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やじゅんのページ/The World according to YAJUN



<先に「その1」をお読み下さい。>

前回は、ASEAN+3という枠組みから得られる実体的な付加価値の曖昧さについて述べましたが、一方で、こういった枠組みが存在すること自体に一定の意味があることも事実です。実体的な協力がないとしても、人々のパーセプションに与える影響はあります。G8は巨大なセレモニーイベントに過ぎないと言われますが、これだけの大国が集まれば何を話すのか世界中の国々が注目はしますし、単なる言葉が世界に対するメッセージとして影響力を持つことは否定できません。言葉はそれ自体に実体がないとしても、人々の思念に影響を与えれば、それが実体的な力を持つものです。東アジア共同体構想も、日本が活用し、自らが望む哲学をアピールする場として使うことは意味があるでしょう。

ただ、シンボリックなお付き合いの場として見なすのではどうだろうと思う人たちもいると思います。それではあまり大きな影響力は望めないでしょうし、そのまま停滞していくことも十分あり得ると思います。この枠組みを大ごとにしたくないと考える人にとってはそれはそれで好都合なことしれません(実体的な影響力がないのであれば、中国が大きな顔をしようとしても大したことはできないと考える人もいるでしょう・・・実際、中国はもうこの枠組みに大きな期待をかけていないという話も聞きます)。しかし、仮に日本が本気でこの枠組みを育て、日本が望む多国間秩序を築くためのツールとして使いたいのであれば、ASEAN+3ならではの意味のある実体的な協力を生み出す必要があると思います。それが何なのかと言えば、鍵となるのは「地域性」だろうと思います。思いつきを言えば、チェンマイ・イニシアチブのような金融面での協力の強化とか、鳥インフルエンザのような国境を越える問題への対処とか(テロ、麻薬、海賊、トラフィッキングなどもあり、すでに協議もされていますが、ASEAN拡大外相会議やAPECでの議論との差別化が一つの課題となります)、ミャンマーや北朝鮮に対するメッセージを作るとか、そんなところでしょうか。本質的な話ではないですが、事務局を作るのも一つのアイディアです。

問題は、いずれもコストを伴うことです。金なり人なりリソースが必要になりますし、米国などとの関係にも配慮してなくてはなりません。東アジアにおける地域協力に関して言えば、中国の東南アジアに対するFTA攻勢や武力を背景にした圧力外交には大いに警戒するべきだと思います。ただ、それに対しては、日本も中国に負けないつもりで東南アジアとのFTAなり経済協力なりを強めて、先に中国が東南アジアのマーケットを押さえるような事態を回避することが重要であり、ASEAN+3以外にもそれを実現する手段はあります(実際、日本はすでに行動に移しているわけです)。また、各国間とのつながりを強めるのは、地域協力のみならず、二国間の実質的な協力の強化であることも忘れてはならない視点と思います。

一つ感じるのは、「東アジア共同体」という哲学を論じる際には、中国の「台頭」を抑えるとか、日本の「存在感」を増やすとか、東南アジアの国々を中国から日本の目に向けるとか、抽象的なリアリズム論やパワーポリティクス観を念頭に置いている向きもあるのではないかということです。「外交政策の考え方についての雑感」で述べたように、そうした抽象論は具体的な事象に引き付けて考えることが重要と思います。「台頭」やアジアの中における「存在感」とはどういった意味を指すのか、それはFTAによる市場の開拓競争なのか、特定の国々との政治経済上の連携の強まりの競争なのか、ではそれは実際どういう状況になっていて、どれほどの影響があって、バイかマルチかどのような枠組みで対処するのが適当であるのか、具体的に考える必要があると思います。

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個人的な印象を述べれば、現状を見る限りでは、「東アジア共同体」に対しては、日本がそれほどコストをかけずにできること、それは哲学やメッセージ性の強い議論だと思いますが、そこについては大いに議論しベストを尽くしながら、しかしその試みが与える効果については過大な期待を寄せないことも重要のように思います。「東アジア共同体」にこだわらずとも、同じ目標を達成するために日本が他にできることはあるので、それらの政策との比較や兼ね合いも考えつつ、場合によっては米国など域外国の参加を進めたり、日本にとって都合の悪い議論には抵抗して、「共同体」の発展には逆行するような、「守り」に近い外交をしなくてはならないのかなと思います。結局、結論は以前書いた「東アジア共同体についての一考察」とあまり変わりありません。

「東アジア共同体」の議論は、個人的な縁があって、その議論の母体となる「ASEAN+3」がようやく制度化されてきた99年頃から成り行きを見守っていました。99年は東アジアの地域協力に関する共同宣言が出され、史上初めて日中韓3ヶ国首脳朝食会(小渕・朱鎔基・金大中)が開催されるなど、歴史的な成果が生み出された年だったのですが、当時の世間の関心が低かったことを思い起こすと、昨今の議論の高まりには感慨深いものがあります。この話には個人的な思い入れがあるので、どちらかといえば面白い方向に持っていきたいのですが、なかなか難しいところがあるのかなあと思ったりします。

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先日、「東アジア共同体」について考えを深める機会がありました。この件についてはすでに「東アジア共同体についての一考察」を書いておりましたが、そのフォローアップ的に何となく思うことをメモしておきます。先に昔書いた記事をご覧いただいた上、読んでいただければ幸いです。

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日本が「東アジア共同体」をどう考えるかに当たっては、深入りするべきでないという消極論から、日本にとって都合のいい形に進めるために主導権を発揮すべきとする積極論まで色々な議論があります。いずれも、中国が存在感を増す中でこれにどう対処するか、そして米国は東アジアの地域協力をどう見るのかという論点を中心にすえており、この「共同体」が中国主導の枠組みとなるから、潰すあるいは距離を置くという結論も出れば、むしろ日本が主導する枠組みに育てるべきであるという結論も出てきます。米国との関係においても、米国が警戒するから手を引くべきだという意見もあれば、米国は中国ではなく日本が中心となることを期待しているから、むしろ積極的にイニシアチブをとるべきだという意見もあります。

積極派と消極派、いずれの議論にもそれぞれの理があると思います。ただ、私がちょっと気になるのは、そもそもこの枠組みがどれほど活用する意味があるものなのか、実体としてどれほど有効な枠組みであるかという点です。パーセプションの観点から、「共同体」が日本にとって都合のいい形に発展していくよう努めるというアイディアに異論はありませんが、それが実体的な利益の提供をともなわない言葉のゲームにとどまるのでは、仮にそうした戦略がうまく動くとしても、その効果は大して期待できないと思うからです。

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「東アジア共同体」はASEAN+3の枠組みの中から生まれたものですが、ASEAN+3の地域協力がどれほど実体をもったものか、まだ懐疑的なところがあると思います。確かに色々な分野において協議する制度はありますが、それが事務方の情報交換や議論にとどまるのであれば、APECやASEMといった地域協力の枠組みの中に無数に存在する協議体と比べて、どれほど意味のあるものになるかは分かりません。ASEAN+3加盟国間の経済的相互依存は確かに進展しています。FTAも沢山結ばれようとしています。しかし、FTAは基本的には二国間あるいは数国間でできるところから進められるものであり、ASEAN+3の枠組みがなければ進まないとか、あるいはASEAN+3があるから加速されるというものでもないと思います。つまり、現在日本が東アジア各国と進めている協力は、ASEAN+3の文脈とは別に機能的に進めることは可能であるし、これまでもそうであったのではないかと思います(しかも、現状においては、各国の経済体制や規模はあまりにも格差があり、個別の条件に合わせた経済連携は可能でも、ASEAN+3が歩調を合わせて関税や資本・労働の移動の自由化を実現するのはかなり難しいだろうと思います)。安全保障面での協力については、言うまでもなく経済上の連携以上にハードルは高く、自明のことなので詳しくは述べませんが、ARFと同様、この枠組みでできることは信頼醸成のレベルにとどまるのでしょう。

言い方を変えれば、ASEAN+3というハコを作ることによって得られる付加価値はまだよく分かっていないのではないかと思うのです。実体的な成果と言えるのはおそらくチェンマイ・イニシアティブくらいでしょうか。したがって、共同体の理念が何かとかその実現が適切かという議論の前に、現実として関係国がこの枠組みから得る利益が不明確である以上、まずその求心力自体が期待できないように思います。

こういった実体的なメリットの不完全さが、ASEAN+3のもつ意味を不明確にし、「東アジア共同体」の議論はよく分からない(つまり何の意味があるのか)と多くの人が疑問に思うことにつながっているのではないかと思います。力のある多国間協力が実現できるどうかは、付加価値の有効性にかかるところ大です。国連は全世界の加盟国が参加していることそれ自体に意味がありますし、EUは独仏を中心とする加盟国が政治安全保障上の利益を共有するために適切な枠組みとなり、ともに他では代替できない制度であった点が大きかったかと思います。一方、ASEMや東アジア・ラテンアメリカフォーラム(FEALAC)といった枠組みは、加盟国が一堂に会することで得られる付加価値がよく分からないため、外交上のお付き合いに終始し、何となく停滞しているという印象を与えます。(ちなみにAPECも同じような停滞が指摘されますが、発足時点においては、マレーシアが提唱したEAEC(想定されたメンバーはASEAN+3とまったく同じ枠組み)に対抗するため豪州が中心になってその強化に努めたという意義があったと言われます。余談ですが、かつて大平首相が提唱した「環太平洋構想」はPECCという枠組みにつながりましたが、これも豪州が重要な役割を果たしました。現在のASEAN+3等におけるマレーシアの豪州排除のスタンスとの関係は興味深いところです。)

米国は、ASEAN+3の発展に警戒しつつも、静観するというスタンスをとっていますが、これも「東アジア共同体」がもつ実体的な力が、少なくとも現時点か近い将来においては、結局のところ大したものにはならないと見切っているからではないかと思います。言い換えれば、自分にとっては決して面白くない枠組みではあるが、APECやASEM程度の枠組みであればそれほど気にすることはないと高をくくっている、あるいはあまり興味がないというのが、多くの米国人(特に非アジア専門家)の本音だろうと思います。

<長くなってしまったので次回に続きます。>

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<先に「その1」をお読み下さい。>

前回は、中国の「封じ込め」をめぐる議論について、古典的なパワーの概念やリアリズムの理論に沿って、抽象的に中国の「台頭」と日本の「プレゼンス」の低下を恐れる議論は、必要な視点とは思いますが、それだけでは十分ではないと思われる旨述べました。

理論や抽象的なモデルを使って現実を認識する手法は、一つの仮説を演繹的に当てはめることで、かえって現実から離れてしまう危険や限界があることには注意が必要です。理論には過去の事例を抽出して後付け的に仮説を裏付けする側面があります(現実の有用性から距離を置き、研究の目的を自己自身に内在させる学問の性質として、新しい思考の可能性自体を成果と見る面もあると思います)。

少なくとも過去の分析においては、ある現実の側面を説明しているという意味でモデル化は有効ではあるのでしょう。例えば日米の戦争の原因を「持てる国が持たざる国を追い詰めた」とか「日本の非民主的制度が軍国主義を招いた」と説明することはおそらく不可能ではありません。しかし、そういった抽象論はあくまで現実の一側面を切り取ったものに過ぎないと思います。本当に重要なことは、日本の経済の状況がどうであって、市場の獲得のためにどういった行動を起こして、それが米国の政策とどう衝突したかとか、日本の国内政治の状況がどうなっていて、政党や官僚がどういった利害関係なり理念なりを持っていたのかといった、微視的な分析の積み重ねであり、抽象論を支える個別の論証だと思います。抽象的な仮説は還元的な分析によって検証され、抽象的な仮説は新たな事実の発掘の指針を与える、そうした相互作用が何よりも大切なのではないかと思います。

さらに、過去よりもより複雑で動態的な「現状」の認識や「未来」の予測をする場合には、演繹的な議論よりも帰納的で精緻な分析の重要性は高まると思います。

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古典的なリアリズムの理論について言えば、国家の目的はその生存であり、国家は自己に内在する権力欲と他国との相互不信から軍事力などハードパワーの追求や領土の獲得などによって影響力の拡大に走るという考え方に基づいています。しかし、その前提の根拠となる国際社会の構造について考えてみれば、それがリアリズム的分析が当てはまった(と見られる)第二次大戦前あるいは冷戦前と比較して、現代の状況がそれらと大きく異なることは自明のことでしょう。国際社会の制度化や経済的な相互依存によって、領土獲得のために戦争を起こすという行動の合理性は大きく低下しました。もちろん国家間には様々な紛争の原因があるのは事実ですが、その態様はかつての国家間のパワーの競い合いという次元とは大きく異なっています。そもそも、多元的な主体が混在して影響力を及ぼす現代の国家の行動がそれほど単純なものなのかという疑問もあります(Graham Allisonの『Essence of Decision』は個人のパーセプションや組織の力学が意思決定に与える影響を明らかにした名著です)。そういった現実の態様を見極めるには、大上段の理論やモデルに縛られるのではなく、実体的なデータや情報を真摯に追う目が重要なのだと思います。

(ただ、一つ注意が必要なのは、いかに抽象的な理論やイデオロギーが非合理的で根拠のないものとしても、重要なのは、それが正しいと信じる人間がいればそのパーセプションが現実化する可能性があるということです。予見が行動を呼ぶように、思念は実際の行動に影響を与えることによって実体化します。共産主義にしてもリアリズムにしても、世界中の人間がそれを信じれば、現実の態様に影響が及ぶことは避けられません。だからこそ、ある地域や国民を支配している価値観である宗教なり伝統なりを学ぶことは、現実を正しく認識する上で、非常に大切なことだと思います。「続・歴史の感覚」「情報化社会と外交」などの記事で、歴史や地域研究を学ぶことが重要であると述べているのは、この理由によるところも大きいです。)

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現状認識のみならず、現実の政策を考えるに当たっても同様なことが言えます。遠大な「戦略」や外交の「哲学」を考えることは意味のあることと思います。しかし、それは、結局目指すものは何なのか、それによって得るものと失うものは具体的に何なのかといった形で、理念を現実世界の平面まで着地させることができなければ、地に足の着かない議論になり、せいぜい「~はしてはならない」という消極的な基準を見出すことができるだけで、積極的な意味で何が必要とされるのかという結論を得ることは難しいでしょう。「東洋の王道、西洋の覇道」とか「アジア人は提携すべきだ」として日中友好やアジアの連帯を唱えるのも、「隣国同士は仲良くなれない」として中国や韓国を敵視するのも、いずれも現実に起こっている事象に引き付けた思考とは言えず、かみ合った議論はできないと思います。そして、政策の比較考量ができなければ、リソースが限られている中で、最も力を入れるべき有効な政策は何なのかという結論は出せないでしょう。

(それに、現実世界においては自分自身のコントロールの及ばない事態が起こることは避けられません。巨大な戦略や理念を設定しても、実際にはその修正や妥協を余儀なくされることがあるのも、最初からある程度受け入れて考える必要もあると思います。)

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安易な理論や仮説に陥らず、微視的・帰納的な分析を貫くのはしんどいことです。細かい知識や専門的な知見が要請されますし(専門家の知見を謙虚に学ぶことの重要性を述べたのもそのためです)、100パーセント正しい現状認識とか「ベスト」な判断を下すことは無理でしょう。しかし、そこで不可知論に陥る必要はないし、そうすべきでもないと思います。少なくとも、相対的により正確な認識をし、より優れた結論に達することはできる、そう考えることは可能と思います。仮説を立てることは重要ですが、それに対する反証可能性に常にオープンでありつつ、経験的な事実に絶えず目を向け続けていく、そうした誠実な姿勢が大切かと思います。

また、狭い領域を禁欲的に追求する専門家の分析が全体的な分析と一致するとは限りませんが、そのような限界があるのはある意味当然であって、大事なのは、全体的な分析をする際には微視的な分析を自分なりに消化し、自らの見方を批判的に発展させるのに役立てることと思います。専門家の中国論の方が素人の中国論よりも現状分析や展望において適切とは限らないと言えば、そうかもしれませんが、専門家の分析をふまえない素人の思いつきに過ぎない中国論を聞く気には私はなれません。個人的な感情を述べれば、そんな開き直りはどうかと思います(この点、この方の考え方と比べると知的誠実さの違いが興味深いです)。

ケナンは「X論文」の中でこのように述べています:「ソビエトにおける権力概念では、共産党以外にはいかなる組織の存在も許されず、理論的には、党の指導部こそが唯一の真理である。」「(ソ連においては)『真理』は恒久的なものではなく、実はソビエトの指導者の意図と目的のために、作り出されるもの(である。)」「アメリカが近い将来ソビエトの体制との政治的親近感を感じられるようになると想定するのは不可能である。」しかし、「共産党の鉄の規律」や「慎重さ、周到さ、柔軟性、策謀」に富み、「辛抱強い忍耐力」を持つ「ソビエトを簡単にうち負かすことはできない」。アメリカの政策は「現状維持策に限定されるわけでは決してない」、つまり「アメリカは、ソビエトの政策にかなりの制約を課す力を持ち、クレムリンが最近数年間より遙かに穏健で慎重な態度をとらざるをえないような環境を作り出すことができる。そうすることで、最終的にはソビエトが権力の分裂か段階的な溶解を受け入れざるを得ないような潮流を強化できる。」

ケナンはソ連の地域研究の大家であり、一流の研究者・理論家であると同時に、実地に即した分析の積み重ねとそれに基づく柔軟な思考が重要であると認識していた、現実的な実務家であったように思います。「X論文」の、専門家としての精緻な現状認識を政策に結びつけるリーズニングと、一見つまらない、しかし現実的な結論は、現代の我々にとっても大いに示唆に富むのではないでしょうか(それにしても、この「共産党」の話はどこかの国にそのまま当てはまるような(笑))。

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ちょっと古い話になってしまうのですが、雪斎さんの対中「封じ込め」(containment)論について、強くうなずくところがありましたので、思うところを述べてみます。この記事を書いている間に雪斎さんは新しい記事を次々に書かれて、少しズレてしまったところもあるのですが、細かいことは気にしないで(笑)お気楽にご覧いただければ幸いです。

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ケナンが唱えた「containment」のそもそもの意味は、ソ連の政治的・経済的影響力が実体的な脅威を与える状況において、米国がそれに対抗するべき(不関与主義に立たない)ことを主張したものでした。恫喝や強硬的な姿勢によってソ連をうち負かすことを主張するものではなかったことは重要と思います。

冷戦開始時に国務省の初代政策企画室長に就任したケナンは、第二次大戦から続く楽観的なソ連との協力関係に懐疑的でありながら、短期的・直接的な手法でソ連に対抗することの難しさを地域研究的な観点から説き、東欧などの地域に与えるソ連のイデオロギー的・軍事的影響力に揺るぎない対抗力をもって対峙し、辛抱強く慎重な政策を通じて、ソ連を穏健で協力的な態度に追い込むことを主張しました。それはウォルター・リップマンから勢力均衡論に基づく妥協を排した姿勢として批判される一方で、彼の後継者であるポール・ニッツェが推進した封じ込めの軍事化やディーン・アチソン国務長官が強調した強硬的な「rollback(巻き返し政策)」とは次元を異にする、柔軟で現実的なアプローチでした。

しかし、ケナンの使った「封じ込め」という言葉は、その響きの強さと国際政治の理論上「engagement(関与政策)」の対極にある理念として位置付けられたことから、元々の彼自身の考えから離れて、対外強硬的なスタンスや対決的なアプローチの代名詞として使われるようになりました。ケナン自身は概して対外強硬的アプローチに批判的で、ドミノ理論、ベトナム戦争の拡大、軍拡競争を厳しく非難し、デタントを評価していたことは興味深いことと思います(政権に対する率直で批判的な態度もあってか、必ずしも国務省での影響力が高い人でもありませんでした)。

私は以前「日中関係について思うこと(その2)」で、中国を「徹底的に封じ込めるのであれば」という書き方をしましたが、ここで言う「封じ込め」とは、ナチス・ドイツや北朝鮮のような共存が困難な体制に対する敵対的なスタンスを念頭に置いたものであり、ケナンが主張した「封じ込め」とまったく同じものではありません。中国の「影響力の排除」を念頭に置く雪斎さんの対中「封じ込め」論には私も強く共感します。

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この話に関連して、私が何となく思うのは、とかく国際関係を考える人は、国際秩序・構造とかパワーやイデオロギー論、国際政治の理論などの抽象的・演繹的視点に傾きがちであることです。それはそれで大切な思考ではあるのですが、アカデミックな探求などではなく、現実の政策判断を考える際には、唯名論的・還元的・帰納的な観点からの実体的な分析を緻密に積み上げることが何より重要なのではないかと思います。

対中「封じ込め」に関して言えば、大事なのは「封じ込め」という言葉が与える、あるパワーへの「対抗」という抽象的なニュアンスではなく、それが具体的に何を指すのかであって、「中国の「パワー」の増大を恐れるから日本が対抗する」と原理的に考えるのではなく、中国の何が脅威であって、それは日本に対していかなる実害があるのか、だからそのためにするべきことは具体的に何なのか、そういった微視的な思考から得られる結論なのではないかと思います。

例えば中国の軍事力について言えば、現時点での日本の防衛力と米国の関与を考えれば、取るに足るものではありません。しかし、このまま軍事費が伸び、スホーイ戦闘機の数がある水準を超えれば、日本がF-22のような優れたF-Xを導入しない限り、将来的には日本の制空権が脅かされる可能性があるでしょう。また、中国の東南アジアに対するFTA攻勢は、東南アジアとの貿易や投資の環境が中国にとって有利な形で制度化され、日本にとって逸失利益が発生する可能性があります。これらは日本にとって切実な問題であり、適切に対処しなければならない問題です。台湾海峡の軍事衝突も日本の安全保障に致命的な影響を及ぼす問題です。

こういった中国の何が日本にとって害となるのかを個別具体的に考えることが重要であって、古典的なパワーの概念やリアリズムの理論に沿って、抽象的に中国の「台頭」と日本の「プレゼンス」の低下を恐れる議論は、必要な視点とは思いますが、それだけでは十分とは言えないと思うのです。

<長くなってしまったので続きは次回に述べます。>

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昨年12月にWTO閣僚会議が開催されました。毎度のことながら、しんどそうな会議だなあと素人目に思います。外務省のホームページに細かく色々な情報が掲載されていますが、密教的な用語でいっぱいで、とにかくややこしいです。隠し立てする話でもないし、外務省もメルマガまで配信して啓蒙に努めているようですが、仕事上直接の関係がある人や、よほど関心と根気のある人でないと、実際に起こっている議論を把握するのはかなり難しいことだろうと思います。

現実に起こっている議論のフォローもできていない、知識不足の私が言うのも恥ずかしい話ですが(笑)、大まかに言えば、参加国の拡大、途上国問題、知的所有権などイシューの増加などによって交渉プロセスが複雑化し、基本的にはコンセンサスで決めないと進まないこともあって、合意を形成するのが難航する現実があり、またその困難さから、各国が二国間なり地域別なりの自由貿易協定に向かってしまうという構図ができていると思います。それがまたグローバルな機関としてのWTOの重要性を逆説的に高め、その機能をより複雑化させている面もあるのでしょう。

WTOの停滞に対する打開策については、スティグリッツの新著を紹介した梶ピエールさんの記事が参考になると思います。私も米国で国際経済を勉強した頃、バグワティの論文を読むことは多かったのですが、グローバル化自体を問題視するのではなく、その生み出すメリットや避けられない趨勢を受け入れることを前提としながら、ではその利益を公平に享受できるために国家はどう対処すべきか、という観点から議論をする姿勢に大いに共感しました。このスティグリッツの話も、読んでいないで言うのも難ですが(笑)、いわゆるアンチ・グローバル化論者の主張よりはるかに現実的で有意義なアプローチとして、バグワティの立場に通じるもののように感じました。

スティグリッツの意見は非常にもっともで、私などから付け加えることはないのですが、せっかくなので素人なりの思いつきを少し述べますと、グローバル化に対する強力な批判の一つは、先進国に有利な国際分業体制の固定化という面があるかと思うのですが、この点については専門家の間でどのような議論がされているのかなと思いました。途上国が一次産品の輸出によって公正な利益を得ることができないのはもちろん問題であると思いますが、一方で、工業化や知的産業の発展を達成した先進国が付加価値の高い産業を独占し、途上国は労働集約的な産業に特化せざるを得ないという構造が放置あるいは強化されるとすれば、それが批判の対象とされるのはある程度仕方ないように思います。この種の国際分業の議論は、クリントン政権時の新産業政策論(ローラ・タイソンのハイテク産業保護論など)のように、先進国側からの視点で提起された例はあるものの、途上国の利益を代弁する立場からは、かつてモノカルチャー経済の危惧など聞いたことはありますが、現在どういう議論が展開されているのか、良く分かりません(私が知らないだけなんでしょうけど)。もちろん、それこそ比較優位から自律的に最適な均衡が導かれる市場メカニズムそのものを否定しかねない話ですし、優先される産業の恣意性など、色々な問題を含んでいて、一筋縄でいかないのは確かだと思います。結局、ODAを通じて、途上国の工業化やキャパシティビルディングを支援する他なく、開発政策の実効性をミクロのレベルで高めていくというのが現実的な方策なのでしょうか。

WTO交渉について日本の文脈で言えば、途上国問題や反グローバル化だけでなく、日本の企業が有利に輸出・投資できる環境を作り出すことがやはり第一の目的ではあるのだろうと思います。日本企業からすれば、これこれの点で政府に頑張って有利なルールを作って欲しいという個別具体的な要望は沢山挙げられるのでしょう。それを実践に移すのは非常な困難を伴うのでしょうが、そういう民間のニーズを吸い上げて交渉につなげるのも政府の重要な役割だろうと思います。この点、米国はさすが「Corporate America」と言いますか、非常にたくましいというかしたたかなのですが、その背景には、政治任命によって企業の元経営者などが交渉の前線に出てくることもあるのだろうと思います。閣僚や政府高官にウォールストリート出身者や農業産業関係者が入ってくるように、この件に限らない話ではありますが。特定企業への利益誘導など色々な問題もあるものの、マーケットの人間がそのまま国家間の交渉に出てくれば、そりゃ迫力が違うのも当たり前だよなと思います。FTAもそうですが、このへんの経済交渉は大変な話でしょうけど、米国や欧州に負けず日本政府も頑張って欲しいものです。

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昨年末、ユン・チアン/ジョン・ハリディ『マオ』を読みました。
今の時代、毛沢東に幻想を抱く人もほとんどいないと思いますが、エドガー・スノーの古典『中国の赤い星』で描かれたカリスマ性に少しでもシンパシーを感じていた人は、その幻想が木っ端微塵に吹き飛ぶことでしょう。そのくらい毛沢東の残虐性と無道ぶりを仮借なく描き出した作品です。

もっとも、権謀術数にたけ、恐怖によって人心を思うがままに操り、果てなき私欲を追求する、そうした善悪を超えた圧倒的なスケールを持つ人間毛沢東の凄さを知ることのできる本とも言えます。毛沢東は中国の二十四史を愛読し、紂王、始皇帝、曹操、則天武后といった「暴君」に近い評価を受けてきた悪名高い支配者を尊敬し、宮廷政治の権謀術数を研究し尽くしたと言われます。その政治術は、軍閥、国民党、日本軍、ソ連といった様々なプレイヤーが駆け巡る混沌の時代の中で、国の統治よりも共産党という限られたエリートが権力を争うことが優先された状況において遺憾なく発揮されたのでしょう。

話が少しそれますが、「自分が他人をだますことがあっても、他人が自分をだますことは許さない(そうなる前にその人を倒す)。」という言葉を気に入っていたように、毛沢東は曹操に対して強い思い入れをもっていたようです。毛の詩の才能は名高く、本人も、「沁園春・雪」という詞の中で歴代の皇帝の中でも自分ほど文才のある者はいないと述べたように絶大な自信を持っていましたが、その毛でさえ、曹操の詩だけは自分に匹敵すると思っていたそうです。文化大革命期には、「海瑞免官」や「水滸伝」論争など、歴史上の人物や小説の文芸論に政治的メッセージを込めるという知的(陰湿?)な政争が流行しますが、その中には「曹操の名誉回復」という論文もありました。おそらく「戦場の詩人」という戦略家と芸術家という両面を兼ね備えた美学を自らと重ね合わせていたのでしょう。色々な意味で毛沢東は中国の伝統的な「皇帝」としての資質を備えた人物であり、それが現代に出現すれば、どのくらい惨い災厄をもたらすかということを示したのかもしれません。

・・・
原文のサブタイトルが「The Unknown Story」となっているように、目新しい、もしくは論争的な事実も大胆に提示しています。毛沢東が「(日本の)皇軍には感謝している。なぜなら日本の侵略のおかげで共産党は国民党を破ることができたから。」と田中角栄首相や日本社会党訪中団に語ったことはすでに知られていますが、抗日戦争中、共産党が文字通り日本軍に協力して国民党を背後から襲わせた疑惑や、日中戦争後の国共内戦において、日本軍戦争捕虜が共産党に軍事訓練を施し、実際に戦闘にも参加して共産党を助けたことなど、聞いたことはあっても、専門書に書かれているのを見るのは初めてでした。またスメドレーや宋慶齢を「ソ連のスパイ」と断定しているのも個人的には驚きでした。(一方、中華人民共和国建国後の記述については、李志綏『毛沢東の私生活』ですでに触れられている話の確認も多いように思います。)

ただ、毛沢東に対する非難というメッセージ性が昂じるあまり、毛に利した事件や人物全てをネガティブにとらえ、逆に不利に働いたものを総じて評価するという主観的な傾向が強いように思います。長征をはじめとする数々の中国共産党の「神話」や、周恩来や朱徳といった毛沢東を支えた共産党の「英雄」、あるいはスメドレーなど共産党に協力的だった外国人に対する極めて厳しい評価、毛沢東の最大の敵である蒋介石や、彭徳懐など毛沢東に反抗し粛清されていった共産党幹部、あるいは第三勢力である日本軍(毛沢東は日中戦争の時代を共・国・日の「三国志」ととらえていた)に対する肯定的もしくは同情的な見方、秋収蜂起や長征時の紅軍の動きなど共産党史に登場する主要な事件のほとんどを毛沢東の権力奪取のための陰謀と位置づけるところなど、素人目には一つ一つの事例は実証的で説得力があるとは思いますが、全てのファクトを毛沢東を極悪人として描く一点に演繹的に集中させるような、全体を貫く姿勢に対しては注意が必要な気がします。

この本には、これまで通説的に扱われ、今なお中国共産党が守ろうとする毛沢東神話に対する激しい攻撃というか、強烈なアンチテーゼという側面があります。この本の見解だけを鵜呑みにするのではなく、同様のテーマを扱った他の本と照らし合わせることも大切でしょう。(例えば、土地改革など、建国期の共産党の政策についてもユン・チアンは全て毛沢東の農民の奴隷化・搾取の効率化という観点から断罪していますが、農民の解放や生産力の向上に貢献したとする見方もあります。また、サルトルら西欧知識人を魅了した毛沢東主義を完全なペテンであり誤った幻想としながら、その軍事戦略の無能ぶりを強調していますが、戦略家としての毛沢東の思想と才能はナポレオンなどに匹敵するという評価の方が専門家の間では一般的であると思います。)

エコノミスト誌の書評でも、毛沢東伝の定番と言われるPhilip Shortの『Mao: A Life』と比べると、「大躍進」による死者などの問題をすべて毛沢東一人に帰する点など、その見方に偏りが見られるとの指摘もあります。wikipediaでも論争の一端が記されていますが、長征神話の一つである濾定橋の戦闘など、いくつかのファクトの真偽にも論争があるようです。中国研究の大家アンドリュー・ネイサンの書評も参考になります。毛沢東がそれほどの嫌われ者であったのなら、なぜ彼がそれほどの権力を獲得し、周恩来など多くの優秀な人間を心服させることができたのかという素朴な疑問を述べつつ、専門家としての立場から、長征中の濾定橋の戦闘がなかったことや王明毒殺未遂事件などの「新発見」とも言える各事実について、その根拠の不十分さ、不適切さを強調しています。
(なお、このネイサン教授の書評は「梶ピエールのカリフォルニア日記」で知りました。同サイトで紹介されている矢吹晋氏の論評も大変参考になります。ちなみに矢吹氏のエッセイはこの件に限らず興味深いものが多く、特に毛沢東が田中首相に贈った『楚辞集註』の解釈(参照)には感銘を受けたおぼえがあります。また、天児慧『巨龍の胎動』も、最近の情勢まで見据えながら、バランスの取れた視野の広い分析をしており、参考書として大変重宝します。)

とはいえ、毛沢東の理解を深める上で大変役立つ優れたノンフィクションであることは間違いないと思います。膨大なエピソードを取り上げ、目を背けたくなるような陰惨な描写もありますが、読み物としても大変面白いです。

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著者のユン・チアンは世界的ベストセラーである『ワイルド・スワン』の著者ですが、この本は現代中国の実像を知る上で大変参考になった思い出深い本でした。この本には、現代の中国を知るヒントが詰まっています。清末の軍閥割拠、日本軍の占領、国共内戦といった戦乱が続く中での中国人民の生き様、中国の全てを破壊しつくした文化大革命、恐怖と憎悪の中で明らかになる人間の残酷さ、中国の民衆の処世術は「何も考えないこと」である(そうでなければ生きていけない)という指摘、二千年前から変わらない農村と都市の断絶(都市から「知識青年」として農村に下放された著者が、農民を外国人のように感じたことなど印象的です)など、地を這うような体験者の視点からの現実の暴露は、今の中国を考える上でも示唆に富むと思います。

一方で、著者が文化大革命の中でたどった思考の遍歴、例えば魯迅のような開明的で自由な知性によって批判的な精神を学んだことや、米国の独立宣言を読み、「中国に生きてきて一度も知ることのなかった」概念を知り、感動のあまり泣いたことなど、また共産党の抑圧と封建的伝統の苦しみの中で、なお人間としての尊厳を保とうとした人々(その中には劉少奇や彭徳懐といった最高幹部も含まれます)の話は、同じ人間として共感し、胸を打たれるものがあります。「中華思想」に代表される伝統的な中国の価値観を根拠に、中国人と分かり合えることはないという意見も聞きますが、そうした文化論は、非常に重要な価値があるとは思いますが、結局のところ実証できない仮説ですし、あまりうがった見方にとらわれないことも大切と思います。中国の知識人や指導者の中には、古くは魯迅や孫文、最近では胡耀邦など、中国の悪しきメンタリティや封建的慣習といった前近代の伝統を嫌悪し、その克服と欧米的近代化に努め、日本をモデルとして学ぼうとする人々もいました。当たり前のことですが、「中国人」と言っても個人個人を見れば様々です。グローバル化や海外との交流の中で伝統的な考え方が変化する動的な面もあるのではないかと思います。

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それにしても、ユン・チアンは、毛沢東がとった統治システムは人を残虐に殺し続けることでしか存続し得なかったと主張していますが、公開処刑、拷問、批判闘争会、相互告発、家族や友人や師弟といった人間関係の破壊、情報統制といった手段による中国共産党(というか毛沢東)の恐怖の統治には、言葉を失うものがあります。同時代の米国においても国家による人権侵害や陰謀があったのは事実でしょうが、あまりにも次元が違います。ユン・チアンが述べた「自由」の尊さは、まさに著者の心からの叫びと思います。単純な物言いのように聞こえるかもしれませんが、個人の自由が当たり前のものとして考えられるようになった時代と国に生きることの幸福を実感します。

【補足(2006/02/12)】
梶ピエール先生のフォローアップ記事でご紹介いただきました。私のはどうでもいいですが(笑)矢吹晋先生の書評は必見ですね。

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新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

ここのところ更新のペースがだいぶ緩やかになっているのですが、ネタに困っているわけではなくて、色々書きたいことはあります。中身も大体詰まっているので、追い追いアップしたいと思うのですが、色々とチェックしたり、同じテーマを扱った他の方の文章を見て内容を変えたりして、また身辺があわただしいこともあり、何となくゆっくりになってしまっています。不器用なので、拙速より巧遅というスタンスで、マイペースで続けるつもりですので、引き続きゆるゆるとお付き合いをいただければと思います。

昨年の今頃はアクセス数が300超えたら大喜びしていたものだったのですが、最近は更新した日にはコンスタントに1,000前後に達し、アクセス数が減る週末でさえ600~700をキープするようになりました。こんな駄文にお会いしたこともない方々が関心を寄せて下さって、時にはコメントまで下さり、心底ありがたいと思っています。何か新しいことや大したことを述べているつもりはないのですが、こんなテーマがあって、それにはこんな見方ができるのでは、という提示くらいのことをしていると思っています。私の書いた文章を一つの題材にして、皆さんのご知見(あるいは厳しいご指導)をお聞かせいただいて、対話をさせていただければ幸いに思います。

取り急ぎご挨拶まで。

(次回は正月らしく(?)「カラオケから米国のエスニシティを考える」(あくまで仮題です(笑))か、別の意味で正月らしい読書感想文にするか迷っています。)

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