで書かれたということは、その時代に広く人々に通じる言語で書かれたということでしょう。

文屋 善明 誤解されると困りますので、はっきりしておきますが旧仮名遣いの文章が分からないのではなく、新仮名遣いとの境界線あたりが曖昧だというわけです。例えば「問われる」なのか「問はれる」なのか。「わきまえぬ」は「わきまえない」という意味か、「わきまえる」という意味なのか。
私がまだ聖書学院の学生の頃、今から60年ほど前、ヨハネ伝3章から説教をしたとき、当時大学生であった信徒が「此の水を飲む者は、また渇かん」を「渇かない」と思っていました、と言われたときのショックを今も思えています。考えてみると「渇かん」と言われれば「渇かない」と解釈する方が素直な気がします。

石田 聖実 文語の文章を口語的に理解する誤りをしばしば目にします。
「渇かん」を渇ないと誤解するのは仮名遣いの問題ですか?

Mizota Michael Satoshi 明治の頃からあった話みたいですね。皇太子が誕生したときに『ひつぎの皇子はあれましぬ』を『生まれたばかりなのに死んじゃうなんて』と理解した子供がいたとか。

文屋 善明 これは仮名遣いの問題ではありません。が文語体が理解されない世代がいたというけいけんです。しかも、その当時たぶん彼の方が年上だったと思う。私たちはそういう「過渡期」で育ったので、混がらかるという実例です。

Mizota Michael Satoshi 江戸時代の庶民は神主のあげる祝詞を理解し、坊さんの上げる経(書き下し文体)を、どの程度理解していたんだろう、という話でもあります。

石田 聖実 右書きについては、日本語には横書きという概念がなく、一行一文字の縦書きなのだと聞いたことがあります。

Mizota Michael Satoshi ペンテコステ系教会で文語訳で聖書を読み、聖公会で文語祈祷書のミサに出つづけた私も、文語は難しいと思いますね。

Mizota Michael Satoshi なにせ『聖路加傳福音書』にルビの振られた聖書を使ってましたので。
i
Mizota Michael Satoshi 新約のコイネーあたりかならなら、プラトン位はまだ理解しやすいかも。サッポーくらいになるとかなり苦労します。

久保和男 文屋先生、俳句頑張ってください。

文屋 善明
2月10日 21:13 · 福岡県 宗像市 ·

文語訳聖書を引用する場合、現代仮名づかいに直しても有効なのか、迷っています。例えば、「給ふ」を「給う」と書き改めてもいいものなのか。

38 Luke Etsuzou Nomahさん、植村 光郎さん、他36人
コメント

水草 修治 いいと思います。

櫻井啓子 よく、古い文章を引用するとき「旧仮名遣いは現代仮名遣いに改めてあります」みたいな断り書きが予め書かれてますね。断り書きがあると丁寧、といふところかなと。
(著作権とかになるとイマイチわかりません。)

辻本 昌弘 いえ、私は文語訳のニュアンスをだすためにも「給ふ」のままの方が良いと考えます。

文屋 善明 躊躇しながらそうしています。何しろ筑後霊感主義で徹底的に育ちましたので、古い漢字を新漢字にすることや、一点一画を変更するのにも躊躇します。

齋藤篤 筑後霊感…。福岡感たっぷりですね!

清水 晴好 宗像は筑後じゃなかったはずだと思ってましたが・・・?

鎌野 健一 わたしは一応文語訳聖書を引用する時は、文語そのままにしています。注釈で(  )をつけて現代仮名遣いで書くことはあります。

舟田 譲二 私も鎌野健一先生と同じです。
文語訳を読まれる方はそもそも文語訳に慣れていらっしゃるでしょうし、もしそうでない方のためであれば( )で現代仮名遣いを加えるのがいいと思います。そもそも「引用」なのですから、元のままでないと。

服部 弘一郎 文語訳は漢字も仮名づかいもそのまま引用したいけど、ふりがながないと読めない部分が多すぎるので、それがちょっと煩雑ですね。

水草 修治 仮名遣いにはすぐ慣れますが、あのフリガナは無理ですね。

Daniel Corl 「ふ」なのか「う」なのかより、なやむの「たま」か「たも」だと思っています。「出づる」は「出ずる」にわざわざ直さなくとも今の時代でも読めるということもなやみます。逆に「入る」は「い」と振らないと「はいる」と読んでしまう可能性が大。などなど。

水草 修治 現代仮名遣いというものも、表音文字としては中途半端だなあとときどき思います。

藤木 冨士子 文語訳、慣れてないのでとっても難しい。黙読はできなくて、音読します。その時迷うのはダニエルさんがおっしゃるあたりです。

文屋 善明 そもそも、ひらがな、カタカナを「表音文字」として意識し始めたのはいつ頃からか、これも大問題です。元々はそういう意識はなかったとみています。敗戦後、進駐軍の影響の元、ローマ字化運動もありました。これはくすしくも、パソコンの発達によって問題そのものがなくなりました。私も「ひらがなタイプ」を使っていた時代があります。

郡山千里 『現代仮名遣い版文語訳聖書』が書店で買える日は何時でしょうかね。

服部 弘一郎 最新のテキスト校訂をした、新訳の文語訳聖書がほしいです。

聖書なんてどうせ「読んだだけでわかる」というものではないんですから、揺れ動く現代口語から距離を取り、古典由来の文語文に訳すというのも悪くないと思うんですがね……。

文屋 善明 賛成です。その時には「エホバ」をどう表現するか?「主」では味がないし、「ヤハウエ」もう一つです。

徳善 義和 最近売られているものは知らないけれど、百人一首の表記は昔のまま、文語の仮名遣いでしょう? 「いにしへのならのみやこ」のはずですね。それで通じているのだから、文語聖書もそのレベルまで行かなくちゃー!

文屋 善明 そうですね。数年前、それを期待して現在印刷出版中の文語訳聖書を買いましたが、昔のままでした。

文屋 善明 聖書の口語化そのこと自体は、悪いことではありませんが、それでどれだけ問題が解決したのかというかと考えると、何も変わっていない。説教を通して読み解くということが、安易になっただけ。

服部 弘一郎 「聖書さえ読めばわかる」「聖書さえ読んで信じればクリスチャンになる」という一部プロテスタントの迷信みたいなものがあって、その迷信を強化するには平易な言葉の方がいいんでしょうね。
どのみち聖書は教会説教なり教会の伝統的な教え(教義)とセットで読まなければ意味がないんですから、平易な言葉であまりスラスラ読めてわかった気になれてしまうのはかえって有害な気もしますがね。...もっと見る

文屋 善明 賛成です。そこに戦後の日本のキリスト教が弱体化した原因がある、と言ったら、言い過ぎだろうか。私が聖書学院時代に必死になって読んだ聖書は文語訳です。ちょうどそこを卒業した年に口語訳が出ました。関学時代は口語訳でした。文語訳と比較して随分批判したことを覚えています。

石田 聖実 もし、キリスト教が平安時代に日本に入ってきて、禁教もなく定着していたら、この議論はだいぶ違っているとおもいます。

播 稔 どちらでもよいのですが?書き改め方がよいように思います。現代でも使われる文語もありますから。

須田 信良 · 共通の友達: 石田 聖実さん
私は日本国憲法の条文が新仮名遣いで引用されていると感じ悪いと思う年寄り(?)なので、やはり歴史的仮名遣いのまま引用して頂きたいですね。あくまでも個人的「好み」ですが。
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