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やじゅんのページ/The World according to YAJUN



もう12月なんですね。
このところ割合暖かい日が続いていましたが、今日一日の寒かったこと。月日の流れの速さに驚きます。
私自身にとっては結構色んなことがあって、それなりに感慨深い一年でした。
100%満足できたとは言えませんが、とりあえずやるべきと思っていたことは大体できて、おおむね良い一年だったのではないかと思います。もっとも本当に良い一年だったと言えるかは、来年、再来年の努力にかかっているところもあるでしょう。頑張らないといけません。

さて、マンデラ元大統領が亡くなりましたね。
マンデラについては、以前、映画「インビクタス」について書いたとき触れましたが、ここまで国内外問わず高い評価を得て、生涯にわたりその評価を汚さなかったというリーダーはなかなかいなかったと思います。ご冥福をお祈りします。

そして、西武の堤清二氏も亡くなりましたね。
現代日本の消費生活の実現を象徴した西武王国も、証券虚偽記載、堤氏の逮捕、サーベラスとの騒動など厳しい局面が続いて、時代の変遷を感じさせます。
そんな西武の歴史に思いを馳せるのに便利な名著は猪瀬直樹『ミカドの肖像』ですね。いまや都知事にまで上り詰めた猪瀬氏の出世作。高校生のときに読みましたが、これだけのノンフィクションをどうやったら書けるのだろうと、当時よく読んでいた立花隆の作品とともに感銘を受けたものでした。

最近の大きなニュースではイラン核開発問題の合意。
何度もこのHPで述べてきましたが、米国にとって最大の外交問題の一つはイランです。米国にいると、世界の重心がこの地域にあり、アジアはあくまで周縁に過ぎないことを実感させられます。その地域の中で比類なき存在感を誇るイランをめぐる交渉は、EU+3(米中ロ)で取り扱われる問題であり、日本が入り込む余地はありませんが、まさに世界全体を揺るがすインパクトを与える出来事であり、今後の展開は要注目です。

最後に、だいぶ遅れてしまいましたが日本シリーズ。
私は、田中が一回負けて、最後にリリーフで出てくるという展開を予想しており、周りの友人に吹聴していました。
昔の日本シリーズは、1983年の巨人の西本とか、2戦、5戦で完投し、6戦でリリーフ、7戦で先発ということもありましたからね。
最後の美馬-則本-田中のリレーは、1994年の斎藤-槇原-桑田のリレーを思い出しました。相変わらず懐古趣味です。

・・・
最近読んだ本。

■ エドワード・O・ウィルソン 『人類はどこから来て、どこへ行くのか』
「生物多様性(biodiversity)」という、今や国際条約の主題にもなった共有の概念を生み出した知の巨人の最新著作。
『社会生物学』『人間の本性について』『知の挑戦』といった過去の著作と同様に、生物学にとどまらず、社会心理学、脳科学、文化人類学、歴史学など、人類をめぐる学問の成果を総動員して、人類の進化と本質という壮大なテーマに挑戦する。
人類の進化については、生物学的進化(脳、手、歩行)から社会進化(「真社会性」(世代の重なり、分業、利他的行動、グループ化)の獲得、文明の誕生)までを、遺伝子、脳、言語、(自身の専門である)アリとの対比を用いて語る。人間の本性とは何かという問いに対しては、遺伝的進化と文化的進化の共進化というアプローチで回答を試みる(乳糖耐性、近親相姦、色の語彙)。これらの理論を固めた上で、言語の起源(スキナー、チョムスキー、ピンカーの議論も俯瞰)、道徳と名誉(ヘーゲルやホネットの承認の欲求を想起させる)、宗教(同族意識)、芸術(biophilia)という各論(社会学的・人文学的なテーマ)に適用する。
知の統合に興味がある人なら読んで損はない。ただ、『知の挑戦』を読んだときほどの興奮や感動はなかった。文章は『知の挑戦』より簡素で説明も分かりやすいが、その分重厚さはなくなり、物足りなさが残る。真社会性、遺伝子と文化の共進という基本理論はすでに前著で説明がされており、新しい発見はない。各論の問題設定は刺激的だが、論旨は単純化し過ぎな印象。解説ではハミルトン則への批判等の理論的欠陥も明らかにされている。
なお、主著の一つである『生命の多様性』は、「生物多様性」を世界に知らしめた古典だが、印象に残るのはその取り上げる自然の例と詩のような文章の美しさ。人文学的知性への著者の思いはここにも感じられる。

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東京五輪が決定されましたね。
まだ先の話とはいえ、これだけのビッグイベントが身の周りで起こるのは自分の人生では初のこと。どんな風景が見えるのでしょうか。
最近仕事をしていると、海外の日本への関心の薄さ、日本の特徴、強さを武器に生かすことの難しさを感じます。客観的に受け入れざるを得ない現実という面もありますが、パーセプションにおいて不当に損をしている部分もあると思いますから、そんな感覚を打ち払って復活するようなきっかけになると良いですね。

日本の強さといえば(相変わらず強引な流れ(笑))、ちょっと前に映画『風立ちぬ』を見ました。
従来のジブリ作品と違ってファンタジー色はほとんどなく、戸惑う方もいたかもしれませんが、私的には結構良かったです。もうちょっと零戦の描写を見たかったところですが、そこをあえて描かずに余韻を残すのが美学なのでしょう。
そういえば『永遠のゼロ』も映画化されるとのこと。原作は『大空のサムライ』などで描かれた既知の題材なので新鮮さはなかったですが、心をえぐるような文章の数々が印象に残っています。
それにしても、最近周りの若い人たちと話して驚いたのは、「零戦」をまったく知らないという人たちが結構いるということ。例によってジジくさい物言いですが(笑)ちょっとさびしかったですね。あの凄さと痛ましさを知らなければ、『風立ちぬ』を見ても、職人的な仕事への情熱と純愛の話としか見えないのではないでしょうか。
宮崎駿についてはちょうど引退の発表がありましたね。末尾の「最近読んだ本」でも取り上げてみました。

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さて、本題ですが、3ヶ月くらい前(6月19日)に経済産業省から「消費インテリジェンスに関する懇談会報告書」という報告書が発表されました。

脱デフレのための政策を提言したものですが、その中で挙げられた一つに、メーカーによる流通業者の価格指定を容認することがあります。

メーカーが販売価格を指定することは、1991年に独占禁止法の運用指針(流通取引慣行ガイドライン)が制定されて以来、独占禁止法に反するとされてきました。
それから現在に至るまで、この世界では常識とされてきた価格指定の違法性にこの提言は真っ向から反するもので、なかなかインパクトのある話です。

そもそも流通取引慣行ガイドラインが制定された背景には、80年代の日米貿易摩擦問題がありました。
当時、米国は、日本市場が閉鎖的である理由として、日本の流通がメーカーに支配されていることを挙げ、日本の流通慣行の改善を要求していたわけですが、流通取引慣行ガイドラインは、このような問題を扱う日米構造協議を経た後の1991年に制定されたものでした。

しかし、流通取引慣行ガイドラインの制定後20年以上が経過し、メーカーと流通業者との関係は大きく変わりました。
流通の国際化を背景にした大規模小売店や多店舗を展開するチェーン型小売業者、特にイオンやヤマダ電機のようにかつてなく大規模な売上と圧倒的な市場シェアを有する流通事業者の出現、それにインターネット通販が登場したことにより、市場の支配力を握る者はメーカーから流通業者に移行したと言われます。
また、メーカーによる価格指定は、新製品の開発へのインセンティブを提供し、メーカーと流通との協力を通じたブランド価値の創造にもつながり得ることも指摘されています。
さらに、報告書は、近年、欧米においては、メーカー優位の市場構造を前提とした制度から、流通優位の市場構造に対応した制度への変更が行われているところ、欧米における規制の緩和と比較すると、日本の規制は過剰であり、消費市場を活性化する上で最適な競争環境を提供しているとは言い難い、特にデフレ脱出を目指す現在においては不適切と考えられると述べています。

こうした認識に立って、報告書は、メーカーによる価格指定を違法とするのではなく、基本的には容認すべきであると説いています。

これに対して、公正取引委員会は、メーカーによる価格指定は、欧米においても厳しく規制されており、容認されているとは認識していないと述べ、流通取引慣行ガイドラインの見直しを実現することは現時点において考えていない旨明言しました(6月26日付事務総長記者会見)。経済産業省の提言を実現する可能性を否定したわけです。

このように、経済産業省と公正取引委員会の見解は一致しておらず、独占禁止法の運用をめぐる今後の動向が注目されています。

個人的に興味深く感じるのは、今回の提言が脱デフレの文脈で出てきたところですね。
物価の上昇を至上命題とするアベノミクスにとって、販売店のrace to the bottomの様相を呈する価格競争は大きな障害となるでしょう。また、価格の維持はメーカーと販売店の両方にとってメリットがあり、割を食うのは消費者という構図がありましたが、アベノミクスとブランド価値創造という理論により、消費者の利益にもかなうものであり、3者winwinの関係を作るという説明が可能になりました。これは、法のみならず経済学、ビジネス(イノベーション)も絡み合うところであり、刺激的な議論です。
そして、今回提言したのが(官邸の意をくんだ)経産省であり、それに伝統的立場から公取委が反対するという点も、独禁法が政治に左右される世界でもあり、単なる法律論を超えて風向きを見極める必要があるものを示すもので、興味深いポイントです。法と経済の高度に専門的な議論、ときとしてそれを吹き飛ばすインパクトのある政治が密接に入り組んでいて、マニアックではありますが、個人的には注目してみたいトピックです。

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最近読んだ本

■ 堀田善衛、司馬遼太郎、宮崎駿 『時代の風音』
『風立ちぬ』を最後に引退を発表した宮崎駿。
その彼が20年も前に座談会の司会というめずらしい仕事を務めたときの記録をまとめた本。
宮崎は堀田義衛と司馬遼太郎の対談を仕切る役割を担うが、2人の知識人の個性を存分に発揮させ、さらに、この2人に負けじ劣らず自身の思考を大胆に開陳する。話題は国家、ヨーロッパ、イスラムからアニメ、料理、堀辰雄に及ぶ。知性を自在に解放した野放図な雑談は、林達夫・久野収『思想のドラマトゥルギー』の躍動を思い出させる。
これを読めば、宮崎駿が直観と感性に頼る芸術家の域にとどまる人間ではなく、高度の教養と論理を備えた知識人・思想家であることが分かる。その混沌と逆説に満ちた思想・世界観(以前書いた記事その1その2)が最も尖鋭に圧倒的な形で現れた作品は『風の谷のナウシカ』だろう。この本の中で断片的ながら現れる本音の部分は、その世界を読み解くヒントにもなる。

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昨年には、光よりニュートリノが速いという、特殊相対性理論に反する実験結果が発表されましたが、先週には、不確定性原理も否定されるという報道がありましたね。
この二つの原理は、言わずとしれた現代物理学の基本原理ですが、合理論と経験論を対立軸とする伝統的な認識論哲学にも影響を与えています。また、不確定性原理は、ゲーデルの不完全性定理とともに、人間の知性の限界を論じる上で重要な示唆を与えています。このように、物理学という一つの学問分野にとどまらず、人間の思想や世界観を左右する大きな広がりを見せているといえます。

この件について印象に残った本。

■ メンデル・サックス 『相対論対量子論』
相対論と量子論については、数々の本が論じているが、この本は、対話形式で二つの世界観の対立を説明しており、論争の熱気を伝えてくれる。文章は平易で簡潔だが内容は本格的。

■ ブライアン・グリーン 『エレガントな宇宙』
相対論と量子論の対立を止揚させる可能性をもつ超弦理論を解説。(以前の記事でも紹介。)
合理論と経験論の止揚に向けたカントの挑戦を彷彿させる(中身は全然違うので比べるものではないが、超弦理論も、実験で検証できない数学による仮説という点では形而上学的)。理論のみならず説明自体がエレガントな一冊。

■ 同 『宇宙を織りなすもの』
『エレガントな宇宙』に続く宇宙論。
時空論と宇宙の創生が中心テーマだが、前提として、相対論と量子論、超弦理論をコンパクトに説明してくれる。
これぐらい簡潔な方がかえって門外漢には分かりやすいかも。

人間の知性の限界については、以前の記事で紹介した『知性の限界』も参考になりますね。
前述の通り、これらの議論は人間の思想や世界観という根本的な問題を扱うものになっていますから、その前提が崩されるとなると、従来の議論の蓄積が無駄になってしまう気もして、なんだか怖いというか残念な気持ちになります。でも、そんな感傷は、科学における真理の探求とはまったく関係のない話ですね。これからの議論の発展を素直に楽しみにすることにします。

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それと、先週行われた台湾の総統選。
台湾経済の中国への依存は、10年以上前から言われていることですが、今回の選挙はその現実をあらためて示したものと言えそうですね。

■ 本田善彦 『台湾総統列伝』
この本は、歴代総統に焦点を当てながら、台湾の現代史をバランスよく描いています。
特務政治の黒幕と言われた蒋経国の肯定的評価や李登輝の複雑な性格などは他ではあまり見られない記述で新鮮。
多少古くなってしまったが(2004年、陳水扁時代まで)、今でも手元にあると役立つ好著。
ちなみに初代総統は蒋介石ですが、台湾人の考える「国父」は孫文ですよね。台湾=中華民国という「国」は、蒋介石が建国したわけではなく、国民党政府が中華民国の臨時首都として台北を定めただけの話ですから、建国者を孫文とするのは当然でしょうし、また、侵攻者である蒋介石に対する本省人の否定的評価もあるのでしょうが、昔、台湾人の友人からその話を聞いたとき、あーそうかーと納得した記憶があります。

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最近読んだ本。

■ デビッド・キャリー、ジョン・E・モリス 『ブラックストーン』
少数精鋭ながら大手投資銀行に匹敵する投資能力・資金力を誇り、ウォール街に君臨するプライベート・エクイティ。本書は、その雄ブラックストーンの物語、創設者シュワルツマンの一代記。
『野蛮な来訪者』で描かれたKKRによるRJRナビスコ買収を含め、セーフウェイ、ベアトリス・フーズなどの歴史的ビッグディール、その資金を支えたドレクセルのミルケン、ケミカルのジミー・リー、M&Aに対抗する弁護士など伝説的プレイヤーの活躍、カーライル、アポロ、TPGら他の代表的PEの興亡、21世紀後半からの資金力と影響力の巨大化という近況が語られており、PE業界の歴史を俯瞰できる。最後には、レゴランドやマダムタッソー等の事例をあげながら、市場経済を支えるPEの意義を理論的に評価する。
ブラックストーンの初期の発展を支えたのは日興證券だった。ソニー(CBSレコード、コロンビア映画)やブリジストンの買収も手がけ、大きな収益をあげている。80年代の日本の金融機関と企業の存在感も今から見ると興味深い。
ブラックストーンの名前の由来はシュワルツマンの「シュワルツ」(=独語、イディッシュの「黒」)とピーター・ピーターソンの「ピーター」(=ギリシャ語の「石」(ペトラ))の組み合わせ。
KKR(ブラックストーンに先行して最強の地位を確立したPE)とカーライル(最も有名なPEの一つ。元国防長官カールーチが会長を務めるなど政界、軍需産業との強い関わりでも知られる。)は小説『ハゲタカ』のモデルにもなっている(KKRは鷲津のいたPE。カーライルは『ハゲタカ2』の敵役。)。

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枝野官房長官の安定感あるパフォーマンスと奮闘が話題を呼んでますね。
私も見ていて、落ち着いた態度と誠実な物腰が立派だなと思いました。

ただ、前から私が思っているのは、官房長官という、余人をもって代え難い要職に、対外発表の負担をあれだけかける体制は適切なんだろうか、ということですね。

以前、「国家戦略局」という記事で、こんなことを書きました。

・・・
一つだけ、細かい例をあげると、官房長官の記者会見があります。これは毎日二回もやる仕事で、その言動の一つがものすごい影響を与えることがあるので、結構な負担になります。・・・(大事なのは)仕事を絞ることです。特に記者会見のような、(言い方は悪いですが)職人芸があれば誰でもできる仕事はアウトソースして、本当に「総合調整」が必要な仕事のみをやらせることです。
・・・

今回の原発の対応をみても、いかにあの会見が大変で、そのための準備にも相当な負担がかかることが分かると思います。本当は、もっとやらないといけない仕事がたくさんあるはずと思います。

総理や官房長官といったリーダーが、要所で重要なメッセージを出すことには、心理的効果という観点から、極めて重要な意味があります。ただ、そういう機会が定期的にあるわけではありません。単なる状況や対応の説明をルーティーンでやることに関しては、報道官のような人がやればいいのではないでしょうか。そういうポストは実はあるのですが、機能してません。今すぐにというわけにはいかないでしょうが、これから考える余地があるように思います。

リーダーのメッセージの重要性といえば、なんと言っても総理の与える印象が重要なわけですが、これまでのところを見ると、ちょっと頼りないですね。

米軍の救援の報道などが話題を呼んでますが、こういう危機においては、頼もしい人が出てくると、画面で見るだけで何となく安心しますよね。
みんな心細いわけです。これからどうなるかなんて、政府だって分からない、そんなことは分かっている。そんな状況で、この人ならついていける、ついていってもよい、と思わせることが、どれほど大事なことか。

自衛隊の幕僚や消防庁の隊長の会見を見て、おっと思った人もいるのではないでしょうか。あの力強い、制服姿の指揮官が与える安心感。ああいうのは結構大事と思います。米国では軍人がどんどん前に出てきます。実力が必要な場面には実力をもつ人の出番です。消防庁はもちろん、自衛隊も、ここでどんどん前に出て(災害派遣のみならずプレスへの露出の意味でも)、プレゼンスとプレスティージを上げて欲しいところです。

※ただ、この記事を読んだときは、ちょっと見直しました。リーダーとしての直感があたっていたわけですね。結果論でしょうが、それを貫けなかったのが残念です。
「専門家に任せればいい」というドグマは、当たっているようで、危険な面があるんですよね。専門合理性のピラミッドと化した現代社会の難問の一つだと思います。
※それはそれとして、官房副長官の交代とか節電大臣の任命というのは、どうなんでしょうね。私は部外者なので、実質的な意味はわかりませんが、一般国民の目線からいえば、これが与える心理的効果はマイナスな気がします。

それにしても、エネルギー問題はこれからますます重要性を増しそうですね。政治的にもビジネス的にも。

しかし、まずは一刻も早く事態が安定化することを祈っています。

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だいぶ経ってしまいましたけど、年末にあったインテル対マゼンベのトヨタカップ。まだ記憶に新しい熱戦でしたね。

マゼンベってコンゴのチームなんですよね。コンゴというとコンゴ共和国とコンゴ民主共和国の二つがあるので、どっちだろうと思いましたが、コンゴ民の方ですね。旧ザイール。

ザイールは、ブラックアフリカで最も強烈なところの一つです。モブツの独裁、その後の相次ぐクーデターなどの激動の歴史は言うに及びませんが、ハードコア系のバックパッカーだった自分には、ザイール川流域の猛烈な自然が思い浮かびます。
今ではどれほど注目があるのか分かりませんが、10年くらい前は、ザイール川とチベットのカイラスへの旅行は、バックパッカーにとって、聖地巡礼のような趣きがありました。私も激しく興味をかき立てられて、色んな本を読んだり、実際に行った旅行者の話を聞きまくったものです。こないだ、たまたまテレビでオナトラ(ザイール川を往来する巨大船)の映像がうつっていて、なんだか目頭が熱くなりました。

そして音楽。ザイールの音楽はリンガラ音楽とか言われますが、アフロ・キューバン・ジャズを現地化した音楽で、ジュジュなどと並んでアフリカで最も人気のある音楽の一つです。パパ・ウェンバはジャンルを超えて世界的に有名なので、聞いたことがある方も多いかと思います。
首都キンシャサといえば、アリとフォアマンの歴史的な試合ですが、あのときの「アリ・ブマイエ」もリンガラですね。「猪木ボンバイエ」はこれのパクリ・・・というかアリが猪木との試合の縁に寄贈したという。
同じタイミングにあったもう一つのキンシャサの奇蹟が、ファニア・オールスターズら当時の巨人たちが集結したアフリカ版ウッドストックのようなコンサート。まさにキューバンジャズとブラックアフリカの融合の祭典として知られる伝説のイベントです。
このへんの雰囲気はドキュメンタリー映画『モハメド・アリ かけがえのない日々』とか見るとよく伝わってきます。ちなみにファニア・オールスターズは、サザン・オールスターズの名前の由来でもありますね。
あとアリの映画といえば最近ではウィル・スミスの『アリ』もありましたね。さすがにマイケル・マン監督、米国にいたとき見ましたが、期待していたより面白かったと記憶してます。

1:30からのキンシャサのシーンが好きです。

龍馬伝でもおなじみLisa Gerrardの音楽、ディランとジミヘンの名曲「All Along The Watchtower」のカバー、Rケリーの「The World's Greatest」が心に残ります。

数あるジミヘンの名曲の中でも一番好きな曲の一つ。

話が大きく曲がりますが、アリとフォアマンの試合といえば、ジョージ・フォアマンは「フォアマン・グリル」というグリル製品をプロデュースして、世界的に大成功しています。米国のTarget(大型雑貨店)なんかに行くと、フォアマンの満面の笑顔が貼ってあるこの製品が必ずどこにでも置いてあって、うぉっフォアマン、ナイスな笑顔、とちょっと驚きます。

エプロンがかわいい。

そんなわけで、ザイール(コンゴ民)には結構思い入れがあります。カメルーンとともに、ぜひいずれ行ってみたい国の一つです。その前に一昨年前にポシャったセネガルとマリに行きたいところなんですが。いつの日になることやら。

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最近読んだ本。

■ 野口祐子 『デジタル時代の著作権』
歴史から現代の課題までおさえつつ、自らのポジションも示している。新書ながら、いや新書だからこそ制約なく書けるからか、なかなか読ませる。
それにしても野口先生はスタンフォードローに4年もいたんですね。レッシグの薫陶を受けたという。よほど優秀な人だからなんだろうけど、あそこにそんなに長くいられたというのは、とてもとてもうらやましいことです。

■ 桝田淳二 『国際弁護士』
内容が非常に具体的。事実づくめ(記録に近い)という印象も受けるが、とても参考になる。米国強制労働訴訟を担当していたというのも意外な面白さ。

■ 弐瓶勉 『シドニアの騎士』
漫画です。しかし漫画というか、もうアートを感じさせる作品です。
この著者の作品は、宇多田ヒカルも大好きという、『バイオメガ』他、いろいろ読んでいますが、なんというのか、人間のイマジネーションの限界のようなものを感じさせます。そのぐらい凄い作品と思います。もちろんエンターテイメントとしても滅茶苦茶面白いです。
ちなみにどの作品にも人間の言葉を話す熊が登場します。そのへんも宇多田ヒカルの琴線にひっかかるものがあるように感じずにはおれません。

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最近夏っぽくなってきましたね。梅雨がくるのがちょっと鬱ですが、本当の夏到来まであと一歩。なんかワクワクしてきます。

意外にも(笑)、それなりに使いこなすようになったツイッター
140字ならではの使い勝手と面白さがあるものですね。
まだ考えがまとまっていないことやちょっと過激(?)なことも思い切りよく(笑)述べたりしています。
基本的に自分の考えのメモのような使い方をしていますが、思わぬレスや交流があるのもブログと違う新鮮さがあります。

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さて、最近、ユダヤ人の思想哲学を勉強する機会がありました。

米国に行ったことがある人なら分かると思いますが、米国社会において、ユダヤ人には特異な存在感と影響力があります。
仕事にせよ(金融、法律等)学問にせよ(自然科学・人文学問わず)様々な場面で高い知性をもったユダヤ人に出くわすことは多いです。
私の経験でも、留学中のルームメイトがそうでしたし、仕事においても関わる機会が多くありました。
日常生活においても、米国のドラマや映画を見れば、その独特の存在感に気づくことと思います(たとえば、私が米国にいた頃大人気だった『フレンズ』では登場人物のロスがユダヤ人で、その関連のエピソードもよく出てきました)。
また、これは言うまでもないことですが、イスラエルが中東、米国、世界において発揮する存在感と影響力はすさまじいものがあります。

マイノリティでありながら米国という一つの世界の中心で独特の活躍を続けるユダヤ人。
地域の小国でありながら世界的に強い影響力を行使するイスラエル。
これらについて知ることは、米国を理解する上でも、国際的な事柄を考える上でも、極めて重要、ほとんど必須といえるでしょう。

国際問題としてイスラエルを論じたノンフィクションや宗教としてのユダヤ教について述べた本は沢山あります。
が、こうした本を読んでも、ユダヤ人の活躍や歴史的事実の関連は分かっても、ユダヤ人の思考様式や思想の内容というものは、なかなか分からないと思います。
しかも、その思想たるや、とにかく難しい。
ヘブライズムとも言いますが、西欧思想、キリスト教と近い関係がありながら、非常に異なる性格をもっているため、西欧近代思想を圧倒的・普遍的なものとして(同時に形式的・ご都合的に)受容してきた日本人には、理解が困難ということがあるのだろうと思います(たとえば同じ「神」「理性」を語るにしても、キリスト教的伝統とユダヤ的伝統とでは違う内容を含むことがあります)。日本語化している文献がそれほど多くないという事情もあると思います。

そんな中で、これを読めば分かる、とまではとても言えませんが、少なくともなにがしかの手がかりや参考にはなると思ったものを記しておきます。

■ ユリウス・グットマン 『ユダヤ哲学』
■ サイモン・ノベック 『二十世紀のユダヤ思想家』
■ イジドー・エプスタイン 『ユダヤ思想の発展と系譜』(特に18章、21章)
ユダヤ思想の特徴の一つは、ギリシア思想(古代アレキサンドリアと中世イスラム圏)と近代主義という巨大な知的挑戦を受けながら、「理性の宗教」(メンデルスゾーン、コーエン、ベック、ローゼンツヴァイクらのドイツ的啓蒙主義)や神秘主義(ブーバー、ショーレム)といった知的営みにより、伝統的な宗教的実践と哲学的思弁の止揚を図った点にある。
これらの本は、そうした経緯について、主要な思想家を細かくフォローしつつ、体系的・包括的に論じている。
こうした流れを念頭において、新カント学派、フランクフルト学派、ブーバー(対話の哲学)、レヴィナス(前の記事でも述べた他者に依拠する存在論)といった、日本でも人気の高い思想家の本を読むと、より深いイメージが見えてくる(と思う)。

■ 村岡晋一 『対話の哲学』
■ 佐藤貴史 『フランツ・ローゼンツヴァイク』
■ ステファヌ・モーゼス 『歴史の天使』
合理主義・哲学的思弁を重視する近代ドイツのユダヤ思想、特にコーエンとローゼンツヴァイクの理解に役立つ本。

■ 市川裕 『ユダヤ教の歴史』
昨年末に出たばかりの本。
まさにそこが知りたかったという最新のトピックを含め、かゆいところまで手が届くほど情報が詰まっている。説明も大変分かりやすい。初学者にイチオシ。

■ 上山安敏 『宗教と科学』 『ブーバーとショーレム』
ユダヤ教とキリスト教の関係、理性の宗教と神秘主義としての近代ユダヤ思想の系譜を壮大な物語にまとめた本。読み応えがある。

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以下は過去に読んだもの。

■ シーセル・ロス 『ユダヤ人の歴史』
■ イラン・ハレヴィ 『ユダヤ人の歴史』
■ マックス・ディモント 『ユダヤ人の歴史』
■ ポール・ジョンソン 『ユダヤ人の歴史』
いずれも包括的な通史。
著者のバックグラウンドが異なり(英国人学者、ユダヤ人(パレスチナ人に同情的なタイプ)、米国系ユダヤ人、英国人ジャーナリスト)、それぞれに特徴があるので比べると面白い。
がんばる気持ちがある人は、アブラハム・マラマット他『ユダヤ民族史』。通史の代表的名著。ただ古いし長大。必要箇所を参照すればいいのでないかと思います。

■ ①ノーマン・ソロモン 『ユダヤ教』
■ ②市川裕 『ユダヤ教の精神構造』
ユダヤ教の基本知識をおさえるのに便利。
②は特に神秘主義の解説(第7章)が良かった。
神秘主義については、井筒俊彦『意識と本質』にも簡潔にして要を得た解説がある。がんばる気持ちがあればゲルレム・ショーレム『ユダヤ神秘主義』
カバラに代表される神秘主義は多くのユダヤ人思想家に影響を与えている。
たとえば19世紀ドイツを代表する公法学者ゲオルグ・イェリネック。その承認と自己拘束の理論には神の収縮(Tzimtzum)の理論の影響が見てとれると言われる。

■ マックス・ウェーバー 『古代ユダヤ教』
古典的名著。ユダヤ学というよりウェーバー学の本といえるが、後世に大きな影響を与えている。

■ ①鈴木輝二 『ユダヤ・エリート』
■ ②ジャン・ポール・サルトル 『ユダヤ人』
ユダヤ人について述べた本。
①は米国の各分野で活躍するユダヤ人を取り上げたもの。事実中心で思想の掘り下げはないが、手軽に読める。
②は古いが、有名な本。時代の雰囲気や反ユダヤ主義のステレオタイプが分かる。

■ 井筒俊彦 『意味の深みへ』
「デリダのなかの『ユダヤ人』」という論稿の中で、デリダの根元にある思惟のユダヤ性(とギリシャ的思惟との混合)を詳述している(これについては高橋哲哉『デリダ』がより多面的な見方を提示している)。

■ スピノザ 『神学・政治論』
前半のかなりの部分がユダヤ人論(特に第3章にユダヤ人の選民思想の詳細な分析(批判)がある)。
スピノザはユダヤ人だが、独自の哲学によりユダヤ教の教義を相対化して破門された。
その思想は哲学と神学の明確な棲み分けなど脱ユダヤ的でありながら、ユダヤ教の影響も強く見てとられ(スピノザのユダヤ哲学における位置付けについては、マルティン・ブーバー『ハシディズム』でも論じられている)、これがデカルト主義とも異なる特異な哲学史上の巨人と評価される一因をなしている。

・・・
あと、聖書はもちろん、イスラム思想や古代ギリシャの思想も非常に密接に絡んでくるので、これまで紹介したキリスト教の本や井筒俊彦の『イスラーム思想史』など参照しつつ読むと、面白さが広がると思います。

自分の場合、米国に行って、前述のとおりユダヤ人と接する機会が多かったほか、大学院の授業で関連する授業を聴いたり、仕事でも分析の対象となったりして、関心をもつようになったのですが、特に大きな影響があったのは、この問題の専門家で、尊敬できる方(仕事上の大先輩)に会ったことでした。無知な自分に、豊富な情報と分析を、適格かつエキサイティングに教えて下さり、そのおかげで、微々たるものにせよ、土台らしきものができました。

思うのは、人から刺激を受けるというのはとても大切ということです。
時々自分の知っている世界をはるかに超える人の会話を聞くことがあります。何を言っているのか分からない。でもすごく気になる。分かりたい。そういう気持ちは、自分の好奇心や探求するインセンティブを一気に引上げます。
そして、中にはそういう難解な(というか多くの段階をふむ必要のある)話を、とても上手に説明してくれる人がいます。そうした人との出会いは大切にした方が良いと思います。

話がそれました。ともかくも、これほどの専門的で複雑な問題は、やはり専門家の知見を真摯に学ぶという謙虚な姿勢がまずは大切と思います。
もちろん専門家といっても沢山いますから、一つの考えを盲信するのではなく、色んな考えを見て、自分なりに理解していくことが必要であることは当然ですが、何にせよ独断的になって知った気になるのだけは避けたいものです。
私自身は、力不足のため、目を開くような刺激的なメッセージを自分の言葉で伝えることはできませんが、これらの優れた本のどこかにはそんな刺激があると思います。何となく面白そうだな、と興味をもったり、思索のとっかかりとして見ていただけたらうれしいです。

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最近、NHKでマイケル・サンデルの「ハーバード白熱教室」というTV番組が始まりましたね。
ちょうどこの前、「コミュニタリアニズム」の記事でサンデルを紹介したところだったので、グッドタイミングと思いました。はやりの話題からはほど遠いこのHPにしてはめずらしい(笑)。

「白熱」・・・までしているかはわかりませんが(笑)、とりあえず、サンデル先生は話がうまいです。感心した人も多いのではないかと思います。

米国では、質疑応答のスタイルで、聴衆とインタラクティブに授業を進める「ソクラテス方式」という手法がよく採用されています。
サンデルの講義は、入門的な授業の性格、人数の多さから、一般の講義スタイルに近いですが、それでもかなりインタラクティブに授業を展開しています。あれだけの人数を相手にこれだけたくみに実現するのはさすがです。ビジュアル教材の使い方や演劇的な話し方も効果的です。

もっとも、彼に限らず、米国人の先生は総じて話術のレベルが高いという印象があります。学生を退屈させる講義をするのは教師の能力不足、とみなされるような雰囲気が全体的にあるようです。
もっと言うと、講義に限らず、一般的に、話術の重要さが強く意識されているんですね。
話のうまさは、誰もが身につけるべき基本スキルとみなされている感覚があって、政治家はもちろん、ビジネスマン、学生みんな熱心に技術を磨きます。メソドロジーが確立しており、プレゼン、スピーチの授業や研修も多いです(私もいくつか受けたことがあります)。

留学したり、米国人と仕事をする機会があると、先方の話のうまさや押し出しの強さに圧倒される場面もあるかと思います。
人の話なんて内容よりもイメージというところは現実としてあって、たとえ内容の精緻さに劣っていても、そっちが優先されることなんて結構あるものですよね。
それもどうかとは思いながら、やはり一つの力ではあって、こういうところを日本ももう少し見習えないものかと、文化的背景もあるようですが、思ったりもします。

裁判を例にとっても、米国では、おおざっぱに言って、書面での資料提出以上に法廷の場でのプレゼンに重きを置かれる傾向があります。
まさに映画で見るようなドラマチックな法廷が展開されて、書類作成担当と法廷担当で分けて、後者は弁護士になる前は俳優をやっていた、なんてことも、実際にあるそうです。
その場の証言の心証でかなりの部分を決める、それをもって真実とする、ゲームのルールをそんな風に決めているわけですね。日本における書面の重視とは対照的です。
これも、どっちが正しいというものではなく、善し悪しがあって、いずれの側でも反省しているところでもあります。たまたま先日も裁判官の方とそんな話をしたところでした。

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ところでTV番組といえば、『龍馬伝』。面白いですね。

ストーリーや演出もさることながら、俳優の躍動感が素晴らしいと思います。

岩崎弥太郎を演じる香川照之が絶賛されてますが、私が目を離せなかったのは、吉田東洋を演じる田中泯。
『たそがれ清兵衛』に出てた方ですが、もともとはあの「暗黒舞踊」の土方巽の弟子にあたる舞踏家とのこと。顔も身体も所作もどこか違うというか、美しいんですよね。すごい存在感でした。物語の序盤で暗殺されてしまったのが残念でなりません。

そして武市半平太を演じる大森南朋。
前回の龍馬伝では、岡田以蔵(佐藤建)に暗殺を(黙示的な指示で)命じるようになり、いよいよ鬼の道を突き進み始めましたね。
実際に武市半平太の日記を見ても、ドラマと同様、直接的な証拠を残さないもので、非常に不気味です(最終的には以蔵の自白が決定的な証拠となってしまいますが)。
ちなみに、ドラマには描かれませんでしたが、岡田以蔵ら土佐藩士による暗殺は、実際には極めて陰惨なやり方で行われました。制裁や嗜虐趣味もあったのでしょうが、見せしめの意味も強かったのでしょう。
異常な人体破壊は、古今東西に通じるもので、その真の目的は、恐怖によって、生き残っている者の心を折ることにあります(前に、ユン・チアン『マオ』の書評でも書きましたが、毛沢東はそうした恐怖を政治的に利用した天才の一人)。暴力(テロ)の真の恐ろしさはここにあるのですね。
そして、京都におけるこんな凄惨な暴力の横行が、松平容保の京都守護職就任、新撰組の結成につながっていくわけですね。
話がそれました。大森南朋。この人は最近でこそ『ハゲタカ』の鷲津とか『タイガー&ドラゴン』の業界人とか、役柄は広いとはいえ都会的でクール、かっこいい役の人という印象ですが、私にとっては、『殺し屋1』(三池崇史2001)で、主人公であるド変態の殺し屋イチを演じた人。三池監督の持ち味が全開となったとんでもない作品でしたが、そのインパクトが強すぎて、最近の役柄の方が逆に新鮮です(笑)。

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龍馬を主人公にしたドラマや映画といえば、たくさんありますが、最近私が見たのが、『竜馬暗殺』(黒木和雄1974)。

原田芳雄が演じる猥雑なエネルギーに満ちた龍馬。さわやか福山龍馬とはかけ離れたイメージです(笑)。
石橋蓮司、中川梨絵らロマンポルノ俳優のアングラ的な妖しさ。
少年のようなあどけなさを残す松田優作、大久保利通を演じる田村亮。
ここには「龍馬伝」にはあり得ないような、濃さ、泥臭さ、切なさがあります。その青春の情景、時代の感覚、ATGのにおいにドキドキする。そんな作品でした。

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それにしても鳩山邦夫といい著名なビジネス・リーダーといい、龍馬に憧れる人は多いですよね。
司馬遼太郎や坂崎紫瀾が描いた、時代を動かす英雄としての龍馬はたしかに魅力的です。
ただ、実際龍馬はどんな人で、何を成し遂げたのか。そういうのを実証的・学問的にながめてみるのもたまには面白いかと思います。
研究書は山のように出ていますが、私が読んでみたのはこんな本。

■ 平尾道雄 『坂本龍馬海援隊始末記』
戦前に書かれた大変古い本ですが、龍馬研究の古典とも言える名著。下記の本でもよく引用されます。
著者は、龍馬関連文書をまとめた代表的人物。明治の坂崎紫瀾、大正の岩崎鏡川、昭和の平尾道雄と並べてあげられる。

■ 宮地佐一郎 『龍馬の手紙』
当たり前のことですが、歴史は資料から生まれます。この本はその資料の宝庫。
ここからどのような解釈が生まれ、物語が紡がれるのかと考えながら読むと、なかなかいい気分になります。ここにある手紙がそのまま『龍馬伝』に出てきたりするし、平井加尾のエピソードなどの元ネタも確認することができます。
(ちなみに平井加尾は何度か手紙に登場し、その中には二人はどういう関係だったのだろう?と思わせるものがある。一方で、龍馬は姉乙女への手紙で、千葉佐那を「かほかたち平井より少しよし」と述べて紹介している(笑)。)
手紙は色々なところで書かれているので、順を追って手紙を読んでいくだけで龍馬の旅の足跡をたどることもできます。
『ファインマンの手紙』もそうですが、手紙というのは、文面(と字の形?)から人間性が見えるものですね。龍馬の手紙には、ユーモアと思いやりが詰まっていて、これを見るだけで、たしかに魅力のある人だったのだろうと思わせます。

■ 松浦玲 ①『検証・龍馬伝説』 
■ 同 ②『坂本龍馬』
著者は横井小楠と勝海舟の研究者。そのためか①の時点では少し遠慮がある印象。しかし松本健一らとの論争を激しいタッチで書いている。これに対し②では腰を落ち着けて、バランスに配慮した本格的な評伝とした印象。①は刺激があるが②の方が安心して読める。
脱藩の意味、勝海舟との関係、薩長同盟とその後の境遇、船中八策(大政奉還)の「伝説」、また吉川英治や司馬遼太郎の書く「歴史」とは何か、といった主題化と、それに対するドライな目線の議論が面白い。

■ 飛鳥井雅道 『坂本龍馬』
古い本だが、なかなか面白い。
必ずしも龍馬の行動や視点を中心とすることなく、マクロな視点で、時代の中での龍馬の位置付けを描いている。史料を重視しながらも、文体に躍動感があり、文学的で読ませる。
ただ上記の松浦氏の視点よりは思い入れが感じられ、それもあってか上記①の本では批判されている部分もある。
この本の方でも松浦氏の本(『勝海舟』など)へのコメントがあり、合わせて読むと面白い。

■ 遠山茂樹 『明治維新』
日本近代史研究の古典。古い本ですが、しっかりした学術書としての通史で、注や参考文献も充実しています。
コンパクトに龍馬の果たした役割や性格を論じた部分があり、ポイントをつかんでいてなかなか参考になります。

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雪が降るような寒い日が続きましたが、ちょっとずつ暖かくなってきましたね。今週もがんばりましょう。

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だいぶ過ぎた話ですが、フィギュア、すごかったですね。
私はキム・ヨナがかわいいなとオリンピックの前から思っていたので、そこばかり注意がいってましたが(笑)、最後の浅田真央選手の演技には本当に感動しました。
テーマの選択について議論があるようですが、キム・ヨナの(言い方が良くないですが)通俗的なテーマに対し、ああいう荘厳で精神性の高いテーマで対抗するのも、あれだけの実力とカリスマのある人なら十分納得のいくものではないかと、まったくの素人目線ですが思いました。
しかし、キム・ヨナも、なんと言ってもあれだけの期待をされて、その期待に完璧にこたえるパフォーマンスをしたこと自体、破格のすごさを感じます。
こういう天才を見ることの喜びを感じながら、人に感動をあたえるスポーツやアートというのは、本当にすごいものだな、とあらためて思いました。
そんなこともあって、『インビクタス』も、まだ見ていないのですが、楽しみにしています。

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ということで、「その1」の続きです。

まず概説書。

■ 菊池理夫 『日本を甦らせる政治思想 現代コミュニタリアニズム入門』
新書で文章が平易。知識ゼロから気軽に読めます。
ただ啓蒙書としての性格に主眼をおくあまり、現代日本の問題に無理にあてはめたり(タイトルもちょっと違和感)、他のテーマと比較しすぎて、わかりにくくなっている気もした。さっと見るだけなら『憲法の争点』にある2ページの説明ぐらいの方が分かりやすいかも。

■ スティーブン・ムルホール、アダム・スウィフト 『リベラル・コミュニタリアン論争』
これ一冊で重要なポイントをすべて押さえられるすぐれもの。
コミュニタリアニズムのみならず、後期ロールズ、ローティ、ドゥオーキン、ラズのリベラリズムまで説明が行き届いている。内容の充実は申し分ない。
ただ専門書だけに記述に無駄がない。前提知識なく読むにはちょっと苦労するかも。

■ 井上達夫 『共生の作法』
■ 同 『他者への自由』
いずれもリベラリズムと正義論がメインのテーマだが、その思想に挑戦する代表例としてコミュニタリアニズムが取り上げられる。著者の問題意識に沿った形での引用だが、それだけに議論の縁がくっきりしていて分かりやすい。余談になるが著者は80年代にサンデルのゼミに参加している。

■ 川本隆史 『現代思想の冒険者たち23 ロールズ』
ロールズの入門書だが、1980年代のロールズへの批判の一つとしてコミュニタリアニズム(サンデルとウォルツァー)が解説されている。手際よくまとめられていて分かりやすい。著者はウォルツァーを高く評価しており、その多元的平等の思想と後期ロールズの政治的リベラリズムとの関係を示唆している点が興味深い。

■ デレク・パーフィット 『理由と人格』
本書は「人格の同一性」を主要なテーマとする名著で、コミュニタリアニズムを正面から論じたものではないが、訳者の森村進氏の解説が、「人格」のとらえ方(人格の別個性の重要性と人格の観念の社会性/個別性の二つの座標軸)から、還元主義、リベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリアニズム等を整理しており、非常に示唆に富む。サンデルやマッキンタイアの想定する人格が還元主義ではなく物語性に基づくものであるとの指摘も印象深い。

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次に主要なコミュニタリアンの代表作。

■ マイケル・サンデル 『自由主義と正義の限界』
コミュニタリアニズムの代表例としてよくあげられる本。この本のロールズ批判が論争の出発点ともいわれる。
カントを基盤とする自由主義、ロールズの正義論が、正=権利(right)の前に善(good)を置き、目的から独立した純粋な選択意思主体(「負荷なき自我(the unencumbered self)」)たる個人を前提とする点を批判する。共同体を個人に優劣させるものではなく、争点とするのは共通善と正との優劣、共同体から独立する個人の擬制の限界であり、実際のところそれほどラディカルな批判には感じられない。
近著(96年)の『Democracy's Discontent』では、米国建国の歴史をジェファーソンに代表される共和主義思想の堕落の過程と解釈して記述している。哲学的な発展は少ないようだが、Walter Russell Meadの『Special Providence』が描くハミルトン、ジェファーソンらの思想のせめぎ合いの見立てにも通じるもので、歴史解釈としては面白く読める。

■ アラスデア・マッキンタイア 『美徳なき時代』
著者はもともと倫理学史の大家だけに、他のコミュニタリアンと比べて、記述スタイルが文学的で、古代に対するシンパシーが突出している点が特徴的。
西欧近代の思想、特に啓蒙主義を批判し、近代以前に存在した「徳」(virtues)を回復することを説く。中でもトミズムを最も優れた西欧思想の伝統とする。
同時期に出たロバート・ベラーの『心の習慣』とアラン・ブルームの『アメリカン・マインドの終焉』が現代人のアノミー、公共性の重視といった類似のテーマを扱っているので、一緒に読むと面白い。

※ベラーは、米国の宗教性について述べた際に何度か引用したが、「civil religion(市民宗教)」という概念で政教分離を説明した宗教学者。『社会変革と宗教倫理』が代表作。『徳川時代の宗教』という著作もある。この関連では、昨年末に出た藤本龍児『アメリカの公共宗教―多元社会における精神性』が最新の情報が多く参考になった(この本では、ベラーは後に「市民宗教」という用語が混乱を招くことを怖れて使うのをやめたこと、「聖書的伝統」に基づく「目に見えない文化」としての宗教(「公共宗教」)といった言葉の方が適切といった趣旨のことが書かれている。)。

■ チャールズ・テイラー 『<ほんもの>という倫理』
■ 同 『今日の宗教の諸相』
■ 中野 剛充 『テイラーのコミュニタリアニズム』
著者は議員に立候補するなど政治にも深くコミットしており「現代のエドモンド・バーク」とも言われるカナダの哲学者。
人間が自己解釈的な動物であることを出発点に、道徳性、人格等の構想が言語的共同体の成員であることを通じてのみ確立され、共同体がその確立のため前提となることを説く。
その根底にある問題意識は近代の問題の克服にあり、その観点から、現代の宗教、特に米国における表面的な世俗性と深層にある宗教性について、ウィリアム・ジェイムズ、ベラーの市民宗教、(前にニーバーの著書を紹介した際も取り上げた)denomination論を引用して論じている。

■ マイケル・ウォルツァー 『正義の領分』
■ 同 『正しい戦争と不正な戦争』
多元的な共同体の秩序、その構想に基づく平等観、配分的正義を唱える。その強い価値相対主義には批判もあるが、他のコミュニタリアンと比べてリベラルに近い思想の持ち主。
米国系ユダヤ人であり、ユダヤ教、イスラエルの引用が非常に多い。ブッシュ政権の対テロ戦争を支持し、2006年に改訂した『正しい戦争と不正な戦争』ではイラク戦争にも触れている。哲学的立場のみならずバックグラウンドにもおそらく注意が必要だろう。

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こんな抽象的なことをあれこれ考えてどうするのかと思われるかもしれませんが、過去の人々の考え方が何らかの思考様式に支配されていたように、我々の考え方も何らかの思考様式に支配されているわけですよね。そうすると、歴史や現実をどう読み解くためには、こういった思考様式を解明することが必要でしょう。そのためには、自分ひとりで、閉ざされた思考様式であれこれ考えるだけではなく、過去の人々や異なる社会の考え方について色々知識を得ることは有益だろうと思うのです。それは他者だけでなく自分自身の理解にもつながります。
ただ、そもそも何らかの思考様式に拘束されている以上、そこからどれほど読み解きができるのか、なにがしか解が得られるのかには疑問もあります。結局のところは、理解のための理解に過ぎないようなもので、趣味というか、面白いから、ということに尽きるのかもしれません。
それでも、本当に実益のない遊びに終わるのかと言えば、あえてがんばると、法の世界では、こういう概念の意味や社会の成り立ち自体を問うことが現実の判断に直結してくる面が、なくもないのだろうと思うのですね。
たとえば平等、同性愛、中絶といった論争的な問題(米国的な問題ですが)についても、根本に拠って立つ思想によって、その結論は演繹的に影響を受けます。ロールズやウォルツァーは自らの構想の実現において法の果たす役割に大きな期待を寄せています。日本国憲法についてみても、「個人の尊厳」や「自由」をどう考えるのかは重要な問題です。また、人格、自律といった、その意味を意識することなく使われている概念も、実際は多義的なのに、あまりに自明になり過ぎて、本当のところどのような意味を含むものなのか見えにくくなっていて、そのために体系的・整合的説明に困難が生じることもあります。こういう既にできあがっている根本的な枠組みを、どこかで突き放して、相対的にながめたり、新しいかたちを再考してみることも、現実問題として必要かと言われるとよく分かりませんが、たまにはあってもいいのかなと思います。

ちょっと言葉足らずで、よく分からなかったかもしれません。正直なところ私もよく分かっていません(苦笑)。あらゆる意味でまだまだと思います。これからも気ままなペースで、長い目で考えていきたいと思います。

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twitterを始めてみました。
想定されている利用法とはちょっと違う使い方をしている感じですが、何となく面白さが分かってきました。やられている人がいたらお知らせいただけるとありがたいです(私の友人やこのHPをご覧になるような方は、あまりやってなさそうですけどね・・・)。
使っているうち、このHPの記事程度の内容なら、twitterのつぶやきで足りる気がしてきた(笑)。
それではさすがにさびしいので、構成や主題ぐらいに気をつかって、少しは付加価値のあるものを書くようにしたいと思います。

twitterを始めたら、ブログを移転したいという気持ちが一層強まりました。
このgooブログではtwitterのタイムラインの表示ができないんですね。
gooブログには昔から不満がありました。youtubeの動画の貼り付けもできないし、更新したら時系列にアーカイブを作ってくれてもよさそうなのものを(他のブログではみんなそうなっている)、そういう機能も見当たらない。おかげで自分でいちいち作らないといけない。
長年利用しているサービスですが、ちょっと不親切にすぎるなあと、長いこと思ってきたところです。
といっても、どこがいいのか、移行も面倒そうだし・・・といざやろうと思うといろいろ悩みます。よいアドバイスがあったら教えてください。

それにしても、だんだん慣れてきましたが、140字でものを言うのもまた技術ですね。ブログのときにも思ったことですが、こういう技術が重視される中で、得られるものと失われるものが出てくるような気がします。

・・・

さて、今月号(3月号)の法学セミナーに「オバマのアメリカ」という特集が出ています。
この手の記事におなじみのジャーナリストや政治系の有識者の時事的なお話ではなく、法学者がその専門の視角から論じているのがなかなか新鮮です。米国と法学の両方に興味のある人には特にお勧めです。
ただ紙面の制約上深みに欠けるのが残念でしたね。政治や時事よりも、法学者の政治任用や法哲学の潮流の記事にもっと紙幅をさいて欲しかったところです(この種の記事で最近のものだと、渡辺将人さんのレポートが面白かったです)。

(言うまでもなく米国は最も「法化」の進んだ社会の一つ。そして法は西欧近代思想を特徴づける最大の産物の一つです。この話に限らず、どんな位置付けにせよ、法は欧米を語る上で必要不可欠な要素と思います。)

特集の中では、米国の「リベラリズム」の最新の動向も語られていますが、このリベラリズムを批判する有力な思想に、コミュニタリアニズム(「共同体主義」と訳されることが多い)というものがあります。

※リベラリズムは、ここでも何度も触れてきたテーマですが、一応注意を要する点を述べると、米国の「リベラル」というと、普通は、上記の特集の記事を含め、米国固有の歴史的含みと政治的文脈があり、(これも米国固有の)「保守主義」と対立する概念を指しますが、ここでいうリベラリズムは、そうした歴史性や政治性とは少し離れた(ただし関連性は非常に強い)哲学的な意味(特に正義論の文脈)での「自由主義」を指します。
(前期の)ロールズやドゥオーキンをご存じの方であれば、そのへんをイメージすると分かりやすいと思います。
(ちなみに、特集では、駒村圭吾教授が、前者を「歴史的政治的正調リベラリズム」、後者を「理論的哲学的真正リベラリズム」と呼んで区別している。)
興味ある方は前に書いた記事もご参照下さい。

先日、このコミュニタリアニズムをテーマにしたちょっとした勉強会に参加する機会がありました。
コミュニタリアニズムは、日本ではあまり取り上げられることがないので、耳慣れないかもしれませんが、米国では80年代から注目を集めてきた思想です。
非常におおざっぱに言えば、さきほど述べたリベラリズム -おそらく現代において最も影響力のある思想であり、日本においても、ほとんどの人が自明のものとして受容している思想ですが- が唱える個人の自律に対して、その前提とする「個人」とは、原子のように孤立した個人であるとして、その設定の限界を指摘し、共同体がもつ意義を再評価するというもの。
その多くは、ジョン・ロールズというリベラリズムの巨人(その『正義論』)に対する挑戦です(この文脈で、リバタリアニズム(「自由至上主義」「自由放任主義」などと訳される、現代米国でも極めて有力な思想)と一緒に論じられることも多い)。
共同体だなんて、今の時代あり得ないだろうとか、アリストテレスやアーレントの共通善の思想をイメージして、新しい話でもないのでは?というのが、初めて聞く人の大方の反応かもしれません。
(あるいは米国の共和主義を想起する人もいると思いますが、それとは強い関わりがあります。その点については、以前にも紹介したジョン・G.A. ポーコック『マキァヴェリアン・モーメント』が参考になります。)
たしかに古代の哲学者や米国の建国の父がモデルとしてあげられますが、単なる古い思想の復活ではありません(全体主義や有機体論とはまったく異なるものです。)。今の時代にまったく適合しない思想ではおそらくありませんし、むしろ、現代米国のコミュニティの機能といった、他の思想ではとらえきれていないアクチュアルな問題をつかまえていることが、これからあげる本を読むと分かると思います。

ここから本題、のはずでしたが、twitterの話もあり(笑)長くなってしまったので、次回に回します。

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年末に受けたインタビュー
の記事が元旦に出ていました。
前の雑誌掲載のときと同様、内容はさておき、写真うつりが良かったので満足しました(笑)。
しかし、何よりうれしかったのは、自分より先に友人が見つけてくれて、わざわざもってきてくれたこと。さらにそれを別の友人がわざわざコピーまでして色んな人に見せてくれたこと。なんか、ちょっとジーンときましたね。

・・・

年末バラバラと見た本です。

■ 滝井繁男 『最高裁判所は変わったか』
著者は2006年に退官した元最高裁判事。
判事になる前は大阪空港公害訴訟に携わったことで知られる弁護士。過払金返還請求での個別意見でも有名な方です。
前に紹介した伊藤正己氏(『裁判官と学者の間』)や下記の矢口元長官の回顧録のような軽めの本と違って、専門的な議論が多く、重厚です。
弁護士から任官した判事の経験談は少ないようで(他には色川幸太郎氏と大野正男氏の著作がある)、任官の経緯や最高裁調査官(最高裁判事を補佐するベテラン裁判官(裁判所法57条)。将来の最高裁判事候補となるトップクラスの判事がなる。)との関係、個別意見や大法廷への遠慮など率直な感慨が参考になりました。

■ 矢口洪一 『最高裁判所とともに』
第11代最高裁長官の自伝。
著者は、裁判官を務めたのはわずか8年、そのキャリアのほとんどを最高裁事務総局で過ごし、「ミスター司法行政」の異名をとった異色の最高裁長官。180センチの長身でスポーツ万能だったという。
司法機関を行政機関化したと言われたり、毀誉褒貶ありますが、日本の司法のあり方に多大な影響を与えた人物であるのは確かです。
陪審制への思い入れが有名で、その思いがこの本でも述べられています。。竹崎博允判事(当時。現最高裁長官。)、山室惠判事(当時)らを米国に派遣して調査させています(山室判事のレポートは陪審制を否定的に評価しており、そのため大いに不興をかったとか)。
司法行政に精通し、簡易裁判所の統廃合などの大改革を成し遂げた豪腕だけに、壮大な計画を手がけようとする意志も強かったのでしょうか。このような取り組みがその後の裁判員制度の導入に大きな影響を与えたといわれます。
本の前半は日経に連載した「私の履歴書」、後半は三ヶ月章氏らとの鼎談。三ヶ月氏の陪審制批判が非常に先鋭で、挑みかかるような迫力が伝わってきます。

■ 中尾巧 『検事はその時』
大阪高検検事長による体験的エッセイ集。
TVドラマの『HERO』で出てくるようなエピソードを簡潔にまとめたような趣。
簡潔でちょっと物足りないですが、技術的な話に徹している点が逆にめずらしくて参考になるのかも。

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そういや、小澤征爾さん、食道ガンで休養とのこと。
3年くらい前、食事をしていたら、すぐ隣の席に座られてびっくりしたことがあります。まったく敷居の高くないカジュアルな店だったのですが。イタリア人かフランス人の風情の人たちとにぎやかに食べてました。ちょうど帯状疱疹で休んでいたときで、眼帯をしてましたね。
もう74歳とのことですが、あんな風にいつまでも現役でいられたら素敵だなあと、憧れます。まだまだ元気な姿を見せて欲しいものです。

私も、いつまでも前を向いて生きていけるようにがんばろうと、昨日、『龍馬伝』を見たこともあり、あらためて思いました。OPも福山もかっこいいですね。単純だ。まあ、能力や身の程はおいといて、自然体で。

(補足)
前回のトルコですが、外務省HPを見たら日米カラーはそんなになかったですね。
前にシリアとレバノンのことを書いたときも触れましたが、なんでも日米と政局にもってくる報道の傾向は、スピンとまでは言わないまでも、どうなんだろう、もうちょっと視野を高くして欲しいように個人的には思います(と、さりげなく責任転嫁)。
トルコは10年前に一度行ったきり。とても面白いところです。また行きたいと強く思う国の一つです。

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