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やじゅんのページ/The World according to YAJUN



GWはいかがだったでしょうか。良い天気でしたねえ。私は日帰りで遠出した他は、テニスなどしたくらいで基本的にゆっくりしてました。家にいてもやることが多くて、時間が飛ぶように過ぎました。明日から仕事というとブルーな方も多いかと思いますが、ぼちぼちがんばりましょう。

今日は遅ればせながら、カワセミさんからいただいたお題バトン「アメリカ」をやってみます。

・・・

■ 「本棚やPCに入っている『アメリカ』は?」
誰でも聞いたことがあるような基本的なものばかりです。なにごとにつけ大切なのはやはり基本ではないでしょうか。
その中でも特に何度も読んだのはトクヴィルの『アメリカの民主政治』。米国にしばらく住んだあとこの本を読み返したとき、「最近ふと思ったり疑問に感じたことが、こんなに古い本にすでに書かれていたとはッ!」と驚いたおぼえがあります。
小説を挙げれば『華麗なるギャツビー』。昔、米国人の先生から、「アメリカを知るにはまずこれを精読しなさい。それから(米国に限らない英語圏の思想を知るため)シェークスピアと聖書。できれば暗唱できるように。」と言われ、目先のやるべきことにとらわれていた当時の私は「フーン、そんなもんかねえ。」と鼻で無視してしまいました。あとになって後悔(笑)。

■ 「今、妄想している『アメリカ』は?」
テレビ番組。シットコムとかリアリティ・ショーとかJackassが恋しいです。スカパー!に入ったけど、米国での生の放送とはやっぱり違う・・・。そのうち日本でも米国のテレビがそのまま楽しめる時がくるのかな?

■ 「最初に出会った『アメリカ』は?」
映画です。それも、子供の頃家族で見たテレビ上映。土曜ゴールデン映画劇場とか(ドリフのあとに見る)。土曜だけは夜遅く(といっても12時前)まで起きても良く、妙な高揚感をおぼえたものです。記憶に残る限り『タワーリング・インフェルノ』が最初に見た作品だったかと思います。スティーブ・マックイーンとポール・ニューマンが子供心に「かっこいいアメリカ人」としてすり込まれました。ちなみに劇場で初めて見たのは『バンデットQ』(と『幻魔大戦』)。
小学生のとき最も印象に残ったのは『ロッキー』。カメとか生卵とか生肉とか変なところばかり記憶に残った。が、その熱さに泣いた。
中学に入って授業で見た『十二人の怒れる男』。十二人全員は怒ってなかっただろ、と心の中でツッコミを入れた。が、その熱さに震えた。
さらに、『ダーティ・ハリー』。サソリの「ボートこげよ~!」に比べれば、ハリーがそんなにダーティとは思わなかった。が、その熱さにシビれた。
映画を見て何となく形成されたイメージは、『摩天楼はバラ色に』のような80年代映画(リアルタイム)のストレートな単純さ、強さ、楽観さ(大好きです)と、『或る夜の出来事』や『我が家の楽園』といった「偉大なアメリカ」的な古典的な世界と、その真ん中の、『俺たちに明日はない』、『卒業』、『真夜中のカーボーイ』、『狼たちの午後』のような絶望感が漂いつつ不思議な渋さとユーモアが混じったニューシネマの世界、おおざっぱに言えばこの3つの混合だったような気がします。

■ 「特別な思い入れのある『アメリカ』は?」
友達かな?面白くない答えでスミマセン。

■ 「『アメリカ』への愛ゆえに一言物申す」
うーん、なんでしょうか。アンタがおかしくなったらみんなが迷惑するので、これからもしっかりして下さいというところでしょうか。

・・・

ところでカワセミさんが指摘された日本の首相の米国議会での演説。私も同じこと考えていて、そんなことあったらいいな、すごいな~と思ってました。日本人で米国の議会でしゃべった人自体そんなにいないのではないでしょうか。私がワシントンDCにいた頃は、阿川尚之さんが上院の司法委員会で日本国憲法についての証言を行ったくらいだったかと思います。単に私が知らないだけで、例えば財界人の方などは結構やってるのでしょうか。

ちなみに、元々ちゃらんぽらんだったこのブログですが、これからますますどうでもいい感が加速すると思います。どうか暖かく見守ってあげて下さい。しかし、こんなどうでもいいブログに、私にはもったいないような価値あるコメントを寄せて下さる方々がいることは、驚きでもあり望外の喜びでもあります。しかも、その方々の中にはカワセミさんやHacheさんのように、私にしつこくせっつかれたこともあって(?)ブログを始められた方々もおられて、私なんかが何らかの影響を及ぼしたとしたら、本当に不相応というかおそろしいことだなあと驚くやら何やらです。話がまとまりませんが、これからもご指導ご鞭撻よろしくお願いいたします。

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ご無沙汰しておりました。ここのところ身辺があわただしく更新が滞っておりましたが、ようやく落ち着いてきたのでぼちぼち再開いたします。

先週末は靖国神社に花見に行きました。天気は今ひとつでしたが、桜はきれいに見られました。外国人もそこかしこで見かけましたね。

<遅れましたが、米国におけるエスニシティ:「その1」「その2」の続きです。>

「その1」では、韓国系米国人を米国におけるエスニシティの例にとりましたが、米国には、日系、韓国系、中国系といった東アジア系以外にも、インド系、アラブ系、ヒスパニックなど様々なマイノリティの共同体が存在します。

米国に留学や駐在した人の中には、「日本人は群れる。米国人や外国人と交わらない。」という印象を抱いた人も多いかもしれません。留学生や駐在員のように一時的に住む人々には、語学の壁もあってか、そうした行動をとる傾向があるように思います。ただ、いわゆる「日系米国人」について言えば、日本の伝統やアイデンティティから意図的に距離を置いて、本流の「米国人」に同化するよう努める傾向が他のマイノリティと比較して意外と強いようでもあります。米国には、ダニエル・イノウエ、スパーク・マツナガ、マイク・ホンダ、ノーマン・ミネタなど有力な日系人政治家がいますが、彼らの多くは「日系人」の代表ではあっても、必ずしも「日本」に愛着を持っているわけではありません。むしろ過去の問題や経済摩擦に関して日本に厳しい姿勢をとる人もいます。戦前の移民排斥の対象となったことや第二次大戦の影響もあるのでしょう(日系議員の長老格であるイノウエ(スペリングは「Inouye」)議員は第二次大戦で勇敢に戦って右腕を失い、その愛国心に満ちた活躍は議会においてもしばしば讃えられます)。スタンフォード大のダニエル・オキモト教授も、少年時代に差別を受けたため、日本語をあえて勉強しなかったと語っていました。また、日系人団体はたくさんありますが、相互の連携がうまくいっておらず、お互いの仲は意外と良くないことも指摘されます。

それに比べると、韓国系米国人はまとまって伝統なり言葉なりの文化を保持する傾向があるようで、そのコミュニティも存在感があることは「その1」で述べた通りです。他の東アジア系のコミュニティ中では、数の多さもあるのでしょうが、ベトナム系も目立つような印象が個人的にはあります(国勢調査(PDF)によれば、アジアの中では、中国、フィリピン、インド、ベトナムという順になっています)。

それでも、コリア地域では英語も通じますし、外国人に対してもある程度開放的なのですが、ヒスパニックのように英語すら通じないコミュニティを作るところもあります。米国でテレビを見ると、スペイン語のみを放送するプログラムがいくつかあることに気づきますが、多様性を「受け止める」というよりは、そのまま「放置する」米国の一面を感じる瞬間でもあります。洗車場や精肉工場などに従事する肉体労働者や、低所得層が集まるエリアにヒスパニックなどのマイノリティが多いことが社会問題としてよく指摘されますが、「国の分裂」とも称される米国人同士のすれ違いや一体感の欠如とともに、これらも共同体の並存の副産物である面は否定できないでしょう。

米国は「人種のるつぼ(melting pot)」というよりは「サラダ・ボウル」であると1960年代頃から言われてきました。米国が不当な差別や偏見に満ちた国であると非難するのは、浅薄な理解で短絡的な物言いと思います。しかし、米国が「米国人」というアイデンティティの下に、色々なエスニシティの人たちが一体化してまとまっているようなイメージを持ち、手放しに「米国は何もかも受け入れる国で、全ての人間が平等に扱われる。」と賞賛するのも、やはり狭い見方なんだろうと思います。なかなか単純ではない話ですね。

少し脱線めきますが、前回述べた韓国系米国人について私が感じたことに敷衍すると、米国におけるエスニシティの大きなカテゴリーの一つには、「アジア系」というくくりがあります。先に述べたように、エスニシティが大きな役割を果たす一つの理由は見た目に明らかなことですが、特に中国系・韓国系・日系は見分けがつかないため、普通の人は、まず会った人を「この人はアジア系かな」と考え、その中の一部の人がさらに一歩進んで「日本だろうか中国だろうか韓国だろうか」と考えるわけです。松井、パク、ヤオなどアジア系のスポーツ選手は目立ちますが、彼らが日本か韓国か中国かを意識している米国人は、おそらく大変少ないだろうと思います。こうした無頓着さはアジア人同士にも割とあります。このためか、結局のところ外国で生活するアジア系(特に留学生)は妙な連帯感をおぼえ、仲良くなる傾向もあるような気がします(このことは「日本人と中国人と米国人」「日本のことを米国に伝えることの大切さ」でも少し述べました)。日本にいる我々からすれば日本人と中国人や韓国人は全然違うわけですが、いったん海外に出るとこうした目で見られることも現実であるようです。

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<先に「その1」をご覧下さい。>

エスニシティは米国の政治と社会を見る上で重要なファクターの一つです。「米国の普遍性と特殊性」で述べたように、宗教や歴史の蓄積ではなく憲法という人工物に基づき建国された米国は、多種多様な外部の共同体からやってきた移民が築いた国です。米国人になるための条件は人種や信条に差別されるものではないという意味で、なりたければ誰でも米国人になることができるとはよく言われます。「米国人」と言えば白人(Caucasian)を連想する人は、米国に来て、アフリカ系やアジア系やヒスパニックの人、強いアクセントの英語あるいは母国語しか話せない人々が、平然と自分のことを「米国人である」と語るのを見ると、ちょっと意外な念にうたれるかもしれません。「米国人」を決定づける要素は国籍しかありません。この点は、人種なり言語なり宗教なり歴史なり、共同体の伝統的要素を多少なりとも共有する他の多くの国々との大きく異なるところと思います。「米国人」を一つのイメージでとらえることは、他の国々の人よりも思ったより難しいのです。この多様性こそが米国の「多文化主義」の根底にあるものであり、活力の源泉でもあると思います。一方で、それぞれの米国人が抱えるバックグラウンドがあまりにも多様なため、他の多くの国で感じられるような一体感や結束感が欠けているように見えることの裏返しでもあると思います。

では、米国においては、それぞれの「個人」が人種や出自などについて偏見を持つことなく、自由に共存して生きているのでしょうか。おそらくそういうものではありません。人間は似たもの同士が惹きつけ合い、集まるという習性があり、一定の「共同体」を築くことなしに生きられない動物のようです。一見バラバラに見える米国で生きる「個人」たちも、何らかの共通項を見つけて、似たもの同士が集まってそれぞれの共同体を作ります。米国という国が、自由と平等という絶対の価値観に基づいて、各人が人種や信条に基づく差別を行うことを強く拒絶する国であること、それは間違いないと思います。一方でそれは、各人がそれぞれの好みに基づいて共同体を形成あるいは加入し、それぞれの共同体が「我々は我々で楽しくやるし、迷惑はかけないから、邪魔はしないでくれ」という考えに立って、互いに干渉せず並存するという「自由と平等」に帰結することでもあるのです。

この共同体を築く要素には、宗教や政治信条や出身地など色々ありますが、最も重要なものの一つはエスニシティです。米国に行ったことのない人たちにとってもイメージしやすいのは黒人のコミュニティでしょう。居住地域、経済、政治、映画音楽ファッション、多くの分野で「黒人向け」のサービスが存在します。例えばテレビのプログラムの中には「Black Entertaiment Television(BET)」(「米国TV事情」参照)という黒人しか登場しないチャンネルがあります。映画や音楽を見ても黒人のみを対象とするものがあるのは日本にいても容易に分かることでしょう。

注意を要するのは、こうした一種の「棲み分け」が短絡的に「人種差別」を意味するものではないということです。「差別(discrimination)」は認められないが、「区別(distinction)」は是認すると言うこともできるでしょうか。「公正(fairness)」を重視する大多数の米国人にとって、「不当な差別」に対する拒絶感は強く、少なくとも日常生活の中で、白人とマイノリティの間あるいはマイノリティ同士の間において、あからさまな「蔑視」や「排除」が起こることはそうありません。しかし、それはエスニシティの壁が取り払われたということを意味するものではなく、何らかの共同体あるいは仲間同士の結束感を求めながら、その共同体同士が無理に混じり合うよりもお互い距離をとるということは、ある意味自然な結果なのでしょう(普通の日本人の感覚からすれば「人種差別」的にしか見えない「隔離(segregation)」が、意外にもマイノリティ側から支持されることもあるのはそのためです)。「米国は人種差別の国である」という非難は一面的な見方であり、適切とは思いませんが、だからといって「米国は色々なバックグラウンドの人たちが一体となっている(united)」というものでもないと思います。「united」よりは「divided」、「共存」よりは「並存」であるのは現実であり、それは「人種差別」とか「分裂」ではない、多元的な共同体の一つの形なのだろうと思います。

(もちろん、中にはこうした棲み分けの壁を破り、エスニシティをまたがった何かを目指す動きもあります。70年代のバシング(強制同種通学:成功例とは言い難いところもありますが)やマーチン・ルーサー・キングJr.の思想などが代表的でしょうし、クリントン大統領が黒人と非常に相性が良かったり、Eminemのヒップホップが黒人に受け入れられたりするのも一種のクロスボーダー的な現象と思います。)

また、国内の共同体の思考と形成が、それぞれのバックグラウンドに固有の文化を保持するという精神にもつながります。黒人の中に「アフリカ回帰現象」や過激な暴力主義、排他的な「反ユダヤ主義」などが生まれるのも、文化的伝統の尊重が根底にあるからです。あるいは、そこまで大げさでないとしても、人間には日常生活において接するものをある程度カテゴライズする習性があります。幸か不幸か、肌の色はあまりにも見た目に明らかなため、そうしたカテゴライズをする上でおそらく一つの便利な基準になってしまうことは、良い悪いは別として事実なのだろう思います。

<次回、最後に「アジア系米国人」について述べます。>

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カラオケ(英語での発音は「carry-o-kee」:「英語化した日本語」参照)は米国でも思ったより人気があります。日本人やアジア系だけがやるのかと思いきや、意外とマイノリティ以外の米国人も好きな人は多く、私は留学時代に何度も米国人と一緒に行きました。米国では「カラオケ」と聞くと仲間内だけで楽しむボックスのスタイルよりも、カラオケスナックのように店全体で楽しむスタイルを連想する人も多かったようで、そういうスタイルは恥ずかしいから嫌だけど、少人数のボックスがあるのなら行きたいという友達もいました。

西海岸、東海岸、内陸部、色々な都市のカラオケに行ったのですが、興味深いのは、こうしたボックスタイプのカラオケは韓国系米国人が経営していることが非常に多いということです。カラオケやるかということになれば、大体コリアタウンに行き、焼き肉を食べた後、その近くのカラオケに行くというパターンになります。どこもレーザーディスクで、DAMなど通信カラオケのような高度な技術は日本ならではのものらしく、米国でお目にかかったことはありません。たいがい、カウンターにいる韓国系の兄ちゃんがそれぞれの部屋で入力されたリクエストを見て、手動で(!)ディスクを探して、カウンターにあるプレイヤーに入れます。店が混んでいると、テレビの画面に「Sorry, please wait for a while.」などと出て待たされることがありますが、その間、カウンターで一人DJ状態の兄ちゃんが千手観音のように大あわてなんだろうと想像すると笑えるものがあります。また、兄ちゃんは必ずしも日本語が読めるわけではなく、機械的に番号を確認してディスクを選ぶので、番号とディスクの対照が間違っていると必ず間違った曲、それも同じ曲がかかります。私が行くところでは「GLORIA」を入れると必ず決まった韓国語の歌が出てきて、その歌をおぼえてしまうほど同じ間違いを繰り返しましたが(アホです(笑))、どうしても直してもらうことはできませんでした。

米国に来て感じたのは「コリアタウン」の存在感が意外と大きいことです。すでに述べた通り、カラオケに行こうとすれば、いくつかの都市に住んだ私の経験では、まずコリア地域に行きます。巨大アジア系スーパーも中国系とならんで韓国系が非常に多いです。これは韓国系米国人の人口が結構多いことと(2000年米国国勢調査(PDF)によれば約100万人で、日系人とほぼ同数)結束力の強さの両方があるようですが、いずれにしても「ジャパンタウン」や日系スーパーがロサンゼルスやサンフランシスコなど限られた地域にしか存在しないのと比べ(もちろんニューヨークにもありますが、あそこは何でもありの世界ですよね)、コリア地域は多くの都市に存在する印象があります。

韓国系米国人について最近一部の人から注目されているのは宗教右派との関係です。韓国人には敬虔なクリスチャンが多い上、宗教保守派の中には北朝鮮やスーダンにおける人権問題に非常に強い反応を示す傾向もあるので、韓国系米国人との間で一種の親和性があるようです。宗教右派の政治的影響力は前回の大統領選で注目されましたが(「大統領選」参照)、宗教右派の韓国系米国人の動員力も面白いトピックとして関心を集めつつあるようです。

以前、私は「米国の多様性」で、「私が素直に米国に感心する点の一つは、ヒスパニックでもアジア系でも、帰化したいと思えば(一定の条件さえ満たせば)、誰でも米国人になることができる点です。移民に対して排他的な国が世界には多く存在する中、米国の開放性、偏見のなさには驚くべきものがあります。イチローが新記録を達成したときの暖かい祝福、民主党大会におけるバラック・オバマ氏のスピーチが党派を超えて感動させたことなどを見ると、そうした理念が国民の間でいかに強く共有されているかが分かると思います。」と述べました。これは本当のことだと思います。しかし、だからといって、米国人がみな同じように扱われて、エスニシティが米国の中で意識されていない、ということではありません。むしろ、米国を見る上で、エスニシティが果たす役割は非常に重要なのです。次回はそのへんについてもう少し一般的なところを述べてみたいと思います。

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先週、「さくら一派の会」(仮称)が催され、かんべえさん、雪斎さん、さくらさん、ぐっちーさん、副会長さん、雪斎さんのお友達とステーキを食べました。いつもながら多種多様なテーマについて興味深いお話をうかがい、頭もお腹もいっぱいになりました。特にかんべえさんと雪斎さんがすでにおっしゃられていますが、ぐっちーさんのマンデル先生の話は面白かったです。マンデル教授といえば、国際経済をかじった者であれば誰しも「マンデル・フレミングモデル」を思い起こす大家ですが、国際経済がご専門というだけあって、カナダ生まれ、MITとLSEで学び、シカゴ大学とコロンビア大学で教鞭をとり、趣味はイタリアの古城修復という真の国際人であるやに聞いていたものの、中国などアジアへの造詣も深かったとは驚きでした(中国政府のアドバイザーもしてるとのことですね)。しかもギャンブルも強いというケインズを彷彿させる実践ぶり。恐れ入りました。

他にも政治やらプロレスやら色々な話題に及びましたが、会合の所期の目的は阪神優勝を祝うことだったようなので(リーグ優勝を目撃したのが初めてだったので、私は実はどちらかといえばロッテを応援していましたが、それを言える雰囲気ではありませんでした(笑))、野球も話題になりました。かねがねブログを通じて知っておりましたが、副会長さんの野球に対する思い入れには感銘を受けました。あと、ぐっちーさんが中日にプロ入りした川又米利に投げ(て打たれ)たことがあるというのも衝撃でした(言ってよかったですか?)。

今更という感じですが、日本シリーズ、ロッテは強かったですね。私は半年前まで米国に住んでいたので気づかなかったのですが、今のロッテのユニフォームってカッコイイですよね。ユニフォームのデザインがいいとチームは強くなるんじゃないでしょうか(笑)。やはりマリーンズ創設時のようなピンクの文字が光った浮ついたデザインでは迫力がないものです。巨人も西武も私がピンとくるのは80年代の強かった頃のユニフォームです。中学生のときに「外国人選手が打つかは名前で分かる」理論を思いついたものですが、「チームが強いかはユニフォームで分かる」という仮説もできそうです。

しかし、日本シリーズは、どちらが勝つにせよ、7戦までいってほしいというのが私の願いですので、4タテは残念でした。90年の西武-巨人以来かな?と思ったら、2002年巨人-西武もそうだったんですね(90年のシリーズは西武の無法な強さがかえって面白かったですが)。思い深いシリーズは、83年西武-巨人、86年西武-広島、89年巨人-近鉄、91年西武-広島、92年西武-ヤクルト、93年ヤクルト-西武、いずれも4勝3敗ですね。(もちろん85年阪神-西武もいいですよ(笑)。昨年と一昨年は米国にいたため残念ながら断片的にしか見ませんでした。)86年は史上初のシリーズ引き分けを生んだ山本浩二の東尾からの右方向への一撃と工藤のサヨナラヒットと秋山のバック転、89年は加藤哲対駒田、91年は佐々岡、92年は岡林・・・とこのあたりのシリーズは、主役級が故障もなく出揃ってそれぞれが持ち味を発揮して面白かったですね(93年はシーズン中盤まで奇跡の防御率0点台を維持した伊藤智仁がリタイアしたのが残念でしたが)。

大リーグのシリーズの方は結局あまり見なかったのですが、井口は安定していい仕事しているようですね。イチローがめずらしくインパクトの弱いシーズンだったようですが、日本人選手の活躍が当たり前になってきたからというところもあるのでしょうね。それにしても突破口を開いた野茂の偉大さは強調してもし過ぎることはないと思います。近鉄時代にあれだけ投げながら、大リーグでも同じぐらいのペースを維持して活躍を続けてしまうタフさ、紛れもなく球史に残る大投手ですね。

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さて、前置きが長くなりましたが、以前、日米の野球交流に関する英文のエッセイを掲載しましたが、このエッセイを書いた当時、米国人の友達から結構な反響があり、ある米国の機関で講演を頼まれました。野球に関する雑談で述べた通り、私は古くからの野球ファンですが、専門家ではありませんし、最近の事情には疎かったので、「いいのかな?」と思ったのですが、「ま、いいか」と軽く引き受けました。

ところが、元から興味がある人が集まったこともあり、なかなか盛り上がって苦労しました。特に質疑応答のセッションでは、意表を突く質問を次々にされて、日本のことをよく知らない米国人の日本野球、あるいは日本に対する見方の一端が分かり、興味深いと思いながら悩まされました。私の回答は拙いものでしたが、以下、質疑応答の一部をメモしておくことにします。

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(問)日本人は個人主義を厭い、チームワークや儀礼を大切にする傾向があるやに聞くが、野球においてそういった面は見られるか。

(答)必ずしも良い例ではないが、犠打の多さ(一回表無死において初球から送りバントする川相選手や平野選手に言及)、記録達成に対するサポート(長崎対田尾の首位打者争い、バースやローズへの四球責めに言及)、風変わりな伝統の固守(80年代初頭は、開始のサイレンがなっているうちは開幕戦の初球を打ってはいけなかった)などは大リーグには見られず、日本人独特の感性によるところがあるかもしれない。一方で、最近の日本野球は大リーグのスタイルに近づいている印象もある。

(問)日本の応援スタイルは特徴的であると聞く。特にclapper(拍子木)のようなもの(注:二つのメガホンが合わさった応援用具を指している-ちなみに、この道具に決まった名称はあるのでしょうか?)を利用しているのを見たことがあるが、あれは何か。

(答)日本の応援団の組織力は有名である。彼らは応援する球団のユニフォームを着て、選手の応援歌を熱心に演奏する。間断なく音楽を流し続けるところに大リーグと異なる特徴がある。拍子木は、その音楽のリズムに合わせて応援を行うために利用する。応援団のパフォーマンスと応援歌の演奏は、球場の一体感を盛り上げる上で効果的な演出だと思うが、大リーグのようにメリハリのきいた個人主義的な応援の方が望ましいのではないか、という意見も聞くことがある。(ここで、日本に滞在したことのある米国人から、そもそも拍子木は火事の見回りの際に使われた道具である、という野球の文脈とかけ離れた文化論的な説明が入り、拍子木も火事の見回りも頭にない米国人を混乱させた。)

(問)王貞治以外の日本人プレイヤーを知らないが、偉大な選手は他に誰がいるか。

(答)長嶋茂雄は国民的英雄として知られている。王がベーブ・ルースとすれば、長嶋はゲーリッグとディマジオを組み合わせたタイプの選手である、と評する人もいる。

(問)日本のプロ野球は外部からの参入者に対して閉鎖的であるやに聞くが、事実か(注:この時点ではライブドアの参入の拒否が決まって間もない頃だった)。

(答)読売新聞社などの対応には、変化に乏しかった球界の保守的な風土が現れていたように思う。しかし、楽天やソフトバンクが加わり、これから変革の気運が高まると見られる。

(問)日本にリトルリーグは存在するか。

(答)野球は日本の子供の間で最も人気の高いスポーツの一つであり、少年野球が発達している。高校野球は、日本の伝統行事と見られるほど日本人にとって馴染み深いものとなっている。一方で、最近はサッカーの人気の高まりがあり、野球人口が相対的に減少しているとの指摘もある。裾野からの選手育成については、米国の成熟には及ばないという意見もよく聞かれる。

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この他にもやたら色々なことを聞かれ、疲れました。しかし、「そういう角度からくるか」と驚いたり感心したりして、楽しめました。皆さんならどう答えられるでしょうか。

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直前の記事(日本の音楽の米国での受け取られ方:その1)で、J-POP的な音楽全般の米国での受け取られ方について述べましたが、そこで述べた事情をふまえて、話題を宇多田ヒカルの「EXODUS」に戻します。

最初聞いた印象は、あれ、いつもの宇多田ヒカルじゃないないような・・・というものでした。もちろん素晴らしい音楽なんですけど、ちょっと米国人の嗜好を意識して、それに合わせるよう努力して作ったアルバムのような、そんな印象を受けました。聞く限りところによると、米国人の中にもそう感じた人が多かったようです。どんなプロセスでこのアルバムが作られたのか、素人の私にはまったく事情は分かりませんが(注:あとでどのようなイメージで表現するべきか、ずいぶん悩んだような宇多田自身の文章を読みました)、もしそうした一種のマーケティング志向があったとしたら、そのことが、米国の歌手にはない宇多田ヒカルの魅力を伝えにくくした可能性はあると思います。それどころか、米国のどこにでも存在する「産業くささ」を感じさせてしまったかもしれません(彼女の英語が流暢なことも、かえって「米国に合わせる」方向にマッチしてしまったのかもしれません)。

ちなみに私は宇多田ヒカルの大ファンです。こんな風に言うのは恥ずかしいですが(笑)、歌手としてもアーチストとしても人間としても、トータルな意味で大好きなのです。それだけに、もしも彼女の魅力が伝わらなかったことが今回の不調の原因であったとしたら、残念でなりません。ガチンコでもう一回米国マーケットにトライして欲しいと思います。

・・・

さて、以前むなぐるまさんから頂いた宿題(笑)について、ここでちょっと触れたいと思います。むなぐるまさんからは、日本人移民のニューヨークにおける活躍を描いたNYタイムズの記事を教えてもらいました。この記事の主題は、自国で受け入れられなかった日本人が移民となり、ニューヨークに溶けこんで活躍している現実の描写にあるようです。これからどんどん日本人アーチストが進出し、第二の少年ナイフや坂本龍一が出現する可能性を暗示しているのかもしれません。どういうアーチストが評価されるのか、興味深いものがあります。私が提示した仮説に当てはまるアーチストが人気を博するかもしれないし、仮説に当てはまらない例が出てくるかもしれない。まあ、日本人アーチストがどんどん活躍することが何よりのことなので、そう言う意味では私の思いつきの仮説なんて粉砕された方が良いのですが(笑)。

・・・追記・・・

この記事を書いた後に、日本人の友達から借りたビデオで、「うたばん」という番組を見ました。番組の中で、ドリカムが、NYに滞在して自分たちの米国進出について考えた、というくだりがあり、吉田美和さんが、米国で成功するのは難しい、なぜなら、NYの中でおいてさえ、様々のバックグラウンドを持った人たちが、それぞれのグループに訴えかける音楽しか聞かないから、そして、これら個々のグループが交わることはすごく少ない、と述べてました。よく言われる、米国は、「人種のるつぼ(melting pot)」ではなく、「サラダ・ボウル」(異文化の集団が交わることなく併存している状況)である、という例えに通じる感覚を語っているのだと思います。吉田さんは、その上で、生のままの自分の音楽を聞いて欲しいと思ってるし、しかし、何らかの工夫がないと自分の声をそうした人たちに届けることは難しい、といった趣旨のことを述べていました。

宇多田ヒカルやドリカムのような超一流のアーチストたちにしてみれば、私が述べた分析なんか百も承知の上で、じゃあ自分たちはどうすべきか、ということを一生懸命考えて抜いているのでしょう。クリエイターの自己実現の欲求と、それを受け止める消費者のニーズとは、もちろん相反するとは限らないのですが、どちらにどれだけの重きをおいて表現活動するのか、なかなか難しい問題だと思います。ブロガーにとっても人ごととは思えない問題かもしれない(この点、むなぐるまさんのブロガー燃え尽き症候群が参考になりますね)。

これだけで一つのテーマとして長い記事になってしまいそうですので、次の機会にまわすことにします。あまり長い記事になると読んでもらえなさそうだし・・・という考え方が、すでに読者に阿っていることになるのだろうか?・・・いや、むしろ自分自身が単に面倒だから、というのが主な理由でしょう、たぶん。じゃあ、この辺で。

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<写真はフリッパーズ・ギター「ヘッド博士の世界塔」>

宇多田ヒカル(UTADA)の新譜「EXODUS」がこちらで思ったよりヒットしなかったそうです(チャートの上では、坂本九はおろか、ピンク・レディー、松田聖子にも及ばなかったとか)。ファンならずとも、多くの日本人にとって残念なことだったと思います。

この件について、友人から、どうしてだと思う?とよく聞かれました。昨日の記事で述べた通り、日本のポップカルチャーが受ける環境が整いつつあると見られたのに、どうしてだったのでしょう。

まず、一般的な意味で日本のポピュラー音楽が米国でどう受け止められるのか、素人としての直感であることを断った上で、推論をさせて頂きます。

米国においては、いわゆる「J-POP」的なものが、米国の大量生産ポップと同一視され、評価されない傾向があるかと思います。つまり、米国で評価される日本の音楽とは、前の記事の2.で挙げた非マーケティング志向と、3.で触れた日本ならではのハイブリッドな感覚を備えたもので、ちょっと古い例ですが、YMOや沖縄音楽などがその基準を満たす良い例ではないかと思います。かつて少年ナイフが日本国内での評価と比べて異常な人気を博したのも、そうした背景があったからではないかと思います(パフィーについては、最近米国で始まったアニメ番組「Hi Hi Puffy AmiYumi」のブレイク以前から一部のマニアに人気がありましたが、非マーケティング志向のところはあまり当てはまらないにしても、アニメ的イメージを活かしたハイブリッド感が受けているのかもしれません)。

『The Rough Guide』という音楽紹介レファレンスのような本は、「Japan」のセクションにおいて、光GENJI、Wink、SMAPなどを紹介しつつ、不幸なことに、彼ら「idoru kashu」に代表される日本の現代ポップ音楽のイメージは、「バブルガム・ポップ」(米国で60年代頃に流行したお子さま向け音楽)である、と述べています(宮沢和史の「ファーストフードみたいな音楽」という発言も引用)。ブリトニー・スピアーズなどの米国ではありふれているポップス音楽をさらに甘くしたもの、というイメージでしょうか。一方で、細野晴臣や沖縄音楽の高い音楽性を評価しています(最近の例では、The BOOMについて、そのクオリティを賞賛しつつ、沖縄音楽を「搾取」しているとの批判もある、と述べている)。

もちろん、昨今の「J-POP」の中にも、先進的で優れたクオリティを誇るものが沢山あることに疑問はありません。そういったものもいっしょくたにして「J-POP」という定義をすること自体乱暴なことですが、ただ、日本で最近流行している音楽の多くが、米国流音楽産業のあり方に強い影響を受け、その模倣に終わっている、という面はあるかと思います。そんな音楽であれば、米国人にとっては、わざわざ日本のものを聞く必要はなく、ピンクやクリスチーナ・アギレラで足りてしまうわけです。実際、日本でヒットしている女性歌手の多くは、こうした米国人アーチストに影響されまくっているというか、ほとんど模倣とか単なる後追いの状態になっている感じがします(その中でも、次回取り上げる宇多田ヒカルは別格と個人的には思います)。

ちなみに、「SHIBUYA-KEI(渋谷系)」は一部のマニアから注目されている分野です。確かに、ピチカート・ファイブやコーネリアスの音楽は、日本にしか存在しない、新しい形だと思います。その意味で、物珍しさにとどまらない、純粋に特異かつ水準の高い音楽性を評がされているということでしょう。さらに付け加えると、米国よりも欧州の人の方が、この辺の音楽性に目をつける人が多いように思います。特に、石野卓球などのエレクトロニカ系ミュージシャンの名前は、英国やドイツの若者に驚くほど知られています(しかし、このリンク先によると、なぜかパフィーまで「渋谷系」に入ってますね・・・ちょっとweirdな感じがする(奇妙な味のある)音楽を大ざっぱにこのカテゴリーに入れている面もあるのかも)。

(次回「宇多田ヒカルはなぜ米国でヒットしなかったのか?」に続く・・・)

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以前、日本のポップカルチャーが米国で評価されているという記事と英文エッセイを掲載しましたが(日本の魅力について述べた関連記事もご参照下さい)、米国人や友達から色々な反響がありました。多くの人から、「じゃあ、どうして、今、これだけブレイクしているんだ?」と聞かれました。そう言われると、これまで真剣に考えたことがなかったのですが、適当にしゃべっているうちに考えがまとまってきましたので、社会学者でも何でもない素人の思いつきとしてあらかじめ弁解がましくことわった上で(笑)、今の時点での考えを述べてみます。

1.技術革新
情報通信技術の発達(グローバリゼーション)により、日本のポップカルチャーが素早く大量に米国に届くようになり、これまで一部の人に独占されていたものが、一般大衆にも到達するようになった。元々日本のポップカルチャーのパワーには見るべきものがあったが、それがようやく米国においても有効に行使できるようになり、単純に受け手の拡大がそのまま今の現象につながった(つまり、本来いつでも起こりえたものが、技術革新を契機に、起こるべくして起こった)。

2.日本型エンターテイメントの創造性・多様性
日本のポップカルチャーは、クリエイター・サイドの発想を出発点として作られる面が概して強く、結果として多様性に富んだ製品が供給されるので、独自の嗜好を持つ人が、自分の最大限気に入るものをピックアップして楽しむことができる傾向にある。これに対し、ハリウッド映画や音楽産業に見られるとおり、米国ではマーケティング志向で製品を作り、最大公約数的なエンターテイメントを追求することで効率的な利潤最大化を狙う傾向が強い。大多数の人がある程度満足はする、似通った作品にばかり触れることに米国民は慣れ、飽きていた。日本のポップカルチャーの多様性は彼らにとって新鮮に映り、広い選択肢の中から、自分が待ち望んだものを取捨選択することができた。

3.日本文化の普遍性
ハイブリッドな特性を持つ日本のポップカルチャーは、米国や欧州のエンターテイメントをその要素として既に内在させているので、米国民も親近感を覚え、受け入れることに抵抗が少なかった。また、宗教性も薄く、2.で述べたような選択肢の広さを持つ日本文化の特性は、どの国でも普遍的に受容される下地を持っていた。

(以上3点が本質的な理由。次の4.は、なぜ「今」受けているのかについて。)

4.蓄積
ポケモンなどが米国に来たのはもう5年くらい前に遡る。当時、これらのアニメに親しんだ若い米国人は、成長してある程度社会的責任を負う立場になっている。彼らは日本マインドに幼い頃から自然に親しんでおり、様々な機会において、無理なく日本のポップカルチャーを普及させることに貢献していると思われる。つまり、なぜ今なのか?というタイミングの問いに対する答えの一つは、5年程度、日本のポップカルチャーの輸入が持続的・地道に行われたことが、今大きな成果として実を結んだ、ということだと思われる。

(かつて、Japanologisit(日本研究者)と言えば、ライシャワーのようなBIJ(Born in Japan:日本生まれの宣教師の子)を中心とした、日本の伝統的文化に惹きつけられた世代(「Chrysanthemum Club」(菊クラブ)と言われる日本に温かい(時としてパターナリスティクな)シンパシーを抱く伝統派研究者)や、70年代からの高度経済成長や80年代の貿易摩擦に反発(や畏敬の念)を感じ、日本型モデルを研究した世代(多くは日本のあり方に厳しい批判を浴びせるRevisionist(修正主義者)と呼ばれる人たち)だったわけですが、最近の米国人は、アニメやゲームといったポップカルチャーから入ってくる人も多い、ということも言えると思います。)

これらの仮説(?)の根拠となるデータや資料をきちんと確認したことはありませんので(断片的に該当しそうな資料を見たことがありますが)、考えが及んでいない要素もまだまだあるのではないかと思います。皆さんはどう思われるでしょう?

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先日(1月15日)、NBAの試合を観戦しました。地元ワシントン・ウィザーズ対フェニックス・サンズです。年末にチケットを買ったときは、サンズの田臥勇太選手を見られる!と楽しみにしていたのですが、既にチームを離れていたので残念ながら見られませんでした。(現在は独立リーグでプレーしているとか。まだ24才、頑張って欲しいですね。)

サンズのエースであるスティーブ・ナッシュが故障のため試合に出なかった(ジーパン姿でベンチ入りはしていた)のが残念でしたが、試合は白熱したシーソーゲームとなり、地元のウィザーズが最後のクオーターで逆転勝利し、大変見応えがありました。席もコートが間近に見えるボックス席で、値段は張りましたがその価値はありました。

NBAは、最近はあまり見てませんが、高校生のとき、周りにバスケ部の友達が多くて、ちょうどBS衛星放送が普及し始めた頃ということもあって、ジョーダンのシカゴ・ブルズがスリー・ピートを決めたときなど結構見てました。このときのファイナルの相手が、奇しくも今回観戦したフェニックス・サンズ。当時、私はケビン・ジョンソンという小柄のポイントガードが好きで(『スラムダンク』の宮城リョータのモデルはKJでしょうか?)、サンズを応援していましたが、選手として円熟期にあった「神」ジョーダンを破ることはできませんでした。印象に残ったのは、大柄の白人シューティング・ガードのダン・マーリーという選手が3ポイントシュートを打ちまくったこと。この人(マーリー)はとにかくボールを持つとすぐにシュートに走り(彼に限らずこの種の自分勝手なシューターは多いですけど)、実際何本も決めてくれましたけど、失敗も多くて、ファイナル後半は微妙な評価を受けていた気がします。

NBAの試合を生で見るのは三回目です。一回目は1999年、日本の後楽園。サクラメント・キングス対ミネソタ・ティンバーウルブズでした。当時の最高年棒男、ケビン・ガーネットが大活躍しました。インパクトがあったのがキングスのポイント・ガードのジェイソン・ウィリアムズ。男前の白人ですが、「気違い」とか変な刺青をしているのはどうかと思いました。ニ回目は2001年、カリフォルニア留学時。LAでレイカーズ対ゴールデンステート・ウォリアーズを見ました。巨大なレイカーズのスタジアム(Staples Center)で、コービー・ブライアントとシャキール・オニールの両巨頭の活躍が見られて大満足でした。ちなみにコービー(KOBE)の名前って神戸から来ているんですよね。名づけた両親が日本びいきとか。

・・・

よく知られている通り、米国では、4大スポーツと言われますが、野球(MLB)、アメフト(NFL)、バスケ(NBA)、アイスホッケー(NHL)のプロスポーツが人気です。米国人は我々が抱くイメージ通り、プロスポーツ観戦が大好きで、特に中西部など田舎の地方に行くと、他に娯楽が少ないためか、ものすごい盛況です。カンザスシティに米国人の友達の家族の家に泊まりに行ったとき、着くなり、「夜は、野球を見に行く?それぐらいしか見るものないからさー。」と言われて、カンザスシティ・ロイヤルズという、どちらかと言えば地味なチームの試合を見に行きました。面白かったですけど。いや、ほんとに(注:ロイヤルズは私が観戦した2002年時点では強いとは言い難いチームでしたが、最近は良くなったらしいですね)。

ところで、米国ではなぜサッカーが成功しないのか、という疑問がときどき話題に上ります。メジャーリーグ・サッカーもできて、ヒスパニック人口もこれだけ多いのに(ワールドカップは成功したし、底辺に広がりは見せているから、ブレイクは時間の問題とも言われますが)、どうしてなのか。

私個人のまったく乱暴な推測ですが、米国人はルールが複雑な人造的なスポーツを好むのではないかと思います。バスケはまだシンプルな方ですが、他の3大スポーツは、まったく知らない人が見たら、何が起こっているのかすら分からないのではないでしょうか。例えば野球。打ったら一塁に走るとか、ライン上しか走ってはいけないとか、投手と打者の動ける範囲が決まっているとか、考えてみると、非常に「束縛」の多いスポーツです。アメフトなんか、私は未だにルールも理解していません(周りに元オールジャパン二人を含め、アメフトに関わっている人が多くて、よく観戦を勧められるのですが・・・)。特殊な道具も沢山必要です(だからビジネスにもなる)。それに比べると、サッカーは「手を使ってはいけない」程度の束縛しかなくて、ルールを知らない人でも、見ただけで何をしているのかくらい大体飲み込めます。動ける範囲を含め、非常に自由度の高いスポーツです。道具もいらないので、途上国ですぐに人気が出ます。

たぶん、色々なルールを人工的に設定することで、エンターテイメント性を盛り上げるのが米国人の考え方なのかなと思います。何でも、真偽のほどは知りませんが、メジャーリーグ・サッカーを導入するときには、バスケのように3ポイント・ゾーンを設定するとかいう議論があったとか。点が入るようにしてエンターテイメント性を高めることを狙ったのでしょうが、これまでサッカーに接してきた人たちにとってはとんでもない発想ですよね。そんな国際標準から外れたことをしていいのか、と思いますが、考えてみればNBAでも、国際標準より小さいボールを使用したり、ゾーンディフェンスを禁止したりして、独自の「楽しい」路線を貫いています。これも自分たちが世界の中心である(とは言わないまでもオレたちはオレたちのやり方でやればいいのさ)という超大国気質の現れでしょうか。【注】コメント欄でむなぐるまさんからご指摘がありましたが、最近ゾーンディフェンスは解禁されたそうです。

最後に、NBAに戻って、スター・プレイヤーの一人であるジェイソン・キッドの迷台詞をご紹介して今日は失礼します。

"We're going to turn this team around 360 degrees."
--Jason Kidd, upon his drafting to the Dallas Mavericks.

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私に最初にブログの世界の奥深さを教えてくれたむなぐるまさんからご指名がありました(こう書くとホストクラブみたいですね(笑))。

大変光栄ですので、何か書いてみようと思います・・・というか、実はちょうどこの手の話題について構想を練っていたところでしたので、材料をご提供頂いて願ったりかなったりでした。私がよく見るブログの管理人の方々は、関心領域が重なっているのか、自分が興味のあるイシューについての情報を既に掲載していたりして、驚くことが多々あります。言おうとしていたことを先に書かれて、あらら、と思うときもありますが。

ご教示頂いたNYタイムズの記事を読んでみると、結構包括的というか、テーマ大きいですね。あまり正面からこの記事の主題を扱うことはできないかもしれませんが、気ままに書いてみようと思います。

ということで少々お待ち下さい。

【補足】1月30日付けニューヨーク・タイムズに掲載された「The Road to Anime」という書評記事も面白かったです。著名旅行作家のPeter Carey氏の息子さんがアニメにはまって、困惑しつつも世代間のギャップの解消について考える本だそうです。ちなみにこの書評記事のタイトルはトム・ハンクス主演の映画「The Road to Perdition」(=『子連れ狼』(英語タイトルは「冥府魔道」の訳))からとっている・・・と思ったんですけど、「The Road to Oz」からとったと考えるのが普通のようです(3月14日修正))。

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