やっぱり幸せ♪

日常の色んなこと、特に発達障害を持つ息子との素晴らしき日々を綴っていきたいと思います。

父のそれから・・・1

2015年05月20日 | 高次脳機能障害の父と・・・

私の父は、大腸癌の手術のために、約40日間入院しました。

無事、退院を喜んだのも束の間、4日後に高熱を出して、意識が混濁状態になりました。

救急車で病院に搬送され、医師からは「ヘルペス脳炎を発症し、危険な状態なので、急いで家族を呼び寄せるように」と、言われました。

それから10日後、父は、意識を取り戻したものの、高次脳機能障害を持つようになりました。

 

目を覚ました父は、私が、「本当に父なのか?」と、疑うほど変わり果てていました。

父は、記憶をなくし、私のことが分かりません。

点滴を抜いたり、暴れたり、また、大腸癌の手術で取り付けられた人工肛門を理解できず、外そうとして汚物まみれになってしまい、病院からも出来るだけ付き添ってほしいと言われました。

母はくも膜下出血によりすでに亡くなっていたので、ほぼ毎日、私が父に付き添うことになりました。

  

約1ヶ月半後に、父は回復期病院へと転院し、そこでは、日曜日を除く毎日、作業療法士・理学療法士・言語聴覚士による訓練を受けることになりました。

 

この病院でも、病室を間違えて他人のロッカーを開けたり、病院の中で迷子になったり、さらに病院の外に出て行方不明になり大騒ぎになるなどトラブルが続きました。

父は、腕にセンサー付きのリストをはめていましたが、病室の前にも、外に出ると分かるようにセンサーの入ったマットを敷いてもらいました。

 

脳が混乱しているのか、真夜中に、ひっきりなしに私の携帯が鳴り、

「今、空港のホテルや」とか、「パスポートが見当たれへん」とか、

「今、外国で足止めされてるから、会社に連絡してくれ」などと、何度も電話がかかってきました。

 

父は、記憶障害により、20年ぐらいの記憶がごっそりなくなっていて、さらに、新しいことを記憶することも困難になっていました。

そのため、すでに定年で退職しているのに、会社に出勤しようとするのです。

 

それでも、訓練のおかげか、日が経つほどに落ち着いた生活が送れるようになり、3ヶ月を過ぎた頃から、父の退院後の生活を考え悩む日が続きました。

 

父は、自分の病状を把握しているとは思えず、毎日のように自宅に帰りたがっていました。

私の家での同居も考えましたが、脳炎を患ってからの父は極端に疲れやすくなっており、片時もじっとしていられない息子と一緒にいると、30分も経たないうちにぐったりとしてしまいます。

また、息子と父と二人同時に何かがあった場合、私には対処できるかも心配でした。

何より、父が望んでいるのは、自分の家での生活でした。

 

いくつかの老人ホームを見学しましたが、62歳とまだ若く、病人とはいえ、若い頃はロードサイクルやトライアスロンをしていた父は、あまりに元気すぎて、とてもそこに馴染めるようには思えませんでした。

グループホームも、人と関わることが困難になっている上、ストーマ(人工肛門)の管理は、看護士にお願いしないといけないらしく、難しいと思いました。

 

結局、4ヶ月の回復期訓練の後、いずれは自分の家で生活することを目標にして、早く家に帰りたがる父を「訓練」だと説得し、高齢者サービス付きの賃貸住宅に入居してもらうことになりました。

 

脳炎により危篤状態となってからは、実に半年ぶり、ようやく病院から一歩を踏み出すことができました。

 

10日間の生死の闘いを乗り越えて、目を覚ましてくれた父、

「俺の頭はおかしくなってしまった!」と嘆いていた父、

父でないような父に戸惑いながらも、あの時、私は心に誓いました。

 

 「生きてて良かった」

いつか、必ず父にそう思わせてみせる!!


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