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断想:復活節第5主日の旧約聖書

2017-05-12 06:56:10 | 説教
断想:復活節第5主日の旧約聖書(2017.5.14)
死線を越えて、向こう側に 申命記6:20-25

<テキスト>
20 将来、あなたの子が、「我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか」と尋ねるときには、
21 あなたの子にこう答えなさい。「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。
22 主は我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、
23 我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導き入れ、それを我々に与えられた。
24 主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。
25 我々が命じられたとおり、我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける。」

<以上>

1.復活節第5主日
第4主日では、個人と個人との個別的な復活経験が交流し、その交流の輪が広がって個人の経験にすぎなかった経験が一つの共同体の経験となる。この共同体が教会である。初代の教会は復活共同体に他ならなかった。ここから復活を信じる共同体の歴史が始まるということをまなんだ。
第5主日ではその個々人の復活経験が復活信仰へと深まる契機が取り上げられる。いかにして不確かな個人的経験が「復活信仰」へと深められたのか。それは新約聖書の謎であり課題である。
この日の福音書ではヨハネ14:1~14が読まれる。ここには死を直前にしたイエスの言葉が記されている。イエスは弟子たちに「どこへ行かれるのですか」と問われて、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と答えられた。これこそ、死後イエスが行くところを指し示している。恐らく、この言葉をその時の弟子たちは理解できなかったであろう。私はこの言葉を「本当のことをいうと(つまり真理)、私は命へ至る道なのだ。その命とは、「父のもと」であり、「あなたたちも、そこへ行くことが出来る。そこにはあなたたちが安住する住まい既に準備されている」といわれた。イエスの復活はイエスだけの復活ではない。パウロはイエスの復活を「初穂」(1コリント15:20)と言った。これがイエスの復活についての初期教会の理解であった。つまり人生のエンディングである「死」の向こう側にイエスは行かれた。それが「死の克服」ということであり、永遠の命である。このことを学ぶのが復活節第5主日の課題である。

2. イスラエルの民の経験
さて、この主日のために旧約聖書では申命記6:20-25が選ればれている。何故だろう。申命記第6章の冒頭には「これは、あなたたちの神、主があなたたちに教えよと命じられた戒めと掟と法であり、あなたたちが渡って行って得る土地で行うべきもの」だと、その目的が書かれている。ここに「渡って行って得る土地」とは、神が彼らのために準備された「約束の地」を意味している。そこに行くのに「渡っていく」という言葉で表現されているのは面白い。約束の地における「戒めと掟」が、ここに記されている。それがいわゆる「シェマー(聞け!)という言葉で始まる言葉である。この言葉の中に旧約聖書のすべての教えが凝縮されている。ユダヤ人はこの「シェマー、イスラエルよ」という言葉を耳にしたら、起立して、聞くといわれている。ここで言われていることは単純でたった一つのことである。「我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。ただこれだけである。
イエスが旧約聖書において最も大切な教えは何かと問われたとき、この言葉を述べていることはよく知られたことである(マタイ22:37)。このシェマーにおいて重要なことは、「これらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(申命記6:6~9)と念入りに命じられている点である。
イスラエル人はエジプトにおいて奴隷として苦しい生活を余儀なくされていた。それが彼らの現実であった。その彼らに神はモーセを通じて「約束の地」へ導くと語られた。そしていろいろややこしい問題があったがそもかく、それらを一つ一つ克服して彼らはエジプト脱出に成功した。エジプトの王は軍隊を動員し彼らを追わせた。彼らは必死になって逃げたに違いない。しかし彼らの前方には紅海が横たわり、彼らの行く手を塞いだ。ここでの「紅海」はまさに現実から逃避しようとする人間にとっての「死」であった。死を「渡れる」か。死ですべては終了か、死を乗り越えることが出来るのか。彼らにとって紅海徒渉とは死を克服して生きる復活の象徴であった。死を越えて、向こう側がある。

3.復活信仰とは
復活を信じるということは、人生の終わりを乗り越えることである。死が人生の終わりではない、ということを信じることである。個人における人生の終わりが死であり、それは同時に世界の終末が視野に入ってくる。当然、復活信仰は終末論を含む。
弟子たちが経験した「イエスの復活」はそれ自体としては過去の出来事であるし、そのリアリティはよく分からない。ただ、その時の弟子たちは「イエスの復活」によって何を経験したのか。それは死の克服である。パウロはそれを「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(1コリント15:55)という。死という現象がもつ「悲劇」、それをパウロは「死の棘」という。死から棘が抜かれた。そうすると、死は単なる一つの通過点にすぎなくなる。イエスの復活は「死」を挟んでこちら側とあちら側とを続く「永遠の生命」とした。
ともあれキリスト教における復活信仰は「復活したイエスに出会った」ということに基礎付けられていることは否めない。彼らが復活したイエスにおいて「見たもの」、それは現代風に言うなら「異次元のリアリティ」あるいは「異次元の生命」ということが出来るであろう。それを彼らの言葉で「霊」と言った。ここから最初期のキリスト論が「霊のキリスト」論として形成された。ここに至って、復活のイエスは世代を超える「(共通)経験」となる。

4.出エジプト以後のイスラエル
出エジプト後、約束の地に入ったイスラエルの民は、彼らの出エジプトの経験を、民族成立の出来事として後世に伝えた。彼らは彼ら自身のことを神の民と自覚した。そして、彼らが神の民である徴として、「シェマー、イスラエル」を伝承した。しかし出エジプトを経験していない後代のイスラエルの民は、「我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか」と尋ねる。彼らには何故これを毎日唱えるなければならないのか、理解できなかったらしい。それで、彼らはその意味を問う。それが今日のテキストである。そして、シェマーを唱えることによって、出エジプトの出来事が共同体の共通経験として受けとめられた。

5.ペンテコステにおける聖霊経験
教会において聖霊経験とは、復活経験の再現であり、聖霊経験を通して復活経験が継承され、共通の経験となる。聖霊経験とはキリストの生命を私のうちに持つという経験である。基本的にはその経験は、聖餐式において経験される。聖餐式の冒頭の応答を思い起こして欲しい。司祭が「主イエス・キリストよ、おいでください」と述べ、会衆が「弟子たちの中に立ち、復活のみ姿を現されたように、わたしたちのうちにもお臨みください」と応答する。聖餐式こそ、復活のイエスの顕現の再現であり、復活のイエスとの出会いである。
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