For English, check ABOUT ME below the CATOGORY on the right.
やじゅんのページ/The World according to YAJUN



先週末、両国国技館で大相撲を観戦しました。

昔は大の大相撲ファンだったのですが、最近は相撲に限らずスポーツを見ることにあまり熱心ではなくなってしまいました。しかし久しぶりに見た相撲は迫力があって良かったです。やはり凄かったのは朝青龍。何か、一人だけオーラが違いましたね。あ、高見盛も別の意味で違うオーラを発していましたが(笑)。

それにしても外国人力士の活躍ぶりは凄いものがあります。幕内のみならず、幕下も有望力士はほとんどモンゴル出身とのこと。東欧やロシア出身の力士も伸びているし、これから国際化にますます拍車がかかりそうです。

私が相撲を一番良く見たのは80年代から90年代初頭で、千代の富士の全盛期でした。強いし、カッコイイ、子供心に分かりやすいヒーローでした。また逆に、この絶対のヒーローを破る力士がインパクトがあって、隆の里や大乃国が格好よく見え、非常に面白かったものです。他、ミーハーな私が好きだったのは、若嶋津、北天佑、益荒男でした(よく分かりませんが、美男で強いだけでなく、意外な脆さもあるところが良かったのだろうか)。国技館では、阿武松親方(元益荒男)を間近に見ることができましたが、現役時代より体が大きくなっているのではないか?と思いました。比較的最近の力士で好きだったのは、速攻にかけては天下一、近代相撲の花形と言われた琴錦です。並外れた速さ、鋭さ、バランス、まさしく天才であったと思います。ムラっ気がありすぎて、大成しなかったところも、何か格好良かったです(本人にしてみればこんな風に言われても不本意でしょうが(笑))。

ところで、国技館に行くと外国人観客がずいぶん多いことに気づきます。隣に座っていたドイツ人女性が、日本語を話せないのに、わざわざ場所ごとに出張にやってくるほどの相撲マニアで、秀ノ山親方(元長谷川:史上最強の関脇と言われた)の顔を識別していたのには驚愕しました。世の中色んな人がいるものだなと妙に感心しました。考えてみれば、相撲は、日本が日本らしくあることに今なお貢献する、現在進行形の数少ない伝統の一つです。昨今の角界を見ると、経営不振、若貴騒動、曙の迷走など残念なことが多いですが、いつまでも続いて欲しいなと思います。

ちなみに、現役力士の中でブログを書いているのは普天王一人とか。初日に朝青龍を破って驚かせましたが、その後は調子が上がらない様子で、ブログからもその無念ぶりが伝わってきます。スポーツ選手の息づかいがダイレクトに伝わってくるようになったのも、ネット時代さまさまというか、面白いものだなあと思います。

【余談:アクセス数メモ】
先週は座談会もあってか、4桁台のアクセス数が続きました。分不相応な感じがしますので、そのうちもう少し低いところで落ち着くと予測してますが。

9/16(金) 2427 pv 1106 ip 44位(328380 BLOG中)
9/15(木) 2279 pv 1071 ip 49位(327549 BLOG中)
9/14(水) 2912 pv 1288 ip 43位(326734 BLOG中)
9/13(火) 3905 pv 1607 ip 28位(325768 BLOG中)
9/12(月) 2494 pv 1123 ip 55位(324885 BLOG中)

ちなみに先週一週間の合計は以下の通りです。
09/11~09/17 17515 pv 7758 ip 50位(323999 BLOG中)

コメント ( 7 ) | Trackback ( 1 )




ワシントン・ポスト紙上のブログを見ると、イラクやアフガニスタンにおける「傭兵」として名を馳せた民間警備会社のブラックウォーター社が、ハリケーン・カトリーナの被災地であるニューオーリンズに展開されていることが波紋を呼んでいるようです。

斎藤昭彦さんの拘束事件もあって日本でも話題になりましたが、民間軍事会社(プライベート・ミリタリー・カンパニー)の紛争地での活動は大きな注目を集めるトピックです。「軍事」の中には色々な要素が含まれますが、どこまでの役割をビジネスに請け負わせることが適当なのか、Daily Kosのようなリベラル系著名ブログの批判を見ても分かる通り、米国ではセンシティブなイシューとして論争を呼んでいます。

直感的には、ブラックウォーター社のイラクでの活動をそのままニューオーリンズでの災害救援活動に類推するかのような批判は適切ではないと思いますし、競争原理を働かせることで、災害救援や治安が効率的に実行されるのであれば、それなりの理は認められるように思います。しかし、こうした「暴力」という本来国家が一元的に管理するべき要素を含む仕事において、民間企業がどういった形で関与していくかについては、なかなか難しい問題をはらんでいる気がします。また、官民の相互乗り入れ(revolving door)は米国では珍しい話ではありませんが、ブラックウォーター社の顧問はブッシュ政権で活躍したブラック元テロ対策担当大使が務めています。市場原理が必ずしも働かない特殊な分野において、特定の政治勢力とのコネクションが強まることに批判が寄せられることはあり得る気がします。

ブッシュ政権のハリケーンへの対応は国内で激しく批判されています。そこには色々な事情がありますから、例えば短絡的に「イラクに一生懸命でニューオーリンズをおろそかにした。」という批判には疑問がありますし、民間軍事会社の活動にしても、法の規制や政治との関係について制度化が進むことで、新しい環境に順応していく過程にあるということかもしれません。

ただ、災害対策という基本的には政府の責務とされるべきものが「小さな政府」「オーナーシップ社会」への志向の中で軽視されてきた面はあるかもしれません。米国にせよ日本にせよ、「小さな政府」への志向は一つの大きなベクトルとして存在しますが、当然のことながら、それは何もかもを民間に委ねることを意味しません。「夜警国家」という言葉が示す通り、警察や国防や外交といった分野が典型ですが、政府がやるしかない仕事は引き続き維持するべきですし、むしろ強化する必要すらあります。例えば、よく「公務員削減」という言葉が金科玉条のように「官から民へ」のスローガンとして掲げられますが、そこには政府の機能を十把一からげに見る傾向があるようで、個人的には疑問を感じるときがあります。

【補足】
文章の構成を一部変更しました(9月20日)。

コメント ( 6 ) | Trackback ( 1 )




<先に「その1」「その2」をお読み下さい。>

中断が続いていた「時代の明るさと閉塞感」の続きです。今回は、80年代が良い時代だったといっても、それって過去の記憶の美化とか郷愁に過ぎないんじゃないかなあ?という疑問をきっかけとして、歴史を見る目について思うところを述べてみたいと思います。かなり話が脈絡ないのですが、雑談と思って気楽に読み流して頂ければ幸いです。

そもそも時代が「暗い」とか「明るい」というのも、どうやって判断されるものなんでしょうか。ずっと昔の歴史を見ると、時代の雰囲気の判断というのは、なかなか一概に決められないものであることに気付きます。

例えば、西欧の中世が明るいか暗いかと言えば、一般的には、「暗黒時代」などと言われて、古代ギリシア・ローマの文化がゲルマンを中心とする蛮族によって失われた時代とされ、封建制(農奴制)や自給自足社会の概念とともに、どちらかといえばネガティブなイメージが強調されてきました。それに対し、イタリアのルネサンスに対しては、ブルクハルトら歴史家によって、自由な都市において、(アラブからのアリストテレス哲学の逆輸入等を通じて)失われた古代文明が「復興」されたとし、「近代への序曲」とも呼ばれる明るくポジティブなイメージが見出されました。ただ、「ルネサンス」という言葉自体は、その時代の芸術家たちの作品に出てくることはありますが、こうした評価はだいぶ後になってなされたものであり、後世から見た時代の雰囲気の一つの結論であって、当の本人たちがどれほど「ルネサンス」や「人文主義」を自覚していたかは定かではないと思います。

日本の中世について言えば、石母田正の『中世的世界の形成』による分析が有名ですが、やはり「暗い時代」ととらえられる傾向が伝統的には強かったようです。このイメージと異なる中世像を提供したのが網野義彦で、「無縁」というキーワードによって、明るく自由な世界観を著しました。(両者とも天皇制の権威を中世史を見る上での一つの重要な要素として論じていますが、その社会的役割の評価が異なる点は興味深いです。)

こういう歴史の見方のあゆみを見ると、時代の雰囲気の描写というものは、結構相対的というか、その時代を見つめる人の背景や感覚によっても色々変わるんだろうと思います。もちろん、網野義彦が考察の対象としたのが非農業民であったように、その時代のどこに重きを置くかにもよるでしょう。いずれにしても、歴史は、クローチェやカーらによって指摘されている通り、過去を見る現代人の主体的な思考を離れて存在し得ないということかと思います(「その2」のコメント欄でM.N.生さんが指摘されているように、個人的な思い入れが科学的な考察を妨げる危険があることには注意が必要と思います)。

また、誰の視点なのかという大切さに加えて、入手できる情報や資料の多さ、整理のしやすさも時代を見る目に影響を与えるかと思います。現代史をとって見ても、情報技術の発達のおかげで、ここ10~20年の間の情報は、その前の時代よりもずっと容易に、大量に、整理した形で入手できます。70年代以前をここ20年の間と同じように詳細に見返すのは結構難しいのではないでしょうか。そのため、80年代から現代までは、その時代を生きた人々のフィーリングをより正確につかみ、また多面的に見ることができる(それ以前の方が抽象的・一面的に見る傾向が強い)と思います。本来の時代の様子だけでなく、こうした外在的な要素というものも、結構影響してくるのかもしれません。

最後に、現代と80年代との間にある「90年代」の雰囲気について考えると、なかなかとらえきれない、という気がします。基本的には「失われた10年」と呼ばれるほどの経済の停滞、日米関係のすれ違い、震災とオウムなど、あまりいい話がなかったような気がしますが、90年代前半はまだまだバブルの余韻が残って、意外と元気だったような気がします。(個人的な経験を振り返ると、96年時点では、文系学生の主な就職先は、従来と変わらず商社・銀行でした。その雰囲気ががらっと変わるのは、97年の山一証券、北海道拓殖銀行の破綻後で、外資系とITベンチャーが一般の学生からももてはやされる就職先として見られるようになったのは、大体それ以降のような印象があります。)また、文学・映画・音楽・テレビといった、時代を映し出す大衆文化を見ても、「その1」で述べた80年代の例と比べて、情報技術の発展により、洗練と進化が実現しながら、個々のタコツボ的分野において多くのマニアを生み出すようになった状況があり、やたら多様化と複雑化が進んで、全体像がとらえきれなくなったことに特徴があるように思います(現在はその延長線状にあるという気がします)。もう少し時間がたてば、また違ったとらえ方もされてくるのかもしれませんね。

論旨が不明快、というかそもそも何の主張もない戯言でしたが、こんなところで失礼します。

コメント ( 10 ) | Trackback ( 1 )




選挙が終わりました。プロの人たちからするとかなり意外な結果で、予想をハズシまくったそうですが、私は見るもの聞くものが限られていたためか、やっぱりなあ、という所感でした。

一つだけ、誰しも予想し得なかったのは、比例区の自民党候補者の当選数でしょうか。たぶん、リストの下位にいた人については、当の本人が当選して議員になるなんて思いも寄らなかったのでは。まさに人生万事塞翁が馬ですね。

今後の政局がどう動いていくのか気になるところです。せっかくの大変動の機会ですから、これを活かして、国民が納得いく形で政界の構図が定まっていくといいですね(あと二院制の意義を問い直す時期に来ているのかもしれませんね)。

昨12日の晩(つい数時間前)に某戦国武将さんと一緒にオフ会をしました。お馴染みの某軍師さんに加え、某影の選挙MVPさんと某中年金融マンさんらにもお会いすることができました。お二人ともイメージ通りでしたが、GUCCIさんは想像以上にシブイ方でした。選挙に限らず、各分野についてディープな話をして頂き、私だけ聞くのがもったいないくらいでした。時間がいくらあっても足りなかったですが、今度は『サウスパーク』とか「金持ちまっしぐら」の方法とか東映やATGや若松孝二とか能條純一の話などじっくりとしたいものです。

コメント ( 6 ) | Trackback ( 2 )




とうとう9・11。米国のテロ4周年と総選挙の日ですね。私は故あって昨10日に投票を済ませました。不在者投票や在外投票も簡単にできるそうですし(私もワシントンでしたことがあります)、便利な時代になったものです。報道などを見ると自民党の圧勝ムードのようですが、さて、どうなるのでしょうか(あと、テロがないことを心から願っています)。

ところで、選挙に行ってから気づく人も多いと思いますが、今回は最高裁判所裁判官の国民審査も同時に行われています。最近はこういうサイトがあって、一応法学部出身、司法試験の勉強をかじったこともある私も大いに勉強させてもらいました。特に「歴代最高裁判事リスト」がまとまっていて非常に参考になりますが、このリストを見ると分かる通り、非法曹界から判事になる人もいるんですよね。有名な例が、沖縄返還交渉に際して、異例なほど米国に配慮した発言を行い、物議をかもした大物外交官、下田武三元駐米大使です。その保守的な政治的信条を評価されて、最高裁をテコ入りすべく任命された異色の人物です(実際、ただ一人尊属殺合憲の反対意見を書くなど大胆な意見や発言を行い、保守派の期待にこたえたようです)。

こういう政治的な人事は日本では珍しいというか、「司法の独立」の観点からすれば結構批判的に見られそうですが、司法界と政治が密接な関係にある米国では何の違和感もない話です(過去の最高裁長官には、ウィリアム・タフト元大統領やアール・ウォーレン元カリフォルニア州知事といった(元々法曹経験はあるとはいえ)政治家出身の人もざらにいました)。今米国のメディアにおいて、ハリケーン・カトリーナに次ぐか、それに並ぶほど注目を集めている話題は、レンキスト最高裁長官の死去とその後任人事(保守系のジョン・ロバーツ判事がなると見られている)、それに最近引退したオコーナー判事の後任人事です。ご存知の方も多いかと思いますが、米国における最高裁人事は、米国の政治や社会を見る上で極めて重要な要素です。日本では報道が少ないですが、興味のある方はちょっと注意を払ってニュースに接すると良いと思います。これまでの歴史を含め、主要なポイントをつかむには、阿川尚之著『憲法で読むアメリカ史』がまとまっていて参考になります。

ブログのアクセス数ですが、ここのところ相当安定していて、大体毎日IP800~1000というところです。この更新頻度で毎日見て下さる方がいるのがありがたい限りです。コメント欄には結構まめに思うところを書きまくっているので、そちらも見て頂ければと思います。

しかし、気がついたら夏も終わって、何となくさびしいですね。この記事を雑談スレッドとしますので、「この秋は気合を入れるぜ!」でも何でも、私とおしゃべりしたいという方は適当に書き込んでみて下さい。

コメント ( 7 ) | Trackback ( 2 )




先月、映画『亡国のイージス』を見ました。私の周り(自衛官の友人含む)では、評判は今ひとつのようでしたけど、なかなか迫力があって面白かったです。映画を見た後すぐに原作を読んで、説明がはしょられた箇所を確認してしまいました(笑)。ラストを含めて結構変更されている箇所もありますが、ネタバレになるので記事の中では触れません。コメントを頂ければお返事しますので、興味のある方はコメント欄で大いに語り合いましょう(笑)。

不満というか、気になるところはあります。あら探しをするのは本意ではないのですが、一番気になったのは、敵側が弱すぎるのではないか、ということ。映像の見せ場を作るためにしょうがないのでしょうが、戦闘場面にもっとリアリティが出るように工夫して欲しかったです。あと、個人的には吉田栄作の出番がもっと欲しかった(笑)。いい仕事してましたけどねえ。

韓国映画の『シュリ』もそうでしたけど、北朝鮮の反乱分子が危機を作り出すというパターンは、結構説得力のあるシナリオとして使われやすいようです。何が起こっているのか分からない国だけに、何が起こるかも分からないですからね。怖いです(まあ、そうなったときには北朝鮮も終わりでしょうけど)。

しかし、自衛隊が戦闘する(ましてその撮影に自衛隊が協力する)映画なんて、一昔前にはタブーだったと思うのですが、時代も変わったものです(『戦国自衛隊』はありましたけど、あからさまなファンタジーでしたからね)。最近のウルトラマンは自衛官が変身するそうですね。昔の「科学特捜隊」とか「地球防衛軍」が国際機関だったことを考えると、何か時代の流れらしきものを感じずにはいられません。そのうち米軍との協力にまで発展したりして(笑)。

コメント ( 7 ) | Trackback ( 0 )




日本にとって地震がそうであるように、米国にとって恐るべき自然災害の一つはハリケーンです。今回のハリケーン・カトリーナは過去最大の被害を与えたハリケーン・アンドリューをはるかに上回る損害を与えているとのこと。人的被害は昨年のスマトラ沖地震と比べればはるかに小さいようですが、先進国の一都市が壊滅するほどの被害は想像を絶します。痛ましい限りです。

「ニューオーリンズ旅行」で書きましたが、ニューオーリンズには奇しくも数ヶ月前(4月)に旅行したところでした。記事では南部の重要性について書きましたが、今回の被災地域は米国内でも有数のエネルギー供給地域である点が注目されています。IEA(国際エネルギー機関)は加盟国に石油備蓄の放出を要請し、日本もこれに応じる方針のようです。ここ数年、高騰を続けている原油市場に与える影響も気になるところです。

前回「ワシントン・ポスト紙のイメチェン」について述べましたが、WP紙のブログでもハリケーン・カトリーナが大きな主題となり、熱い議論が展開されてます(WP紙のローカル面とも言える「メトロ」面ではこんなブログも設置されていて、ネットの活用に相当の力を入れている様子です)。すでに様々な意見が出されていますが、危機に対するブッシュ政権の対処の仕方が与える政治上の影響も注目されそうです。

これから不衛生による二次災害や治安の悪化による人災も続くでしょう。元々黒人の低所得層が多かったところだけに、危機によって人種・社会問題が顕在化する危険が懸念されています。それにしても、人々が荒廃した町のスーパー等に集まり、強盗や喧嘩が頻発し、重装備の警官が歩き回る異様な光景は、不謹慎な言い方かもしれませんが、映画『ゾンビ』などに描かれたような高度文明の終末的イメージを想起させるようで、言葉が見つかりません。

キューバ、中国、「古い欧州」など、米国と関係が悪化している国々も哀悼の意を表し、日本や欧州各国は支援を開始するようです。自然災害はどの国にとっても他人事とは思えないことではありますし、9・11のときのように、悲劇をきっかけにして国際社会が少しでも団結する方向に向かえば良いのですが(ただ、米国民自身が強調してますけど、米国内の豊富なリソースをまずはうまく活用して欲しいところではあります)。

それにしても、津波のときもそうでしたが、自然の猛威の前に対する人間の無力を思い知らされます。いかに文明が発達しても避けられない不条理はある、そんな気分になります。

コメント ( 21 ) | Trackback ( 10 )




「時代の明るさと閉塞感」の続きを書いているところでしたが、ちょっとだけ中断します。>

思わず「あれ?」と思いましたが、昨9月1日にワシントン・ポスト紙(電子版)のオピニオン面のレイアウトが大きく変わったようです。

前と比べると、写真や見出しのサイズが大きくなって、ビジュアル面でのアピールを強めている印象です(コラムニストたちの写真も総リニューアルされてます)。個人的には見にくくなった気がしますが、慣れの問題かもしれませんね。

しかし、何と言っても注目すべきは、表題に「Columns & Blogs」とあるように、コラムニストの記事に並んで、ブログがいくつか掲載されていることです。どうやらコメントもオープンのようです。しかもここに出ているブロガーたちは、ワシントン・ポスト紙の顔とも言えるコラムニストたちと肩をならべているかのような扱いをされています。さらに、コラムニストの書いたコラムに言及している在野のブログにもリンクを張っています。これまで「Opinion」だったページの表題を「Opinions」と複数形にしていますが、ネットならではのインタラクション(相互作用)を重視している様子です。

ワシントン・ポスト紙のような伝統あるメディアがこうした大胆な試みを行うのは結構驚きです。ネット時代を意識して大新聞も大きな決断をしたのかな、という印象を抱かせました。ワシントン・ポストと双璧をなすニューヨーク・タイムズの電子版に変化はないようですが、そのうち他の新聞、もしかしたら日本のメディアにも影響が及ぶのでしょうか。

#米国メディアの「コラムニスト」がいかなる人たちなのかについては、「アメリカでジャーナリストになるには?」で触れましたが、簡単に言えばジャーナリストの「花形」的存在です。報道媒体から制約を負うことなく独立した執筆活動を展開する彼らの言論は、米国の世論形成に対して多大な影響を与えています。米国における一種の「知的エリート」とも言えます(日本の一部のジャーナリストが「論説委員」ではなく「コラムニスト」を名乗るのは、米国の「コラムニスト」的存在に憧れているためではないかと思われます)。

#ちなみに、私はワシントン・ポスト紙やニューヨーク・タイムズ紙のニュース面よりもオピニオン面(Editorials/Op-Ed)にあるコラムニストのエッセイをよく読みます。いわゆる日々の「ニュース」の目的は純粋な「事実」の伝達ですから、日本にとって注目すべき海外のニュースについて言えば、(WPやNYタイムズの記事を要約しただけの記事も多い)日本の新聞の政治・国際面を見れば大体はフォローできます(もちろん日本と関係のないニュースはあまり出ないので、分野によっては必要に応じて見ないといけませんが)。なので、実は私はニュース面はあまり読んでません。自分の仕事や興味に直接関係するものを除けば、そもそも一日単位の情報に対する関心が薄いので、日本の新聞の読み方も大雑把なんですけど。

#日々の情報の伝達を超えたまとまった知的な整理や分析に関しては、ニュースを書くリポーターよりもコラムニストが大きな役割を担っています。有名なコラムを読んでおくと、米国人との会話の良いネタになりますし、また米国で何が注目され、識者がどういった議論をしているか、米国(もしくはワシントン)の「空気」を知る上で非常に参考になります。それに、こうしたコラムニストの提供する知見は非常にレベルが高い(日本の新聞の社説やエッセイとはだいぶ趣が違います)ので、必要な情報を効率的に入手する上でも結構役に立ちます。同様に、テレビ番組ではコラムニスト同士のディスカッションを見るのが良いのですが、そのへんについては「米国TV事情:報道ニュース」をご参照下さい。

コメント ( 4 ) | Trackback ( 1 )