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やじゅんのページ/The World according to YAJUN



今日は夜に出かけてしまうので、ちょっと早いですが書いてしまいます。

タイトルは4月20日の溜池通信のタイトルのマネです。といっても、私の場合、書いていることのすべてがプライベートなんですけど(笑)。

今日は暑いですねえ。テニスをしましたが、もう短パンでもいいくらいでした。自転車をこぐだけで汗が出ます。屋外プールで泳いでいる人たちまでいましたね。連休もこの行楽日和が続くと良いですが。

先週は三日ほど、中国に行ってました。北京に行くのは8年ぶりくらいでしたが、相当変貌してましたね。「中国訪問」にも書きましたが、昔行ったときは、スタバはおろかマックを北京で見ただけで驚愕しましたから。まずくてもコーヒーを飲めるだけでほっとしたりして。あまりにもコーヒーを見かけないので、バックパッカーだった頃、インスタントの粉とコイルの湯沸かし器を携帯したものです。北京は空気が汚いとよく言われますが、そんなにひどいとは感じなかったです。むしろ昔と比べれば道が舗装されている分、砂ぼこりが減った気もします。広州よりはまだましだったような。まあ、ちょっと路地裏に入れば、北京の中心部でも昔ながらの小汚く雑然とした町並みが拝めますけどね。

中国といえば、先般の胡錦涛の初訪米。「Republic of China」と紹介されるやら法輪功やらであまりスムーズにはいかなかったようですね。ちょうどGW明けに中国人の事情通の友人に会う予定があるので、このへんのことを聞いてみようと思います。

北京ではCNNのアジア版を見ましたが、Jon Stewartが「Welcome to the U.S.! Japanese President Hu Jintao!!(日本国大統領、胡錦涛歓迎!)」などと痛烈なギャグをかましていました。こういうのは中国でも問題なく放映されるんですね。まあ、不都合な場面になるとすぐに画面が真っ暗になるそうですが。ちなみにJon Stewartはコメディアンですが、米国の世論に対して一流のニュースキャスターなみの影響力を持っていると言われます。(wikipediaによると「the most trusted name in fake news」(笑)、「若者にとってのウォルター・クロンカイト」とか。「米国TV事情:その5」も参照下さい。)米国人の多くは新聞を読まないでテレビばかり見ているという意見もあるのですが、特に彼のようなジョーク仕立てのニュースがよく見られる傾向があるようです。そういえば、視聴率トップのFOXもネットワークというか、ある意味娯楽番組です(笑)(「米国TV事情:その1」参照)。

専門的な話は例によってぐっちーさんかんべえさん(PDFファイル)にお任せですが、なかなか見えにくいけど米中の話でいつも重要になるのは、議会の動向ですね。米国は、行政府同士の約束が議会によってひっくり返されることがあるくらい議会が強い国です。政権の中にアジアのエキスパートがいて、緻密な戦略を立てても、パワーのある議員の考え方(思いつき含む)一つでブレまくることなどいくらでもあるわけです。特にアジアに関係の深い議員は限定されているので、アジアへのこだわりの強い特定の議員が政策を動かす余地は極めて大きいです(このへんの記事もご参照下さい)。付け加えれば議員のバックにいる業界の間接的な影響力も無視できません。胡錦涛のマイクロソフトやボーイングの訪問も、かつての江沢民の訪米など彷彿させますが、この手の中国の対議員・対経済人外交は、すごいというか、日本にはなかなか太刀打ちできないものがあろうかと思います。民主国家にはできないこともできてしまうこともあるでしょう。これはこれで仕方ない面もあるかと思います。いずれにしても米国の方向性というものは、ブッシュ政権や政府レベルの会談だけでなく、こうした議会やマーケットの動きも見ないとなかなか分からないのだろうと思います。しんどいことですね。

議会と言えば、拉致問題でブッシュ大統領が横田さんに会ったのはすごいことですね。大統領がわざわざ会うなんて、常識的に考えてあり得ない話です。この問題もどっちかというと議会の方が関心の強い人が多い(主に宗教保守派系)という印象だったのですが、行政府がここまで力を入れるというのは本当にすごいことだと思います。これまでのシーファー大使の積極姿勢もホワイトハウスと歩調を合わせるものだったのですね。この裏にはどういう要因があるのか、色々推測はできそうですが、興味深いです。

それと、テレビに出ることになり、先週そのための収録をしました。何の番組かは秘密ですが(笑)40分くらい司会の方とトークしました。それにしても、人に見られる形で「会話」をするというのは難しいものです。終わったときは、「あー、終わった、良かった」と思ったのですが、あとから思い返すと、「あの言い方は不適切だったんじゃないか」「あのときはむしろこう言えば良かった」「あの話をすれば良かった」「あれは言い足りなかった」「ああ・・・」と果てしなく後悔の念がわいてきました。緊張はあまりしなかったのですが、失敗が許されない一発勝負だと、言うか言うまいか迷うと言えなかったり、言うべきだった話が頭からすっぽり抜けたりするんですね。司会の方の親切な誘導もあったのにうまくのっかれず。できることならもう一度やりなおしたい~!!と思ったほどの情けなさでした。でも、たぶんテレビに出る人の多くの人がそんな風に思ってるのでしょうね。もしまた機会があればこの反省を生かせるようがんばりたいと思います。

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ちょっと前に間近でナマの杉村太蔵議員を見る機会があったのですが、思ったよりスリムで、イマドキの兄ちゃんという雰囲気がなかなかのものでした。先生のブログ、面白いですね。副会長さんが取り上げられているのを見て読み始めましたが、文体、更新頻度、内容、いずれもただものではないと思います。笑えるだけでなく、まじめに感動するときもあります。地位が人をつくった面もあるのでしょうか。政治家がご天職なのかは分かりませんが、いずれ何らかの形で大成される方かもしれません。私もこんな軽妙な文章と書きたいものだなあと思います。いや、なんかすでに言葉遣いがうつっている気もするぞ(笑)。そんなこともあり(なにが?)、今日は圧倒的にどうでもいい話をします。

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スカパーの日本映画専門チャンネルでは24時間古今の邦画作品を提供しており、VD化もされていないような掘り出し物もたまにやっていて、いい時代になったものだと思うのですが、その中でもこないだ見た『高校生無頼控』(江崎実生1972)は期待を上回る怪作でした。

原作は巨匠小池一夫の劇画です。これがまた70年代のシラケた雰囲気とヒッピーの残り香のごときサムシングが胸を打つ素晴らしい作品なので、機会があったら(どんな?)一読をおすすめします。

簡単にあらすじを言えば、主人公の高校生村木正人(通称ムラマサ)の、鹿児島から東京までの波乱に満ちた旅路を描いた一種のロードムービーです。ムラマサは薩摩示現流の達人で、基本的にガクラン、常に木刀をバッグに入れて携行するという、一見するとちょっとアブないヤツですが、実際アブないヤツです(笑)。「三流主義」など難解な言葉を駆使して相手をケムにまいたりする詐欺の才能と(哲学かぶれの世相を反映しているようにも見える)、「チェスト~」という裂帛の気合を唱えたかと思うと「なので~す」「ナンチャッテ」「XXだわぁ~」というキャラクターが変わったかのような軽妙な言葉遣い(当時の流行語が多い模様)になる、凡人の理解を超えた人物です。その不思議ちゃんぶりのためか、ケンカの強さのためか、あるいは卓越した変態テクニックのなせるわざか、なぜかムラマサの前に現れる女性は、学生から婦人警官、パツキンの姉ちゃんまで魅了され、すぐに抱かれてしまいます。

こう書くと「何が何だか分からん」と言われそうですが、私にも分かりません(笑)。一応、ムラマサが故郷の鹿児島を出て東京に向かう理由は、警察に逮捕された過激派の学生である兄・鉄人の身柄を受け取り、兄を斬る(!)ことなのですが、唯一重く一貫しているように見えるこのテーマは、映画を見ているうちに忘れられてしまうほどどうでも良い扱いになっており、ただただムラマサのトークとアクションとナンパが脈絡なく冴え渡るという展開になります(どうしてムラマサが兄を斬らないといけないのかもよく分かりません)。

この破天荒な面白さは、当時の日本映画、テレビ、音楽といったエンターテイメントの無軌道なパワーをある意味象徴しているような気がします。音楽も、ワウギターが鳴るソウルのようであり、革命を起こすロックあるいはフォークのようであり、昭和歌謡のようでもあり、特に小池一夫御大が作詞した「くらいマックス」(ここに歌詞の一部が出てました。「NOWな若者に圧倒的共感!」・・・だそうです。)と主題歌「ガクラン無宿」は一聴の価値ありです。一見硬派を思わせる主人公が、斜に構えた態度と芸人のようなユーモア、えげつない手口と奔放な性など、既成概念をぶち壊すような過激なリベラルさ(か?)を見せるのも時代の一側面でしょうか。今の時代ではちょっと放映が無理な場面もあります。70年代初頭の鹿児島、横浜、東京など日本各地の風情が楽しめるのも萌えるところです。

主演は若くして涅槃に旅立ってしまった沖雅也。その長身を生かし、「チェスト~!」と野太い声を出しながら派手なアクションをするかと思うと、突然「いいですわぁ~」とおネエ言葉になり、惜しげもなく鍛え上げた肉体をむき出しにします。劇中の半分くらいをフンドシ一丁になって女性と絡むというハイリスク・ノーリターンな役を文字通り体当たりで演じています。こんな作品でも人気が出たのか、『高校生無頼控』は第2作『高校生無頼控 突きのムラマサ』 、第3作『高校生無頼控 感じるゥ~ムラマサ』とシリーズ化しますが、2作目以降の主演は大門正明に交代し、不思議系美少年からイモっぽい硬派に激変します(そのくせケツをむき出しにしたりするのが大変見苦しい・・・ひし美ゆり子など脇役陣は充実するのですが)。しかし「感じるゥ~」ってどうなんでしょう。まともな神経の持ち主であればまず見ようとも思いませんね。いや、日本映画専門チャンネルで3作連続でやっていたもので、私は通しで見てしまったのですが。『ロストメモリーズ』では貫禄を見せた大門の若かりし日の匂ってくるような青臭さ(マリナーズ城島にちょっと似ている)もいいですが、個人的には沖・ムラマサの異様な妖しさが光る第一作が良かったです。

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それにしてもガクランに木刀っていうのはなんでこんなに人の心をくすぐるのでしょうか(私だけ?)。このコラボ自体は戦前からあったんですかね。70年代生まれの私には『激!極虎一家』や『風魔の小次郎』が原体験ですが、劇画ではこの『高校生無頼控』や本宮ひろ志あたりが元祖なのでしょうか。このスタイルは映画、劇画、ゲーム、リアルワールド、あらゆる番長・ヤンキーカルチャーに波及していくわけですが、考えてみれば実に日本的なカルチャーではありますね。『高校生無頼控』の原作者である小池一夫は、世界的に武士道(というか冥府魔道か)を知らしめた『子連れ狼』の作者でもありますが、このなンともいえない大和えッせンすのエンターテイメントへの取り込みには感服するばかりです。

昔の映画は無茶苦茶だけどパワーがあった、いや、パワーがあったのは日本であり、世界でもあったのかなあと何となく思います。80年代前半まではそんな破天荒さがあったような気がするんですけど。「ニヒった」(byムラマサ)ところのある現代っ子の私にはこの熱さがなんだかうらやましいのです。

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<先に「その1」をご覧下さい。>

前回は、国家が基本的には自分勝手な存在であることを忘れてはいけない、それを見誤ると、地に足のついていない理想主義に陥る危険がある、といった趣旨のことを述べました。

ただ、厄介なのは、国家の中にはその「自分勝手」の論理があまりに分かりにくかったり、世界の主流の常識から外れている相手だと思います。何か迷惑なことをしているが、それが何のためなのか、非合理的な行動にしか見えない場合、何をするにしても非常にやりにくいのです。

米国のような民主国家の場合、意思決定のプロセスが透明ですし、言論の自由があれば情報も豊富に入るので、何をやるにしても、その目的が少なくとも大まかには合理性から理解できます。言い換えれば予見可能性は高いです。だからといってその行動がどれほど迷惑であるかは別の問題で、『24』で言えば(またか(笑))、ジャックが家族を大切に思うのは分かるけど、そのせいで周りが迷惑することはまた別の問題なのです。しかし、大統領候補がジャックの行動の理由を知って信頼感を増したように、少なくとも何を狙っているのか分かるということは、その国家の行動を予測し、また信頼をかける上で、非常に大切です。

それに比べて、北朝鮮のような国家の場合、圧倒的に情報が足りない上、指導部の行動の指針も全て不明のため(「生き残り」が至上命題であることくらいは分かりますが)、何が起こるかすら分かりません。当然、約束事や信頼関係にあまり期待を寄せることもできません。「北朝鮮問題(その1)」では、北朝鮮がいくら邪悪な存在であろうと、誘拐犯と交渉人が奇妙な信頼関係を築いて交渉を進めるように、非常に現実的で冷静な計算が必要になると述べました。そうは言っても、相手が何を考えているか分からないと取引も難しいのは事実です。これが一番ツライところだと思います。「北朝鮮問題(その2)」で述べた通り、金正日という一人間の個性とか、誰にも分からない内部の権力関係で判断が左右されているのでしょうから、憶測に拘泥したり、日々の動きに一喜一憂することにあまり意味はありません。長期的なスパンに立った分析とやるべきことを淡々とやるという姿勢を貫く他ないのだろうと思います(もちろん情報収集能力を高めることも重要でしょう)。

中国もまた、意思決定のプロセスの不透明さと言論の自由が保障されていないところですから、自ずと行動の予見と信頼関係の構築には限界があります。しかも国政の最高決定権という意味での主権は、事実上、国民の利益を代弁する「国家」ではなく、一部のエリートの利益を代弁する「党」に独占されており、まともな国ではありません。とは言え、昨今の集団指導体制の制度化や意思決定プロセスのルール化、情報の豊富さなどを考えれば、その不透明さを北朝鮮と同一視することができないのは明らかです。靖国の問題も、どうして何の得にもならない抗議をするのかと我々からすれば思いますが、人民の感情を傷つけるという感情論ではなく、かつて日本との間で結ばれた黙契の変更によってメンツがつぶされることに対する抗議と見れば、それなりに納得のいく説明はつきます。軍拡も台湾問題などに引き付けて考えれば理由はある程度分かります。対話のチャンネルも常に開いています。そうであれば、相手がパートナーというよりライバルに近い存在ではあっても、信頼関係の上に立った取引や妥協はできます。これは北朝鮮との大きな違いだと思います。

民主国家だからと言って、その行動の全てが簡単に説明できるものではありません。韓国の靖国参拝に対する抗議も、やはりなぜ何の得にもならない抗議をしているのかと思います。これは中国と違ってナショナリズムや素直な国民感情の発露なのでしょう。それが日本にとって受け入れられるかどうかは別として、なぜそうなるのかは、韓国人や朝鮮半島の歴史などを見て理解する他ないのだと思います。例えば、韓国人が靖国神社を嫌う理由の一つは、韓国が独立する前に日本人として亡くなった兵士が祀られていることだそうです。当時日本人だったから当たり前のことですし、我々から見れば善意でやったことと思いますが、これは今の韓国人にとっては不愉快なことなのだそうです。それを知れば彼らの行動原理にまた違う理解の仕方ができるでしょう。また、韓国人の持っている日本人に対する優越感と劣等感が入り交じった複雑な感情が、民意となって外交に影響したり、あるいは政治の側がそれを利用しようとするのも否定できない側面と思います。

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「外交政策の考え方についての雑感(その2)」などで述べましたが、中国にしても韓国にしてもあるいは米国にしても、その歴史や思想の背景を通じて彼らの行動の源泉を理解することは非常に大切なことと思います。「対中封じ込め(その2)」ではケナンの「X論文」について述べましたが、彼の元の論文のタイトルは「ソビエト対外行動の源泉(The Sources of Soviet Conduct)」でした。歴史や地域研究の専門家の知見は外交を考える上で大変示唆に富みます。

ちなみに、他の国から日本がどう見えるのかというのもなかなか興味深いものです。例えばかつて米国には「日本異質論」が華やかなりし時代がありました。なぜそんなものが流行したのかと言えば、一つには日本の行動が彼らの基準に照らして理解不能に見えたからです。先に述べたように国家は自分勝手な物であるという推定は、米国のような国では自然に受け入れられているのですが(これは国連のような世界政府的機関に対する不信の裏返しでもあります)、その彼らにとって、日本の平和主義や改革に対する抵抗の強さは、不自然で不気味に感じられたわけです。これは「その1」で述べた『白い巨塔』の登場人物の考え方や行動に対する私の違和感のようなものでしょう。自分勝手であっても、『24』の主人公のようにその勝手さの理由が理解できれば、少なくとも不気味にはおそらく見えないでしょう。知日派の学者が、日本の政治風土や文化論から日本の行動を理解しようと努力した気持ちも、中国や韓国の行動原理に悩む我々には分かろうものです。

また中国にしてみれば、日本は自分の利益に関係ないのに、わざわざ中国に嫌がらせをしてくるという陰謀論めいた見方を持つこともあります。冗談で言ってるのでしょうが、李登輝のような「日本人」を台湾に送り込んで独立をあおるのも日本の陰謀という中国人もいます。ある意味日本の「謀略」に対する過大評価なのですが、日本側からすれば、中国の場当たり的な行動が統一された「戦略」のように見えるように、お互いのボタンのかけ違いもあるのではないかと思います。

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結論はありませんが、強いて言えば、国家の行動の源泉を知り、それに冷静に対処することが何より大切ということになるのでしょうか。また日本が空気の読めない変人と思われるのもろくなことではないので、理に適った行動をとり、対外的にも説明することは重要だと思います。「外交」というと、「詐術」というか、相手をわざと誤解させたり攪乱させたりすることのようなイメージがありますが、それが必要な局面の多くはミクロな部分(例えば国連やWTOなど多国間会議における交渉や評決ではそういう権謀術数も必要になることがあるでしょう)であって、基本的には当たり前のことを誠実に合理的にこなすという王道的なスタンスが求められているのだと思います。

何にせよ、『24』の次のシーズンと、『白い巨塔』の田宮二郎版テレビシリーズ(映画は見たのですが)を見るかどうか迷っているところです。勝手にせいとか「えっ、まだ見てないの?ダセエ」と厳しいツッコミを受けそうなのでこのへんで。ではまた。

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米国ドラマ『24』、よくできてますね。このドラマは私が米国にいるときにすでに大ヒットしていて、現地で断片的に見ていたのですが、通しで見たのは最近のことでした。ドラマもここまで来たかというか、映画と遜色ない、あるいはテレビならではの強みを生かして、全く別の次元で張り合うことのできる娯楽になったんだなあと、大げさですが思いました。いや、本当におおげさだ(笑)。

『24』の中に印象に残る場面があります。テロ対策捜査官である主人公ジャックは、テロリストに誘拐された家族を守るため、組織のルールに違反しながら強引な捜査を展開し、一時的ですが免職されてしまいます。そこにジャックがテロリストから守ろうとしている大統領候補(上院議員)が登場します。議員からすれば、ルール違反など無軌道に見える行動をとったジャックが信頼できません。しかしジャックは、自分の理解不能に見えた行動は全て家族が誘拐されていたためだったのだ、とごまかすことなく正直に説明します。結果、議員はジャックを許すばかりか、自らも家族との関係に悩んでいたこともあってか、主人公への信頼をかえって厚くするのです。ジャックが家族の安全も省みず淡々と仕事をこなす人であれば、「なんだこの人は?」と自分とは世界観の違う宇宙人のように感じ、かえってこれほどの信頼を寄せなかったのかもしれません。

話は飛びますが、田宮二郎主演の映画『白い巨塔』も最近になってようやく見ました。唐沢寿明のドラマの大ヒットは私が米国にいた頃であったので、フォローができたのは結構最近のことでした。どうでもいいことですが、私は唐沢寿明に似ているそうです。最近はアンジャッシュの渡部とも言われます。いや、本当にどうでもいいな(笑)。

とにかく、『白い巨塔』、非常に面白かったのですが、変な意味で興味深かったのは、私だけかもしれないですが、登場人物への感情移入が妙にしにくかったことです。主人公やその周りの人たちの権力欲とか名誉欲とか、現代人から見るとなかなか理解しがたいというか、ちょっと異様に見えるのではないでしょうか。フィクションだからと言われればそれまでですが、今の人たちの考え方と1966年当時の人々の思考と比べたらずいぶん違うのものがあるのではないかと思います。例えば、現代においては、ホリエモン的価値観が強いというか、権威とか名誉とかあるいは公的な何かに対する欲求が薄れ、物質的な欲求が支配的な感じがしますよね。学生運動とか本気で革命を目指した過激派など、考えてみれば30~40年前のことですが、なんであの頃の人たちはあんなことをしていたのだろうと思うと、今は昔の世界ですね。その背景としては価値観の多元化とか社会学的には色々考察がされそうですが、それはおいときます。

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で、何を言いたいんだと突っ込まれそうですが(笑)、今回述べたかったのは、国際関係や外交を考えるに当たって私が重要だろうと思うことは、他の国が何を考えているか分かるかどうかということです。 普通の考え方をすれば、国家は国民のために存在するものですから、国民の利益を最大化させるべく行動を決定する、言い換えれば、自分本位、身勝手に行動するということは、ある意味当たり前のことです。この前提を誤ると、「米国は自分勝手だ」と言って米国を責めたり、「世界政府や国連を尊重しない国家はけしからん」とか、リベラルや戦後平和主義論者にありがちな、ちょっとずれた言説が出てしまいます。

国家が自分勝手であること、それを認めてはじめて、ではそれぞれの国家が目指しているものは何なのか、それは共同歩調をとれば全ての国家がより多くの利益を享受できるのではないか、あるいはゼロサム的な状況が避けられないのであれば、どうすれば公正な形で折り合いをつけることができるのか、という議論が可能になるのだと思います。 こうした考え方が共有できていれば、少なくとも誤解や感情から無用に国家間の関係が悪くなることは避けられます。

もちろん、他国が自分勝手な行動を貫けば、迷惑になる可能性はあります。しかし、それが単に不愉快であると思うか、それとも相手が何を目的としてそんなことをするのかを理解できているかでは、まったく受け取り方が異なってくるわけです。それが分かった上で、自己の利益と全面的に衝突する状況であれば、これはごまかしのきかない、非常に苦しい状況になる。それでも問題点をはっきりさせれば、取引や交渉をする余地は生まれます。何よりも重要なのは、国家の自分勝手さから目を背けず、峻厳な現状認識に立った上で、自らと関係のある国々との間で、感情を排して、合理的にお互いの利益を追求できる環境を築くこと、それが外交の本質ではないかと思います。

<あんまりややこしい話はしたくないのですが、長くなったので続きは次回にまわします。>

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ご無沙汰しておりました。ここのところ身辺があわただしく更新が滞っておりましたが、ようやく落ち着いてきたのでぼちぼち再開いたします。

先週末は靖国神社に花見に行きました。天気は今ひとつでしたが、桜はきれいに見られました。外国人もそこかしこで見かけましたね。

<遅れましたが、米国におけるエスニシティ:「その1」「その2」の続きです。>

「その1」では、韓国系米国人を米国におけるエスニシティの例にとりましたが、米国には、日系、韓国系、中国系といった東アジア系以外にも、インド系、アラブ系、ヒスパニックなど様々なマイノリティの共同体が存在します。

米国に留学や駐在した人の中には、「日本人は群れる。米国人や外国人と交わらない。」という印象を抱いた人も多いかもしれません。留学生や駐在員のように一時的に住む人々には、語学の壁もあってか、そうした行動をとる傾向があるように思います。ただ、いわゆる「日系米国人」について言えば、日本の伝統やアイデンティティから意図的に距離を置いて、本流の「米国人」に同化するよう努める傾向が他のマイノリティと比較して意外と強いようでもあります。米国には、ダニエル・イノウエ、スパーク・マツナガ、マイク・ホンダ、ノーマン・ミネタなど有力な日系人政治家がいますが、彼らの多くは「日系人」の代表ではあっても、必ずしも「日本」に愛着を持っているわけではありません。むしろ過去の問題や経済摩擦に関して日本に厳しい姿勢をとる人もいます。戦前の移民排斥の対象となったことや第二次大戦の影響もあるのでしょう(日系議員の長老格であるイノウエ(スペリングは「Inouye」)議員は第二次大戦で勇敢に戦って右腕を失い、その愛国心に満ちた活躍は議会においてもしばしば讃えられます)。スタンフォード大のダニエル・オキモト教授も、少年時代に差別を受けたため、日本語をあえて勉強しなかったと語っていました。また、日系人団体はたくさんありますが、相互の連携がうまくいっておらず、お互いの仲は意外と良くないことも指摘されます。

それに比べると、韓国系米国人はまとまって伝統なり言葉なりの文化を保持する傾向があるようで、そのコミュニティも存在感があることは「その1」で述べた通りです。他の東アジア系のコミュニティ中では、数の多さもあるのでしょうが、ベトナム系も目立つような印象が個人的にはあります(国勢調査(PDF)によれば、アジアの中では、中国、フィリピン、インド、ベトナムという順になっています)。

それでも、コリア地域では英語も通じますし、外国人に対してもある程度開放的なのですが、ヒスパニックのように英語すら通じないコミュニティを作るところもあります。米国でテレビを見ると、スペイン語のみを放送するプログラムがいくつかあることに気づきますが、多様性を「受け止める」というよりは、そのまま「放置する」米国の一面を感じる瞬間でもあります。洗車場や精肉工場などに従事する肉体労働者や、低所得層が集まるエリアにヒスパニックなどのマイノリティが多いことが社会問題としてよく指摘されますが、「国の分裂」とも称される米国人同士のすれ違いや一体感の欠如とともに、これらも共同体の並存の副産物である面は否定できないでしょう。

米国は「人種のるつぼ(melting pot)」というよりは「サラダ・ボウル」であると1960年代頃から言われてきました。米国が不当な差別や偏見に満ちた国であると非難するのは、浅薄な理解で短絡的な物言いと思います。しかし、米国が「米国人」というアイデンティティの下に、色々なエスニシティの人たちが一体化してまとまっているようなイメージを持ち、手放しに「米国は何もかも受け入れる国で、全ての人間が平等に扱われる。」と賞賛するのも、やはり狭い見方なんだろうと思います。なかなか単純ではない話ですね。

少し脱線めきますが、前回述べた韓国系米国人について私が感じたことに敷衍すると、米国におけるエスニシティの大きなカテゴリーの一つには、「アジア系」というくくりがあります。先に述べたように、エスニシティが大きな役割を果たす一つの理由は見た目に明らかなことですが、特に中国系・韓国系・日系は見分けがつかないため、普通の人は、まず会った人を「この人はアジア系かな」と考え、その中の一部の人がさらに一歩進んで「日本だろうか中国だろうか韓国だろうか」と考えるわけです。松井、パク、ヤオなどアジア系のスポーツ選手は目立ちますが、彼らが日本か韓国か中国かを意識している米国人は、おそらく大変少ないだろうと思います。こうした無頓着さはアジア人同士にも割とあります。このためか、結局のところ外国で生活するアジア系(特に留学生)は妙な連帯感をおぼえ、仲良くなる傾向もあるような気がします(このことは「日本人と中国人と米国人」「日本のことを米国に伝えることの大切さ」でも少し述べました)。日本にいる我々からすれば日本人と中国人や韓国人は全然違うわけですが、いったん海外に出るとこうした目で見られることも現実であるようです。

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