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やじゅんのページ/The World according to YAJUN



<先に「その1」「その2」をお読み下さい。>

前回は、日本が民主国家であるという理由で米国が無条件に味方になってくれるという見方はナイーブすぎる、日本としては、価値観の重視を含めて、あくまで自国の利益にとって何がプラスになるかという現実主義的な思考が重要である、といった趣旨のことを述べました。

くどいようですが、日米関係は日本の外交にとって間違いなく最重要のイシューです(いや、本当にくどいな~(笑))。日米同盟から得るものは日本の平和と繁栄にとって不可欠のものであり、この二国間関係を固めるだけで日本の外交の6~7割は決まるといって過言ではないでしょう。しかし、日米関係だけを維持すれば日本の外交問題が全て解決するというものではありません。日本の目的は日本の利益の最大化であり、米国との協力も世界全体の平和もそのための手段です。その目的追求のためには中国や韓国といった国々とどう付き合うかも真剣に考えざるを得ないし、それはアジアの大国としての役割を国際社会から期待されている日本が果たすべき責任でもあると思います。これらの国々との関係をしっかりしたものにすることが米国や他の国々との望ましい関係につながる面もあると思います。そのやり方は色々ありますから、局面によっては中国を一種の競争相手と見なして、その力を意図的に下げるのも一つの考え方ではあるでしょう。

ただ、欧米人と日本人は親近感があるとか、同じ思想に立脚した日米の友情は不滅といった文化論的・観念的な親和性を強調することには、ちょっと違和感というか、不安をおぼえるときがあります。そうであれば良いと個人的には思いますが、本当にそうなのか、その思いが一方的なものでなければ良いのだが、そんな風に思ってしまうのです。「日本人と米国人と中国人」「米国におけるエスニシティ」でも少し述べましたが、米国はあらゆる人々を受け入れる移民の国であると同時に、多様なバックグラウンドを吸収ではなく多文化主義として「並存」させている国です。そこにいると、自分のエスニシティ(=バックグラウンドの一部)が「アジア」であることを否応なく認識させられます。

そして、「米国における日本の存在感」「日本のことを米国に伝えることの大切さ」で述べたように、米国にとって日本は大事な存在であるとはいえ、重要なパートナー群の一つに過ぎず、他のパートナーと比較して特別に重視されている国とまで言うことは、私には正直言ってためらわれます。米国がどのような存在か、彼らから見る世界がどのようなものかを考えれば、特別な親近感を抱くことは、ちょっと一方的な、ある意味楽観的で都合の良い見方のような気がするのです。だからこそ米国との関係が、言葉のみならず実利の一致の追求をともなった不断の努力なしに続くものではないことを、何よりも米国との関係を重視すべき日本は、むしろ忘れるべきではないと思います。米国が日本を無視できない、否応なく日本に頼らざるを得ない、そうした状況を作り出すことで、言い換えれば実利的な見地から日本が主体的に米国を巻き込んでいくことで、そのパートナーシップを強めていく、そんなスタンスが重要な気がします。

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かつては、言論界には「左翼」的な風潮が主流を占め、「日米関係は重要だ」と声高に唱える人が眉をひそめられるような空気があったのではないかと思います。その中で日米関係の重要さを訴えてきた人の判断力や勇気に私は敬意を表します。私がこれまで米国の正確な姿を伝え、特に肯定的な側面を強調しようとしてきたのも、おそらくそうした風潮が今なお日本には根強いという前提で、それが非武装中立論や自主防衛論という形で、米国を排除する方向に日本を向かわせる力があるように思ったからです(イラク戦争によって嫌米感情が強まっているという懸念もありました)。

しかし、昨年の4月に日本に帰ってきて、こうした伝統的な反米論が後退し、日米関係や自衛隊の重要性がしっかり認識された現実主義的な考えが主流になってきたことを強く感じました。おそらく、これからの日本における議論は、日米同盟や現実的な安全保障の考え方を前提とした上で、その中でどのような道を選択するのかという点に論争が集中していくのではないかと思います。それ自体は非常に合理的で自然なことであり、望ましいことだと思います。

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ただ、その流れの中で、私が漠然と思うのは、こうした昨今の現実主義の高まりが、日米の協力関係を打算ではなく友情や信念に基づくものであると頭から思いこんだり、米国その他の「パートナー」との関係を重視するあまり、それ以外との国との関係を対決姿勢をあえて求める単純な見方が存在するのではないかということです。同盟国との「友情」や非同盟国に対する「毅然とした対応」が自己の利益の最大化につながる戦略から生まれるものであれば良いですが、それ自体が目標となるのは個人的にはどうかと思うときがあります。

アジアとの関係について言えば、かつての北朝鮮賛美のように、思想的な偏向や印象操作によって、奇妙なアジア主義や感情的な友好論が唱えられてきたことは事実と思います。アジアの同朋意識や「日中友好」といった感情的・文化論的な愛着を強調し、政策に反映させるのはおかしいと思いますが、逆に同様に感情的・文化論的な理由で排除に向かうのもどうかと思いますし、同時に、感情的な親米論が先行し、国家の政策にも影響するようになるのも、ちょっと違うような気がします。この問題は、観念論的にゼロかオールかで割り切れるものではないと思います。

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これまで米国の良いイメージを強調してきた私が言うのもなんですが、米国もユートピアではありません。自明のことだと思いますが、どうしようもないところも沢山あります。私はどちらかと言えば、伝統や権威に対する敬意が強く、カウンターカルチャーやためにするかような体制批判に対する懐疑や抵抗感の強い人間です。しかし、だからといって米国の共和党やブッシュ政権のやり方が全て正しいとはまったく思いませんし、それに対する批判や反省にも理があり、また価値のあることだと思っています。個人的には、「何が正しい」とは一口に言えない、多様な思想が混在する複雑な姿こそが米国の魅力であり、好きな理由でもあります。余談ではありますが、中国も異様な国であることはよく分かりながらも、そのどうしようもないカオスも含め、面白い国だと思います。

しかし、個人的な好悪の感情と国としての対応は、当然のことながら区別しなければならないものです。米国人のアバウトな感覚が合わないと思うのは自由ですが、日本は米国と大切なパートナーとして付き合うべきですし、中国の文明の面白さに惹かれても、中国が日本にとって脅威となる現実から目をそむけるわけにはいきません。主権国家として望ましい行動をとるためには、毅然とした態度とか道義性といった美学や精神性よりも、泥臭くても地に足が着いた、冷徹で乾いた打算を忘れるべきではないと思います。そうした現実主義・機能主義・唯名論的な思考(「外交政策の考え方に関する雑感」も参照下さい)があってこそ、米軍再編にせよBSEにせよ拉致にせよ国連改革にせよ東アジアの地域協力にせよ、日米が連携すべき具体的な問題に対して有効なアプローチをとることができ、それが真の日米同盟の実体化につながるのだろうと思います。

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今日は暑かったですね。洗濯物を干すのが気持ちよかったです。軽くテニスしただけでえらく日焼けしました。夜は久しぶりにカレーを作ってみました。一回作ると冷凍なんかして3食ぐらい持つのが不精者にはぴったりです。

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<先に「その1」をお読み下さい。>

前回は、日米関係があたかも自明のものであって、米国に気を遣う必要はないとする主張に対する疑問について述べました。

一方で、昨今はこれとは逆に、むしろ、「日本と米国は同じ価値観を共有するパートナーである。価値観を共有しない国が結束することは当然である。共有しない国に対しては常に協働して対抗するものである」とする論調が強まってきているような気がします。

これまで「嫌米?親米?」などの記事で述べてきた通り、米国は日本にとって最重要の国であり、かけがえのないパートナーであるべき国だろうと私は思っています。個人的にも米国は好きな国です。しかし、だからと言って、日本が米国と運命共同体であることを所与のものとしたり、あるいは日本人と米国人の間には特別な友情があって、日米の友情はゆるぎないと考えることには、そうなのだろうか、そう考えて良いのだろうか、という違和感をおぼえます。それは、さきほどの「米国は(約束があるし、日本が大事だから)日本を裏切らない」という考えと案外通じるような、一種の楽観主義のような感じがするのです。

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前回にも述べたように、同盟とか協力関係というものは、究極的にはお互いの利益が一致という一点において担保されるものと思います。友達だから、友情が大切だからというナイーブな感情も、もちろんそれはそれで確かに認められるのですが(最近では「米国の普遍性と特殊性」で触れたように、ウィルソン主義やネオコンのような一種のイデオロギーへの傾倒が米国の外交の一側面であることは事実です)、基本的には主権国家の行動が国益に基づくものである現実から離れるわけにはいきません。

具体的な例を挙げてみます。「米軍再編と普天間基地移設」で少し書きましたが、日米間で長きにわたって議論されてきた在日米軍の基地と構成の変更の問題は、米国からすれば、冷戦時代の軍事態勢を抜本的に見直し、新しい国際環境に順応させることがそもそもの出発点でした。一方で、日本からすれば、米国の新しい安全保障政策にパートナーとして協力すると同時に、あるいはそれ以上に、自衛に適切な環境を整えること、また沖縄の負担軽減など国内事情を改善することが非常に重要でした。

両者の利益は必ずしも相反するものではなく、お互いを補完し合う、プラスサムになる形はあります。例えば、米国は「米軍を歓迎しないところよりも歓迎するところに優先的に基地を置くようにする」という方針を明らかにしましたが、日本にしてみれば、沖縄に過大な負担がかかり、住民感情の悪化が基地の能力の低下につながることを懸念していたのであり、それは日本にとっても渡りに船の話であったわけです。こうした日米の利益の一致は、以前から専門家や実務者の間では分かっていたことなのでしょうが、それが望ましいことだと分かっていても、いざ開始するとなると様々な問題に波及し、膨大なリスクや事務負担が予想されることから前進しなかったのだろうと思います。それが今回米国がトランスフォーメーションという戦略的にも国内的にも説明がしやすい大きな視点から、基地と兵力構成の変革に取り組む決断をしたことで、事態が動き出したのは、両国にとって貴重な機会が提供されたと見ることもできます。

ただ、日米それぞれが最も利益を最大化できる状況がまったく重なるとは限らないわけです。例えば日米間で合意された米陸軍司令部の座間への移転は、純粋に日本の国防という視点からすれば大きな意味はなく、米軍の「不安定な弧」を中心とする地域に展開するための拠点作りを見据えたものと見られます(どのような経緯からこの案が出されたのかは交渉に関わる話なので何とも言えませんし、また陸の連携を強化するという広い意味ではもちろん日本にとってもプラスではあるのですが)。一方、空軍司令部を日本からグアムに引っ込めると言われた米国の当初のパッケージ案は、日本の国防に深く関わるものであり、空自の反対もあって実現に至らなかったと言われています(久江雅彦『米軍再編』参照)。日本の防衛が米国にとっても重要であることは間違いない事実ですが、そうは言っても、実際に何かが起こったときにどこまでの被害が許容できるかについて、日本の考えと一致するとは限らないと思います。これは日本の防衛を完全に人任せにすることはできず、自らの主体的な思考も求められるという、当たり前でありながらこれまで自覚されることの少なかった現実の裏返しでもあります。

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同盟の維持の核が利益の一致にあるという現実は重いです。自由と民主主義という価値観の共有が果たす役割は大きいとは言え、それが同盟の担保のすべてと考えることはできないと思います。「外交政策における合理性と価値観」「自由と民主主義の価値観と世界」で、冷戦後の世界においては自由と民主主義の価値観が普遍的なものと認められ、各国の外交を決定づける大きな因子となっていると述べましたが、それは理念的・道義的観点からだけではなく、そうした価値観を重視することが結局はその国にとって利益に適うという現実的な観点から来るところも大きいかと思います。例えばアイゼンハウアーの時代から重きを置かれ、レーガンの時代まで続いた反政府勢力によるクーデターの支援や秘密工作のようなやり方は、現代においてはコストとリスクが高すぎて割に合わず、また、民主主義国との政治的に安定した関係や経済的相互依存こそが自国の利益にも適うということが自覚されるようになったのではないかと思います。

こうした考えに立って、少し見る角度を変えれば、非民主国家との間でもその国が満足できる利益を収穫できるのであれば、何も「オール・オア・ナッシング」の思考で単純に排除する必要はないし、適切とも思えないわけです。例えば「日米同盟とアジア外交」で述べましたが、米国は中国を敵として扱っているわけではないと私は思います。非民主国家だから信頼関係や協力には限界はあるが、役立つ存在であれば活用するし、収穫を得るために許容できる範囲のリスクなら見逃す。多少のブレはあっても、そうした現実主義的・機会主義的なスタンスが基調をなしていると思います。

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日本が民主国家であるという理由で米国が無条件に味方になってくれるという見方はナイーブすぎると思いますし(もちろんインドに対する米国の姿勢に現れているように、それは一定程度の真実ではあるのですが)、日本としても、価値観の重視を含めて、あくまで自国の利益にとって何がプラスになるかという現実主義的な思考が重要と思います。非民主国家の中にも、北朝鮮のような独裁体制から中国のような集団指導体制もありますし、情報のオープンさなども異なりますから、これらを一義的に取り扱うことはできず、それぞれの現実に応じた細かい対応が必要ではないかと思います(「外交と予見可能性」も参照下さい)。また、次回述べますが、そうした冷徹な計算こそが、日米の関係を本当の意味で強固なものとできる要素なのではないかと思います。

<なんか、うまくまとまるのか怪しくなってきましたが(笑)、一応、次回で最後の予定です。>

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軽い話が続いていましたが、今回はちょっとまじめな話をします。ちゃらんぽらんなブログですが、たまには重い話もしてみようということで(笑)お付き合いいただければ幸いです。

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以前「日米同盟の維持」でも少し述べましたが、巷では、「日米同盟は米国の利益に適うから存在しているのであって、日本が同盟の維持のために米国に気をつかう必要はない」といった意見を耳にすることがあるように思います。こうした意見は、最近はずいぶん状況が変わってきたような気もしますが、いまだに根強く残っている気がします。前回の記事とやや重複する部分もありますが、この点について思うところをあらためて述べてみたいと思います。

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まず、「同盟」という形式的な合意があれば安心、という考えに落とし穴があることを忘れてはならないと思います。国際約束は国内社会における契約と類似のものとして扱われますが、一元的な法の執行機関が存在しない国際社会においては、ごく一部の例外(強行法規など)はあるとは言え、当然のことながらその合意の実行は当事国の意思にかかっています。同盟を支えるのは、合意文書などではなく、お互いの利益が一致するという現実と連帯感という実質的な要素であることは忘れてはいけません。

そして、この利益というのは、これも当たり前のことなのですが、国それぞれによって異なるものであり、完全に重なり合うことなどあり得ません。「外交と予見可能性」でも述べましたが、お互いすれ違ったりバッティングする国益をうまく整理し、可能な限りプラスサムの関係にもっていくことが外交の真髄だと私は思っています。それが不可能であれば、あらゆるチャンネルを通じて調整する、場合によっては利益を共有する他国と組んだり、国際法を使って相手が与える不利益をヘッジすることも重要です。

いくら同盟やガイドラインによって、紙の上で詳細な取り決めがあっても、この国益の調整がかみ合い、パートナーとしてやっていく強い意志がお互いになければ、現場においてその取り決めが想定しているような形で意思疎通が実現することは極めて難しいでしょう。それが安全保障や緊急事態に関わるものであれば、致命的な問題にもなり得ます。

一例を挙げれば、現在日米関係は非常に良好ですが、それは陸自のイラク派遣の際、米軍から親身に立った情報の提供をしてもらえたことにつながったという声もあります。一方、日本同様に米国と同盟を結んでいる韓国は、昨今の米韓関係の悪化を反映してか、米軍からの情報提供はなかなかスムーズにいかなかったという話もあります。

こうした言わば「同盟の空洞化」のリスクは、他人事であると言い切ることはできず、冷戦後90年代半ばまでの日米の「同盟漂流」の時期を見れば、そうした危険がなかったとは言えません。米国は日本を防衛する義務があると約束しているから、それを守るのは当然とか、米国にとって日本はなくてはならない存在だから安心だとか、そういう考えに私は不安をおぼえます。ただの文書である「同盟」を実体化させるためには、同盟国双方が同じ方向を向いて利益を共有し、連帯感を作り出すことが必要不可欠です。日本が米国をパートナーとし、自らの安全保障にとってなくてはならない存在とするのであれば、そのための努力は必要ということです。

次回から、米国にとって最良の同盟国の一つである日本が、少なくとも政府レベルにおいて、米国とどのように付き合うべきなのか、抽象的な話ではありますが、なるべく最近の事例を取り上げながら、一つの考え方を述べてみたいと思います。

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GWはいかがだったでしょうか。良い天気でしたねえ。私は日帰りで遠出した他は、テニスなどしたくらいで基本的にゆっくりしてました。家にいてもやることが多くて、時間が飛ぶように過ぎました。明日から仕事というとブルーな方も多いかと思いますが、ぼちぼちがんばりましょう。

今日は遅ればせながら、カワセミさんからいただいたお題バトン「アメリカ」をやってみます。

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■ 「本棚やPCに入っている『アメリカ』は?」
誰でも聞いたことがあるような基本的なものばかりです。なにごとにつけ大切なのはやはり基本ではないでしょうか。
その中でも特に何度も読んだのはトクヴィルの『アメリカの民主政治』。米国にしばらく住んだあとこの本を読み返したとき、「最近ふと思ったり疑問に感じたことが、こんなに古い本にすでに書かれていたとはッ!」と驚いたおぼえがあります。
小説を挙げれば『華麗なるギャツビー』。昔、米国人の先生から、「アメリカを知るにはまずこれを精読しなさい。それから(米国に限らない英語圏の思想を知るため)シェークスピアと聖書。できれば暗唱できるように。」と言われ、目先のやるべきことにとらわれていた当時の私は「フーン、そんなもんかねえ。」と鼻で無視してしまいました。あとになって後悔(笑)。

■ 「今、妄想している『アメリカ』は?」
テレビ番組。シットコムとかリアリティ・ショーとかJackassが恋しいです。スカパー!に入ったけど、米国での生の放送とはやっぱり違う・・・。そのうち日本でも米国のテレビがそのまま楽しめる時がくるのかな?

■ 「最初に出会った『アメリカ』は?」
映画です。それも、子供の頃家族で見たテレビ上映。土曜ゴールデン映画劇場とか(ドリフのあとに見る)。土曜だけは夜遅く(といっても12時前)まで起きても良く、妙な高揚感をおぼえたものです。記憶に残る限り『タワーリング・インフェルノ』が最初に見た作品だったかと思います。スティーブ・マックイーンとポール・ニューマンが子供心に「かっこいいアメリカ人」としてすり込まれました。ちなみに劇場で初めて見たのは『バンデットQ』(と『幻魔大戦』)。
小学生のとき最も印象に残ったのは『ロッキー』。カメとか生卵とか生肉とか変なところばかり記憶に残った。が、その熱さに泣いた。
中学に入って授業で見た『十二人の怒れる男』。十二人全員は怒ってなかっただろ、と心の中でツッコミを入れた。が、その熱さに震えた。
さらに、『ダーティ・ハリー』。サソリの「ボートこげよ~!」に比べれば、ハリーがそんなにダーティとは思わなかった。が、その熱さにシビれた。
映画を見て何となく形成されたイメージは、『摩天楼はバラ色に』のような80年代映画(リアルタイム)のストレートな単純さ、強さ、楽観さ(大好きです)と、『或る夜の出来事』や『我が家の楽園』といった「偉大なアメリカ」的な古典的な世界と、その真ん中の、『俺たちに明日はない』、『卒業』、『真夜中のカーボーイ』、『狼たちの午後』のような絶望感が漂いつつ不思議な渋さとユーモアが混じったニューシネマの世界、おおざっぱに言えばこの3つの混合だったような気がします。

■ 「特別な思い入れのある『アメリカ』は?」
友達かな?面白くない答えでスミマセン。

■ 「『アメリカ』への愛ゆえに一言物申す」
うーん、なんでしょうか。アンタがおかしくなったらみんなが迷惑するので、これからもしっかりして下さいというところでしょうか。

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ところでカワセミさんが指摘された日本の首相の米国議会での演説。私も同じこと考えていて、そんなことあったらいいな、すごいな~と思ってました。日本人で米国の議会でしゃべった人自体そんなにいないのではないでしょうか。私がワシントンDCにいた頃は、阿川尚之さんが上院の司法委員会で日本国憲法についての証言を行ったくらいだったかと思います。単に私が知らないだけで、例えば財界人の方などは結構やってるのでしょうか。

ちなみに、元々ちゃらんぽらんだったこのブログですが、これからますますどうでもいい感が加速すると思います。どうか暖かく見守ってあげて下さい。しかし、こんなどうでもいいブログに、私にはもったいないような価値あるコメントを寄せて下さる方々がいることは、驚きでもあり望外の喜びでもあります。しかも、その方々の中にはカワセミさんやHacheさんのように、私にしつこくせっつかれたこともあって(?)ブログを始められた方々もおられて、私なんかが何らかの影響を及ぼしたとしたら、本当に不相応というかおそろしいことだなあと驚くやら何やらです。話がまとまりませんが、これからもご指導ご鞭撻よろしくお願いいたします。

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