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やじゅんのページ/The World according to YAJUN



ちょっと時機を逸してますが、クリントン国務長官の駐米大使呼出し。
(「呼出し」ではなかったとも聞きますが、まあ本質的な違いはないでしょうね。おそらく日本側の格好がつくように米側が配慮してくれたのではないでしょうか。ただ、「呼出し」を否定されると、逆に、では日本側から出向いたのか、それは何でだ、などと突っ込まれて、事務的には面倒くさそうです。些末なことですが。)
これもまあ、なかなかない話ですね。
報道によれば、COP15の立ち話のあと、鳩山総理が、クリントン長官には「十分に理解していただいた」と記者に述べたことに対する応答であるとのこと。実際のところは知りませんが、まあそんなところなんでしょうね。
勝手に相手の都合の良いように胸の内を忖度されて、事実に反することを言われたら、普通怒りますよね。こんなのも、外交だ政治だというもったいぶった話ではなく、社会常識レベルの話として。
もはや、リーダーとしてという次元ではなく、仕事人として大丈夫なんだろうかと思います。ずいぶん昔のことですが、鳩山総理とは個人的に接する機会があり、人柄の良さ、他人を気遣う優しさが印象に残ったものでした。でも、それはあくまで個人としての付き合いの話、自分の運命を預ける人として信頼していいかはさすがに別問題ですよね。
国務長官が直々にメッセージを伝えるというのは、相当のインパクトというか、なにがしか相当なメッセージをうち返さないとまずい、というのが常識的な相場観と思いますが、なんかこれも軽くスルーしそうな予感・・・まあ、いつもながら、良い形で落ち着いて欲しいくらいしか自分には言えません。

・・・
最近読んだ本。
前にとりあげたミメーシスに絡む本です。

■ エーリッヒ・アウエルバッハ 『ミメーシス』
ミメーシスは、上記の記事で述べたとおり、西欧思想を理解する上で重要なキーとなり得る、鋭い切り込み力、パンチ力をもった概念です。
「模倣」や「再現」などと訳されますが、ポイントは、自然の事物の単なる物まねではなく、自らの理想が反映されたより高次の概念を生み出すことです(私の理解)。
もともとはギリシア悲劇、発展して様々な文学形態を対象としたものの、神学における霊的統一体、法学における代表の概念など、その根本的な考え方は様々な分野の思想に影響を及ぼしています。
この本はミメーシスを扱った代表的名著。
ギリシア悲劇からヴァージニア・ウルフまで膨大な芸術作品からミメーシスを探り出す試みです。
非常に難解ですが、素材の範囲と思索の壮大さは圧倒的で、何度も読み返してみたいと思わせる本です。

■ ① ルネ・ジラール 『暴力と聖なるもの』
■ ② 同 『世の初めから隠されていること』
■ ③ 同 『ミメーシスの文学と人類学』
ミメーシスを美学から解放し人類学に発展させたのがジラール。
「ミメーシスの欲望」という概念をつかって、個人対個人(三角関係)の敵対的模倣関係→暴力のエスカレーション→共同体の危機→全ての人間の模倣の対象たる卓越した個人の出現→その個人対共同体の敵対的模倣関係→その個人の殺害(スケープゴート化(供儀)=暴力と聖性の両義性)→秩序の回復、という見立てを提示し、これにより宗教的慣習をはじめとする人類の諸現象を解明しようとします。
一見するとキリスト教の思考のようですが、ギリシア悲劇や中国の古典の引用からも分かるように、著者が念頭に置くのは古代から現代に続く人類の普遍史です。
①と②は体系的な主著で、③は論文集。シェークスピア、ドストエフスキー、ニーチェ(ワグナーへのミメーシス欲望)などに自らの理論をあてはめて評論してます。
どの著作もギリシア悲劇の引用がかなりの部分を占めてます。近親相姦と親族殺しは、ギリシア悲劇にしつこく現われるテーマですが、これらが供儀との絡みで大きな主題になります。

■ 岡田暖司 『ミメーシスを超えて』
タイトルからも分かるとおり、こちらはミメーシス相対化というか、美術史においてはミメーシスだけじゃなくて無意識も大事だよ、という指摘をしている本。
ロンブローゾ、レンブラント、中世のペスト、ヴェネチア絵画、カラバッジョを題材にしています。
色んなことが書かれてますが、あまり脈絡がない羅列の印象で(著者も体系性を意識していないことを述べており)、あまり頭に入りませんでした。
著者はジョルジョ・アガンベンの著作の多くを翻訳している人。この本でもよく引用されてます。ちなみにアガンベンは、前に述べたパゾリーニの映画『奇蹟の丘』に出演してます。

映画といえば、日本未公開映画の『Religulous』
「松嶋×町山 未公開映画を観るTV」で見ました。
タイトルは「religion」(宗教)と「ridiculous」(ばかげた)を組み合わせたもの。その名のとおり、宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)を徹底的におちょくるという過激なドキュメンタリー。監督は『ボラット』のラリー・チャールズ。マイケル・ムーアやモーガン・スパーロックの作品に似たノリです。
とても面白い。特に米国人の宗教性の強さと、それに対する懐疑の精神の両面がよく分かります。
また、宗教に限らず、自然科学と違って、思想や歴史は言いっぱなしというか(上記の「ミメーシス」を含めて)、ま、そうかもしれんね、で終わる物語に過ぎないことを実感させる作品でもあります。そういう醒めた目線も大切と思います。

・・・
ところで、先日、しばらく会っていなかった畏友たちから、やたらこのHPをフォローしているようなことを聞いて、まあ実際はそんなでもないとは思うのですけど、ちょっと恥ずい思いをしました(笑)。まあ、この取るに足らない自己満足HPが、少なくとも生存報告として機能しているとわかったことは、それはそれで結構うれしかったのですが。
生存報告ついでに言うと、最近は、なんとかそれなりに楽しくやってます。なんとなくですが方向性も見えてきたような気がしており、そこそこ満足して生きていければいいなと思っています。

その友人の一人からは、マンガもチェックしてくれていると聞いたので、また一つとりあげると、『シグルイ』という作品。
このマンガはヤバイです。タイトルは「武士道は死狂ひなり」という『葉隠』の一節からとられたもの。その名のとおり、内容は激しく狂っています。
健常な精神の方にはお勧めしにくいですが、なんかスゴイもの見たい、という方は、ちょっと見てみてください。同じ作者の他の作品も、現代のトレンドからはかけ離れた、独(毒?)特な輝きを放っていてステキです。

・・・
いつもながらいい加減な文章でしたが、これが年内最後の記事になりそうです。
良いお年をお迎え下さい。

コメント ( 3 ) | Trackback ( 1 )



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コメント
 
 
 
今年も素敵な記事をありがとうございました (Alice)
2009-12-30 15:52:23
 やじゅんさんの記事はいつもとても面白いですね。
 ちょっと過激でマニアっぽいマンガから、政治を風刺している映画に、経済の潮流についての評論に、哲学に、クラシック音楽に、日米関係に、リーダー論に、ギリシア文学、西洋美術、中東や韓国の旅行記に、実に幅広いのに、矛盾したら、分裂することなく、一つにまとまっていますね。
 すごいのは、幅広さそのものよりも、その多様な分野をやじゅんさんという1人の人間をとおして、1つにまとめ上げていて、1つのストーリーになっているということ。
 こういうのが、19世紀になる前、学問が個々に細分化されるまえの、哲学イコール学問だっときの学問なのでしょうね。
 今では、細分化されすぎるほど細分化された学問ですけど、一方では、また融合の兆しが見えています。
 しかし、それも、細分化された学問の上に成り立っていて、専門知識のない人には難しいもの。
 とても、19世紀前のすべての学問が渾然一体となった哲学の時代とは似ても似つかないように思われます。
 むしろ、すべてを一つにまとめ上げる構想力とあくなき好奇心を継続していけるだけの体力がある人にとって、一般向けの文章こそが、哲学を具現化してみせることができるフィールドなのかもしれませんね。
 ぜひ、これからも、分野の垣根にとらわれることなく、渾然一体となった独自のストーリーで楽しませていただきたいものです。
 来年もよろしくお願い申し上げます。
 
 
 
最後の最後まで間違いだらけ・・・ (Alice)
2009-12-30 15:58:38
訂正します。
矛盾したら、分裂することなく=>矛盾することもなければ、分裂することもなく、
哲学イコール学問だっときの学問=>哲学イコール学問だったときの学問

 あいかわらず、読み直してみると、何がいいたいのか、よくわからない文章になっておりますが・・・。
どうか、あきれながらも、類推力によって察して下さいませ。
 
 
 
あけましておめでとうございます。 (やじゅん)
2010-01-05 01:47:34
>Aliceさん
どうもありがとうございます。
これは買いかぶり過ぎというか(汗)、過大評価を通り過ぎて勘違いの域にまで入ってる気がしますが(笑)、ほめられると図に乗る人間なので、率直に言って、とてもうれしいです。

「まとまって」いるという点、それが実現できているかは別として、確かに、これは結構自分が意識していることなんですよね。
なにごともどこかでつながっている。そのつながりは視点を変えればいろんな形で現われる。それを見出すために必要なのは自分なりの構造とか体系ですよね。逆に構造と体系があれば、いろんな知識や論理が自分なりに整理され、自分にとって有益な情報の選別ができるし、まだ得ていない情報の推測もできるから、知識の多寡は二次的な問題になるように思います
こういうことは、東京大学の前学長や教養学部の先生とか、立花隆氏とか、学際的な研究や総合知を強調する人たちは、それぞれ違う言葉をつかって、繰り返し述べてきたことのように思います。
そんなことがあり、Aliceさんのおっしゃることは、非常に共感するというか、以上自分が思うことをまた違う言葉で語られているように思われて、とても感銘を受けました。

もっとも、言うは易く行うは難し、それを自分が実践しているかは別の問題ですけども。
それと、なんでも適当なことだけを言うのではなくて、確固とした専門領域をもつことも、自分の課題なんだろうなと思っています。

では、今年もよろしくお願いします。
 
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