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やじゅんのページ/The World according to YAJUN



ようやく秋らしく涼しくなってきました。今年の夏は本当に猛暑でしたね。

最近、人から聞かれたり、映画関係の仕事をしている人と話す機会があったので、何となく思いついて、これまで読んだ映画に関する本の中で印象深かったものや役に立ったものを挙げてみることにしました。

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まず比較的読みやすいもの。映画作品の評論集です。

■ 町山智浩 『映画の見方がわかる本』
■ 同 『ブレードランナーの未来世紀』
ゼロの状態から映画批評の面白さを知るにはうってつけの本。
内容は主として雑誌『映画秘宝』に連載していた評論を集めたもの。
なお、この本で取り上げられた作品の中では、『ブレードランナー』については、加藤幹郎『ブレードランナー論序説』もオススメ。『メトロポリス』はじめ膨大な作品を引用する映画史、映画理論、現代思想など様々な視点から作品の自己展開を解きほぐす。この著者ならではの刺激的な批評。カットごとに執拗なまでに精緻な解読を行っている(同氏の『映画とは何か』の『サイコ』の評論も同様に緻密で一見の価値あり)。
『ダーティ・ハリー』については、黒沢清『映画の授業』の中で万田邦敏氏がモチーフやメタファーについてきめ細かい分析をしており、参考になる。

■ 川本三郎 『フィールド・オブ・イノセンス』
喪失、ホーボー、プレーリー、ニュージャーナリズム、ジョン・アーヴィング、サム・シェパードといったキーとなる概念をつかって、米国の映画、文学作品から思想潮流を切り取っていく。定評のある名著。

■ 蓮見重彦 『映画に目が眩んで』
膨大な蓮見氏の著作の中の一冊に過ぎませんが、この本は、自分が同氏の映画論の授業に出たときに出版されたもので、その意味で個人的に思い出深い一冊です。

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以下は歴史を知るのに役立つもの。

■ 柳下毅一郎 『興行師たちの映画史』
『フリークス』に代表される見せ物小屋志向、いかがわしさ、グロテスクを前面に出す作品(エクスプロイテーション・フィルム)の系譜を知ることのできる本。
単なる映画の本という枠を超えて、歴史や時代の空気の変遷が分かる傑作と思います。

■ 北野圭介 『ハリウッド100年史講義』
比較的最近の話題までフォローした本。
コンパクトにまとまっていて読みやすい。参考文献リスト(認知論、構築論、社会論による仕事の紹介)も良い。

■ ジョルジュ・サドゥール 『世界映画史』(全2巻)
■ 佐藤忠男 『世界映画史』(全2巻)
■ 同 『日本映画史』(全3巻)
時系列に作品を取り上げながら映画の歩みを追った名著。
豊富な素材と分かりやすい構成。欧米以外の映画も紹介されているのが良い。
ジョルジュ・サドゥールには『世界映画全史』もあるが、全12冊という超大著。しかもサイレント時代(1920年代)まで。どんだけ(笑)。

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以下はアカデミックな理論を知るのに役立つもの。
こういった本で時代背景や理論的位置づけを考えながら見ると、面白く思うポイントも広がってくると思います。
特に古典映画は、文学や美術のような他の芸術と同様、素で見てもなかなかピンとこないものです。

■ 石原陽一郎編 『映画批評のリテラシー』
(映画ではなく)映画批評を主題にした本。
有名な批評家(ベンヤミン、クラカウアー、バザン、バルト、ドゥルーズ、ジジェク、ボードリヤール、キットラーといった思想家を含む)の言説が包括的に整理されている。批評史の参考にもなる。
このフィルムアート社の「CineLesson」シリーズは他では見られない発見があるものが多い(ライターによってばらつきがあるが)。
『シネマの宗教美学』『映画クルー主義の楽しみ方』が印象深かった。

■ ジル・ドゥルーズ 『シネマ1』 『シネマ2』
■ ジャック・オーモン他 『映画理論講義』
■ C. W. ツェーラム 『映画の考古学』
■ 岩本憲児編 『映画理論集成』
■ 佐藤忠男 『日本映画理論史』
■ ベラ・バラージュ 『映画の理論』
■ 岩崎昶 『映画の理論』 『現代映画芸術』
■ 杉山平一 『映画芸術への招待』
■ 中井正一 『中井正一全集3巻 現代芸術の空間』
■ 浅沼圭司 『映画学』
■ 今村太平 『漫画映画論』
学問としての映画論を知りたい人向け。いずれも本格的な映画の理論書。
古い本が多いですがその思考の厚みは今読んでも強い印象を受けます。また、昔の批評というものは、政治思想と切り離せないものだったんだな、ということも分かります。

■ デヴィッド・ボードウェル他 『フィルム・アート-映画芸術入門』
■ ダニエル・アリホン 『映画の文法』
撮影や編集の方法を含め実際に映画を撮る人向けに書かれた本格的な入門書。
カメラワークなど読んでも素人にはとっつきにくいですが、基本的な部分だけでも見ておくと役立つ、こともあるかもしれません。

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以下は手軽なリファレンス代わりに使えるもの。

■ 文藝春秋編 『洋画ベスト100』
■ 文藝春秋編 『大アンケートによる日本映画ベスト150』
■ 猪俣勝人 『世界映画名作全史(戦前編)』 『同(戦後編)』 『同(現代編)』
■ 田山力哉 『アメリカン・ニューシネマ名作全史』
■ 同 『ヨーロッパ・ニューシネマ名作全史』
インターネットなどなかった中学生の頃、古今東西どんな映画があるのかを知るために、これらの本やぴあの電話帳のような分厚い映画の事典(名前を失念。日本でソフトが発売されたものならほとんどあらゆる映画が掲載された便利な本でした。)を読んで、片っ端からチェックしたものでした。
説明が簡潔にして要を得ていて、今読んでも結構役立ちます。
ただ、今ではこれに類する情報はネットでほとんど手に入りますね。そういうこともあってか多くはアマゾンにもない模様。なんとも切ない。

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以下は少し趣向を異にする物。

■ 一瀬隆重 『ハリウッドで勝て!』
ハリウッドで活躍する著名日本人プロデューサーの自伝。
70年代からの映画業界の内幕を知る上でも興味深いですが、印象に残るのはそのバイタリティ。痛快な青春記のようです。映画でお金を稼ぐというのがどういうことか。そんな知られざる現実も分かります。

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雑誌では、私がダントツに推すのは洋泉社の『映画秘宝』
一見してなかなか手に取りにくい装丁のことも多いですが(笑)、ある意味そのとおりの中身の濃さ。本当にすごい雑誌です。
不定期(年1~2回)に発行される時代(90年代半ば)から読んでいるのですが、『キネマ旬報』しか読んでなかった当時の自分に大きな衝撃を与えました。こういうのが読みたかったんだ!と感銘を受けたあまり、編集者の方にメールを送ってしまったほどです(笑)。
最近は、かつてのように毎月欠かさず読むことはなくなっていまいましたが、夢中になって呼んだ頃のバックナンバーは今でも大量に実家に置いてあります。

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気がついたら結構久しぶりの更新でした。
あまり更新しないでいるとよく人から心配されるのですが、便りがないのもいい知らせといいうとおり、元気にやっているので大丈夫です。
ただ、来年はじめまで猛烈に余裕がないので、それまでは存在感が薄くなる一方かもしれません。しかし、いなくなることはありませんので、引き続き生温く見守っていただければ幸いです。

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スペイン優勝。
ずっと応援してきた身としてはうれしかったですね。

最強と思われたドイツにほとんどサッカーをさせず、横綱相撲で破った瞬間に、これはいくだろうなと確信しました。

決勝は本当にいい試合でした。
正直なところ、このスペインの実力なら圧勝ぐらいに思っていたのですが、さすがオランダ、持ち前の勝負強さを発揮します。高い技術と気迫のディフェンス(ラフプレーが多かったですが)でスペインの攻撃を封じ込んできます。あれほどパスが回らないスペインを見たのは初めて。攻撃では、中盤でキープできないためスナイデルこそ目立たないものの、前線のロッベンのスピードとキレが凄まじい。マークしているプジョルらを振り切って幾度となく決定的なチャンスを作り出します(プジョルを巻き込みながら突進するシーンは圧巻過ぎて笑えた)。GKカシージャスの神がかりのセーブに救われたりして、まさに紙一重の攻防でした。

しかし、スペインは、百戦錬磨の司令塔シャビが落ち着き払っていて、いつもどおり指揮者のような見事な統率を見せます。パスをつなぎながら、イニエスタとビジャという強力なエース・アタッカーが多彩な攻めを見せ、超攻撃的サイドバックのセルヒオ・ラモスが飛び込むというスタイルが徐々にリズムを取戻します。途中から入った若いナバスのキレのあるドリブル、シャビとともに攻撃の起点となったセスクのパスも冴える。延長に入ってもそのキレは落ちない。技術ばかりでなく体力と精神力も超一流でしたね。最後に決めてくれたのはやはりイニエスタ。どこまでも頼れる男です。終わってみればスペインのいいところをすべて見せてくれました。近年のワールドカップの決勝の中でも最も面白いものであったように思います。

スペインの凄いところは、まずその選手層の厚さと個性ですね。
先発メンバーがスター揃いなのはもちろんですが(すべての選手がボールに絡んで攻撃的なサッカーを展開します)、途中から出てくる選手も、ナバス、セスク、フェルナンド・トーレスとエース級の実力者なんですね。しかもそれぞれの持ち味を存分に発揮する。イニエスタのゴールも、ナバス→トーレス→セスクという途中交代の3人の連携から生まれました。こういう全員サッカーは見ていて楽しい。このへんは監督の手腕も大きいのでしょうね。

それに、シャビ、イニエスタ、ビジャ、ナバス、セスクといった攻撃陣は(トーレスを除いて)みんな小さくて細いんですね。オランダやパラグアイとの試合ではマッチアップのときの体格差が歴然でした(だからこそ空中戦ではプジョルやセルヒオ・ラモスらのパワーと高さが期待されます)。そのガタイの不利をものともせずボールをキープする超絶技巧。しかもみんなイケメン・・・まあ、イニエスタはちょっと風采が上がらないですが(笑)、しかしそこがまたカリスマに見えてくるからすごいものです。

そしてこんな個性派の選手たちが一体的に連携し、一貫して攻め続ける魅力的なプレースタイル。
中盤を支配して、華麗なパスワークを駆使して、誰もが納得のいくような形でゴールを決める。思い切りや勢い、運に頼らない、自らの攻撃で勝ちをとりにいくサッカー。
こういうチームが勝つというのは見ている方もうれしい。負けたドイツが、「スペインは素晴らしかった」「あのチームが勝つのであれば納得」という言い方をしていたのが印象的でした。

強くて華麗なチームが勝つ。一番多くの人が納得する結末だったと思います。
それに、優勝国が増えるのは何か歴史的瞬間を見た気がしてうれしさも倍増ですね。

と、夜中にこんな歴史的なゲームを見たら、なんか選挙はすっかり頭から抜けてました。笑 
多少思いついたことはあったので、ちょっと余裕ができたら、なにがしか書いてみたいと思います。

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最近読んだ本。

■ 白川静 『漢字の世界 中国文化の原点』
■ 同 『漢字-生い立ちとその背景』
■ 同 『漢字百話』
漢字の起源には呪術にあるという著者の壮大な思想の世界をコンパクトに知ることができる。
三字書(字統・字訓・字通)と違って読み物として読めるところが良い。
松岡正剛『白川静 漢字の世界観』も読んでみましたが、特筆すべき点なし。このへんの著者の本を直接読んだ方が早いと思いました。

■ 高島俊男 『漢字と日本人』 
白川静とはまったく異なるアプローチ。(高島俊男の本が好きなこともあり)個人的にはこちらにシンパシーを感じる。
和製漢語については、丸山真男・加藤周一『翻訳と日本の近代』、鈴木直『輸入学問の功罪』も参考になります。

■ 阿辻哲次 『漢字の文化史』 『近くて遠い中国語』 
最近の本。目新しい発見はありませんでしたが、息抜き程度に手軽に読めます。

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ワールドカップ。ついにベスト4が出そろいましたね。

日本代表の惜敗、ブラジルのまさかの敗退、マラドーナの「神の手」を思い出させるウルグアイの劇的なハンド(*)、アルゼンチンの大敗など、見どころ満載で寝不足が続く状態ですが、私が大会冒頭からダントツに注目してきたのは「無敵艦隊」ことスペイン。

(*有名な86年メキシコ大会のイングランド戦でのゴールの場面ではなく、90年イタリア大会のソ連戦でのゴール前守りの場面でのハンド。実はマラドーナは2回「神の手」を使っている。もちろん両方ともファウルはとられていない。さすが「神の子」である。)

EURO2008を制した戦士たちを中心とする今大会のスペイン代表は、おそらくこの大会で最もスペクタクルなサッカーを見せてくれるチームです。
パス、シュートはもちろん、ポジショニング、トラップ、ボールコントロール、タッチすべてが別次元のすごさ。特にパスワークは、近年はブラジルですらお目にかかれなくなってしまった華麗なもので、その美しさはまるで別のスポーツをやってるのかと思わせるほど。ワンタッチの連続で全選手が有機体のように動くのは圧巻です。
技巧派ぞろいの選手たちの中でも、170センチのひときわ小柄な体格ながら、圧倒的な存在感を見せるのが司令塔のシャビ。チームのリズムを自在に操るゲームメーク、ノールックで繰り出す流麗なパス、一瞬のモーションから放たれる意表をつくシュート、この選手の所作一つ一つはすべてが神業。ボールが近くにあるだけで何かが起きそうで、目が離せません。
そして超絶技巧の個人技を見せるミッドフィルダーのイニエスタ。この人も小柄で痩身ですが、ドリブルを始めると一流のディフェンダー数人が束になっても止められない。低い位置からのパスも絶妙。ポルトガル戦・パラグアイ戦ともこの人の切り崩しから決定的なチャンスがいくつも生まれました。
他、ビジャ、シャビ・アロンソ、セスク、ピケなど、どのポジションの選手も凄まじい技量を見せます。控えの選手も層が厚く、まさに全員サッカー。
そのプレーは点が入らずとも見る者を魅了しますが、ポルトガル戦とパラグアイ戦での流れるような連携からのゴールは本当にすごかった。これから何度も再演されるでしょう。

しかし、華麗さが必ずしも強さにつながらないのが勝負の残念なところ。
ゲームを支配しているのは明白なのに、点が入らない、逆に一瞬のカウンターでやられる、そんなあやうさがつきまとうチームでもあります。

これに対し安定感抜群の強さを見せるのがドイツ。
若手の主力に経験豊富なベテランが補完し、チームのバランスはほとんど完璧。
ドイツというと、フィジカルの強さ、パワーとスピードにものを言わせ、無骨な攻めとガッチリした守りで堅実に勝つという、失礼な言い方をすると、なんか面白くないサッカーをやるというのが伝統的な印象ですが、今回はその堅実さに加え、あっと驚くような美しさがあります。
カウンターのスピード、正確さ、中盤のパス回し(!)、エジルというドイツらしからぬ技巧派の存在が大きいのでしょう。正直、ドイツの試合をもっと見たいと思うのはちょっと驚き。笑

そのドイツとスペインが次は当たりますね。EURO2008の決勝と同じ組み合わせ。これはもう間違いなくこの大会の天王山。
普通に見ればドイツでしょうが、個人的にはスペインのファンタジーが結果につながることを期待したいです。
そして、もしスペインが勝てば、もう片方のブロックはおそらくオランダが来るでしょうから、どちらが勝っても初優勝。盛り上がりますね。メッシという最大のスーパースターを失ったとはいえ、90年以降、最も面白い大会に属するように思います。

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最近読んだ本です。

■ 佐々木健一  『美学への招待』 
2004年に出た本。最近の議論までフォローしている。

■ 佐々木健一  『美学辞典』 
東大の講義ノートとして書かれたもの。辞典といっても個別にテーマを絞った読み物に近い。厳密で中立的な記述。竹内敏雄『美学事典』と合わせて読むとより面白い。

■ 三浦篤 『まなざしのレッスン』
こちらも東大の講義をもとに書かれたもの。続編が読みたい。

■ 辻惟雄 『日本美術の歴史』
多摩美術大学の講義ノートをもとに書かれたもの。概説書だが一人で書き下ろしたものだけに読み物らしさがある。これだけの図版があってこの値段は安い。

■ 中井正一 『中井正一全集3巻 現代芸術の空間』 
「美学入門」「映画論」等を所収。著者は深田康算の高弟。熊野純彦『日本哲学小史』での位置づけも参考になる。

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ところで、芸術といえば、最近著作権法を勉強しているのですが、著作物の種類の中には、美術の著作物というものがあります。
そこでは純粋美術(fine arts)と応用美術(applied arts)という分類が重要な意味をもちます。
この分類は著作権の世界に限らず通用するものなのですが、「fine arts」は実はもともと造形芸術を指す言葉でした。「ミューズ的芸術」(musische kunste)と対比されます。
純粋芸術はむしろ「liberal arts」で、「mechanical arts」と対比されます。
西洋芸術史においては、伝統的に造形芸術、mechanical artsの地位は低く、liberal artsこそが高尚とされました。

人文学と科学を扱う学部や大学院を米国ではarts & sciencesと呼ばれますが、artとscienceはギリシャ語のテクネーとエピステーメーに由来します。
古代において、テクネーは、techniqueの語源としても分かるとおり、技術・技芸を意味します。ポイエーシス(制作)を扱いながら、事物の本性をとらえ理論化するという営みであり、ここに技術と芸術の区別はなかった。
そしてテクネーの中でも手仕事(奴隷の労働)から解放された「自由」人が扱うものが「純粋技芸」として特別視されます。
テクネーは中世のars(=英語のart)に受継がれ、artes liberalesは、自由人が哲学と神学を学ぶための前提とされ、教育メソッドとして確立する。
(ちなみに元々「技巧」の意味しかなかった「ars」にテクネーの意味を添加させたのはキケロ。キケロはギリシャ語の借用を通じて多くの造語を生み出し、ギリシャ文明のラテン語化を実現させた。「近代の普遍的文明の創造者の一人」(A.メイエ)と称された理由はここにある。『ラテン語の世界』参照。)

その裏表として、artes mechanicaeがartres vulgaresとして格下とみなされる技芸観も継承される。これが前述の造形芸術の地位(純粋芸術と異なり、ミューズ(女神)の割当てもない)につながる部分です。
米国の名門カレッジで今なお教えられるリベラル・アーツは、このartes liberalesの教育メソッドの延長にあります。Master of Arts(MA)、Bachelor of Arts(BA)といった学位における「art」も同様の文脈にある言葉です。

一方、自然を扱う学的知識であるエピステーメーは、scientiaを経て今日のscienceとして確立します。最初に述べたarts & sciences、MAに対比されるMaster of Scienceもこの文脈にあるわけですね。
ついでに言えば、scientiaが近代科学、フランシス・ベーコンのいう、自然を拷問して口を割らせ、これを改造する術(「scientia potentia est」)に発展する契機は、自由人の理論(特に数学)と非自由人たる高級職人の経験(実験)との融合にあります。
そして、こうした高級職人は造形芸術の「職人」でもありました。つまり、ここ(ルネサンス、近代市民社会)において、実践を重視する職人が「科学者」か「芸術家」となり、テオリア(観照)に徹する「自由」人との優劣はなくなっていくわけです。

こういう話を念頭に置いて、アリストテレスの『詩学』やニーチェの『悲劇の誕生』など読むと(「ギリシア悲劇」の記事でも触れましたが)、なるほどと思う点が多々あります。

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先週、さいたま芸術劇場でバッハ・コレギウム・ジャパンのマタイ受難曲を聴いてきました。

CD(リヒターガーディナー)では何度も聴いてきましたが、やはり生は違うもんだな、と感慨深かったです。

以前にも書きましたが、この音楽は本当に美しい。米国にいたとき聖書勉強会に参加しながら、「え、私?人格神はパスかなあ。どっちかというと日本教?」というKYな発言をするほど神のおそれを知らない私でも、中世の人々が神を感じたのもわからないでもないと、うっすら思うほどです。

こんな名曲について、私のようなド素人がどうこう言う余地はないのですが、一つ言えば、音楽を通して、西欧の歴史、思想が見えてくるところ。これはとても面白いですね。

たとえば、この受難曲の重要な部分をなす「コラール」。
コラールは、ラテン語のグレゴリオ聖歌を聖歌隊が歌うというカトリックの高踏的なスタイルと対照的に、礼拝に来た人たちがみんなでドイツ語で歌うという、平俗なスタイルによる賛美歌です。
バッハはルター派プロテスタントでしたが、ご存じのとおり、プロテスタントは、司祭だけが神の意思を民衆に伝えるというカトリックの考えを否定し、個人それぞれが神に直面することを唱道しました。だからラテン語の聖書をドイツ語にする必要があったように、受難節に歌う歌も、ラテン語からドイツ語にする必要があったわけです。
(ちなみにプロテスタントだったバッハがなぜカトリックのスタイルである「通作ミサ曲」を作ったのかは、バッハをめぐる様々な謎の一つとされています。)
そして、その旋律の多くは、当時の世俗歌謡からとられました。たとえばマタイ受難曲で最も有名な「ああ血と傷にまみれし御首」というコラールの旋律は、実は「わが心は千々に乱れ」という恋の歌からとったものなんですね。
そんな流行歌のようなものを、宗教曲、しかも受難曲に用いていいのか、と思うかもしれません。しかし、こういう世俗曲を使ったからこそ、一般庶民であるプロテスタントの人々にも親しみやすく、すぐに歌えたということがあったわけです。
それにルター(自身も36曲のコラールを作詞し、リュートを奏でる音楽家だった)は、良い音楽であれば宗教歌でも世俗歌でも神は喜ぶ、と考えていたそうです。
荘厳な大伽藍のような宗教曲の旋律が、言ってみれば流行のラブソングからとられている。その背景にはこんな歴史的・宗教的事情がある。ちょっとワクワクする話と思いませんか。

かつて、『ジーザス・クライスト・スーパースター』という、ロック音楽をつかってキリストの生涯を描くという、一見するとあり得ないようなミュージカル映画(ノーマン・ジュイソン監督1973)がありましたが、こういう事情を考えると、それもまあ分からんでもない、と思ったりもしますね。
また、これも以前にも書きましたが、現代の米国のキリスト教では、クリスチャン・ロックとか、儀礼や宣教にポップソングを取り入れることもあります(ペンテコステ派に多い)。物議をかもすことはあるとはいえ、これも何となく通じるものを感じます。

映画といえば、キリストの受難(the Passion)を聖書に「忠実に」映像化した作品が、メル・ギブソンの『パッション(The Passion of the Christ)』(2004)でしたよね。
色々物議をかもしたことは記憶に新しいと思いますが、まあ、とにかく痛々しい映画でしたね。
メル・ギブソンは保守的なカトリックで、自らの強烈な信念に基づいて作ったそうですが、イエスに対する血まみれの虐待、悪魔の化身の蛇の描写、やたらリアルな最後の復活、どれもインパクトがあり過ぎて、ほとんどホラー映画一歩手前(笑)。私は結構楽しめましたけど、一緒に見た人は気分が悪くなったという記憶があります(笑)。

脱線しましたが、そんなマタイ受難曲に込められた意味に興味がある人には、こんな本が参考になると思います。

■ 礒山雅 『マタイ受難曲』
この本は、受難曲の歴史からマタイの一曲一曲の解釈まで、非常に詳細な説明をしてくれています。
例をあげると、最初の一曲。
いきなりキリストがゴルゴダの丘に向かうところから始まるのですが(この構成自体が当時としては革命的だった)、そのキリストの姿が花婿にたとえられます。ボロボロになって死に向かう人がなんで花婿?と思うでしょう。
これは旧約聖書の「雅歌」に受難の予定を見るというルター派の解釈に基づくものなんですね。
雅歌(the Song of Songs)はソロモン王の作と言われるのですが(これに対し詩編(Psalms)はダビデ王の作とされる)、その内容は恋の歌、花嫁・花婿の歌です。そして、キリストをソロモン王と同一視する考え方から、キリストの姿をソロモン王の歌のごとく花婿にたとえる、という発想につながるのですね。
(これに限らず、マタイの福音書は、他の福音書と比べ、旧約聖書との接点を強調するユダヤ的な傾向が強いです。それは成立当時、他のユダヤ教宗派(ファリサイ派)への対抗のため、キリストがユダヤ教の正当な後継者であることを主張する必要があったからといわれます。)
このほか、マタイ受難曲といいながら、ルカの福音書の影響が見られる部分もありますが(マグダラのマリアの扱いなど)、それは四つの福音書を調和的に解釈する当時の神学の考え方が影響しているとか、巨大な建造物のような音楽の構築性と聖書とのシンクロ、場面ごとの和音や調に込められた意味など、音楽的にも歴史・思想的にもうならせるような話の宝庫です。

ほか関連して印象に残ったもの。

■ 杉山好 『聖書の音楽家バッハ ~マタイ受難曲に秘められた現代へのメッセージ』
独立した短い論文を集めたもの。気楽に読める。
抽象的・理念的な議論から、「30」小節の意味が三位一体の「3」と十戒の「10」の積であるとか、G調はGott(神)やGeist(御霊)の象徴表現であるとか、通奏低音の変化からstation(キリストがゴルゴダの丘に至るまでの道(「嘆きの道」)を13分割して聖書の重要な場面に対応するポイントにしたもの。私もエルサレムを訪れたとき回りました。)を読み取るといった具体的な話まで、これもとにかく色んなことが書いてあります。
著者はバッハの全声楽作品やシュヴァイツァーの名著『バッハ』の訳者。上記『マタイ受難曲』の著者の礒山氏は本著者の東大時代のゼミ生だったとのことです。

■ 吉田秀和 『私の好きな曲』
「ロ短調ミサ曲」の解説の中でマタイ評が出ています。
ミサ曲ロ短調とマタイ受難曲を二つの「西洋音楽の歴史を通じて創造された最高の音の建造物」としながら、マタイについては、「こんなすごい曲は一生にそう何回もきかなくてもよいと考えている」とのこと。著者ならではのコメント。
これに限らず魅力的な評論が詰まった本です。お勧めです。

あと最近始まったNHKの『schola 坂本龍一 音楽の学校』
ちょうど取り上げているテーマがバッハ。ゲスト講師はこのHPでも何度か言及している岡田暁生氏。たしかにこういう番組にぴったりの人選な感じですね。
こういうのは、基本的な内容であっても、これだけのビッグネームが、限られた時間の中で、何を選び、それをどう取り上げ、表現するか、時折思いつきで発する言葉を含め、そんなのを見るだけで興味深いものです(要するにミーハーということでもありますが笑)。
フランスのコレージュ・ド・フランス(様々な学問領域の最高の権威が一般人に開放して講義を行う、一種の市民大学)を思わせるようなこんな番組、ぜひもっとやって欲しいものです。

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ついでに最近読んだ中で印象深かった本。

■ 井筒俊彦 『読むと書く』
比較的短めの論文・エッセイ集。
テーマは多岐にわたる。『イスラム思想史』『意識と本質』と主題が重なる部分も多いが、合わせて読むことで、より深い理解の手助けとなる。
一つ一つの論考は一応独立しているので、拾い読みもできる。大著では疲れる人のとっかかりにもいいかもしれない。

■ 長谷部恭男 『憲法入門』
この著者らしいクールというかドライな語り口。
文献解題が面白い。憲法制定権力の否定が話題を呼んだが、それ以外も色々面白いところがある。
入門書というのはその人のトータルな問題意識が現われるもの。構成一つをとってみても趣深い。

■ 大村敦志 『学術としての民法1』 『学術としての民法2』
20世紀フランス民法の発展から現代の日本法を読み解く試み。
法学の理論がいかに歴史と思想に関わるものであるかが伝わる。こういう著者の問題意識が個人的には好き。

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さて、ようやく春らしく暖かくなってきましたね。私も含め、花粉症に悩まされる方も多いと思いますが、がんばっていきましょう。

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指揮:鈴木雅明
合唱・管弦楽:バッハ・コレギウム・ジャパン
G.F.ヘンデル:オラトリオ「メサイア」HWV56(1754年孤児養育院版)

週末、クリスマス気分で聴いてきました。
なんとなく雰囲気の暗いこの頃でしたが、気分が明るくなりましたね。
BCJは、4月にはマタイ受難曲の公演があります。楽しみです。

「メサイア」ですが、CDで聴いているのはこれ。どちらも定評のある名盤です。

■ ネヴィル・マリナー/アカデミー室内管弦楽団&合唱団 1976年
■ ジョン・エリオット・ガーディナー/イギリス・バロック管弦楽団 モンティベルディ合唱団 1982年

ところで、「メサイア」のような宗教音楽は、音楽としての美しさだけ楽しむのも良いですが、背景知識があると面白さが増します。

たとえば、歌詞は聖書からの引用なのですが、それぞれがどの場面のどの意味のものを指すかが分かると、全体が一貫したストーリーにあることが分かります。
これは、聖書に慣れ親しんでいる欧米の人には自明のことなんですが、そういう文化がない私たちには、記述が断片的過ぎて、予備知識がないとなかなかピンときませんよね。
音楽が普遍的な文化といっても、その受取り方がオリジナルの地域の人とそうでない人では違ってくることの良い例と思われます。

以下の本は、素人の私にも分かりやすく、曲を理解する上で非常に役立ちました。

■ 三ヶ尻正 『「メサイヤ」ハンドブック』
歌詞(楽譜はないので他で見る必要あり)、解釈、聖書からの引用箇所、他の曲に与えた影響、演奏のバリエーションなどの情報が曲ごとに詳しく述べられています。

この本でも述べられていますが、「メサイア」について面白いと思うのは、
①(新約聖書ではなく)旧約聖書からの引用が大半を占める。
②秘蹟の具体的な強調が多い。
という点。
これは、台本作家のジェネンズが、教会の制約にとらわれることなく、自由に創作した結果であり、①はキリストの預言者としての性格(これはタイトル「メサイア」にも現われている。一方で旧約聖書のイメージである「地上の王」としての性格は回避され、また「ハレルヤ」のコーラスに見られるように「ヨハネの黙示録」の引用も重視されている点も注目に値する。)、②は当時影響力の強かった理神論への抵抗で、①②により、キリストの神性を強調しようとしたものと言われます。
このような独特な制作のあり方ゆえに、時代と宗派を超えて支持される普遍的な魅力が備わったのでしょう。

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以下の本は教会音楽全般を知るのに役立ちます。

■ 三ヶ尻正 『ミサ曲・ラテン語・教会音楽ハンドブック』
初心者でも分かるよう丁寧に書かれた入門書。
ミサ曲の構成や音楽形式の変遷は、音楽理論として見ても興味深いですが、権力や哲学のぶつかり合いの産物という、一つの歴史的なドラマでもあります。西欧の歴史を知る上でも貴重な参考資料となります。
この本は、入門書とはいえ、内容は充実しており、キリスト教の典礼や教義、ラテン語の解説も豊富です。
ちなみに「ミサ(mass, Die Messe, missa)」の元来の意味は「解散」ですね。
典礼の最後に司祭が「Ite, missa est」(ここで会を終わるので、立ち去るがよい)と言ったことに由来します。
これを知ると、語源に「miss」のある英単語、dismiss, emission, mission, permissionなどの意味も類推できますよね。「英語の勉強法(その3)」で述べたetymologyの話です。
ついでに述べると、ミサのドイツ読みの「メッセ」は「見本市」を意味するようになります。「幕張メッセ」も元をたどればここから来ているわけですね。
こういうところからラテン語に入っていくのもいい考えなんだろうなと思ったりします。

■ 皆川達夫 『中世・ルネサンスの音楽』
新書(今は文庫になっているのかな?)でサクっと読める入門書。
著者は中世・ルネサンス音楽研究の大家。薄くても内容は十分に濃い。
古い本ですが(はしばしの表現に時代を感じる(笑))おすすめ。

・・・

以下の本は、もっと詳しく(マニアックに)なります。私もちょっとついていけないところが結構あります。

■ 皆川達夫 『西洋音楽史 中世・ルネサンス』
上記の本と同じ著者。内容も似ていますが、こちらは思い切り重厚な専門書。素晴らしい本と思いますが、アマゾンにはない様子・・・残念。

■ 井上太郎 『レクィエムの歴史』
レクイエムが好きな人向け。学者の本とは趣が違うが網羅ぶりがすごい。

■ トラシュブロス・ゲオルギアーデス 『音楽と言語』
ミサ曲を中心的な主題にして西洋音楽を俯瞰するもの。
もともとはハイデルベルク大学での講義録で、それもあってか新カント派的あるいは現象学的な考察が述べられており、かなり難解。でも面白い。
著者は講義中にチェンバロなど弾きながら講義をしていたらしいです。

・・・

今年もあとわずかですね。
私は明日から連日飲み会になりそうです(汗)。時間的にも金銭的にも問題がありますが、まあ、年末ということで大目に見ます。
そんなわけで、年越しに向けて、もうひといき、飲み過ぎに注意しながら、がんばっていきましょう。

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面白かったです。最初から最後まで興奮しっぱなしでした。

見る前は予備知識が少なくて、感動作なのかサスペンスかといぶかしく思ってたのですが、実はこれ、ある種のインド映画のオマージュなんですね。

昔(90年代後半)、インド映画が好きで、よく見た時期がありました。
インド映画というとサタジット・レイなんかを思い浮かべる人もいるかもしれませんが、「大地のうた」のような詩的なアートのような作品は例外中の例外で、実際はそのほとんどがとてもさわがしく楽しい作品、ジャンルを言えばアクション物、恋愛物、コメディーのどれかなのです。そして同一カテゴリーにある作品の内容はどれもだいたい同じです。しかもアクション、恋愛、コメディーの要素はカテゴリー問わずどの映画にもあって、そういう意味ではこのジャンル分けも相対的なものです(主人公が二枚目か三枚目かぐらいの違いがあるくらい)。
どの作品でも例外なく無理矢理なストーリー展開、ミュージカルばりのダンスや歌の唐突な挿入があり、スピード感にあふれていて、とにかく面白ければ何でもありとばかりに勢いで突っ走ります。
その異常なテンションが3時間以上続くので、見終わる頃にはどっと疲れます。
でも映画の作り自体はしっかりしているのでヘンにチープな感じもなく、こんなのもアリなんだなあという気持ちがあればスッキリと楽しめます。
94年くらいだったでしょうか、『ラジュー出世する』とかがウケて、日本でもちょっとしたブームになりました。私は97年にインド旅行をしたとき、滞在した各地で映画館に寄ってました。町のはずれにある汚れた映画館に入って、満員のインド人観客と一緒に興奮したのが良い思い出です。

『スラムドッグ$ミリオネア』ですが、そんなインド映画のノリにかなり近いものを感じました。もちろんインド映画のドぎつさからとは一線を画していて、欧米的にスマートな作りにはなってましたけど。しかし最後にミュージカルのようなダンスを入れるあたり、製作者の強い思いを感じましたね。

ちなみに映画の中では15年くらいの歳月が流れるのですが、インドの発展が投影される作りにもなってます。出だしのムンバイ(当時はボンベイ)なんかもう子どもが生きていく余地のない酷い状態なんですが(悪い大人に盲目の物乞いにさせられる子どもの話とかかなりキツイ・・・でもこれに類する話を山のように聞くのがインドの現実でもあります)、最後の大都市になった頃にはそれなりの経済活動があるので、なんだかんだみんながんばれば生きていける様子なのです。やっぱグローバル化とか投資は大事なんだなと思ってみたりしましたね。まあこれは素朴にすぎる感想ですけど。とにかく私が行った97年頃と比べても今の発展ぶりは驚異的で、経験的にも感慨深いものがありました。

あとこれはどうでもいい話なんですけど、この作品の原作者はインドの外交官なんですよね。いま南アにいて、今度大阪の総領事館に来るという。よく分かりませんがインドの公務員というのは創作活動をやったりするものなんだろうか。先進国では少なくとも戦後ではあまり聞かない話ですがインドのような階級社会なら作家もやっちゃうような人がいるのかもしれませんね。戦前なら先進国でも官僚が貴族みたいなものだったからこういうこともありましたし。日本では三島由紀夫(大蔵省)、堺屋太一(経産省)、童門冬二(都庁)とか思い浮かびますね。でも三島はすぐ辞めちゃってるし、堺屋太一は文学というより疑似ノンフィクションですし、童門冬二は地方公務員で歴史小説ですから、ちょっと違うような感じです。

監督のダニー・ボイルはあの名作『トレインスポッティング』の監督。私は当時この映画にハマりまくり、以来この監督とユアン・マクレガーが気になって欠かさずウォッチするようになったものでした。映画自体だけじゃなく音楽も良かったんですよね。特に『普通じゃない』でアッシュの歌った主題歌「A Life less Ordinary」が大好きで、米国にいたときライブにまで行きました。これはもう感動ものでしたね(当時の日記)。

それにしてもこんなエンターテイメント映画がアカデミー作品賞をとるというのもすごいなあと思ったりしました。事情はよく知りませんが、全体的にハリウッド映画が飽きられている感があるんですかね。リメイクと漫画原作の映画化だらけというのもありますが、そうでなくともどこか既視感があるような作品が多いような印象ですし。いや、よく知らないで適当にしゃべってますけど。本当にいい加減だ。

そんなわけで、周りではイメージと違ったのか「?」という表情の人も多かった様子でしたが、久しぶりに映画らしい映画を見たような、なつかしい気持ちがして、自分的には大ヒットでした。深いことは考えずベタに映画で興奮したい人にはお勧めです。

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連休中、『レッド・クリフ Part2』を見ました。
三国志とジョン・ウーという男気あふれるコラボが実現した作品。
どっちかのファンだけでも日本では相当の数にのぼるでしょうから、ある程度の成功は約束されたようなものでしょう。あ、でも両方かぶっているファンも多いか。自分もそうですが。笑

感想は・・・『Part1』を見たときも思いましたが、まあこんなもんかなあ、可も不可もなく、という感じ。

そもそも三国志ものは、マニアにとってはどう作られても自分のイメージが上回ってしまうものなのです。なので最初から期待値を下げるようにしてました。でもジョン・ウーなら意外な面白さがあるんじゃないかと思ったのですが、やはり下げまくった期待値を上回ってくれることはありませんでした。 しかも『Part 2』の方が、がっかりさせられる部分が目についてしまいましたね。

豪華キャストの中でトニー・レオンや金城武が注目されてますが、曹操役のチャン・フォンイーも名優ですね。パルム・ドールをとった『覇王別姫』(チェン・カイコー1993)の主演です。なつかしい。でもなんだか薄っぺらい造形で、三国志の魅力の大きなポイントが曹操にあると思う者としてはもうちょっと何とかならなかったのかと一番残念に思うところです。

しかしエイベックスの努力もあってか三国志に縁のなかった人(主に女性)まで巻き込んだ大ヒットとなったこの映画。見た人から三国志についてよく聞かれます。
私の世代だと三国志には一度は必ずのめりこむというか、それなりにうるさ型の人が多かったように思うのですが(自分の周りだけ?)、今時の若い人たちにはあんまりなじみがないみたいですね。「金城武(孔明)はなんで最後まで戦場に出て戦わなかったのか?他の人たちはあんなにがんばっているのに。」と聞かれたりして、なるほどそんな発想もあるものかと、これはこれでなかなか新鮮な体験でした。

三国志に興味をもった人にこれを読んでみたらと勧めるとしたら、普通にいけば吉川英治でしょうけど、長い小説は敬遠されそうだし、今一番新しくて読みやすいのは『蒼天航路』になりますよね。でもこれは「ネオ三国志」と自分でうたっているとおり、三国志のベーシックなイメージからだいぶ離れてしまいます。実はこの作品は正史や歴史の考証をうまく活用していて、ある意味で演義からも離れたリアリズムを実現した興味深いものなのですが、やっぱりあれで曹操や劉備のイメージを作ってしまうと普通の人とは話が合わなくなるおそれがありますよね。だからまあ漫画でとなれば横山光輝の60巻が無難なんでしょうね。でもこれは長いし古いし、兜を脱いだら趙雲と太史慈と甘寧の顔の見分けもつかないのが難点ではありますよね。せめて夜寝るときくらい兜を脱げよ、とか。
(ちなみに中村獅堂の演じる武将がなんで「甘寧」ではなく「甘興」だったのか不思議でしたが、『Part2』を見て謎が解けました。ネタバレになるので伏せます。)

ただ何にせよ、三国志に縁がなかった人たちがこれを機会に興味をもってくれたのはいいことというか、個人的にはうれしく思いました。

私の場合、光栄のシミュレーションゲーム、横山光輝の『三国志』、人形劇三国志、本宮ひろ志の『天地を喰らう』(ゲームにもはまった)に始まり、中高生の頃に吉川英治『三国志』、原典の『三国志演義』、正史(後漢書等も含む)、歴史学の本と読み進み、大学生になったら成都や洛陽等のゆかりの地をまわるなどc深みにはまっていきました。最近では『蒼天航路』がよかったですね。

個人的には、小説とか二次的な創作に興味がいかず、もっぱら歴史的な考証の方に惹かれていったんですよね。社会とか法制度とか本当のところ当時の状況はどうだったのかという話です。
吉川幸次郎、内藤湖南など支那学の大家、最近では岡田英弘氏とか高島俊男氏の本(『世界史の誕生』『三国志 きらめく群像』など)が素人の私にも分かりやすく、勉強になりました。
たとえば中国では言葉自体に非常に重要な意味があります。これを知らないとまったく本質をとらえられないということが(今でも)あります。
例をあげれば中国人の名前は姓名と字(あざな)がありますが、「曹操孟徳」とか「劉備玄徳」とかいう言い方はしないのです(というか名前自体を普通呼びません)。これに限らず人の名前呼び方一つとっても色んな意味合いがあって、それを知ってはじめて全体の文脈が理解できるということもあります。
詩も同じことが言えて、その意味を理解するのは謎解きのようなところがあるのですが、とても興味深い世界です。ちなみに曹操は中国の歴史上屈指の詩人として評価されています。毛沢東もそうですよね。いくら強くても傑出した文人でないと中国では英雄にはなれないのですね。

余談ですがこういう知識は、三国志にとどまらない話で、現代の中国を知る上でも前提として非常に大切です。最後のリンクでも触れてますが毛沢東が田中角栄首相に贈った『楚辞集註』の解釈なんか有名ですね。
中国の教養人の中には言葉の裏の意味を読めない日本人を内心バカにしている人もいるそうです。共通に理解できるコードの不在というだけの話のような気もしますが、ちょっと怖い話ですよね。

もちろんこういう実証的な話を離れて、キャラというか、英雄的な活躍にもロマンを感じますよね。私も昔、三国志に出てくるすべての武将を勝手にデータ化するという今思うとちょっとアレなこともやってました。
ただ今はちょっと違う目というか、やっぱり一歩引いた目で見てしまいます。
たとえば劉備なんか、普通のイメージでは親分肌だけが取り柄の抜け作のような人ですが、実際は傭兵隊長みたいな人で、背が高く腕も長くてかなりの武闘派だったんですよね。そうでもなければ一農民からあそこまで成り上がるのは無理でしょう。
まあでもナンバー1の英雄が曹操というのは動きませんよね。圧倒的な力、精神、言葉、生き様、どれをとっても一級品です。歴代皇帝(本当は曹操は皇帝じゃないんですが)の中でも(始皇帝、漢の高祖、唐の太宗などとならんで)ダントツの評価を受けるのもむべなるかなです。

なんかもう話が脈絡なくなりました。このへんで切り上げます。
そういえば曹操について昔ちょっと触れた記事がありました。これは自分で言うのもなんですがなかなかよくできていて、あらためて読んだら自分自身なるほどと思いました(笑)。
もうちょっとお付き合い下さる方は適当にご覧下さい。

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週末に宮本亜門演出「三文オペラ」を見ました。

作品に思い入れがあったので楽しみにしていたのですが、感想は・・・正直今ひとつ。
やりたいことは何となく分かるのですが、ちょっとひねりすぎのような。あれでは予備知識がない人にはほとんど理解できないでしょう(オリジナルを知っている私さえ中盤の展開は省略が多すぎて「?」でした)。
俳優はよかったと思います。ダークナイトのジョーカー風の三上博史も従来のメッキーのイメージとは違った味がありました。ただ歌がちょっと。。。大体の出演者に言えますが、がなっているみたいで聞き取りにくかったです。歌詞が聞き取れないのはこの劇では致命的なんですよね。俳優というより演出の問題とは思うのですが。白塗りも、デーモン小暮閣下のメークに合わせたわけではない(はず)ですが、三上博史以外必要なのかな、せっかくの顔が見れなくてもったいないような・・・と思ったり。どうもこの演出家は苦手みたいです。

しかし「三文オペラ」自体はとても面白い作品です。この作品は、ヴァイルのクラシック音楽とブレヒトの演劇の脚本(加えてジョン・ゲイの原作「乞食のオペラ」)の融合であり、演劇、オペラ、ミュージカルにいずれにも当てはまるもので、映画化もされてますし、一種のメディアミックスというか、ジャンルを超えた欲張りな芸術作品なんですね。

ストーリーや原作、脚本が書かれた当時の背景についてちょっとだけいえば、一つのポイントは演出や物語のラディカルさでしょうね。たとえばストーリーについて言えば、悪党がやりたい放題やって、腐敗した警察と結託し、貧乏人を利用する詐欺師も含めてハッピーエンド!という、当時としては斬新だったと思われるモラルのないものです。
ハッピーエンドのもってき方も作品を演じている「俳優」(キャラクターではなくて)の抗議によるというデウス・エクス・マキナをおちょくったようなもので(個人的にはアレハンドロ・ホドロフスキーの『ホーリーマウンテン』を思い出します・・・あ、エヴァもそうだったか)、非常に実験的です(ちなみに今回の宮本亜門版のポイントはこのエンディングの再解釈にあると思われます)。
演出では台詞と歌の分離(ブレヒトのいう「異化効果」)がよく指摘されますね。

まあそういう教科書的な知識はおいておいて、ジャンルのクロスオーバー的な側面について個人的な経験をいえば、劇中の挿入歌である「モリタート」(別名「マック・ザ・ナイフ」-主人公メッキーの英語読みがマックで、ならず者メッキーの英語読みが「マック・ザ・ナイフ」なわけですね)はジャズが好きな人ならその名前に聞き覚えがあると思います。この歌はジャズのスタンダードでもあるんですよね。私なんかもそうだったのですが、「三文オペラ」を知らずとも、ソニー・ロリンズの「サキソフォン・コロッサス」での演奏やルイ・アームストロング、エラ・フィッツジェラルドの歌は知っているという人も多いと思います。

映画は、1931年版(GWパブスト監督)が非常に有名です。戦前世代の人が選ぶ名画ベストなんたらにはだいたい入ってくる作品です。私はずいぶん昔に大学の図書館にあるVHSで見ましたが、今はDVDになってるんですね。非常に完成度の高い作品でおすすめです。今回の公演を見て訳が分からなかった人もこれを見ればすんなり楽しめると思います。

ヴァイルの音楽ですが、アンサンブル・モデルンのCDを聴いてます。
アンサンブル・モデルンはジョン・ケージやシュトックハウゼンなどの現代音楽を演奏する団体です。個人的にはフランク・ザッパの演奏(『イエロー・シャーク』(1992年))が印象深い団体なんですよね。
ザッパは奇行の目立つロッカーとしてのイメージだけもっている人も多いかもしれませんが、ビートルズに先駆けてロックのコンセプト・アルバムを出し、ブーレーズにも認められた現代音楽家でもあります。ロック史に残る伝説の名盤Captain Beefheartの『Trout Mask Replica』(1961年)のプロデューサーでもあります。米国ではザッパの人気は今でも高く、留学中のルームメイトが沢山のアルバム(ザッパは多作で有名)をもってました。

なんか脱線が激しくなりましたが、とにかくこんな風に色んな広がりを見せるとい作品ということです。そんなわけで今回の上演も、満足度はともかく、見ておいてよかったとは思いました。

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先週、スクロヴァチェフスキ/読売日本交響楽団の演奏に行きました。スクロヴァチェフスキの指揮を見るのは2年ぶりくらいです。
元々はこれが常任退任演奏会となるはずだったのですが、1年任期が延長されたそうです。

演目は以下のとおりです。

チャイコフスキー:弦楽セレナーデ
ストラヴィンスキー:管楽器のための交響曲
ブラームス:交響曲第4番

どの演奏も非常に良かったです。あっという間の2時間でした。

チャイコフスキーの弦楽セレナーデは、私のもっているCD(Cデイヴィス/バイエルン放送(86年))と比べると主題が結構スピーディーな感じがしましたが、緊張感と優雅さのある素晴らしい演奏でした。哀感に満ちた美しさが大好きな曲です。

ストラヴィンスキーの管楽器のための交響曲は、私には高度過ぎるのか元々ちょっと苦手な曲なのですが、複雑なリズムも含め結構面白く聴けました。
これはデュトワ/モントリオール響(84年)のCDを聴いてます。モントリオール響が精度を高めていく絶好調時の録音ですね。

最後はブラームスの交響曲第4番。気品と重厚さがあって素晴らしかったです。
CDは今回のスクロヴァチェフスキも含め9枚もってます。
たまたま最初に聴いたのがワルター/コロンビア(59年)でこれがなんとなく自分の中でスタンダードになってますが、Cクライバー/ウィーン・フィル(伝説的名演)、ヴァント/北ドイツ放送、ザンデルリンク/ベルリン・フィル、バーンスタイン/ウィーン・フィルも良いですね。この曲には思い入れがあるのでもっと他のも聴いてみたいと思ってます。

ところで先週テレビでギエムのボレロを見ました。2月初めに五反田でやってたやつです。
ギエムは毎年のように日本に来ていて、そのたびしょうもない事情で見逃しているのですが、今回のは特にテレビで見て、生で見たかったと痛感しました。 一人の人間がここまでできるものか、というか、人間ってなに?みたいな、何というか、言葉を失います。

ブラームスもボレロもそうですが、言葉で表現できない抽象的な美は哲学的、思弁的で、人間、自然といった根源的、前提的なことを考えさせます。
だからなのか、哲学者や思想家は優れた音楽(芸術)批評家であったりしますよね。前にも書いたとおりニーチェもそうでした。カントは『判断力批判』で美の体系的分析をしています。
ストラヴィンスキーの管楽器のための交響曲はドビュッシーの追悼のために書かれたものですが、そのドビュッシーの評論をジャンケレヴィッチという哲学者が書いてます。私は音楽というより哲学の縁でこの本を知ったのですが、かなり難解で理解困難な部分が多かったものの、個性的で印象深いものでした。
こういった具体的な評論では、アドルノ、小林秀雄、丸山真男の評論が、当人たちの強烈な思い入れと思想との絡みが刺激的で面白かったおぼえがあります。

それにしてもWBCは好試合が連発ですごかったですね。色んな意味で日本の強さを感じました。スポーツも理屈を超えて人の心をゆさぶる、ある種の美だと思います。私もなんか元気をもらいました。しかし、加藤コミッショナーもビールかけにまで参加して楽しそうでしたね。今までのどの仕事よりうれしかったかもしれないなあ(笑)。

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先日、東京都美術館のフェルメール展に行きました。

すごい人でした。フェルメール、そんなに日本で人気があったのでしたっけ。

フェルメールの作品って30数点(贋作論争のせいもあり、数え方に争いがある)しかないんですよね。
昔私が住んでいたワシントンDCにあるナショナル・ギャラリーにはそのうちの4点がありました。ある政治家が来訪したときまず要望されたのが「フェルメールの絵を見たい」でした。作品が少ないだけにここでチェックしないと、という気持ちが強く働くのでしょうね。

今回の展示、元々作品が少ない上、なかなか外に出されないということもあってか、8点くらいしかフェルメールの絵はありませんでした。あとは同時代のオランダの画家の絵が30点くらい。
展示の最後に言い訳のようにフェルメールの全作品の原寸大写真が飾られています。
でも他の画家との比較も興味深いですし、なかなか面白かったです。

ところでフェルメールの絵の青ってラピスラズリ(瑠璃)をつかってるんですね(その顔料が「ウルトラマリン」)。
宝石ではないですが「貴石」という貴重な鉱石です。そりゃ高くつきますよね。

ラピスラズリはそのほとんどがアフガニスタンで採掘されます。
エジプトのツタンカーメンの黄金のマスクの眼の部分にはラピスラズリがはめ込まれているのですが、これがアフガニスタンとエジプトをつなぐ陸上交易ルートが紀元前1400年にはすでに存在していたことの証左であると言われます。
あと薬師如来は「薬師瑠璃光如来」とも呼ばれますが、瑠璃は仏教徒が顔料としてよくつかっていたんですね。これもアフガニスタンから東方に伝えられたからとされています。
アフガニスタンが古代から東西交易の要衝にあったことを示すエピソードです。本件については『アフガニスタン―戦乱の現代史』に詳しい説明があります。

ちなみに上記の本には「世界でただ一ヶ所、アフガニスタンから採掘される貴重な石」という記述がありますが、チリでも採れます。おみやげとしても売られています。私はチリに2回行ったことがあるのですが、どちらのときも買って帰りました。

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