ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のFB 11/24

2016-11-26 09:17:53 | ツイッター
お早うございます。主の平和。朝から門司港へ向かう。午前11時、陽のあたる場所にて昼食、1時半まで。レトロ地区を散策、渡船で巌流島。40分ほど島内を散策後、門司に戻り、友人たちは下関へ。夕方、相撲を見る。稀勢の里は強い。夕食後、写真の整理。「相棒」を見始めたが、すぐに就寝。9時過ぎ。6時起床。今朝はかなり冷える。体温:36.7、血圧(149:74、71)・体調・快調、チュン、チュン。

24 藤木 冨士子さん、播 稔さん、他22人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

村田 多鶴子 おはようございます~♪
冷たい雨の朝です。東京都心で11月に初雪が降るのは54年ぶりだとか…。
そちらも寒いでしょうと想います。どうぞ、お大事になさって下さいませ。
ご夫妻がお守りの内によい一日をお過ごしになられますようにm(__)m

東山 富昭 こんばんは🌆。寒くなってきましたので、お身体を大切にして、お過ごしください。週末ですが、よろしく、お願いします。

藤木 冨士子 こんばんは。


文屋 善明さんが写真2件を追加しました。
11月24日 6:22 ·

お目覚めの花。「今年は紅葉を見に出かけることは諦めて、駅前の釣川堤防での紅葉で間に合わせ」「紅葉の出前だ」。
文屋 善明さんの写真

39 藤木 冨士子さん、播 稔さん、他37人


文屋 善明
11月24日 6:45 ·

016 日々の聖句 11月24日(木)
わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ(ついには塵の上に立たれるであろ)う。(ヨブ19:25)
パウロの手紙:「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。(1テモテ1:15)
私の黙想:
今日のヨブ記の言葉、ヨブ記の中で最も重要な言葉(私の主観)である。ここにヨブ記における「永遠観」が凝縮されている。ローズンゲンでは括弧内は省かれているが、ここがこの言葉の最重要ポイントである。その前の部分は、どうでもいい一般的な救済観(要するに、神は私の救済者である)であるが、その方が私の死後、必ず「塵の上に立つ」という信仰が重要である。この「塵の上に」を口語訳ではストレートに「地の上に」、フランシスコ会訳では「大地の上に」、新改訳は「ちりの上に」、文語訳では「地の上に」、岩波訳では「塵の上に」。要するに訳語はどうでもいい。この地上に、今、ヨブが立っているこの地上の上に、この地上とは私の身体と同じ「塵に過ぎない」が、この上に、救い主が立つ。その時には、私は既に死んで塵の一部になっているに違いないが、その上に「私を贖う方が立つ」。だらか、その時、私はこの方と共に「永遠に生きる者」となる。これがヨブの信仰であった。人間は死んだらそれですべて終わる。死んだ後は何もかも無に帰してしまうという徹底的なニヒリズムにおいて、ヨブは永遠の生命への突破口を見つけ出した。これがヨブ記のメッセージである。

23 藤木 冨士子さん、門叶 国泰さん、他21人
コメント

文屋 善明 参考に、この主題についての私の小論を紹介しておきます。「http://blog.goo.ne.jp/.../e/2121bd4fc4e310020a7cfe5236e578cb
「永遠の命」に関する未完の論考 - ぶんやさんち
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齋藤篤 正教師試験の旧約聖書説教の聖書箇所がこのところでした。懐かしみながら今日のみ言葉を味わいました。

文屋 善明 私なら、落とされたことでしょうね。


文屋 善明
11月24日 6:47 ·

イミタチオ・クリスチ(316):
この世のものに魅惑されたら、霊的進歩は停まる。神以外のもに心が奪われてはならない。2:5:15~16

15 藤木 冨士子さん、播 稔さん、他13人


文屋 善明
11月24日 7:05 ·

今日の名言:@F_W_N_jp
人間があってよりこのかた、人間は悦ぶことがあまりに少なすぎた。それだけが、我が兄弟たちよ、我々の原罪なのだ!(ニーチェ、『ツァラトゥストラ』)
<一言>ツァラトゥストラはニーチェが作りだした仮装のニーチェ。ニーチェであって、ニーチェではない。ニーチェは彼を通して「真実」を語る。

19 藤木 冨士子さん、播 稔さん、他17人


文屋 善明
11月24日 8:43 ·

一日遅れで、「昨日のFB 11/21」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

10 藤木 冨士子さん、Richard Bakerさん、他8人


文屋 善明
11月24日 8:53 ·

「昨日のFB 11/22」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

10 藤木 冨士子さん、伊藤 利行さん、他8人


文屋 善明
11月24日 8:55 ·

昨日、11月23日、神戸教区では次の主教の選挙が行われましたが、結局、選出されなかったとのこと。詳細は不明。

25 藤木 冨士子さん、播 稔さん、他23人
コメント

Hajime Kawamukai 昨日、聞いたところによると20数回やったらしいですが、それでも決まんなかったらしいです。

三浦 三千春 そんなことあるんですね。

三浦 三千春 小コンクラベート?

Hajime Kawamukai そんな感じや、言うてはりました。

文屋 善明 聖職票と信徒代議員票が同時に3分の2を越えるというの当選です。従って、聖職総数が18人だとすると、一人の候補者に対して7人の聖職が「彼奴だけは絶対嫌だ」とすると、選ばれないということになります。九州教区などは現任の聖職は10人前後となると、4人の聖職が反対したら教区会では選ばれないということになります。ですから、現実的には聖職がドングリの背比べの状態では、不発が普通です。だから、教区の現状を知らない人たちで、聖職個人があまり知られていない全国レベルでの選挙で選ばれるのがだんだん普通になりつつあります。


文屋 善明
11月24日 14:10 ·

私が「聖公会における説教」などというテーマで何かを語れば、余所者が何を言うのかというように批判されるのがオチであるので、ここで私の尊敬する八代崇主教の「聖公会における説教」という論文を紹介する。これは1996年に『説教者のための聖書講解』に発表されたもので、この雑誌そのものもあまり聖公会の聖職信徒には読まれていなし、かなり古いものではあるが(古い祈祷書の準拠している)が、今も再読すべき重要な論文である。また、聖公会だけでなく広く読まれるべき内容であると、私は思っている。

八代崇『聖公会における説教』 - ぶんやさんち

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35 佐藤 静代さん、北村 良輔さん、他33人
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コメント

文屋 善明 もちろん、これを紹介しているのは、現在の聖公会の聖職たちの説教への批判があるからです。あれで、説教かい。と言うより、礼拝における説教という行為の意味がわかっていないのではないか、という疑問です。まるでパネル・ディスカッションのように、一つの聖餐式の中で、3人の司祭の「リレー説教」だとか。落語の三題話と間違っているのではないだろうか。

Mizota Michael Satoshi 聖公会くらいのレベルの低い説教がちょうどいいですよ。プロテスタントの説教聞いてましたけど、長く聞く気にはならなかったです。

文屋 善明 確かに、気楽なのは気楽ですよね。居眠りには丁度いい。ただ居眠りのためなら、もう少し長い方がいい。

Mizota Michael Satoshi 教会は眠りに行くんじゃないですからねえ。それなら通わない、という選択もありうるから、プロテスタントみたいに出席強要・監視社会でないって意味でも「聖公会は楽」ですよね。


文屋 善明
11月24日 15:25 ·

今日の「折々のことば」。すべての事柄には始まりがあり、経過があり、終わりがある、と誰でも思っている。で、その「終わり」とは何でしょうね。終わったと思っていたら、「終わり、その後」があり、「続編」があり、そうこうするうちに「歴史化」が始まり、解釈が始まる。実は、一旦何かが始まったら「終わり」はない。わかっているのは、今、その時の現状であり、それをプロセスと見るか終わりと見るかは、その人の決断の問題であるということだと思う。現状が悪ければ「まだ終わりではない」と判断し、今の状況が良ければ、「終わりよければすべて良し」と思う。

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32 Nozomi Moriwakeさん、藤木 冨士子さん、他30人
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