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やじゅんのページ/The World according to YAJUN



ハンマーヘッドシャークの大群@神子元島

昨日、伊豆でダイビングをしてきました。
ダイビングの経験本数は90本になりましたが、沖縄を別とすれば実はこれが初の国内ダイビング。
与那国島に匹敵するハンマーの群れがこんな近場で見られるとは。与那国島とはまた趣の異なる迫力がありましたね。

・・・
さて、だいぶ前から書く書くと言いながら延び延びになっていた米国についてのお話です。

順調な回復を続ける米国経済。
シェールガスという強力な武器を手にして、経済指標は堅調を継続しています。
懸念されていたSequestration(連邦予算の強制削減)の影響も、予想されていたとおり、限定的なものにとどまりました。
アベノミクスとは対照的にQE(金融緩和)の縮小すら取り沙汰されるほどです。
このままいけば米国の経済は当面安泰、リーマン前の状態を超えて発展を続ける可能性も大いにあります。
このへんの詳細はぐっちーさんの著書メルマガに譲りましょう(宣伝(笑))。

政治(内政)についてみると、前の記事で、オバマ大統領が大統領就任演説で、同性愛、銃規制、社会福祉といった問題に大胆に切り込んだことを書きましたが、その後、同性婚(最高裁判決)、銃規制(強化法)、移民政策(移民法改正)の分野において、すでに大きな前進を遂げています。

ところで、こうしたオバマの発言や政策は、多くの日本人にとって、特に不自然ではなく、親しみやすく感じられるものと思います。当たり前のことを言っているとすら感じられるかもしれません。これは、おそらく多くの日本人の感覚が米国における穏健なリベラル(中道左派)に近いものだからと思われます。

しかし、このHPで何度も述べてきたことですが、米国においてこれらの問題は、国論を二分する極めてセンシティブなイシューとなります。
米国の保守思想は、日本人にはなじみが薄いものですが、歴史的な蓄積と風土に支えられた強固なものであり、これらの問題に対する抵抗は(穏健な保守派の中でさえ)すさまじいものがあります。それは多くの日本人の想像を超えるものです。

このような背景の中で、問題を正面から取り上げ、しかも就任演説のような場で争点化するオバマの行為は、本当に勇気を必要とするものです。
仮にこれを計算なく思いつきでやっていたとしたら、それこそ鳩山総理なみに物笑いの種、単なる無謀に終わり、不毛で無残な結果を残すだけのものになります。
しかし、さすがはオバマ、そんな甘い人ではなかったわけですね。まだまだ前途は多難とはいえ、レガシー作りどころか批判にさらされレームダック化する傾向が強かったこれまでの米政権と比較すると、その意欲的な姿勢と実現力には驚かされます。特に、前述の同性愛、銃規制、移民に関する前進は歴史的なものであるとすら評価されています。

一方で、外交についていえば、内向きであることがしばしば指摘されています。
中東(中東和平、シリア、イラン)、アジア(北朝鮮、中国)、いずれにおいても、どちらかといえば慎重というか消極的な姿勢が目につきますね。
以前の記事で紹介した『オバマの戦争』からも感じられたところですが、オバマは、外交と安全保障については、経験不足もあり、割と他人任せというか、自分自身のこだわりやリーダーシップを発揮する傾向が弱い印象を受けます。
良い面悪い面ありますが、その機能主義、合理的な性格が、現在の米国の内向きな姿勢に投影されているようにも感じられます。

まあ、そんなわけで、米国は経済は好調、政治的にもある程度の安定と前進を見せており、前途に不安を感じさせる欧州や中国と比べれば、はるかに大きな期待を抱かせる状況にあります。踏み込んでいえば、ふたたび米国の黄金時代がやってくるといえるかもしれません。

そんな力強さを増していく米国に対して日本はどう向きあっていくのか。
政治・外交安保では、これまで通りやるということに尽き、ほぼ解は出ているのでしょうが、ビジネスについていえば、新興国と同じかそれ以上に見過ごせないマーケットとなるのでしょう。それも、ハイエンドの製品の販売や高い技術力を使った生産など、新興国とは異なるアプローチで収益を上げることが期待されるわけで、ある意味で日本企業にとっては単なる人口の多さや労働集約に頼るものではなく、未来を開くような新しいモデルが求められ、実現していく地域・分野のように思われます。
M&Aにしても、販売店などではなくて、それこそアップルなどのように、高い技術をもっているところを丸ごと買って新しいビジネスにつなげるようなアグレッシブなアプローチも求められるのでしょう。

ところで、「アメリカの時代」といえば、思い出されるのは、18世紀以降の米国外交を描いた古典的名著、ウォルター・ラフィーバーの『アメリカの時代』ですね。
もう古くなってしまった本ですが、レーガン時代の気運の高まりを「バック・トゥ・ザ・フューチャー」と名付けた章で書くところなどオシャレだなと思った記憶があります。

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最近読んだ本。

■ ブロニスワフ・マリノフスキ 『西太平洋の遠洋航海者』 『性・家族・社会』 『呪術・科学・宗教・神話』 『マリノフスキー日記』
文化人類学の礎を築いた巨人マリノフスキの論文集。
処女作『西太平洋の遠洋航海者』では有名なクラの交易が論じられる。贈与経済の古典的成果であり、モースの『贈与論』とともにジャレッド・ダイヤモンド『昨日までの世界』でも何度も言及される。ダイヤモンドの著作に関心のある人には、そのアプローチの淵源を見る素材としても勧められる。
『性・家族・社会』からは、デュルケームの社会学(歴史主義・進化主義批判)と師フレイザーの神話学・宗教学(特に『金枝篇』)からの継承、そしてレヴィ=ストロースに代表されるその後の人類学・構造主義への貢献をみることができる。その近代的な調査手法と体系的考察は、博物館研究を社会学に変えたといわれるが(トロブリアンド諸島での日々などを含む『マリノフスキー日記』からは、現地調査の精緻化をみることができる。)、婚前の性交渉の豊富な事例など、読み物としても面白く、レッドフィールドも『呪術・科学・宗教・神話』 で書いているとおり、科学より芸術の彩りを感じさせるロマン主義的な記述もある。
『呪術・科学・宗教・神話』 は、タイラー、フレイザー、マレット、デュルケームの宗教論を整理した上で、フレイザーが展開した宗教・科学論、トーテミズム、多産と豊穣崇拝に対して独自の解釈を加えている。
いずれも古い作品だが、家族から親族という考察対象の発展、数学に基礎をおく機能主義、大陸(中欧)型の人文主義的知性とアングロサクソン型の科学的知性との比較など、今読んでも楽しめる。

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ヒラリー・クリントン国務長官の退任。
ホワイトハウス主導の外交の中、国務省の影が薄かったとも言われます。たしかに目を見張るような大きなレガシーを残したわけではありません。厳しい評論家は彼女の熱心な外国訪問はほとんど無駄だったとも言います
しかし、政権のintegrityを維持しながら、手堅い手腕でオバマの目指す外交を実現し、人間的魅力を発揮して米国のイメージアップに多大な貢献をしたことは誰もが認めるところでしょう。政治力と実務能力、バランス感覚とカリスマを兼ね備えた稀有な国務長官だったというのが正当な評価と思います。
実際、国務省内での彼女の人気は絶大なものがありました。就任当時から国務省にいた人から聞いたことがありますが、多くの国務省員が彼女の魅力に惹き付けられ、ファンになったということです。その精力的な活動、献身的な取り組みは党派を超えて讃えられています。
果たして2016年の大統領選に出馬するのか。本人は今のところ否定していますが、大いにあり得ることでしょう。そのときこの国務省での経験が大きなアセットになることは間違いありません。

翻ってチャック・ヘーゲルの次期国防長官指名。
議会の公聴会で承認の議論がされましたが、同僚だった共和党議員からさんざんに叩かれ、暗澹たる様子。
大統領と異なる政党の人物を閣僚に起用するのは珍しいことですが、ないわけではありません。こちらにリストがありました。ネオコンの元祖ともいえるカークパトリックなど大物が並んでなかなか興味深いですね。最近では、ゲイツ国防長官(前政権から留任)とペトレイアスCIA長官(一時は将来の大統領候補とも言われたがスキャンダルで失脚した軍人(以前書いた記事))がいました。ヒラリーのあとを継いで国務長官に就任するジョン・ケリーが2004年に大統領選に出馬したときは(以前書いた記事1)、共和党のマケイン上院議員が副大統領候補になると取り沙汰されました。
民主党から指名されるくらいですから、当然のことながら共和党の中では相当な穏健派で、過去にイラク派兵やイラン制裁をめぐってブッシュ政権を激しく批判したこともあります。公聴会ではこの点が激しく追及されました(特に上記のマケイン議員はヘーゲルを激しく追い詰めました)。ヘーゲルは、かつて外交委員会に所属し、現副大統領のバイデンや重鎮ルーガーとともに外交政策に関与した経験から、きちんと対応するだろうと予想されたのですが、予想外に準備不足。醜態をさらし、大荒れになったようです。
さすがに承認がとれないという事態はないでしょうが、今後の議会との関係を含め、要注目ですね。

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■ 亀井勝一郎 『大和古寺風物誌』
ずいぶん昔に読んだ本だが故あって再読。
この本と和辻哲郎『古寺巡礼』などを見ながら大和の古寺や仏像を見て回ると、飛鳥白鳳天平の文化、古代史の豊かさ(凄惨な時代ではあったが)を味わえる。「マタイ受難曲」を聞いて中世に思いを馳せるのに通じる感覚か。
梅原猛『隠された十字架』にも書かれているが、法隆寺夢殿の救世観音についての著者、和辻哲郎、フェノロサ、高村光太郎の感想がまるで異なる。仏像の鑑賞に美術、信仰、歴史観が投影されるのが面白い。

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ちょっと過ぎた話になってしまいましたが、劇的な演説でしたね。
同性愛、銃規制、社会福祉など国を二分する議論を真正面から取り上げ、大きな哲学と理念を格調高く提示しました。
これは、あのクリントン以上にリベラル色を全面に出したものであり、ある意味で米国の分裂を象徴・促進するものといえます。
ただ、この議論を大統領就任式という舞台で出すのは、勇気と覚悟があってこそであり、それ自体は保守派の知識人も感服しているようです。保守派の代表的論客であるDavid Brooksは「過去半世紀において最も優れた演説」と言っています。
2期目に入る大統領は歴史に残るレガシーに心が向くと言われますが、この就任演説も、歴史的意義を強く意識したものなのでしょう。
ただ、演説とはちょっと離れてしまいますが、米国は、上記の国内問題や歳出削減などに直面して、自分のことで手一杯という感じですね。アルジェリア(マリ内戦)や日米関係を見ても、どうもリソースを割く余裕がない印象を受けます。
例によって次は2月に予定される一般教書演説が注目されます。

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GoogleがスマートTVでのyoutubeを通じた配信に力を入れるという報道(1月19日付日経新聞)。
これは結構興味がありますね。
最近私もスマートTVを利用するようになりました。ネットにつないだら、youtubeは画像のきれいさに驚きましたね。40インチでも全然問題ありません。
映画の購入もできるようになっており、ラインアップが充実すれば、ユーザーの視聴スタイルにかなり大きなインパクトがあるように思います。
たとえば、前の記事で書いていた英米のTVドラマ。英米で流行っているもので見たいと思うものは結構あるのですが、日本ではなかなか見られなかったりします。これは、DVDレンタルにせよ放送局にせよ、日本のサプライヤーを通したものでないとなかなか手に入らないということがあると思うのですね。
仮にgoogleのネット配信がスマートTV上で国境に関係なく一斉配信すればそういう問題はなくなるでしょうし、日本向けの配信にする必要があるとしても、従来型の供給と比べればずっと簡単に迅速にできる気はしますね。
そういう方向に進んでいくのでしょうか。自分自身の趣味に沿った希望的観測ですが(笑)。

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最近読んだ本。

■ セバスチャン・マラビー 『ヘッジファンド』
開示情報が少ないため神秘的で謎につつまれたイメージのあるヘッジファンド。その歴史を膨大な取材と資料に基づいて解説。
セバスチャン・マラビーは自分がワシントンDCにいたときにワシントン・ポスト紙にコラムを書いており、エコノミスト誌の元東京特派員ということもあって、なじみ深いジャーナリストだった。ストーリーテリングが秀逸で、この本も無味乾燥・散発的になりそうな主題を、AWジョーンズ、ビッグスリー(スタインハルト、ソロス、ロバートソン)、ジュニアスリー(PTジョーンズ、コフナー、ベーコン)、ドラッケンミラー、メリウェザー、イェール(スウェンセン、ステイヤー)、数学とコンピュータサイエンス(シモンズ、ショー)、グリフィンといったキーパーソンの活躍を摘出することで流れるような物語に仕立て、インフレ、為替ペッグ、資産バブルという時代の流れに応じて発展するヘッジファンドのイノベーションをエキサイティングに語る。
ヘッジファンドのビッグ・ダディ(生みの親)と言われたAWジョーンズが元外交官で社会学者だったというのは面白い。ヘッジファンドが米国内においても排他的な特権階級として社会から白眼視されていたのは少し意外だったが、その設立の主な理由が規制をかいくぐることであったことからすれば自然なことではある。著者は、レバレッジの過剰の問題はヘッジファンド特有のものではない、ヘッジファンドの破綻は大手金融機関と異なり政府予算負担をもたらさない(too big to failの逆)ことを指摘して悪玉論に警鐘を鳴らし、あえて規制をしないことの意義を説く。異なる投資スタイル(アービトラージ、トレンドサーフィン)がITバブルへの対応に差を生み、それが市場の合理的価格形成に異なる影響を及ぼしたとの指摘は興味深い。著者は、この点をとっても、ヘッジファンドが経済を攪乱して利益を得る集団であるとのイメージは一面的で誤っていると指摘する。
以前紹介したプライベート・エクイティ・ファンドの歴史を描くデビッド・キャリー他『ブラックストーン』と併せて読むと米国の金融史の概観に役立つ。

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昨日はぐっちーさんやはまちゃんたちと東京ドームでWBCの日本・中国戦を観戦してきました。

試合は当然のことながら日本の横綱相撲でしたが、内容はちょっと・・・でしたね。投手はよかったですが(みんな球が走ってましたね)、このくらいの相手(かなりお粗末なプレーでした)ならコールドゲームやるくらいの勢いが欲しかったです。なんとなく今後に不安が残りましたね。でも相手が強ければかえって実力が発揮されるものかもしれません。

まあ試合の内容は報道に任せるとして、面白かったのは開会セレモニーで中国の国歌を在日米軍の軍楽隊がやっていたこと。それと王さんが始球式をやってましたがなかなか鋭い球を投げ込んでいたことですね。

あと皇太子ご夫妻も観戦に来られてました。WBCは3年前にも日韓戦をドームで見ましたが、このときも見えてました。結構野球お好きなんでしょうか。

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これで終わってしまうのもなんなので、せっかくの機会、最近の米国の政治等についてちょっとだけ雑感を書きます。

だいぶタイミングを外してますが、オバマ大統領、議会演説も堅実な内容で、依然としてそつのない政権運営をしているように見えますね。バブル人気とかポピュリストとか言われてますが、私もどっちかというと国民的人気のある政治家には不信感をおぼえるタイプなんですけど、よくここまでミスらしいミスもなく、高い期待を裏切らないものだと感心します。

魅力ある人物ならその人を失敗させたくないと思うものでしょう。特に危機の中で優れたリーダーを必要とするのは国民全体の願いですからなおさらのことです。そういう意味では高い期待にこたえないといけないプレッシャーもある一方で、サポートもあるのだから、致命的な失敗を犯さなければ、事態が好転するまで何とか耐える、という考え方もあり得ると思います。

それは日米両方に言えることなんですが、米国に引きかえ、我が国の総理はやらなくてもいい失点が多すぎますよね。得点は期待しないがミスだけはしない、それが実は簡単なようで難しいことなのかなと、安倍、福田、麻生の3総理を見ていると、気づかされたりします。古いタイプの自民党の政治家というと、調整能力だけで本当の意味でのリーダーシップがないとかネガティブな意味でよく言われますが、今の新しい政治家は調整能力すらないのかという印象を受けますよね。あとから振り返ると評価が高まった故小渕総理を思い出したりします(高評価については就任中に亡くなったということもある程度影響しているのでしょうが)。

雑談になりますが、財務長官のガイトナーさん、この人はほとんど財務省しかキャリアのない生粋の官僚なんですよね。公務員の地位が低いと言われる米国ですが、意外とこういうキャリア官僚が政治任用の対象となる高いクラスの官庁のポスト-時には閣僚まで含めて-をとるケースは結構あります。特に国務省は外交という、経験がものをいい、地域に関する専門知識が必要とされる仕事の性質からか、キャリア外交官がそのまま政治任用されることがかなり多いです。最近イラク大使になると報道された六者会合でおなじみのヒル氏、今のイラク大使のクロッカー氏、イラク大使から国務副長官になったネグロポンテ氏とかそうですね。民主党系で思い浮かぶのはホルブルック国連大使とか。

政治任用というと学者や民間人だけ使うように思うかもしれませんが、実際は内部の人材でかなりまかなってます。前にNSCの絡みでそのへんのことを書きました

でもガイトナー氏ほど若くして官僚からなるケースはちょっと珍しい気がしますね。(私の知る限りでは)特殊なバックグラウンドやコネクションがあったわけではないようですし(サマーズNEC委員長と上司関係だったことはあるが)、それだけこれまでの実績が今の状況とマッチしていて、その実力を買われたのでしょう。

米国の官僚の地位と評価は日本のそれとかなり異なります。基本的には社会的評価は高くありません。ただ国務省、財務省、OMB(行政管理予算局)、CIAなどのように、例外的ですが、若くて優秀な人材を惹きつける官庁もあります。待遇も、少なくとも国務省について言えばかなりいいです。でも日本のような猛烈な官僚バッシングはあまり聞かないですね。なんでですかね。あまり深く考えたことがないのですが、中途採用が多いのと、そんなことよりももっと深刻な社会格差があることが一つの原因なのかなと思ったりします。

現代における日本の官僚の地位等についてはちょっと思うところがあるので近いうちに書いてみたいと思います。

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迫力のある演説でしたね。録画して翌朝見るつもりだったのに、ついつい最後まで見てしまいました。

内容については、ざっくりした感想ですが、ブッシュ前大統領が「神」や哲学、ストレートな強さを強調していたのに比べると(当時の感想)、理性、調和、科学といった現代的な価値、相互理解、穏健さなどに重きを置いたような印象を受けました。

オバマが初めて脚光を浴びた2004年の民主党大会の基調講演を思い出します。当時のオバマは上院議員選にこれから出馬しようとする一介の州議員に過ぎませんでした。 それがひとたび口を開くや誰も文句のつけようのないパーフェクトな演説で米国全土をふるわせました。その頃こんな記事も書いてました。

もはや言い尽くされていることですが、なにがすごいかといって、オバマに興味ない人も敵対する人もふくめ誰もが認めるのは演説力だったんですね。これに匹敵できるのはクリントンぐらいではないでしょうか。クリントンもものすごい演説の名手でした。右手の人差し指を軽く曲げてつきだす独特の仕草をふくめ、何もかもがかっこよく見えたものです。インパクトは落ちますが、ブレアやアナンも素晴らしい演説家でしたね。この人たちの共通点はみなハンサムであること。ちょっとナルシストぐらいの方が演説ってうまくなるんじゃないかと思います。日本に演説がうまい人が少ないのはこのためですかね。いや、冗談ですけど(笑)。でも政治家たるもの、言葉で人を動かせずしてどうする、と思いますから、日本の政治家ももうちょっとがんばって欲しいものだと思います。

脱線しましたが、今回の演説もとにかく言葉が美しかったです。リズムやライム、繰り返しなどの技巧も完璧で、現代で見られる最高水準の演説という気がします。

私の場合、現実的過ぎるのかすれているのか、昔からリベラル的なものが性に合わないというか苦手で、米国ではどちらかといえば共和党にシンパシーをもってきたのですが、オバマの場合党派性を超えた何かを感じさせますよね。

これほどみんなから祝福されて就任されるリーダーは、世界を見渡してもこの数年の間を見てもなかなかいないと思います。米国では誰もがこの人を失敗させてはいけないと考えているのでしょう。「国の分断」とも言われるほど保守・リベラルの亀裂の入った米国でこれだけ超党派の支持を得ていることはそれ自体大きな資産と思います。

(ちなみに普段の生活で共和党(特にブッシュ)支持者に会うのは結構大変です。特に学生ではレアです(そういう人が非常に優秀だったりしますが)。そのへんのことも昔何度も書いたことがありました。)

まずは「最初の100日間」、リンカーンと並んでなぞらえるフランクリン・ルーズベルトの言葉にならってよく言われますが、まあ100日に終わる話ではないのでしょうけど、注目ですね。

(ちなみにフランクリン・ルーズベルト(通称FDR)といえば米国史上に残る特A級の大統領、ほとんど現代の英雄扱いの偉人ですが、実はかなり複雑な人物です。たとえばポール・ジョンソンの『アメリカ人の歴史』を見るとその多面性というか色んな評価を受けていることが分かると思います。)

まあしかし天気は良かったですが寒そうでしたよね。就任式と言えば私が思い出すのがハリソン第9代大統領のエピソード。4年前の記事で書いてます。東京も天気はいいけど寒いですよね。からだに気をつけてがんばりましょう!

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ついに安倍新総裁が選出されましたね。色々な新構想も出されて、周囲の期待も高まっているようですが、まずは来年の参議院選挙に勝つことが至上命題になるのでしょうから、このまま人気を保ちたいというのが本音のところかもしれませんね。特に大きなプランほど政権の基盤が確立しないと本気で進められないでしょうから。

取りざたされている新構想のうち、個人的に気になるのは日本版NSCの創設です。どういうものを想定されているのか、まだ見えてこないようですが。まあ、「New Star Creation」でないことくらいは確かですけど・・・(さむ~!笑)。すでに存在する(があまり機能していない)安全保障会議との関係はどうなるのか。「NSC」という名前の通り米国にあるNSCのようなものを作るつもりなのか、経済財政諮問会議のように有識者を入れた会議体を作るのか。海外経済協力会議のような検討会を作るのかもという報道もあります。

ちなみに米国のNSCというのはどういうものなのか。検索しても意外と説明は少ないみたいですね。ネットの情報を見ると、文字通り安全保障に関係する政権のトップが集まる「会議」のように見えますが、ご存じの方も多いと思いますけど、NSCといえば、普通はどっちかというと、偉い人の集まる会議ではなく、その会議の下にある常設の事務局のことを指します。要するに会議というより国務省や国防総省と並列する機関みたいなものなのです。機関に所属するスタッフには所掌があって、日本のお付き合い先であるアジア上級部長やら日本・朝鮮部長やらというポストもあります。ちなみにwikipediaには「常設のNSCがどこに置かれているか」は不明とありますが、少なくともNSCのスタッフはホワイトハウスの敷地内の建物でフツーに勤務してます。

職員はあまり多くないのですが(300人くらい?(修正:数年前の調査によれば200人とのこと))、この機関のすごいのは、その大部分の職員が政治任用、しかも様々な分野における一流の学者・専門家であることです。よく米国の行政機関は幹部職員が政治任用のため政権交代のたびにごっそり入れ替わると言われますが、そうはいっても国務省や国防総省のような膨大な事務作業が要求される大組織においては、プロパーの職員(つまり官僚)の割合が圧倒的に多くて、入れ替わるのは課長級より上の人というイメージです(そのレベルでも実質的に入れ替わらない人も沢山いる)。ところがNSCのスタッフは原則として官僚ではなく、有識者です。有識者が官民をいったきたりする米国のシステムは回転ドアと言われますが、それを実現するためには当然政府内にポストがないといけないわけですけど、NSCの中には有識者を吸収するポストがたくさん用意されている、ということもできると思います。実際、私が米国の大学にいたとき、NSCで働いた(もしくはスカウトされた)ことがあるという先生が何人もいました。

国務省や国防総省があるのになんでそんな機関があるのか?といえば、外交と国防の統合・調整というのが一番もっともな理由ですが、同時になんと言っても重要なのは、大統領が機動的な安保チームを自分のお膝元に置いておきたい、ということがあるからです。形式的には政権の一部として大統領の下にあるとはいえ、国務省や国防総省のようなあまりにも巨大で独自の歴史がある官僚組織はやっぱりちょっと使いにくいみたいなところがあるわけです。だから大統領は、就任すると自分が個人的に信頼する人をまず安全保障補佐官に任命し(ライス前補佐官はブッシュ大統領の家庭教師のような存在でした)、さらにその人を支えるスタッフをどんどん集めるわけです。そうすることで、組織の論理ではなく本当に大統領の意向を汲んで、しかも専門的な知見を発揮し、さらにそれを実務の形に体現できる(ペーパーに落とせる)人材をそろえることが可能になり、大統領のトップダウンが実現するというわけです。

当然のことながら、所掌分野がかぶるため、NSCと国務省の意見が折り合わず対立するということもままあるわけで、バンディ+ロストウ対ラスク、キッシンジャー対ロジャース、ブレジンスキー対ヴァンスといった大物同士の激突は有名です。こうした個人の知性やプライドが前面に出て、その苛烈なせめぎ合いで政策が決まるというのが、良くも悪しくも米国らしいといいますか、政治任用システムの一つの帰結といえるかと思います。

付け加えれば、この政治任用のため、米国の場合、政権にいる人の影響力は、ポストのみならず、その人の個性によるところも大きいといえます。例えば同じNSCアジア上級部長でも、マイケル・グリーンのような日本とのパイプが太い人が担当している場合とそうでない人が担当している場合とでは働きかけの効果が違うでしょうし、アーミテージ氏のような人であれば、国防総省にいようが国務省にいようが、そんじょそこらのアジア担当高官などよりも、よほど頼りになる存在になったりするわけです(「米国新政権の東アジア担当チーム」を参照下さい)。

このような属人性の強さは、個人力よりポストで勝負する日本の官庁とはずいぶん趣が違います。お分かりになる方も多いと思いますが、どうしてこのような違いが出るかといえば、政治任用の場合、自分の発言や行動に対してその人個人が責任をとれるからです。かりに組織の意見と食い違っても、自分を任命した人(形式的には大統領)の支持があれば正当化されるので、結構大胆(乱暴)なことができてしまうわけです。ところがプロパーの職員(つまり日本の官庁の職員)というのはそういうわけにいかなくて、基本的には巨大な組織の中の一つのポストにたまたま置かれた人に過ぎず、そのポストに与えられた権限を組織の代理人として行使するパーツみたいなものに過ぎませんから、その行動に個人の味を出すことにはどうしても限界があるわけです(まれに度を超えた個人力を発揮する人もいますが、そこにはある意味制度の本質から外れる危険がつきまといます)。もっとも、どちらのやり方にせよ、最終的な目標達成のために一番良い手段は何かということが前提にあるわけですから、どっちが良いかというとそれはその時の状況や分野によって事情が異なり、一概に結論は出せないのでしょう。

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で、安倍総裁のプランに戻ると、総合調整やトップダウンがねらいなのであれば、何もNSCほどきっちりした機構を作らずとも、経済財政諮問会議のように、有識者をトップの一員に入れて、その会議の決定を総理からの政策として下ろすということも可能なのだろうと思います。そうすると既存の安保会議を修正していく形で実現するのかと思う一方、官邸スタッフを官僚から公募するという取り組みなど見ると、やはり単なる手足にとどまらない知見のあるスタッフを集めて、ホワイトハウス式NSCに近いものを作りたいのかな、という気もします。ただ、法律を変える必要のあるやり方だと時間も手間もかかりますし、なかなか難しそうです。仮にスタッフを集めるにしても、民間の有識者ばかり集めるわけにはいかず、やはり各省庁から来てもらう実務家たちが主力になるのでしょう。(注:この記事を書いた後に、内閣官房職員を政治任命にする方針との記事が出ました。やっぱりそういう方向で行くんでしょうか。)

それでも、こういった「官邸主導」の流れというのは、一昔前からすれば考えられないほどの勢いがあって、安倍総裁の新構想もその流れを現実化する一つの例なのかなーと思ったりします。新しい制度にせよ古い制度の活用にせよ、最終的に目標とされるものに貢献することが何より大事なんであって、制度の趣旨というものをはっきりした上でやるのであれば大いに結構なことだと思います。

・・・

めずらしく長くなりました。ってか、昔の記事を見ると、えらい字数多いな・・・。よくこんな色んなことをカリカリ書いてたもんだ、と我ながら感心(笑)。今見るとかなりいい加減なところがあり、赤面ものでもあるのですが、駆け出し?の頃のありし日の思い出としておきましょう・・・と言うほど昔のことでもなければ今円熟しているわけでもなんでもないのですけど。

ところで、なんと、あの替え歌会の巨匠みたいな・・・さんが私の大好きな歌「Wait & See~リスク~」を元ネタにして、当HPのテーマソングを作って下さいました(笑)。恥ずかしい、というかおそれおおくてコメントしにくいものがありますが、歌詞と照らし合わせると、本当に絶妙な替え歌ぶりです。読めば読むほど凄さを再認識。大変嬉しいことです。本当はページの右側に常時表示させておきたいぐらいですが、やり方がよく分からないのでとりあえずプロフィールのところにリンクをはっておくことにします。みたいな・・・さん、本当にどうもありがとうございました。また、anneさんが、これまたおそれおおいブックマークをはって下さり、いやー、恥ずかしい思いでいっぱいです・・・ぐっちーさんのご紹介なみのやばさですね、これは(笑)。ここまでくると開き直るしかないです。なんにしてもマイペースで続けますね!ではー!

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ご無沙汰しております。すっかり怠け癖がついてしまいました(笑)。心配して連絡を下さった方もいらっしゃいました。ご心配をおかけしてすみません。元気にやってます。ただ、なかなか身辺が落ち着かず、余裕ない状態が続いています。それでもアクセス数は思ったより落ちることがなくて、嬉しいなあ、でも申し訳ないなあと思うこの頃です。もう少ししたら落ち着くと思いますので(希望的観測)、ユルいペース(月刊化?)でお付き合いいただければと思います。

さて、二日遅れになってしまいましたが、9・11。あれからもう5年になるのですね。あの出来事は、あまりに非現実的なビジョンであったせいでしょうか、遠い昔のような、ついこないだのような、不思議な時間の感覚をおぼえます。

あのとき、私は米国カリフォルニア州のサンディエゴというところにいました。東海岸では午前9時でしたが、西海岸では午前6時。私はどちらかといえば朝に弱い方なのに、なぜか理由もなく6時前に目が覚めました(ホントの話です)。そのときの習慣で、起きてすぐにラジオをつけました。歯を磨いたりしていると、飛行機が墜落したとか言っているのを聞こえてきました。事故かな?と思って、あまり気にも留めず、しばらくしてテレビをつけたら、何度も繰り返し流された、あのWTCの映像が飛び込んできました。そして、ラジオでは、声にもならないような声で、ひたすら「Oh my god.」と連呼する音が聞こえてきました。

すぐに何人か友達から電話がありました。NYにいる友達はどうなっているんだろう。うち一人は、まさにあのWTCで働いていた人です。つい数週間前、あの破壊されたビルのレストランで一緒に食事したばかりでした。あとで、飛行機が突っ込んだ瞬間にはニュージャージーから地下鉄で出勤する途中にあり、一命をとりとめたことを知って安堵しました。

それから色々なことが起こっていくわけですが、米国で生活していた私の心にあったのは、とにかく「不安」という感情でした。何が起こるか分からない。次は核攻撃が来るとかいう噂もありました。さらに当時の私がへこんだのは、これでは到底飛行機になんて乗れない、そしたら彼女も遊びに来られないじゃん!ということでした(アホだ)。

何にしても、言いようもない不安感が蔓延してました。ご存じの通り、間もなくしてアフガンとイラクの戦いが始まります。その背景には色んな要素があったわけですが、一つの大きな要因が、「何かしないといけない」という切迫感だったこと、これは間違いないと思います。受け身ではいけない、何か行動に移さなければならない。国を守るために、家族を守るために、生き残るために。そのために何をすればいいのか、という段になれば、それは色々な議論がありました。しかし、自分たちを守るために、何かが必要だという思いは、多くの人々に共有されていたと思います。このプレッシャーは、直接攻撃を受けた者でなければ分からない感覚だと思います。

あれから5年。いまなお米国で議論され続けているのは、結局のところ、米国はより安全になったのか、それとも危険になったのか、という問いです。今後とも共和党と民主党との間の主要な争点になるのでしょう。日本はどうなんでしょうか。その答えは、状況を悲観的に見るのか楽観的に見るのかという価値判断となかなか切り離せないこともあり、誰にも言い切ることはできないのかもしれません。ただ、どっちにしても思うのは、やろうと思えばできるのに、できていないことが、いまだに色々あるということです。細かい話はしませんが、常々思うのは、どうしてこんなに国家への不信、反システムの考えが強いのだろうか、ということ(この10年、20年でずいぶん変わってきたとは思いますが)。敵対的な国家にせよテロにせよ犯罪にせよ、自分たちの政府よりは、よほど脅威だと思うのですが。

と、ちょっと真面目くさい話になりましたが、最後にとりとめない一言。最近驚いたのは、「宇多田ヒカル さいたま」でググると、なんとこのページがトップにくることです。「宇多田 アリーナ」「ヒカル さいたま」でもやはりトップ。無意味に嬉しくなりました(笑)。ジャンジャン!(ぐっちーさんの影響)

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「米国におけるエスニシティ」の続きを書く前に少し閑話休題を続けます。>

2月28日の溜池通信でかんべえさんがQDRについて述べられています。私も思うところがあってすぐ述べたかったのですが、怠惰な性分のため今日に至ってしまいました。鮮度の低い話の上、すでにかんべえさんや報道などで専門家が述べられている以上に私なんかが付け加えることなどほとんどないのですが、素人なりに思いついたことをメモ程度に記してみます。

QDRの概要を読んで私が第一に感じたのは米国の切迫感です。必死だなあという感じがしました。中国が重視されているというポイントはよく指摘されますが、それはそうとしても、テロとの戦いとイラクでの苦境が長く続くことの覚悟、米国が単独ではなく同盟国と一緒になって戦っていくんだという姿勢、それを政府が確認し、米国民が理解する必要があるんだという点が何よりも主要なテーマなのかなと思います。決して楽観的になるなという戒め、米国の強大な力への期待値を下げるという政治的な目的もあるのでしょうか。

それから、これはQDRというよりは、ずっと以前から続いている米軍のトランスフォーメーションと日本との関わりについてなのですが、米国が同盟国と一緒にやっていくことの意味をどう日本がこたえていくかという点が気にかかりました。

米国が目指す新時代の軍の姿は、ものすごくおおざっぱに言えば、コンパクトで機動性に富み、単体で自給自足的なオペレーションがこなせるハイテク精鋭部隊をそろえて、特定の地域や対象ではなく、個別の事案(テロが念頭)に対してフレキシブルで迅速に、洗練された対応ができるようにする、というものです。その裏には、精鋭部隊に資源をつぎこんで、同時に縮小される旧来型の軍隊の役目を同盟国にできるだけ任せる、という一種の作業分担が念頭にあります。例えばイラク復興では、少数のハイテク部隊ではなしえない大量の兵士と治安部隊が必要になりますが、それはイラク人自身にやってもらう。アフガン戦争ではタリバンの中枢部分をJDAMや特殊部隊でピンポイントでたたくのは米軍がやるけど、そのあとにばらばらになった残党をたたくとか武装解除するとか、戦闘が終了した地域の治安を維持するのはアフガン政府やコアリションの仕事。あるいは米軍を展開させる上での兵站は同盟国の支援を期待する、そのために同盟国の兵廠や備蓄の基地が重要な役割を果たし、その土地にいることならではのアドバンテージを発揮してもらう(アフガンで現地勢力が馬を提供してストライカー旅団をサポートするとか)。要するに米軍はその技術力を活かして自分たちにしかできないことを追求することに専念し、それ以外の色々な仕事、旧来型の雑務や汚れ仕事が多くなりますが、それは同盟国(とかPMC(民間軍事会社))にやってもらうということです。大まかなポイントをつかむには江畑謙介『米軍再編』などが参考になるかと思います。

これは勝手に考えた乱暴な比喩ですが(笑)、サッカーにたとえると、米国はものすごい金をかけて超強力なオールラウンド型のFW兼ゲームメーカーを養成し、彼らをイタリアでもスペインでもその時々に最も重要な局面にあると考えられるリーグに、助っ人として投入できるようにする。米国人選手が最強の攻撃力を活かして相手のエースを粉砕する一方、こぼれ球拾いなど地道な作業と豊富な運動量が要求されるDFやMFは現地プレイヤーにやってもらう。トレーニング施設管理やサポーター動員などのロジも現地国担当。試合が終われば助っ人はすぐに撤退し、別の激戦区に移動する。必要であれば米国本国に全員を呼び寄せて本国のDFとともに祖国防衛に当たらせる。米国選手はチーム単位ではなくプレイヤー単位なので小回りがきくし、移動はスピーディー。この移動をスムーズにするための世界中の拠点作りも現地国にやってもらう。そんなイメージかと思います。トランスフォーメーションを象徴する兵器である「ストライカー」の名前から何となく思いついたたとえ話なので、あまり真剣にとらないようお願いします(笑)。

それはそれで効率的な考え方だし、いまや全世界の安全保障を担当しようとする勢いの米国はそうでもしないともたない。それにそうした役割を担うだけの力量と資格のある国だと個人的には思いますから、理解はできます。また個人的には、「『日本の「ミドルパワー」外交』書評 」でも述べましたが、日本が米国とともにグローバルな安全保障を担うことにやりがいはあると思います。日米関係を強固なものとする上でも米軍との一体化を進めることは大きな資産になるのでしょう。

ただ、その米軍のシナリオに乗っかって一体化することが自己目的となってしまうとしたら、それはどうなんだろうという思いもあります。日本自身の安全保障環境を見れば、北朝鮮と中国が不安要因なわけですが、現時点での戦力バランスを見れば致命的な問題があるわけではないと思われます(もちろん、だから何もしなくてもいいという意味ではありませんが)。テロとの戦いについて言えば、米国と一体化しているイメージを作り出すことが決して日本にとって得なわけではありません。米軍の変革に協力することが基地移設の負担など財政的なコストの拡大につながることもあり得ます。日米関係や日本が世界の安全保障に貢献する意味では、米軍との連携強化には軍事的のみならず政治的にも計り知れないメリットがありますし、私自身は大いに結構なことだと思っているのですが、日本が自分自身の安全だけを純粋に考えるのであれば、実はそれがどこまで喫緊の必要性があるのかは良く分からないということです。

日本が英国や豪州と比べて米軍との連携に遅れをとっているからといって、ものすごく不安になる必要はないでしょうし、連携を進めることで払わなければいけないコストも考えないと、際限なくリソースを割かなければいけなくなります。安全保障とかテロ対策は、やればやるほど安心するというか、理想を言えばどこまでやっても止まらないという面がありますよね。しかし、現実的に考えれば、資源は無制限ではないのですから、進めることで得られるコストとベネフィットは両方考えないといけないと思います。だからこそ脅威認識とか情勢分析といった基礎的な研究が必要なわけで、それを元に本当に必要な対抗力は何なのかを追究することになるのだろうと思います。ミサイル防衛なんか、米国にとっても日本にとってもまさにそのへんが難しい判断だったのだろうと思います。

くどいようですが、米国との協力を進めることで得られるものはとても大きいです。軍隊を否定する平和主義や単純な「巻き込まれ論」からの日米同盟批判はナンセンスと思います。個人的には日米の関係の深化という大きな流れは良いことだと思いますし、ミサイル防衛にしてもイラクにしても日本がこれまでとってきた政策を批判する気はありません。日米が気持ちよい状態で同盟を維持できるよう配慮を尽くすことは死活的に重要と思います。ただ、単純な友情とかボランティア精神で米国についていくのではなく、日本自身の安全保障にとって必要なものは何かというある種「わがまま」な打算も頭のどこかには置いておく必要があるのではないかなと思います(わがままを通して日米関係を壊すのは合理的な選択でもなんでもありませんが)。他の国が米軍との一体化を進めているからという観点ではなく、日本にとってどういう状態が最適であるのかという観点から考えることが大切かと思います。そうでないと、日本は米国の世界戦略を見据えた再編に対して正面から議論できるようなロジックがなく、ズルズルと引きずられるだけで終わってしまうでしょうから。

軽い話にしたかったのですが、説明力不足のため長く重くなってしまいました・・・。このテーマはまた違う形で取り上げてみたいと思います

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<先に「その1」をお読み下さい。>

前回は、啓蒙主義的価値観に基づき成立した米国においても、保守的・イデオロギー的・土着的な観念が存在していることについて述べました。現代において、科学や理性をある程度所与のものとして受け入れ、文化の相対性を認めている生きる私たちは、伝統的・土着的な価値観らしきものは、中東や中国のような地域ではまだまだ存続するものの、近代化した国にとってはアナクロなものとしてとらえられるに過ぎないように思うかもしれません。しかし、なかなか単純なものではないのかなと思います。

例えばマルクス主義は、宗教をはじめとする伝統的な社会の持つ因習を徹底的に排除し、科学と理性をもって国家という枠組みを超越した人工的な理想社会を築くという信念を持った思想でした。70年代まで米国を席巻した急進的なリベラリズムも、人間の力によって社会を変革できるという強い信念がその原点にある科学(社会工学)万能の思想という点で通じるところがあります。

これらの思想がうまく機能しなかったのは、伝統や人間の感情の軽視が主な理由ではなかったかもしれません。しかし、いずれにしても冷戦の終結によって、共産主義のイデオロギーは完全に幻想とされ、ソ連においては、イデオロギーによって結合していた領域がそれぞれのナショナリズムという土着的な観念にしたがって次々に独立を果たしました。ナショナリズムのような一体感を担保できなかった中国は経済成長や「愛国主義教育」によって国家の存在意義を明らかにすることを迫られました。また、リベラリズムに対抗する保守主義の一つの核は、「神=自然の秩序」を克服できるとする人間の「傲慢」に対する反省・反発と言えます。こうした現実の動きを見ると、やはり人間理屈だけで生きていくわけにはいかないのだろうなと漠然と思うところがあります。

自由や平等といった価値観は、もちろんマルクス主義とは違いますし、その普遍的な力ははるかに説得力のあるものとして認められていると思いますが、近代的価値観を受け入れる程度の問題もありますし、またそういった価値観と両立する範囲において、伝統的な感覚は生き続けるということも現実かと思います。

「現代と80年代」でも少し触れましたが、理性や科学は、人為的なルールに沿って世界を記述することに貢献しましたが、経験や論理を超えた絶対的な概念に答えを出すことはできません。それでもなお答えを求めざるを得ない人間に、文明化された現代の社会に一見そぐわないような、信仰、道徳、ナショナリズムといった神秘的な物語が必要とされるのかと思います。伝統的・土着的な慣習の積み重ねや共同体固有の文化は、その要請にこたえるものとして、人間の社会を安定させる上で大切な役割を担っていると思います。

最近のムハンマドの風刺画の問題は、普遍的な理性の理念と人間が必要とする神秘性のあり方との折り合いのつけ方という面があるように思います。こうした理性と伝統の両立は、イスラム国家では分かりやすいですが、形は違えど、米国など近代国家として認められる国々においても多かれ少なかれ見られることであり、日本も例外ではないと思います。多くの人々から指摘されてきた日本に残存する「非近代性」のみならず、皇位継承制度や首相の靖国神社参拝をめぐる問題も、こうした視点から考えることも大切なのかなと思います。

・・・

以下は余談ですが、米国の普遍性と特殊性のテーマに戻ると、オッカムさんが、「国学」という言葉を使って社会科学と異なる「アメリカ人の物語」について論じ、「歴史解釈が国民をつくるための政治的営み」であると述べられています。そのことにまったく異論はないのですが、そうしたある種の物語を意識した歴史観とは別に、政治から離れた科学としての歴史観があることは事実であって、後者もまた価値のある営みではあると思います。それは民間の研究者なり市民が自由に論じればいいのであって、政治が後者の歴史観を鵜呑みにすることは愚かとは思います。ただ、私が漠然と感じる疑問は、では国家が物語としての歴史をどこまで決めることができるのか、というところです。もちろん皇室の制度を決めるのが皇室典範であるように、国家が国民を代表する擬制に立てば、日本という国家に最大の利益をもたらす歴史の捉え方は国家が決めれば良いということなるのでしょうが(民主国家であれば戦前の「皇国史観」に陥る危険もないと思いますが)、とはいっても果たしてそんな権威やリソースを認めることができるのか。例えば「神武以来の万世一系」という理念は、国民統合にとって都合が良いかもしれませんが、科学的でない以上、どこか違和感が生まれるリスクもあるように思います。おそらく、そこに答えはなくて、国家の解釈と市民の科学的研究が相互に影響を及ぼしあいながら、生まれてくるものが、政治の平面における「日本の歴史」である、ということになるのでしょうか。

話がまとまりない一方ですが、物語や神話としての歴史、それと密接な関係にある国民統合のための歴史がはらむ問題は、それが科学や議論とは違う要素(歴史の意味、信仰や政治的な目的)を含んでいるため、価値観の異なる他者との共存が困難であるところのように思います。これは現代米国が直面する保守主義とリベラルの分断に通じる面があるような気がします。

なんだかああでもない、こうでもないとしか言ってないような、良く分からない話でした(笑)。日々の労働からちょっと離れて、ふらふらと思いついたこととして適当に読み流していただければ幸いです。

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いやー寒いですね。雪が降るかもしれないとか。
どうでもいい話ですが、昨晩レストランで隣の席に小沢征爾さんがおられました。健康を害して休んでいると聞きましたが、眼帯はしていましたけど思いのほか元気のようでした。ミーハーなんでとりあえずそれだけで幸せな気分になりました。

・・・
本題に入ります。「アメリカ例外主義(exceptionalism)」という言葉があります。他の国々が宗教や歴史といった固有の共同体思想とナショナリズムに基づいて成立・発展したのと比べ、自由や平等といった現代において普遍的な信念と考えられる啓蒙主義的価値観に基づき成立した米国は、憲法という人造的な概念をその紐帯の柱として出発した、非常に特殊な国であると言われます。米国は「移民の国」であると言われますが、多種多様なバックグラウンドを持つ人々を受容する姿勢の裏には、建国以来の「自由と民主主義の実験場」という感覚があることが指摘できると思います。つまり、憲法という最低限のルールを受容できる者であれば、その土着的なバックグラウンドと関係なく、誰でも米国人になれる、そのこと自体が米国のアイデンティティの重要部分を形成しているということです。

一方で、その科学主義的・合理的な姿勢と相容れないかのような、保守的・イデオロギー的・土着的な観念もまた存在していることも指摘されます。「米国の特殊性~宗教」で述べましたが、米国は非常に宗教的な国です。私も参加したことがありますが、いまどきの若者の間でもバイブル・スタディーはさかんですし、「クリスチャン・ロック」「クリスチャン・メタル」というポップス音楽があって、結構人気もあることなど聞くと、なんだそれ?と思う人もいると思います。教会に行く人の率に現れている信仰心の強さは、欧州の人から見てもちょっと異様に見えるほどです(ただ、米国は特定の宗教を国教とはしない政教分離原則を人類史上初めて憲法で規定した国であり、その宗教の内容は「civil religion」とも言われますが、いわば特異な文化であり、信仰と「神」が公的領域に関わるものと理解されているといった点には注意が必要と思います)。

また、多くの保守主義者が唱える家族に代表される共同体の果たす役割の大切さも、米国の一つの潮流と目される個人主義とはずいぶん違うもののように見えます。さらに、世界における自由と民主主義の伝道に対する熱っぽさや、アメリカン・ドリームに体現される自律自助の精神への強い思い入れにも、外部から見れば、過剰というか、押しつけがましいというか、ちょっとした違和感を感じるのではないでしょうか。

・・・
こういった伝統的・固有の文化は、一つには米国も実はまったく歴史がないという国というわけではなく、当然のことながら、植民地時代から積み上げてきた歴史と慣習の積み重ねがあり、人々の思考の基礎を形作ってきたということがあると思います。その積み重ねの中には、そもそも欧州(特に英国)から来た人々であるという背景、つまり欧州世界の歴史の延長線上にあったという部分がまずあります。英仏蘭独西等、どこの国からどういった事情で来たのかというバックグラウンドも影響しているでしょう。また、植民地時代に人々が形成した共同体の中で築き上げられた伝統という部分もあります。ピューリタンの禁欲的な精神が大きな影響を及ぼしたニューイングランドのような地域もあれば、植民地の統治やビジネスのために移住した貴族が奴隷制に基づいて穏和で安定した階級社会を築いた地域もあります。フロンティアの中で育ったジャクソン的な西部の自立・自衛精神も一つの特徴をなしています。また、ルイス・ハーツ(「米国史」参照)が指摘したロック的個人主義の伝統が、自由な個人の過剰な強調につながったという見方もあります。

もう一つ指摘できるのは、建国時点に、他の国にあるような「物語」や「神話」としての歴史を持たず、憲法という啓蒙主義の所産とも言える、人工物によって成り立った米国が、多種多様な人々と価値観を受け入れながら、国あるいは社会としてインテグリティを保つために、ある種のナショナリズムやイデオロギーを必要としたのではないかという面です。先に述べた宗教性の強さも、建国時の啓蒙主義の理念が聖書やキリスト教による概念によって説明されたことが、米国人にとって自然であったのと関係していると言えるかもしれません。外交政策において時折見られるウィルソン主義的な自由と民主主義の伝道は、米国がバラバラにならないための一つの方策であると言われることがあります。冷戦における共産主義イデオロギーとの戦いも、外交のモメンタムと国内の結束を強めるための手段の一つとして見ることもできるように思います。

<長くなってしまったので、次回に続きます。>

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