For English, check ABOUT ME below the CATOGORY on the right.
やじゅんのページ/The World according to YAJUN



先週、スクロヴァチェフスキ/読売日本交響楽団の演奏に行きました。スクロヴァチェフスキの指揮を見るのは2年ぶりくらいです。
元々はこれが常任退任演奏会となるはずだったのですが、1年任期が延長されたそうです。

演目は以下のとおりです。

チャイコフスキー:弦楽セレナーデ
ストラヴィンスキー:管楽器のための交響曲
ブラームス:交響曲第4番

どの演奏も非常に良かったです。あっという間の2時間でした。

チャイコフスキーの弦楽セレナーデは、私のもっているCD(Cデイヴィス/バイエルン放送(86年))と比べると主題が結構スピーディーな感じがしましたが、緊張感と優雅さのある素晴らしい演奏でした。哀感に満ちた美しさが大好きな曲です。

ストラヴィンスキーの管楽器のための交響曲は、私には高度過ぎるのか元々ちょっと苦手な曲なのですが、複雑なリズムも含め結構面白く聴けました。
これはデュトワ/モントリオール響(84年)のCDを聴いてます。モントリオール響が精度を高めていく絶好調時の録音ですね。

最後はブラームスの交響曲第4番。気品と重厚さがあって素晴らしかったです。
CDは今回のスクロヴァチェフスキも含め9枚もってます。
たまたま最初に聴いたのがワルター/コロンビア(59年)でこれがなんとなく自分の中でスタンダードになってますが、Cクライバー/ウィーン・フィル(伝説的名演)、ヴァント/北ドイツ放送、ザンデルリンク/ベルリン・フィル、バーンスタイン/ウィーン・フィルも良いですね。この曲には思い入れがあるのでもっと他のも聴いてみたいと思ってます。

ところで先週テレビでギエムのボレロを見ました。2月初めに五反田でやってたやつです。
ギエムは毎年のように日本に来ていて、そのたびしょうもない事情で見逃しているのですが、今回のは特にテレビで見て、生で見たかったと痛感しました。 一人の人間がここまでできるものか、というか、人間ってなに?みたいな、何というか、言葉を失います。

ブラームスもボレロもそうですが、言葉で表現できない抽象的な美は哲学的、思弁的で、人間、自然といった根源的、前提的なことを考えさせます。
だからなのか、哲学者や思想家は優れた音楽(芸術)批評家であったりしますよね。前にも書いたとおりニーチェもそうでした。カントは『判断力批判』で美の体系的分析をしています。
ストラヴィンスキーの管楽器のための交響曲はドビュッシーの追悼のために書かれたものですが、そのドビュッシーの評論をジャンケレヴィッチという哲学者が書いてます。私は音楽というより哲学の縁でこの本を知ったのですが、かなり難解で理解困難な部分が多かったものの、個性的で印象深いものでした。
こういった具体的な評論では、アドルノ、小林秀雄、丸山真男の評論が、当人たちの強烈な思い入れと思想との絡みが刺激的で面白かったおぼえがあります。

それにしてもWBCは好試合が連発ですごかったですね。色んな意味で日本の強さを感じました。スポーツも理屈を超えて人の心をゆさぶる、ある種の美だと思います。私もなんか元気をもらいました。しかし、加藤コミッショナーもビールかけにまで参加して楽しそうでしたね。今までのどの仕事よりうれしかったかもしれないなあ(笑)。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




(その1)の続きです。

カント以降、認識をめぐる議論は新たなステージに突入します。
一つの大きな発想の転換は議論の対象を事物や観念ではなく言語としたことです(「言語論的転回」(「linguistic turn」:ローティによる表現)。この手法をとったのがフレーゲ、ラッセルらとその後の分析哲学者です(フッサールとソシュールもこの文脈に含めて整理する考えもあります)。このアプローチはウィトゲンシュタインの「論理空間」という概念による世界記述に結実したところで一つの区切りをなします(ただしウィトゲンシュタインは後になってポストモダン的な方向に考え方を切り替えます)。

これとは別のあらたな発想は、理性を前提にした近代の議論そのものを考え直すことです。それを意識的にやったのがポストモダンですが、実はすでに19世紀にニーチェがそれに近いことをやってました。彼は認識論に対して従来の人たちとちょっと違う角度で切り込んできます。この人は非常に色んなことを言っていて、それをどう解釈するかで大変な争いがありますが、根本にある思想は「力への意志」という概念です。この考えを認識論の議論にあてはめると人間を含む万物には力を求める本能的な意志がある、だから認識もその本能を前提になされるということになります。そうすると経験(理性を有する自律した個人が得る「経験」)から得られる事実もすべては解釈に過ぎないことになるため、今までの議論はすべて再構成を迫られるわけです。

(余談ですがニーチェは若い人に(哲学に興味のない人にも)人気があります。それは彼の文学作品のようなスタイル(アフォリズム形式とも言われます)によるところも大きいと思います。もともとワグナー評論に見られるようにニーチェは独特のロマン主義的美学をもっていました。この人の著述形式はカントの徹底的なまでに体系化された文章やラッセルの無駄をそぎ落とした峻厳な文章とはある意味対照的です。理論や体系ではなくいわば「詩」によってその人の想像力を刺激し、惹きつけている面もあると思います。)

こういうニーチェの思想は、色んな理由があって、生前は相手にされませんでした。しかもその後ナチズムに影響を与えたとされ危険な思想ともみなされました。しかし彼の思想はハイデガーらにより再解釈され、さらに半世紀以上たってからフーコー、ドゥルーズらポストモダンの思想家に評価されます。その反近代・反理性の考え方が共感され、彼らの思想の一つの源流として再解釈されたわけですね。

さらにいうと、ルソーも、一般的には西欧近代を代表する知性と考えられていますが、実は文明による人間の退行、自然回帰というこの当時ではめずらしい反近代的・反西欧文明的性格を備えた思想をもった人でした。これも構造主義の思想家に再評価されます。ちなみにこういう思想を『エミール』という本に書いたルソーは危険人物とみなされ逮捕状を出され、亡命を余儀なくされます。

ところで古典というとプラトン、アリストテレスを思い浮かべる人も多いと思います。実際この古代ギリシャの思想はいまなお色々な人に影響を与えています。上記のニーチェもプラトンに大きな影響を受けています。
プラトンとアリストテレスと聞いて、漠然と古代ポリス的民主主義、共通善としての徳というものを思い浮かべる人も多いと思いますが、実は両者は全然違う文脈で影響を与えているのですね。
プラトンの思想には実は全体主義との親和性があります。その部分がニーチェに共感をおぼえさせ、戦間期のドイツの思想家(その一人が古典文献学者としてのニーチェの未来を閉ざしたヴィラモーヴィッツ)に影響を与え、一部の自由主義者からは危険な思想と見なされました。一方アリストテレスはアーレントのような共和主義的自由を真の自由と考える人たちから評価され、上記のプラトンを支持した全体主義的な思想家からは批判されています。

■ 佐々木毅 『プラトンの呪縛』
こちらは、そういったテーマを、おそろしく濃密な内容で描いた本です。

自由とは何なのかという問題を考えるときこういう古典は今なお色んな示唆を与えます。

こんな風に、あとから発見されてあらたな意味を付与されて復活される思想、よむたびに発見がある本というのは面白いものだと思います。そういう厚みのある思索を内容とするものが古典であり、今なお人を惹きつける魅力がそこにあるのではないかと思います。

私自身がグっとくる体験をしたのは(何度も書いてますが)トクヴィルの『アメリカの民主政治』という本です。米国に住んでいた当時、何かがひらめいたりもやもやした問いがあって自分なりに答えを考えていたときこの本を読んだらかなり驚きました。自分の考えたプロセスや答えがほぼそのまま書いてあったからです。150年以上も前のちょっと米国を旅行しただけのフランス人が書いた本なんですけども。

思った以上に長くなりましたが、ものすごくおおざっぱな説明なので、正確さを欠くことはお許し下さい。しょせん素人の与太話、趣旨をくんでいただければと思います。

ここまで読んで下さった人は、何をこいつはこんなどうでもいいことを書いているのかと思われたかもしれません。そう言われるとそうですよね、と実は私も思ったりします(笑)。ただ、なぜどうでもいいのか、何がどうでもいいのか、書いているうちにちょっと考えたら、なにがしか着想がわいてきました(←懲りない)。気力と時間があったら書いてみたいと思います。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 1 )




昨日はイギリス人の法学者の方から「新自由主義」について話を聞く機会がありました。

「新自由主義」と聞いて多くの人がイメージするのは、思想としてのリバタリアニズム(もしくはハイエクの思想)、政策としてのサッチャー、レーガンに代表される80年代からの規制緩和、減税等の経済政策ですよね。
ただ「neo-liberalism」というと、少なくとも米国になじんだ者には逆に大きな政府を連想させたり、クリントン政権を思い出したりするように、特有の意味を感じさせます。それに、ネオコンもそうですが、「ネオ」という言葉にはネガティブなインプリケーションがあって、本人たちが名乗るよりは他の人たちからの呼称であったりもします。
でもこの法学者の方も(イギリス人ということもあるのかもしれませんが)特に留保なく一般に通じる意味で使っていました。どちらかといえばジャーナリスティクな表現なんでしょうね。

最近憲法を勉強しているのですが、その寄り道で息抜きがてら昔読んだ法哲学、法思想史、政治思想などの古典を再読してます。単なる趣味の域を出ませんがたまには「自由」「正義」「人権」といった抽象的な概念について思いをめぐらせるのも面白いものです。そんなこともあって新自由主義という言葉にもまた格別の印象を受けました。

ところでずっと昔、「読書論」という記事で、古典を読むと色んな発見があって面白いみたいなことを書いたことがありました。これについて最近もっと具体的に書けという指摘をいただきました。そこでこの機会に、哲学、具体的にはニーチェ、ルソー、プラトンを題材にして、ちょっと与太話を書いてみることにします。素人には荷が重い題材ですが、自分自身の頭の整理もかねて手短に(これが難しいところですが)やってみます。

・・・

近代哲学において最も重要な地位を占めたテーマは認識論(epistemology)と言われます。
一口に説明するのが難しいテーマですが、元々は我々が見ているものは何なのか、それは単なるその人だけが抱いているイメージなのか、それとも真実の一側面なのか(さらにつきつめると我々が知り得るもの(=知識)とは何なのか)という議論です。

この議論は経験論と合理論という対立に収斂します。
おおざっぱに言えば、前者は経験に先立つ何か(真理)はないとし、後者はあるとする考え方です。これは哲学を学んだことのある人にとっては初歩的な話ですが、おそらく多くの人が想像するよりもずっと深く、いまなお思索を深めるのに値する味のある議論です。
この議論には近代の思想のエッセンスが詰まっています。
それは決定論と自由意志という、認識論の枠を超えて宗教や自然科学を巻き込む壮大な議論の基礎にもなりますし、政治思想においては(欧州思想型)保守主義と(社会工学的)リベラリズムの淵源にもなります。丸山真男によれば大陸型法治主義とイギリス型法の支配という統治システムの違いにもつながるとされます。

このテーマをめぐる、デカルト以降のイギリス系と大陸系の学者の間の100年戦争(実際はもっと長いですが)のような知性のぶつかり合いが近代哲学のクライマックスの一つといえます。その中でも大きなポイントはヒュームによる因果律の破壊とカントによる両論の総合(の試み)です。

(長くなってしまったので(前置きのせいですが・・・)本題は次回に回します。)

(雑記)ぐっちーさんのリンクテロ攻撃でアクセス数がまた4桁になりました。最近300~400くらいに落ち着いてほっとしてたのに・・・(笑)。イケメンに関してはつつしんで真に受けます。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日はぐっちーさんやはまちゃんたちと東京ドームでWBCの日本・中国戦を観戦してきました。

試合は当然のことながら日本の横綱相撲でしたが、内容はちょっと・・・でしたね。投手はよかったですが(みんな球が走ってましたね)、このくらいの相手(かなりお粗末なプレーでした)ならコールドゲームやるくらいの勢いが欲しかったです。なんとなく今後に不安が残りましたね。でも相手が強ければかえって実力が発揮されるものかもしれません。

まあ試合の内容は報道に任せるとして、面白かったのは開会セレモニーで中国の国歌を在日米軍の軍楽隊がやっていたこと。それと王さんが始球式をやってましたがなかなか鋭い球を投げ込んでいたことですね。

あと皇太子ご夫妻も観戦に来られてました。WBCは3年前にも日韓戦をドームで見ましたが、このときも見えてました。結構野球お好きなんでしょうか。

・・・

これで終わってしまうのもなんなので、せっかくの機会、最近の米国の政治等についてちょっとだけ雑感を書きます。

だいぶタイミングを外してますが、オバマ大統領、議会演説も堅実な内容で、依然としてそつのない政権運営をしているように見えますね。バブル人気とかポピュリストとか言われてますが、私もどっちかというと国民的人気のある政治家には不信感をおぼえるタイプなんですけど、よくここまでミスらしいミスもなく、高い期待を裏切らないものだと感心します。

魅力ある人物ならその人を失敗させたくないと思うものでしょう。特に危機の中で優れたリーダーを必要とするのは国民全体の願いですからなおさらのことです。そういう意味では高い期待にこたえないといけないプレッシャーもある一方で、サポートもあるのだから、致命的な失敗を犯さなければ、事態が好転するまで何とか耐える、という考え方もあり得ると思います。

それは日米両方に言えることなんですが、米国に引きかえ、我が国の総理はやらなくてもいい失点が多すぎますよね。得点は期待しないがミスだけはしない、それが実は簡単なようで難しいことなのかなと、安倍、福田、麻生の3総理を見ていると、気づかされたりします。古いタイプの自民党の政治家というと、調整能力だけで本当の意味でのリーダーシップがないとかネガティブな意味でよく言われますが、今の新しい政治家は調整能力すらないのかという印象を受けますよね。あとから振り返ると評価が高まった故小渕総理を思い出したりします(高評価については就任中に亡くなったということもある程度影響しているのでしょうが)。

雑談になりますが、財務長官のガイトナーさん、この人はほとんど財務省しかキャリアのない生粋の官僚なんですよね。公務員の地位が低いと言われる米国ですが、意外とこういうキャリア官僚が政治任用の対象となる高いクラスの官庁のポスト-時には閣僚まで含めて-をとるケースは結構あります。特に国務省は外交という、経験がものをいい、地域に関する専門知識が必要とされる仕事の性質からか、キャリア外交官がそのまま政治任用されることがかなり多いです。最近イラク大使になると報道された六者会合でおなじみのヒル氏、今のイラク大使のクロッカー氏、イラク大使から国務副長官になったネグロポンテ氏とかそうですね。民主党系で思い浮かぶのはホルブルック国連大使とか。

政治任用というと学者や民間人だけ使うように思うかもしれませんが、実際は内部の人材でかなりまかなってます。前にNSCの絡みでそのへんのことを書きました

でもガイトナー氏ほど若くして官僚からなるケースはちょっと珍しい気がしますね。(私の知る限りでは)特殊なバックグラウンドやコネクションがあったわけではないようですし(サマーズNEC委員長と上司関係だったことはあるが)、それだけこれまでの実績が今の状況とマッチしていて、その実力を買われたのでしょう。

米国の官僚の地位と評価は日本のそれとかなり異なります。基本的には社会的評価は高くありません。ただ国務省、財務省、OMB(行政管理予算局)、CIAなどのように、例外的ですが、若くて優秀な人材を惹きつける官庁もあります。待遇も、少なくとも国務省について言えばかなりいいです。でも日本のような猛烈な官僚バッシングはあまり聞かないですね。なんでですかね。あまり深く考えたことがないのですが、中途採用が多いのと、そんなことよりももっと深刻な社会格差があることが一つの原因なのかなと思ったりします。

現代における日本の官僚の地位等についてはちょっと思うところがあるので近いうちに書いてみたいと思います。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )