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やじゅんのページ/The World according to YAJUN



<先に「その1」をご覧下さい。>

エスニシティは米国の政治と社会を見る上で重要なファクターの一つです。「米国の普遍性と特殊性」で述べたように、宗教や歴史の蓄積ではなく憲法という人工物に基づき建国された米国は、多種多様な外部の共同体からやってきた移民が築いた国です。米国人になるための条件は人種や信条に差別されるものではないという意味で、なりたければ誰でも米国人になることができるとはよく言われます。「米国人」と言えば白人(Caucasian)を連想する人は、米国に来て、アフリカ系やアジア系やヒスパニックの人、強いアクセントの英語あるいは母国語しか話せない人々が、平然と自分のことを「米国人である」と語るのを見ると、ちょっと意外な念にうたれるかもしれません。「米国人」を決定づける要素は国籍しかありません。この点は、人種なり言語なり宗教なり歴史なり、共同体の伝統的要素を多少なりとも共有する他の多くの国々との大きく異なるところと思います。「米国人」を一つのイメージでとらえることは、他の国々の人よりも思ったより難しいのです。この多様性こそが米国の「多文化主義」の根底にあるものであり、活力の源泉でもあると思います。一方で、それぞれの米国人が抱えるバックグラウンドがあまりにも多様なため、他の多くの国で感じられるような一体感や結束感が欠けているように見えることの裏返しでもあると思います。

では、米国においては、それぞれの「個人」が人種や出自などについて偏見を持つことなく、自由に共存して生きているのでしょうか。おそらくそういうものではありません。人間は似たもの同士が惹きつけ合い、集まるという習性があり、一定の「共同体」を築くことなしに生きられない動物のようです。一見バラバラに見える米国で生きる「個人」たちも、何らかの共通項を見つけて、似たもの同士が集まってそれぞれの共同体を作ります。米国という国が、自由と平等という絶対の価値観に基づいて、各人が人種や信条に基づく差別を行うことを強く拒絶する国であること、それは間違いないと思います。一方でそれは、各人がそれぞれの好みに基づいて共同体を形成あるいは加入し、それぞれの共同体が「我々は我々で楽しくやるし、迷惑はかけないから、邪魔はしないでくれ」という考えに立って、互いに干渉せず並存するという「自由と平等」に帰結することでもあるのです。

この共同体を築く要素には、宗教や政治信条や出身地など色々ありますが、最も重要なものの一つはエスニシティです。米国に行ったことのない人たちにとってもイメージしやすいのは黒人のコミュニティでしょう。居住地域、経済、政治、映画音楽ファッション、多くの分野で「黒人向け」のサービスが存在します。例えばテレビのプログラムの中には「Black Entertaiment Television(BET)」(「米国TV事情」参照)という黒人しか登場しないチャンネルがあります。映画や音楽を見ても黒人のみを対象とするものがあるのは日本にいても容易に分かることでしょう。

注意を要するのは、こうした一種の「棲み分け」が短絡的に「人種差別」を意味するものではないということです。「差別(discrimination)」は認められないが、「区別(distinction)」は是認すると言うこともできるでしょうか。「公正(fairness)」を重視する大多数の米国人にとって、「不当な差別」に対する拒絶感は強く、少なくとも日常生活の中で、白人とマイノリティの間あるいはマイノリティ同士の間において、あからさまな「蔑視」や「排除」が起こることはそうありません。しかし、それはエスニシティの壁が取り払われたということを意味するものではなく、何らかの共同体あるいは仲間同士の結束感を求めながら、その共同体同士が無理に混じり合うよりもお互い距離をとるということは、ある意味自然な結果なのでしょう(普通の日本人の感覚からすれば「人種差別」的にしか見えない「隔離(segregation)」が、意外にもマイノリティ側から支持されることもあるのはそのためです)。「米国は人種差別の国である」という非難は一面的な見方であり、適切とは思いませんが、だからといって「米国は色々なバックグラウンドの人たちが一体となっている(united)」というものでもないと思います。「united」よりは「divided」、「共存」よりは「並存」であるのは現実であり、それは「人種差別」とか「分裂」ではない、多元的な共同体の一つの形なのだろうと思います。

(もちろん、中にはこうした棲み分けの壁を破り、エスニシティをまたがった何かを目指す動きもあります。70年代のバシング(強制同種通学:成功例とは言い難いところもありますが)やマーチン・ルーサー・キングJr.の思想などが代表的でしょうし、クリントン大統領が黒人と非常に相性が良かったり、Eminemのヒップホップが黒人に受け入れられたりするのも一種のクロスボーダー的な現象と思います。)

また、国内の共同体の思考と形成が、それぞれのバックグラウンドに固有の文化を保持するという精神にもつながります。黒人の中に「アフリカ回帰現象」や過激な暴力主義、排他的な「反ユダヤ主義」などが生まれるのも、文化的伝統の尊重が根底にあるからです。あるいは、そこまで大げさでないとしても、人間には日常生活において接するものをある程度カテゴライズする習性があります。幸か不幸か、肌の色はあまりにも見た目に明らかなため、そうしたカテゴライズをする上でおそらく一つの便利な基準になってしまうことは、良い悪いは別として事実なのだろう思います。

<次回、最後に「アジア系米国人」について述べます。>

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カラオケ(英語での発音は「carry-o-kee」:「英語化した日本語」参照)は米国でも思ったより人気があります。日本人やアジア系だけがやるのかと思いきや、意外とマイノリティ以外の米国人も好きな人は多く、私は留学時代に何度も米国人と一緒に行きました。米国では「カラオケ」と聞くと仲間内だけで楽しむボックスのスタイルよりも、カラオケスナックのように店全体で楽しむスタイルを連想する人も多かったようで、そういうスタイルは恥ずかしいから嫌だけど、少人数のボックスがあるのなら行きたいという友達もいました。

西海岸、東海岸、内陸部、色々な都市のカラオケに行ったのですが、興味深いのは、こうしたボックスタイプのカラオケは韓国系米国人が経営していることが非常に多いということです。カラオケやるかということになれば、大体コリアタウンに行き、焼き肉を食べた後、その近くのカラオケに行くというパターンになります。どこもレーザーディスクで、DAMなど通信カラオケのような高度な技術は日本ならではのものらしく、米国でお目にかかったことはありません。たいがい、カウンターにいる韓国系の兄ちゃんがそれぞれの部屋で入力されたリクエストを見て、手動で(!)ディスクを探して、カウンターにあるプレイヤーに入れます。店が混んでいると、テレビの画面に「Sorry, please wait for a while.」などと出て待たされることがありますが、その間、カウンターで一人DJ状態の兄ちゃんが千手観音のように大あわてなんだろうと想像すると笑えるものがあります。また、兄ちゃんは必ずしも日本語が読めるわけではなく、機械的に番号を確認してディスクを選ぶので、番号とディスクの対照が間違っていると必ず間違った曲、それも同じ曲がかかります。私が行くところでは「GLORIA」を入れると必ず決まった韓国語の歌が出てきて、その歌をおぼえてしまうほど同じ間違いを繰り返しましたが(アホです(笑))、どうしても直してもらうことはできませんでした。

米国に来て感じたのは「コリアタウン」の存在感が意外と大きいことです。すでに述べた通り、カラオケに行こうとすれば、いくつかの都市に住んだ私の経験では、まずコリア地域に行きます。巨大アジア系スーパーも中国系とならんで韓国系が非常に多いです。これは韓国系米国人の人口が結構多いことと(2000年米国国勢調査(PDF)によれば約100万人で、日系人とほぼ同数)結束力の強さの両方があるようですが、いずれにしても「ジャパンタウン」や日系スーパーがロサンゼルスやサンフランシスコなど限られた地域にしか存在しないのと比べ(もちろんニューヨークにもありますが、あそこは何でもありの世界ですよね)、コリア地域は多くの都市に存在する印象があります。

韓国系米国人について最近一部の人から注目されているのは宗教右派との関係です。韓国人には敬虔なクリスチャンが多い上、宗教保守派の中には北朝鮮やスーダンにおける人権問題に非常に強い反応を示す傾向もあるので、韓国系米国人との間で一種の親和性があるようです。宗教右派の政治的影響力は前回の大統領選で注目されましたが(「大統領選」参照)、宗教右派の韓国系米国人の動員力も面白いトピックとして関心を集めつつあるようです。

以前、私は「米国の多様性」で、「私が素直に米国に感心する点の一つは、ヒスパニックでもアジア系でも、帰化したいと思えば(一定の条件さえ満たせば)、誰でも米国人になることができる点です。移民に対して排他的な国が世界には多く存在する中、米国の開放性、偏見のなさには驚くべきものがあります。イチローが新記録を達成したときの暖かい祝福、民主党大会におけるバラック・オバマ氏のスピーチが党派を超えて感動させたことなどを見ると、そうした理念が国民の間でいかに強く共有されているかが分かると思います。」と述べました。これは本当のことだと思います。しかし、だからといって、米国人がみな同じように扱われて、エスニシティが米国の中で意識されていない、ということではありません。むしろ、米国を見る上で、エスニシティが果たす役割は非常に重要なのです。次回はそのへんについてもう少し一般的なところを述べてみたいと思います。

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<先に「その1」をお読み下さい。>

前回は、啓蒙主義的価値観に基づき成立した米国においても、保守的・イデオロギー的・土着的な観念が存在していることについて述べました。現代において、科学や理性をある程度所与のものとして受け入れ、文化の相対性を認めている生きる私たちは、伝統的・土着的な価値観らしきものは、中東や中国のような地域ではまだまだ存続するものの、近代化した国にとってはアナクロなものとしてとらえられるに過ぎないように思うかもしれません。しかし、なかなか単純なものではないのかなと思います。

例えばマルクス主義は、宗教をはじめとする伝統的な社会の持つ因習を徹底的に排除し、科学と理性をもって国家という枠組みを超越した人工的な理想社会を築くという信念を持った思想でした。70年代まで米国を席巻した急進的なリベラリズムも、人間の力によって社会を変革できるという強い信念がその原点にある科学(社会工学)万能の思想という点で通じるところがあります。

これらの思想がうまく機能しなかったのは、伝統や人間の感情の軽視が主な理由ではなかったかもしれません。しかし、いずれにしても冷戦の終結によって、共産主義のイデオロギーは完全に幻想とされ、ソ連においては、イデオロギーによって結合していた領域がそれぞれのナショナリズムという土着的な観念にしたがって次々に独立を果たしました。ナショナリズムのような一体感を担保できなかった中国は経済成長や「愛国主義教育」によって国家の存在意義を明らかにすることを迫られました。また、リベラリズムに対抗する保守主義の一つの核は、「神=自然の秩序」を克服できるとする人間の「傲慢」に対する反省・反発と言えます。こうした現実の動きを見ると、やはり人間理屈だけで生きていくわけにはいかないのだろうなと漠然と思うところがあります。

自由や平等といった価値観は、もちろんマルクス主義とは違いますし、その普遍的な力ははるかに説得力のあるものとして認められていると思いますが、近代的価値観を受け入れる程度の問題もありますし、またそういった価値観と両立する範囲において、伝統的な感覚は生き続けるということも現実かと思います。

「現代と80年代」でも少し触れましたが、理性や科学は、人為的なルールに沿って世界を記述することに貢献しましたが、経験や論理を超えた絶対的な概念に答えを出すことはできません。それでもなお答えを求めざるを得ない人間に、文明化された現代の社会に一見そぐわないような、信仰、道徳、ナショナリズムといった神秘的な物語が必要とされるのかと思います。伝統的・土着的な慣習の積み重ねや共同体固有の文化は、その要請にこたえるものとして、人間の社会を安定させる上で大切な役割を担っていると思います。

最近のムハンマドの風刺画の問題は、普遍的な理性の理念と人間が必要とする神秘性のあり方との折り合いのつけ方という面があるように思います。こうした理性と伝統の両立は、イスラム国家では分かりやすいですが、形は違えど、米国など近代国家として認められる国々においても多かれ少なかれ見られることであり、日本も例外ではないと思います。多くの人々から指摘されてきた日本に残存する「非近代性」のみならず、皇位継承制度や首相の靖国神社参拝をめぐる問題も、こうした視点から考えることも大切なのかなと思います。

・・・

以下は余談ですが、米国の普遍性と特殊性のテーマに戻ると、オッカムさんが、「国学」という言葉を使って社会科学と異なる「アメリカ人の物語」について論じ、「歴史解釈が国民をつくるための政治的営み」であると述べられています。そのことにまったく異論はないのですが、そうしたある種の物語を意識した歴史観とは別に、政治から離れた科学としての歴史観があることは事実であって、後者もまた価値のある営みではあると思います。それは民間の研究者なり市民が自由に論じればいいのであって、政治が後者の歴史観を鵜呑みにすることは愚かとは思います。ただ、私が漠然と感じる疑問は、では国家が物語としての歴史をどこまで決めることができるのか、というところです。もちろん皇室の制度を決めるのが皇室典範であるように、国家が国民を代表する擬制に立てば、日本という国家に最大の利益をもたらす歴史の捉え方は国家が決めれば良いということなるのでしょうが(民主国家であれば戦前の「皇国史観」に陥る危険もないと思いますが)、とはいっても果たしてそんな権威やリソースを認めることができるのか。例えば「神武以来の万世一系」という理念は、国民統合にとって都合が良いかもしれませんが、科学的でない以上、どこか違和感が生まれるリスクもあるように思います。おそらく、そこに答えはなくて、国家の解釈と市民の科学的研究が相互に影響を及ぼしあいながら、生まれてくるものが、政治の平面における「日本の歴史」である、ということになるのでしょうか。

話がまとまりない一方ですが、物語や神話としての歴史、それと密接な関係にある国民統合のための歴史がはらむ問題は、それが科学や議論とは違う要素(歴史の意味、信仰や政治的な目的)を含んでいるため、価値観の異なる他者との共存が困難であるところのように思います。これは現代米国が直面する保守主義とリベラルの分断に通じる面があるような気がします。

なんだかああでもない、こうでもないとしか言ってないような、良く分からない話でした(笑)。日々の労働からちょっと離れて、ふらふらと思いついたこととして適当に読み流していただければ幸いです。

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いやー寒いですね。雪が降るかもしれないとか。
どうでもいい話ですが、昨晩レストランで隣の席に小沢征爾さんがおられました。健康を害して休んでいると聞きましたが、眼帯はしていましたけど思いのほか元気のようでした。ミーハーなんでとりあえずそれだけで幸せな気分になりました。

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本題に入ります。「アメリカ例外主義(exceptionalism)」という言葉があります。他の国々が宗教や歴史といった固有の共同体思想とナショナリズムに基づいて成立・発展したのと比べ、自由や平等といった現代において普遍的な信念と考えられる啓蒙主義的価値観に基づき成立した米国は、憲法という人造的な概念をその紐帯の柱として出発した、非常に特殊な国であると言われます。米国は「移民の国」であると言われますが、多種多様なバックグラウンドを持つ人々を受容する姿勢の裏には、建国以来の「自由と民主主義の実験場」という感覚があることが指摘できると思います。つまり、憲法という最低限のルールを受容できる者であれば、その土着的なバックグラウンドと関係なく、誰でも米国人になれる、そのこと自体が米国のアイデンティティの重要部分を形成しているということです。

一方で、その科学主義的・合理的な姿勢と相容れないかのような、保守的・イデオロギー的・土着的な観念もまた存在していることも指摘されます。「米国の特殊性~宗教」で述べましたが、米国は非常に宗教的な国です。私も参加したことがありますが、いまどきの若者の間でもバイブル・スタディーはさかんですし、「クリスチャン・ロック」「クリスチャン・メタル」というポップス音楽があって、結構人気もあることなど聞くと、なんだそれ?と思う人もいると思います。教会に行く人の率に現れている信仰心の強さは、欧州の人から見てもちょっと異様に見えるほどです(ただ、米国は特定の宗教を国教とはしない政教分離原則を人類史上初めて憲法で規定した国であり、その宗教の内容は「civil religion」とも言われますが、いわば特異な文化であり、信仰と「神」が公的領域に関わるものと理解されているといった点には注意が必要と思います)。

また、多くの保守主義者が唱える家族に代表される共同体の果たす役割の大切さも、米国の一つの潮流と目される個人主義とはずいぶん違うもののように見えます。さらに、世界における自由と民主主義の伝道に対する熱っぽさや、アメリカン・ドリームに体現される自律自助の精神への強い思い入れにも、外部から見れば、過剰というか、押しつけがましいというか、ちょっとした違和感を感じるのではないでしょうか。

・・・
こういった伝統的・固有の文化は、一つには米国も実はまったく歴史がないという国というわけではなく、当然のことながら、植民地時代から積み上げてきた歴史と慣習の積み重ねがあり、人々の思考の基礎を形作ってきたということがあると思います。その積み重ねの中には、そもそも欧州(特に英国)から来た人々であるという背景、つまり欧州世界の歴史の延長線上にあったという部分がまずあります。英仏蘭独西等、どこの国からどういった事情で来たのかというバックグラウンドも影響しているでしょう。また、植民地時代に人々が形成した共同体の中で築き上げられた伝統という部分もあります。ピューリタンの禁欲的な精神が大きな影響を及ぼしたニューイングランドのような地域もあれば、植民地の統治やビジネスのために移住した貴族が奴隷制に基づいて穏和で安定した階級社会を築いた地域もあります。フロンティアの中で育ったジャクソン的な西部の自立・自衛精神も一つの特徴をなしています。また、ルイス・ハーツ(「米国史」参照)が指摘したロック的個人主義の伝統が、自由な個人の過剰な強調につながったという見方もあります。

もう一つ指摘できるのは、建国時点に、他の国にあるような「物語」や「神話」としての歴史を持たず、憲法という啓蒙主義の所産とも言える、人工物によって成り立った米国が、多種多様な人々と価値観を受け入れながら、国あるいは社会としてインテグリティを保つために、ある種のナショナリズムやイデオロギーを必要としたのではないかという面です。先に述べた宗教性の強さも、建国時の啓蒙主義の理念が聖書やキリスト教による概念によって説明されたことが、米国人にとって自然であったのと関係していると言えるかもしれません。外交政策において時折見られるウィルソン主義的な自由と民主主義の伝道は、米国がバラバラにならないための一つの方策であると言われることがあります。冷戦における共産主義イデオロギーとの戦いも、外交のモメンタムと国内の結束を強めるための手段の一つとして見ることもできるように思います。

<長くなってしまったので、次回に続きます。>

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昨晩はかんべえさん、さくらさん、雪斎さん、ぐっちーさん、副会長さんらと遅ればせながらの新年会でした。かなり飲んでしまい、帰りの足取りもあやうかったです。かんべえさん、次回はカラオケ行きますか(笑)。

最近は身の回りがなんだか混乱していて、掲載したい記事のネタは色々あるのですが、形にして更新する余裕がなかなかない状態です。しばらく休んだり、小ネタ的なメモの掲載が続くかもしれませんが、ゆるゆるとお付き合いいただければ幸いです。

ということで手短に行きます。中東ではイランの核開発とパレスチナ評議会選挙でのハマスの勝利と大きな動きが相次いでいます。カイロ在住の友人が近々帰ってくるので、イスラエルでの経験とか色々話を聞きたいところですが、直感的に今の時点で思ったことだけ述べておきます。

イランについては、ワシントン・ポスト紙のジャクソン・ディールのコラムが状況の厳しさを強調していますが、かつてのネオコンのような「一部の」強硬派ではなく、マッケインやリーバーマンのような米国の「顔」とも言える大物議員が、かなり大胆に軍事オプションに言及することからも緊迫感が伝わってきます。日本としてはアザデガン油田開発をどうするのか気になるところです。元々採算的に筋はそれほど良くないプロジェクトだったそうですが、自前のエネルギー確保という観点から、西側陣営でありながら例外的にイランと友好関係を保ってきた日本が進めた一種の国策でした。しかし、当然のことながらそれは核不拡散という国際社会と日本にとっての大目標と両立する限りで進められる話です。経済制裁も予測されますし、苦しい板挟みの状況になるかもしれません。

パレスチナについては、ハマスは過激な軍事団体ではありますが、病院や学校の運営といった草の根運動を展開するなど民生的な機能も果たしています。腐敗と不信が蔓延したファタハがパレスチナ人の代表には到底なり得ないことは誰もが思っていたところですから、選挙の結果は単なる偶然や突発的な事態ではなく、きちんとした意味で民意に沿った結果と言えるのでしょう。ただ、何と言ってもハマスは米国も日本もテロ団体とはっきり指定していますから、選挙結果にどう対応するかは簡単に結論が出せない、ハマスのこれからの動きを見るしかないという面があると思います。テロはどうあっても容認できないものという共通認識が国際社会にはあり、厳密なプロセスによってなされる「テロ団体」の指定が持つ意味は極めて重いです。かつて国連の機関であるUNRWAからハマスに資金が流れたという疑惑がありましたが、帳簿上の証拠がそろわず(名義上はハマスと同一視されないNGOに関与していたと見られる)大きな問題にはならなかったものの、かなりスキャンダラスな話題になりました。いずれにしても、ここはテロを抑える実質的な力を持つハマスを対話の枠組みに何とか組み込んでいくしかないのでしょう。ハマスは、エジプトで生まれた社会運動であるムスリム同胞団の出身者(2005年に殺害されたヤシンら)が結成した組織ですが、このムスリム同胞団は、テロ活動やサイイド・クトゥブら理論派指導者の過激な思想のために、ナセル・サダト政権からの弾圧を被ることになりました。しかし、2005年11月の選挙では多数の議席を獲得し、合法的政治組織への転換という穏健な路線をとりつつあります(ちなみに2005年はエジプト以外にも、イラク、アフガニスタン、パレスチナ、サウジアラビアでも選挙が実施された画期的な年でした)。ハマスも同様の道を行けば望ましいのでしょうが、なかなか容易なことではないのだろうと思います。

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