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やじゅんのページ/The World according to YAJUN



今日(27日)はアカデミー賞授賞式の日ということで、米国のテレビでは特集番組が色々組まれています。

先週、映画『誰も知らない』(英語タイトルは『Nobody Knows』)を劇場で見る機会がありました。

「日本人が見落としがちな日本の魅力」でも少し述べましたが、日本に比べると、米国で外国映画を見る機会が思ったより少ないのに気づきます。日本の映画がワシントンDCで上映されたのは、昨年秋頃に『牛頭』『オーディション』など三池崇史監督作品や『修羅雪姫』が上映されて以来のような気がします(不確かですが要するに上映される機会がめったにないということです)。

さて、『誰も知らない』について。実話にヒントを得て製作されたそうですが、母親に見放された子ども達が大人に頼ることなく生きていく様を、ドキュメンタリー的手法を使いながら、淡々と、しかし丁寧に描いています。陰惨になりかねない物語を、奇妙に明るく、独特なテンポで描き切っており、ゴンチチの切ない音楽もあいまって、不思議な余韻を残します。柳楽優弥をはじめとする俳優たちも魅力的でした。

というのが映画自体に対する個人的な感想ですが、せっかくなので、米国でならではの話をしてみます。

日本語音声で英語字幕が出ていましたが、「Dude Where's My Car?」についての記事で述べた通り、映画の翻訳というのはなかなか大変なものです。例えば、主人公が「紀元前」という漢字を書き間違える場面があるのですが、ここで英語の字幕では「CC?BCの間違いでしょ」というテキストが出ます。「紀元前」は英語で「BC(Before Christ)」なので、その書き間違いを「CC」で表現したわけです。また、YOU扮する母親が、「悪いことしたら浣腸するわよ」という場面がありますが、ここで英語の字幕で「I'll give you an enema.」(和文の直訳)が出たとき、米国人が声をあげて驚いていました。「浣腸する」という冗談を使わないので、その直訳を見てkinky(ヘン)に思ったわけですね(私もここで「enema」という英単語を初めて聞きました)。

この「浣腸」もそうですが、もしかしたら米国人には日本人以上に刺激的な印象を与えるのかもしれないと思ったところがありました。以下、気づいた点を挙げてみます。

まず、この映画が扱っている子どもの虐待の問題は、米国では極めてセンシティブなイシューです。子ども達を置き去りにするYOU演じる母親は、米国人にとってはかなり理解に苦しむ問題人物に見えたと思います。軽いタッチで描かれているとはいえ、ストーリーそのものは、米国人からすれば相当ショッキングだったはずです。

また、主人公が裸になる場面が多いのもちょっと違和感をおぼえさせるかもしれません。日米の性描写の比較で述べた通り、米国人はこの手のセクシャルな描写に敏感で、特に子どもがそういう姿を見せることに強い抵抗を示します。小児愛を扱ったトッド・ソロンズ監督の『ハピネス』という映画は、米国のタブーを破った「問題作」でしたが、この映画においても子どもの裸の直接的な描写はありませんでした。

性描写も暴力描写も皆無なのに、映画のレイティングがPG13(13才未満は親か保護者の同伴が望ましい)となっているのはこのへんの不安感から来ているのかと思います。

映画は今月のニューヨークタイムズ、LAタイムズ、ニューヨーカー誌で取り上げられました(ワシントンでの上映を受けてだと思われますが、ちょうど25日のワシントンポストとワシントンタイムズでも紹介されました)。ワシントンタイムズの、リアリティに乏しいというどちらかと言えば中身のない批判を除けば、総じて米国評論家からの評価は高いようです。北野武、中田秀夫、宮崎駿らこれまで米国で人気を博した監督たちとは異なる是枝裕和監督のスタイルが注目され、米国人になじみのない独特のリズム、植物など細かい事物の描写、奇妙なスリル感、静寂的な美しさなどが取り上げられています。

私の挙げた懸念は、どの記事にも多少はあるようですが、それほど問題視はされていないようでした。ちなみに、何人か米国人の友達に聞いてみたら、母親像は物議をかもすかもしれないが、裸の描写はそれほど問題視はされないだろうとのことでした。

いずれにしても、こういった日本ならではの映画を生の形のまま外国に伝える機会が出てきていることは悪いことではないと思います。カンヌ映画主演賞をとったように、この種の映画は欧州の方が好む気がしますが、米国でもどんどん自然に受け入れられるようになってくるかと思います。今後、アニメ、ホラー、アクション、北野武以外の幅広い分野の日本映画も上陸してくると思いますが、米国人の反応が楽しみです。

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<この記事は2月17日に掲載した「日本における「保守」と「リベラル」とは何か」の続きです。>

霞ヶ関官僚日記(以下kanryo)さんのところで自分の政治的位置を知ることのできるテストを知りました。試したところ、こうなりました。

Economic Left/Right: -2.75
Social Libertarian/Authoritarian: -1.44

思ったより左だなあ、と思いましたが、kanryoさんのコメント欄を見ると、大体多くの日本人が位置するところのようです。

さて、同じページで、kanryoさんは日本における左右の思想の対立要素を整理して下さっています。kanryoさんも留保している通り、細部については個人の考え方次第のところもあるかと思いますが、大筋的確な整理だと思います。ただ、前回の記事(とコメント欄)で述べましたが、日本ではあまり右と左の対立軸を意識する必要もないのかなあ、というのが私の所感です。

以下、前回の記事と重複する部分もあるのですが、今までの議論のフォローアップでもあるので、「霞ヶ関官僚日記」さんの記事のコメント欄で述べた私の見解をお知らせしておきます。

・・・

>kanryoさん「「左」の人はある程度共通の要素があるけど、「右」はばらけているような気がします。」

この部分は私もそう感じます。いわゆる「左翼」」(=過去の問題、平和主義、反体制(反国家、反天皇制)、反米等の理念によって自己規定する存在)の目指す理念は比較的くっきりと現れているので、左翼に関しては積極的・主体的に自分は「~」であるとアイデンティファイできる。一方、それ以外の人たちには、何か求心力のある理念が確立して共有されているわけではないので、消極的に自分は「~」ではない、としか言えないということかと思います。そうであれば、「左翼」に国論を二分するほどの強い求心力があるとは思いませんし、「左翼」以外の人々をまとめる極が存在しないわけですから、日本では「右」と「左」の対立軸を中心に政治を見ることは(米国と比較して)あまり有効でないのかな、というのが私の結論です。

>kanryoさん「戦前の国家総動員態勢は一般には「右」というイメージですが、政府が積極的に経済を統制するという意味では、「左」の共産主義・社会主義と同様です。」

その通りですね。極左的考え(共産主義)と30年代の統制経済につながる極右的考えは、政府による社会の統制という目標においては一致します。この時期の革新官僚や「国家社会主義」を唱えた北一輝らが共産主義を研究し、それを自分のモデル形成のために参考にしたのはそのためです。また、戦後、極左活動家の転向が相次ぎ、その多くが有力な右翼になるのも、そもそも彼らが考えていた最終的な目標が実は右翼と変わりがなかったため、案外違和感がなかったということもあるのでしょう。この点、極右と極左は突き詰めると同じところに行き着くわけですよね。

>kanryoさん「「右」の中には反米的立場をとる人もいますが、米国との関係を強化すべしという人もいます。」

一般的に日本の「ナショナリスト」は誰かと米国人に聞けば、石原慎太郎が挙げられます。保守的ですけど反米という好例ですね。

>kanryoさん「左の人はある程度目指す理念がくっきりと表れている、右はその反射という感じは私も持っています。ただ、その目指す理念の核がよくわからないんですよ。共産主義あるいは社会主義というのだったら理解できますが、単なる「反日」ではないかと思ってしまったり。」

おっしゃる通りですね。私が念頭に置く「左翼」はおっしゃる通り社会主義者もしくは共産主義者です。他の要素も考えるとどうしても拡散してしまうのでこの辺に絞らざるを得ないかなと。
「反日」については、「反体制」と置き換えて考えれば、社会主義者と共産主義者の両方に通じる要素だと思いますが、過去の問題をどう見るかにも絡むところでもあるので、必ずしも社会主義もしくは共産主義イデオロギーと一致する必要はないのでしょうね。その意味では社会主義もしくは共産主義とは違う次元の要素と見ることもできると思います。
いずれにしても、日本の「左」は非武装中立とか過去の問題とか北朝鮮賛美とか日本特有の事情や、米国や欧州では主流になり得なかった共産主義幻想が混在し、現実的な政策を見る立場から離れてしまった結果、求心力を得ることができなかった面があるかと思います。観念論を離れてもっとリアルな見方に徹すれば、欧州や米国のように政権党になる可能性を持っていたと思うのですが。
ところでリベラルと比べると保守勢力が定義しにくかった時代は米国にもあったのではないかと思います。50~60年代リベラル全盛の頃です。保守には色々な勢力と考えが雑然としていて、まとまりがなく、理論家もおらず、リベラルに対抗できなかった。その危機感から、ゴールドウォーターが「保守の結集」を呼びかけ、ウィリアム・バックリーJr.などの理論家が出現し、その理論の力によって保守がまとまり始め、ニクソンの南部戦略などの政策の具体化によって保守の逆襲が始まるわけです。近年のネオコンも、理論家といえばリベラルが優勢というイメージに対抗して、保守にも「論客」はいるし、「アイディアの戦い」でも勝負できるということを示す役割を果たしていると思います。

・・・

最後のやじゅんのコメントは、あまり長々とコメントを残すのも申し訳なかったので、「霞ヶ関官僚日記」のページには書きませんでした。この記事のTBがうまくいって、kanryoさんがご覧になってくれれば良いのですが。

【余談】
23日付ワシントン・ポストに米国の民主党が労働者やマイノリティの間での人気を失っていることを述べた記事(Op-ed)がありました。大統領選の出口調査によれば、景気が回復しているとは言えない状態にもかかわらず、白人労働者の54%がブッシュ大統領の経済政策を支持したそうです。その背景にあるのは、労働組合の加入率の減少と株式投資型経済政策に変わり得る経済政策を民主党が提示できていないことにある、と説明しています。一連の議論の参考情報としてメモしておきます。

【関連記事】
日本における「保守」と「リベラル」とは何か (2005/02/17)
米国政治における保守・リベラルの振り子現象 (2005/02/14)

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<できれば、先に以下の記事をご一読下さい。>
1.プロローグ(米国にいると米国かぶれになる?)
2.序論(米国を見る上での3つのポイント)
3.米国の多様性(第一のポイント)
4.米国を支える価値観(第二のポイント)
5.超大国としての米国(第三のポイント)

なんだか、米国のポジティブな面ばかり強調しているようで、なんだコイツは、と思われたかもしれません。自分では価値判断から離れた立場で、なるべく事実を伝えたいと思ったのですが、なかなかそうはいかなかったような気がします。

ただ、何度も述べている通り、私も米国を盲目的に信じるつもりは全くありません。色々な不安な要素はあります。まだ自分の中で整理できないので、上手に述べる自信はありませんが、とりあえず一つ挙げておきたいのは宗教の問題です。

「ブッシュのサポーターはどこに?」の記事や米国新政権に関する一連の記事においても述べましたが、米国は驚くほど宗教性が強い国です。これだけ、毎週教会に生き、聖書を読み、お祈りを捧げ、神を信じると公言する人たちが多い国は、政教分離を掲げる世俗的な先進国の中ではめずらしいと思います。日本人の私から見ても異質ですし、欧州の留学生から見ても不思議な国だと思うそうです。

米国の宗教性の淵源は17世紀のピルグリム・ファーザーズのプリマス上陸まで遡ります。本国英国で迫害されて新天地を求めてやってきたピューリタンの精神は植民地建設に大きな影響を及ぼし、ジョン・ウィンスロップのように「A City on A Hill」と言われる神権政治を行う人もいました。そして18世紀の「大覚醒」と呼ばれる運動や西部開拓を通じてキリスト教の強さが定着していくのですが、この辺の詳細はまた別の機会に論じようと思います。いずれにしても、建国以来の歴史が米国の宗教性を形作ってきたのです。

(専門的な話になるので詳しくは述べませんが、米国は特定の宗教を国教とはしない政教分離原則を人類史上初めて憲法で規定した国であること、その宗教の内容は「civil religion」と言われる特異な文化であり、信仰と「神」が公的領域に関わるものと理解されていることといった特有の事情には注意が必要と思われます。)

宗教は先の大統領選でも大きな役割を果たしました。共和党の戦術の一つが、信仰心の厚い人たちの動員であったことも事実です。宗教を政治化させる選挙戦術には、個人的に疑問を感じたことも事実です。

ただ、よく「宗教右派」という言葉が一人歩きして、異常に排他的な原理主義者が、一致団結して、米国を「神の国」にするべくブッシュをサポートした、というイメージもあるようですが、それは誇張だと思います。私は留学中、自分自身の勉強のため頻繁に教会に行き、そこにいる人たちと交わり、バイブル・スタディーという聖書の勉強会にも参加しました。そこで会った人たちは、まさに「宗教右派」とでも言うべき信仰心のあつい米国人でしたが、中には押し付けがましい人もいたものの、大半は素朴で、良心的で、非常にオープンな人たちでした。「神を信じるか?」と彼らに聞かれたとき、私は正直に(というか考えなしに)「どちらかというと・・・懐疑的?」とか、「一応、家は仏教徒ですが・・・」と答えましたが、彼らは一瞬だけ悲しい顔をして、すぐに「いや、いいんだよ、構わない。君がいたいと思えば一緒にいればいいし、いたくなければ単に遊ぶだけで構わないのだから。」と言ってくれました。そんな人たちばかりです。教会に行ったりするほかは、ソフトボールなど一緒にして、一種のコミュニティ活動に近いノリがありました。(米国人は個人主義とよく言われますが、実はグループ活動が好きな一面も持っています。これもそのうち機会があれば述べてみます。)

ジェリー・ファルエルのようなテレバンジェリスト(テレビ伝道師)が結成した「モラル・マジョリティ」は公称650万人もの会員がいるそうですが、ファルエル氏の過激な原理主義的発言は、時として宗教右派を含めた多くの米国人から顰蹙を買うこともあります。

考えてみれば当たり前の話で、教会に行く人や信仰心を公言する人を全て異常で危険な人たちと見なすことは、イスラム教徒を全て危険な原理主義者やテロリストと見なすこととあまり変わらないでしょう。

米国のように、日本とよく似た近い国が、こんなにも宗教的なのは確かに驚くべき事実ですが、あまりにも誇張されたイメージを抱くことは、かえって現実から離れてしまうのではないかと思います。

その他、米国にも色々取り上げるべき問題はあると思いますが、とりあえず今回の「嫌米?親米?」シリーズはこれで終わりです。またこうしたテーマを取り上げることもあるかと思いますが、皆さんからご意見も頂けると幸いです・・・と思ってたら、早くもRider-manさんとstandpoint1989さんから貴重なご意見を頂きました。近々、シリーズの延長という形でお答えしてみたいと思います。

(今回の一連の記事は、ずっと以前から何らかの形で発信したいと思っていたテーマでした。ブログを始めた動機の一つでもあります。これで一区切りついたので、ブログを休んでもいいかな、と思っていましたが、ブログを始めて以来、書きたいこと言いたいことが沢山見つかってしまったので、そのまま続けることにします。)

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21日のアクセス数はIP1274、PV4005にもなってしまいました(gooランキング27位)。22日はIP797だったので、瞬間最大風速は通り過ぎたようですが、想像を絶する事態です。これは以前述べた通りかんべえさんのご推薦から生じた現象なのですが、嬉しい反面、小心者なので結構あわてています。だからと言ってコメントやTBがたくさん来ているわけではなし、何かが変わったわけではないので、今まで通りマイペースで書きたいことを書くだけなのですが。ご来訪頂いた方、特にリピーターの方には感謝しきりです。お付き合い頂いてありがとうございます。

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<この記事を読む前に、できれば以下の記事をご覧下さい。>
1.プロローグ(米国にいると米国かぶれになる?)
2.序論(米国を見る上での3つのポイント)
3.米国の多様性(第一のポイント)
4.米国を支える価値観(第二のポイント)

米国は超大国です。米国が世界に比類なく巨大な力を持つ国であるという厳然とした現実を受け入れた上で、日本がどうあるべきかを考えることは、日本が平和と繁栄を享受する上で決定的に重要だと思います。

もちろん、米国が間違っていると思えば、それを良い方向に変えようと努力は大切です。しかし、あなたは間違っている、これが正しい道だ、こうするべきだ、と声高に唱えるだけでは、米国は変わらないのです。そのとき、じゃあどうすれば米国は変わるのか、という視点から現実的な方策を考えないと、残念ながら超大国に比する力を持たない日本には何も出来ません。米国も国家である以上、連邦政府・州政府に税金を納めている人々の利益を代弁しなくてはならないのはある意味当然なことです。そんな存在に対して、声高に「おまえは間違っている」と言っても、それだけでは米国を動かす効果はありません。

もちろん、米国の力を考えれば、こんな風に言うことは筋違いとはいっても、世界に対する責任感を持って頂きたいと思いますし、あまりにも特殊な地位を占める国であるがゆえに、国際社会が厳しい目を向ける必要もあるかと思います。しかし、だからといって、米国のすることが自分勝手だから、米国から離れようとか、他の国と組んで米国と対抗しよう、という発想が正しいとは思いません。日本としては、むしろしたたかに、米国の懐に飛び込んで、内側から米国をコントロールしてやる、変えてみせる、という気迫で臨むべきではないでしょうか。

例えば、以前に東アジアにおける地域協力について述べましたが、私はアジアにおいて米国を抜きにして安全保障の議論をすることはできないと思います(やる意味がないとは言いませんがせいぜい信頼醸成のレベル止まりでしょう)。むしろ、米国をこちらのやりたい方向にうまく巻き込んで、中国も関与させつつ、日本にとって都合のいい形でアジアの安全保障環境を作り上げるのが、現実的で有益なアプローチだと思います。

こう書くとずいぶん弱気だとか、情けない態度だな、と思われるかもしれませんが、米国の巨大な力を恐れ、プライドが重要だから、これしかないから、無理でもやるしかない、という発想を持つことは、先の戦争に到る思考に通じることになってしまうのではないでしょうか。現実をおろそかにした理想論は悲しい結末しかもたらしません。

米国が超大国だから、何となく危険だとか、信じられないとか、毅然としたプライドで臨むべきだ、という議論は往々にしてナショナリスティクな感情論になることがあります。政治家にしてみれば、こうしたポピュリズムに頼るやり方の方が、実はよほど簡単なのです。世論に阿って、人気取りといういわば選挙対策のために米国と距離をとることが勇気のある決断とは思いません。親密な関係を続けて、内から米国に影響力を行使しようとすることは、よほど本当の勇気を必要とすると思います。

【補足1】
歴史を振り返れば、戦前の幣原喜重郎の国際協調外交は、軍部や政党などの対外進出積極派から批判されただけではなく、「米英何するものぞ」という考えが多数を占めた国内のメディアと一般国民の中においても大変不人気なものでした。結局、日本政府は国内世論を優先し、ドメスティックな大勢に従う形で外交を決定したことで、先の大戦に至ってしまったのです。また、前回の記事で述べた「どこかの国に対抗するためにある相手とパートナーになるような戦略的意図を持つのであれば、その結ぶ相手がいかなる存在なのか見極めることが重要」というポイントは、戦前に日本が選んだ国がナチス・ドイツであったことを思い起こしてもいかに大切か分かるかと思います。これらが現在の状況にそのまま当てはまる例と言うつもりはありませんが、参考になるところはあるかと思います。

【補足2】
欧州の最近の事情をよく知らない私が米国にいて言うのもバイアスがかかっているのかもしれませんが、イラク戦争前後の独仏の対応は圧倒的に国内世論に目を向けて形成されたものだと思います。世界を良くするため、ということではなくて、国内の選挙に勝つために米国と距離を置き、イラクで消耗するリスクを回避し、隙あらば利権を確保しようとしているだけのように見えます。ある意味したたかなのでしょう(ドイツはフランスと比べるとまだナイーブに見えます)が、長期的な視点に立てば、世界にとってもまた彼ら自身にとってもこれが正しい政策なのかどうか、個人的には疑問があります。また、これを「米国というわがままな悪い国に立ち向かう国際協調を重視する善良な国々」のように眺めるのはナンセンスです。近代国家の誕生以前から生き馬の目を抜くような熾烈な外交ゲームを経験してきた欧州は、米国や日本と比べものにならないほど権謀術数に長けた存在であり、自国の国益を何のてらいもなく優先するリアリストたちです。米国や日本より国力の劣るフランスが、ドゴール以来、そのしたたかな外交によって、いかに国際社会において発言力を維持してきたかを考えてみて下さい。彼らに比べれば、米国すら単純で素朴でナイーブな存在に見えるときがあるほどです。おそらく、多くの人々が欧州は欧州のやり方があるのだからそれに異議をはさむべきではない、と言うのでしょうが、それならなぜ米国に対しては違う基準を期待するのかちょっと不思議です(それは、この記事の冒頭に書いた通り米国には「超大国」としての「責任」があるから、と言うことなのだと思いますが、それならばどこの国にもその国の「力」に見合った「責任」はあるのですから、欧州に対しては注文をつける必要がないということにはなりませんよね)。いずれにしても、私は欧州がイラクに関与しないから日本も関与しなくてもいいだろうという風に考える気にはなりません。

(以上で、私が述べたかった3点のポイントはおしまいです。次回は最終回。補足として、注意すべき米国の特殊性について述べます。)

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<この記事を読む前に、できれば以下の記事をご覧下さい。>
1.プロローグ(米国にいると米国かぶれになる?)
2.序論(米国を見る上での3つのポイント)
3.米国の多様性(第一のポイント)

今回は、米国が持っている根っこの価値観について触れたいと思います。それは自由と民主主義とそれを支える政治経済面でのルールの重視です。

前回、米国には多様性を尊重する風土があると述べました。それを支える政治原理として米国人は自由と民主主義を極めて重要視します。これらが建国以来の米国の根っこにある精神であることに疑いはありません。

日本と米国はこうした価値観を共有するパートナーと言えますが、この点は意外に見過ごされがちな気がします。民主国家の数が現在よりも少なかった冷戦時代の方が皮肉にも強く意識されていたのかもしれません。冷戦後、多くの国が民主化しましたが、中国や多くの中東の国々はいまだ民主国家ではありません。これらの国と友好関係を保つことも日本にとってもちろん重要なのですが、そこには一定の限界があることを忘れてはなりません。

日米間においては様々な利害の衝突がありますが、基本的には同じ価値観を共有する仲間同士です。どちらの国もお互いの国力が落ちることにメリットを見出しませんし、国民や政策担当者の間でそうした認識も十分に共有されていると思います。

ここでやや脱線めいた話をします。米国との外交交渉に携わった人の中では、経済交渉から入った人は米国嫌いになり、政治安全保障から仕事を始めた人は親日的になる傾向があるという説があるそうです。

経済交渉においては、日本人は米国流の資本主義に直面することになります。資本主義は、ある意味人間の欲望を全面的に肯定し、一定のルールに則った上で「よーいドン」と激しい競争を行わせるものですから、時としてゼロ・サム・ゲームのような状況も生まれますし、それぞれの当事者の利益の厳しい衝突も生じます。苛烈な経済交渉の中で、人間の欲望を剥き出しにする米国人の姿に嫌気が差すこともあるのかもしれません。ただ、それでも米国人の考え方の根底には、競争する主体が誰であれ、公正なルールに則った上で競争することが本質的に重要であるというコンセンサスがあります。日本との貿易摩擦が激化する中で米国政府が無理な要求をする局面もありましたが、経済交渉において実際のところ大きな政治問題となったのは、日本の経済力の伸長に対する心理的な圧迫感というよりは、雇用の喪失の危機感という現実的な問題でした。近年、トヨタをはじめとする日本の自動車産業が、米国で自動車工場を設立し生産を現地化させ雇用を創出するようになった結果、あれだけバッシングされていたのも今は昔、直接投資を通じた進出はむしろ歓迎されている状況にあります。言うまでもなく、消費者レベルにおいては、安くて質の高い日本製品は歓迎されています。また、日本の経済力の興隆を脅威と感じつつも、その経営のあり方を客観的に高く評価し、これを自らのシステムに取り入れる人たちもいました。

政治安全保障問題においては、日本と米国は共通の利害関係を持つ同盟国として、基本的にはゼロ・サム・ゲームというよりもお互いの協力を通じて利益を高め合うウィン・ウィン・ゲームの関係にあります。このため、政策担当者の間での意思疎通は極めてスムーズだそうです。日本駐留経験のある米国軍人の多くは極めて親日的です。特に、海上自衛隊と米国海軍の連携は歴史的なものであるとされています(阿川尚之著『海の友情』が参考になります)。

私は、日本は米国に身を委ねてもいいというほどの盲目的な信頼を持つ気はありません。しかし少なくとも、他の国々と比べて相対的に米国がパートナーとして信頼に足る国であるということは言えると思います。

(ちょっとだけ具体的な話に踏み込めば、例えば米国に対抗するために中国と結ぶという考え方に私は与しません。敵の敵を味方にして相対的な優位を確保するという単純なパワーゲームの発想は、冷戦の時代ならいざ知らず、今の時代に適合するものとは思えません。仮にどこかの国に対抗するためにある相手とパートナーになるような戦略的意図を持つのであれば、その結ぶ相手がいかなる存在なのか見極めることが重要です。中国がかつての中国ではないことは事実ですが、だからといって日本、米国、韓国のような民主国家になったわけではありません。私は何も中国と仲良くするなと言ってるわけではありません。友好関係を固めることは非常に大切です。ただ、それがより重要なパートナーとの関係を犠牲にするような場合には、十分慎重に考えなければいけないということです。これは以前に掲載した「外交政策における価値観」についての記事に関わる部分でもあります。)

(次回は、超大国としての米国について述べます。)

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「嫌米?親米?」の記事の続きをすぐに出すつもりだったのですが、取り急ぎ手短にご報告(と自分へのメモ)までに書きます。昨20日のアクセス数がIP720、PV2056とこれまでの記録(IP572、PV1376)を大幅に更新しました。何が起こったんだろう?と思ったら(すぐに予測がつきましたが)、かんべえさんがリンクを貼ってご紹介してくれたからでした。ありがたくも畏れ多いことです。中には一見さんで帰っていく方も多いでしょうし、こういう突発的な増加と恒常的なアクセス数の増加とは別問題のところもあるので、あまり手放しで喜べないところではありますが、大いに励みになりました。

ということで大した内容がないので、この記事を一応雑談スレッドとします。特定の記事と関係なく何かやじゅんに言ってみたいことがあるという方はご自由にどうぞ。

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standpoint1989さん、むなぐるまさん、愛・蔵太さん、news_from_japanさんらが日本における保守とリベラルの状況について論じられています。とても興味深かったので、「嫌米?親米?」シリーズを続けているところですが、これを中断して私もちょっとだけコメントしてみます。

まず、日本に「保守とリベラル」という対立軸を当てはめること自体が難しいのだろうなと思いました。
こういう理念のせめぎあいの構図は、本来、それぞれの国がそれぞれの歴史を経験していく中で整っていくものですよね。欧州においては、大まかに言えば、保守主義、自由主義、社会主義という順に思想が生成発展しましたが(共産主義や全体主義もありました)、米国においては、建国の出発点から前提(歴史的背景)が異なるため、欧州とはまったく違う流れの中で、保守とリベラルの対立軸が定まりました。「リベラル(=自由主義)」という概念が欧州と米国において異なる意味を持つことがあるのはこのためです。例えば、アダム・スミスは欧州では「自由主義者」としてとらえられますが、米国では「保守主義者」としてカテゴライズされることもあります。

米国においては、保守とリベラルの目指す理念がある程度固まっていて、突き詰めると価値観の問題というか、どちらが正しいとは誰にも言えない哲学的な争いがあり、それをお互い認識した上で妥協点を探す、という構図になっているかと思います。したがって、それぞれの分野に積極的・主体的に自分は「保守」である「リベラル」である、と主張する論者が存在します。

では、日本においてはどうかといえば、私は日本においては二つの理念の対立という構造が確立していないのではないかと思います。
しいて言えば、いわゆる「左翼」(=過去の問題、平和主義、反体制(反国家、反天皇制)、反米等の理念によって自己規定する存在)とそれ以外の人々との間での対立の歴史はあったように思います。
つまり、戦後平和主義的な「左翼」の目指す理念だけがかなり純化された理想としてくっきりと現れている。したがって、左翼に関しては積極的・主体的に自分は「~」であるとアイデンティファイできる。一方で、それ以外の人たちには、何か求心力のある理念が確立して共有されているわけではないので、消極的に自分は「~」ではない、としか言えない(ブログ上で頻繁に見かける「ネット右翼」などのレッテル貼りは、その混在している人々を強引に類型化する危険をはらんでいる気もします)。それがこれからの対立軸として機能するものなのか、なかなか難しいものがあります。(政治史においても、「55年体制」などを考えてみれば、そもそも今までも機能してきたと言えるのかどうか疑問があります)。

このような状況が国として未発達であるために「まだ」できてないということなのか、あるいはそもそもこの国のかたちになじまないものなのか、そのへんはよく分かりません。日本の場合、政治思想にせよ哲学にせよ多くの概念を西欧から輸入し、歴史的経緯や状況が大きく異なるにもかかわらず、そのままあてはめようとする傾向が一般的にあります。保守とリベラルの話もその一面に過ぎないような印象があります。
いずれにしても米国で描く「リベラル」の像を日本で探しても、それはなかなか出てこないだろう、とは思いました。

【補足】(2月18日付)
あらためて読み返すと分かりにくい文章でしたので、要点を箇条書きにしてみました。
(1)日本の「保守」と「リベラル」の概念を米国(や欧州)における概念と同一視することにはおそらく無理がある(米国における保守とリベラルについてはブッシュのサポーターはどこに?をご参照下さい) 。
(2)日本の「保守」と「リベラル」の概念を定義するのは難しい。仮に「リベラル」=「左翼」としてとらえて日本の戦後をながめると、過去の問題、平和主義、反体制(反国家、反天皇制)、反米等の理念(もしくはマルクス主義)に傾倒している面が強い。そうだとすれば、「リベラル」が米国のような一方の極としての求心力を有する政治勢力として評価できるのかに疑問が残る。
(余談ですが、ジョン・リードらの主として30年代の知識人の左傾を見ても分かる通り、米国の「リベラル」に共産主義が含まれないことはありません。しかし、それはリベラルの中でも「極左」と位置付けられる異端とも言うべき存在でした。米国における共産主義の不遇については、冷戦構造が強い影響を及ぼしたわけですが、そもそも建国以来の米国民のメンタリティと相容れない部分が大きかったように思われます。)
(3)以上にかんがみれば、日本において「リベラルが弱い」と見えることはある意味自然と思われる。もし「保守」と「リベラル」が二大勢力として拮抗する構造を見出すのであれば(それが適当であるかどうかはさておき)、日本においてこれらの概念が何を意味するのかをまず確認する必要がある。(これは自民党と民主党の二大政党制を実現できるかに関わってくる部分でもある。)

【関連記事】
ブッシュのサポーターはどこに?(2004/12/25)
米国政治における保守・リベラルの振り子現象 (2004/02/14)
米国の多様性(2005/02/16)
(いずれの記事もコメント欄まで見ていただくと、米国における保守とリベラルに関する議論がかいまみえると思います。)

<次回から「嫌米?親米?」シリーズに戻ります。>

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<この記事を読む前に、できれば以下の記事をご覧下さい。>
1.プロローグ(米国にいると米国かぶれになる?)
2.序論(米国を見る上での3つのポイント)

米国を見る上での3つのポイントの第一弾として、まず米国の多様性について述べます。

米国には色々な側面があり、これを一口に言い表すことは極めて困難です。政治思想で言えば、保守とリベラルという二つの柱が存在します。米国においては、建国以来、分権の意義が強調され、州ごとに異なる制度、異なる思想と背景を持った人たちが存在します。連邦政府においても、行政機構と議会の間で均衡の関係が保たれ、政治決定は複雑なプロセスをたどります。米国は移民の国でもあります。様々なエスニシティが混在するため、今やアングロ・サクソン(あるいはCaucasian(白人))という概念によって「米国人」を規定することはできません。

外交政策について見れば、歴史家のウォルター・ラッセル・ミード(Walter Russell Mead)は、著書『Special Providence』の中で、米国には、合理的国際貿易主義のハミルトン主義、人権外交のウィルソン主義、素朴な好戦主義のジャクソン主義、伝統型孤立主義のジェファーソン主義、という4つの行動原理が存在し、外交政策はこれらの思想のせめぎあいの中で形成されると述べています。

そして、こういった一つにまとめられない多様な要素の存在を、尊重し認めることが、建国以来からの米国の基本的な理念だと思います。トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』の中で米国における「平等化」にいかに感銘を受けたかについて述べています(同時に、多数派の専制など、その平等化がもたらす弊害も指摘し、それを阻止するためのシステムについても説明している)。

私が素直に米国に感心する点の一つは、ヒスパニックでもアジア系でも、帰化したいと思えば(一定の条件さえ満たせば)、誰でも米国人になることができる点です。移民に対して排他的な国が世界には多く存在する中、米国の開放性、偏見のなさには驚くべきものがあります。イチローが新記録を達成したときの暖かい祝福、民主党大会におけるバラック・オバマ氏のスピーチ
「... there’s not a liberal America and a conservative America--there’s the United States of America. There’s not a black America and white America and Latino America and Asian America. There’s the United States of America.」
が党派を超えて感動させたことなどを見ると、そうした理念が国民の間でいかに強く共有されているかが分かると思います。

いま、米国を嫌う人の多くは、ブッシュ大統領の個性を毛嫌いしているのではないでしょうか。しかし、米国全体が、ブッシュ政権の考え方に染まっているわけではありません。色々な考え方の人がいます。どの時代においても、米国には、政権と異なる考えを持つ人たちがいて、その人たちもそれなりの力を持っています。そして、米国ではそうした意見が自由に表に出ますし、政府はそうした多様な意見も汲み取りながら、政権を運営する必要があるのです。

一部の限られた人が権力を握り、国を動かしているような陰謀論の多くは、ある一面のみを取り上げて強調し、複雑な現実を見ることを放棄しています。実際に、指導者がトリックまがいの陰謀を試みれば、強力な批判を浴びせられ、あっと言う間に支持を失うでしょう。

米国の何かが気に入らない場合、それが米国の中でどれほど代表的な位置を占めるものなのか、対抗する立場はないのか、まず確認してはどうでしょうか。米国を見るときには、その中に存在する多様性に十分な注意を払って、複眼的な思考に努め、安易な結論を出さないようにすることが重要と思います。

(本件については、「ブッシュのサポーターはどこに?」の記事においても取り上げていますので、よろしければご一覧下さい)

(次回は「米国を支える価値観」について述べます。)

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<できれば、この記事を読む前に、米国にいると、米国かぶれになる?(嫌米?親米?:その1-プロローグ) をご覧下さい。>

日本では、イラク戦争や自衛隊の派遣を一つの契機として、米国に対する懐疑心が深まっているやに聞きます。特に、ブッシュ大統領の個性に対する反発が大きな要素を占めているように見えます(BBCによる21カ国における世論調査(1月19日付)によれば、過半数がブッシュ再選後に世界がより危険になったと考えているとか・・・この種の調査結果は他にもあるかと思います)。

一方で、現政権の政策という次元を超えて、一般的な反米感情あるいは嫌米感情は古くから存在しているような印象があります。嫌米論者の多くは、親米論者を、国家的なプライドを捨て、「長い物には巻かれろ」的な追随主義に徹しているとし、それは一種の思考停止であると主張しているように見受けます。また、米国の圧倒的な軍事力、「グローバル・スタンダード」の押しつけ、宗教に凝り固まった理解不能さ、といった点を問題視し、米国に頼ることの危険性を強調するようです。

日本が米国とどう関わっていくべきか、という議論は難しく、しかしおそらく、外交上最も重要な位置づけを占めるテーマです。その重要性ゆえに、米国シンパかアンチ米国かという議論は、いつも大きな波紋を呼びます。

自分の率直な意見を言えば、ある外交政策を決定する際に、親米か嫌米かという基準で物事を見ること自体、好きではありません。外交の方針を決める上で、米国に「追随」するのが良いのか悪いのかという考え方は、そもそも適切でないと思うのです。米国が決めたある方針が、日本から見ても正しいことだと思えば、米国と同調すればいいし、そうでなければ同調しない、そういった機能的なアプローチが、本質的には重要だと思います。個々の判断をする前に、米国に従うことは、強い者に媚びていて情けないではないか、プライドはないのか、というイデオロギー的な価値判断をすることにちょっと違和感をおぼえます。それは逆に、米国という存在を意識しすぎていることを示しているのではないでしょうか。

しかし、個々の日本の外交政策はさておき、米国をどう見るか、という基本認識を考えるに当たって、米国は信頼できるパートナーとして積極的につき合っていくべき国なのか、それとも関係を悪くする必要はないがあえて主体的に関わる必要はない(もしくはできるだけ距離をとった方がいい)国なのか、あるいは、明らかに自国に害を成す存在だから封じ込めるべき国なのかといったある程度の基本認識を明らかにしておくことには、それなりの意味があると思います。また、国民感情・世論が二国間関係や外交政策の決定要因に少なからぬ影響を与えることは、無視できない事実です。

その文脈で、見解を問われれば、私は米国の中に共感をおぼえる点を多々発見しますし、日本としてはできる限り米国とのパートナーシップを強化すべきである、と考えています。親米的な人間と言ってよいでしょう(もちろん盲目的にその考えを貫く意図は全くなく、いくつか留保するポイントはあります)。どうしてそう思うかを次回以降3回に分けて説明したいと思います。

ただし、これは、人それぞれの考え方如何に関わるところですから、私は嫌米的な考え方を持つ人を、親米派に「転向」させるつもりはないですし、そもそもそんな自信もありません。全ての人が「米国好き」になる必要も必然性もないし、米国を嫌うのは個人の勝手です。ただもしかしたら、世の中の米国を嫌う人の多くが、単純に誤った事実認識に基づいて判断を下しているのではないか、あるいは、漠然としたイメージで米国を嫌悪しているのではないか、と感じることがあります。そういった人たちが日本における嫌米感を蔓延させているとしたら、大変残念なことです。

だから、米国を嫌う方たちにはまず私がこれから挙げるポイントを少なくとも知って頂きたいと思いました。知った上でどう考えるかはその人次第です。「そうか分かった、でも悪いけどオレはやっぱ米国ダメだわ」「いや、やじゅんの言ってることおかしいと思うから、無視」と思うのであれば、それはそれで仕方ないことだと思います。

難しいテーマですので、私のポイントの提起の仕方が適切なのか、十分なのか、中身が正しいのか、まだまだ試行錯誤が続くところではあります。厳しい批判があれば、真摯に受け止めたいと思います。わずかながらも米国のことを勉強し、実際に住み、米国人と接してきた一日本人の見方として、「ふーん、そんなもんかねえ」という程度に、軽く受けとめて頂ければ幸いです。

私が次回から挙げるポイントは以下3点(+留保1点)です。それぞれのポイントを一回の記事で説明します。各ポイントは、完全に独立するものではなく、重なり合う点、影響しあう点多々ありますので、説明がくどくなることもありますが、ご容赦下さい。

1.米国の多様性
2.米国の価値観
3.超大国としての米国
(補論:米国の特殊性)

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